いらない子5 高校の頃

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高校は受験した公立校がたまたま倍率1.0であったため、中学には殆ど通えず内申書も足りない状態ではあったものの合格することができた。
高校1年の頃はまだ母の虐待もあったものの、母の精神状態も以前に比べて落ち着いており、友人もできたことから通学できるようになった。
もちろん母の精神状態が落ち着いたのはうわべだけで、時々爆発的な怒りと妄想で手がつけられないこともあった。
高校1年の冬、私はそんな母にいきなり髪の毛を掴まれ、金槌で何度も殴られた。血が止まらなくなり、救急車で富山の市民病院に搬送された。
前回の中学編でも書いたが、祖父が病院に駆けつけ、私は母から受けた被害を担当医に説明したものの、祖父の話を信じた医師により、私は興奮した母の待つ自宅にそのまま帰された。
祖父からは、生みの親のことを悪く言わないように叱責され、もし私が警察に通報したとしても、知り合いの警察官に話をして事件にはならないようにするからと言われた。
母と二人きりになってからは傷口をまた母から殴られた。
そして、翌朝になり、救急車で運ばれた私の姿を思い出して喜んでいる母に、何度も救急車に搬送された時の姿を再現させられた。
警察にも病院にも相談できないと、児童相談所を頼ったものの、また祖父が介入し、祖父がなんとかすると話したようで取り合ってもらえなかった。
私は自分の受けた被害を誰にも相談出来なくなった。
その後、数ヶ月して母は生活保護の申請のため、富山市役所に訪れた際、なぜか包丁を持参して振り回したそうで、その場で逮捕された。
祖父からは「お前たち家族のために新聞に掛け合って実名が掲載されないように記事も小さくなるようにしてやった。知り合いの警察官にも相談して病院に行くことを条件に刑事事件にならないようにした。感謝しなさい。」と『富山市役所に包丁を持った女性が逮捕された』という小さい新聞の切り抜きを見せ言われた。
私は限界だった。私は初めて祖父に
「それは私のためではなく、おじいちゃんの面目を保つためでしょ?新聞社や警察に話をして事件をもみ消すのは違うと思う。母は反省しない。」と伝えた。
それでも祖父は「親不孝に育って。」と言うだけだった。
警察には病院に入院することを条件に刑事事件にならないようにしたと言いながら、祖父は頃合いをみてすぐに退院させた。そのとき母の病名は統合失調症だった。
排泄も自分でできず、いきなり大声をだし、包丁を振り回して泣き叫ぶ母。15歳の私には限界だった。
もう一度、母を病院に戻すように懇願したところ、病院や知り合いなどに親不孝のレッテルは貼られたものの、なんとか入院してもらえることになった。
祖父は元警察官と言うだけあり、見た目や話し方など、自分をよく見せる技術に長けており、周囲は祖父の話を信じた。恐らく、こんなにひどい状態であったと、誰も思っていなかったであろう。
母がいなくなってからは自由になった。殺される心配もなくなり、母がいないとはどんなに自由で幸せなことかと、ようやく青春を味わうことができるようになった。
次回は高校卒業から大学入学まで書こうと思います。
続きます。


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