いらない子4 中学の頃

前話: いらない子3 小学生の頃
次話: いらない子5 高校の頃
小学校はトータルで1年通ったかどうか。
私は中学に通う年齢になっていました。私の通っていた学区は当時、富山市の最南に位置していたため、小学校も中学校もひとつしかなく、メンバーも変わりません。
中学の制服もギリギリになり祖父母が用意してくれました。
しかし、この頃になり母の病状はますます悪化し、私の全身の傷がなくなることはなく、毎日のように殴られたり、水を掛けられたりした。また「親不孝なお前のせいで、猫たちはこんな目にあうんだ!」と叫び声をあげ、飼っていた猫たちを壁に投げつけるところを見せられたりしました。やめさせようとしても、身体を左右に震わせ、意味不明な言葉を発するだけで、止めさせることはできませんでした。
自宅で勉強をしようとすると、机に座っていること、鉛筆を持っていることが気にくわないと、いきなり包丁を振り回しながら、髪の毛を掴まれたりします。
深夜に家にいることが許されず、近くの駅や公園で、母が認めた時間まで過ごす日々。
明け方5時に帰宅していいと言われ、帰っても、寝ていた母を足音で起こしたからと、その後も夕方まで帰れないこともありました。学校に行ったときも、夜に眠れないため、保健室に行き、眠るだけでした。
風呂もはいっておらず、傷だらけの私をみて不快そうな顔をする保健室の先生の顔は忘れられません。
祖父がこっそり渡したお金で計算して銭湯に通い、食事を買い、命を繋いでいました。(祖父からしてみれば、母の気分を損ねた外孫にお金を渡さなければならないと祖父の神経を逆なでする要因でした。)
こういう状況で私は中学にも殆ど通えなくなりました。
中学で人と話した記憶は数えるほどしかありません。そして楽しかった記憶はひとつもありません。辛かった記憶しかない。
祖父母や親戚はこの状況を知っていましたが、私がいることで、彼らたちに火の粉が降りかからないと思っていたのでしょう。今になって思えば、私は死んでもいい、使い捨ての防波堤だったのだと思います。
祖父母はいつも「母はお前のことを愛している。お前も母に一番近い存在で母の面倒をみなければならない。お前の母のせいで私の娘(おば)や内孫、私たちが迷惑をしている。」と言っていました。
そして、あまりに暴力がひどく一度富山市の児童相談所に相談に行ったことがありますが、祖父が仲裁にはいり、その後、児童相談所からは連絡もなく、私は祖父から実母のことを相談した親不孝な対応を責められ、叱られ、母からは血が出て倒れこむまで殴られ、二度と相談するな、相談するのであれば捨てると言われ、その後は相談することはなくなりました。
※高校の頃には、母からハンマーで殴られ、救急車で富山市内の市民病院に運ばれ、病院で事情を話しました。しかし祖父が病院と話し、その場で母のいる自宅に帰らされました。(その後、母はある事件を起こし、祖父がまた揉み消しを行います。こちらは高校編で書きます。)
母は私が帰宅後は機嫌が悪く、縫ったあとの頭をまた殴られたりしましたが、その後は救急車に乗せられる私の姿を思い出しながら笑いだし、「母に殴られ救急車に乗せられる娘」の姿を何度も演技させられました。
まだ書かなければならないこともたくさんありますが、思い出すと辛く、ひとまず次回は高校編から書いていこうと思っています。
中学編はいつか続編を書きたいと思います。
次回に続きます。

著者の只野 菜々子さんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

いらない子5 高校の頃

著者の只野 菜々子さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。