アバレンジャーと捨て大将

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父が帰ってきた。夜中の十二時を過ぎている。ガチャンガチャンと玄関の門扉が、大げさに鳴った。寝ている私たちは、体中に電気が走った。愛犬が激しく鳴く。

「今夜は、そうとう酔っぱらっているな」

そう思った。

 家に入った父は、妙に不機嫌だった。すぐに母と口喧嘩になった。しばらく言い争った後、「チェッ」と父は舌打ちし、喧嘩は終わった。その後、私たちはたたき起こされた。

「お父さんがせっかく買ってくれたケーキだから食べなさい」

母が言った。逆らえない。黙々と食べる。

これが、私の家族の日常生活。父は仕事のストレスを家族に向けて発散していた。器の小さな男のいる家庭の様子だ。

「いくら頑張っても、中小企業じゃ大企業にはかなわない。しかも重役は、いつも大企業からの天下りした東大のやつらだ」

そうグチをこぼしていた。その言葉に私は、社会で生きてゆく厳しさをひしひしと感じ、心が痛くなった。

同時にこうありたくない家庭、持ちたくないタイプの夫。その像が、脳裏に張り付いた。

 

「早くこの家を出ていきたい」

そう思い続けた。それでも結婚は二十六歳の時、当時としては遅い目だ。

「選んでいる場合じゃない」

周囲からささやかれたが、無視をした結果が、二十六だ。仕事の方が魅力的と思われたし、他人との共同生活が楽しそうに思えなかった。それを乗り越えられるような男性もいなかった。特に、我が家の様子を観察していると、どうも結婚生活が幸せそうにも思えなかった。

従って、売れ残りギリギリセーフの「とりあえず婚」と言ってもいい。とりあえず、母親の勧める父とは違うタイプの人との「とりあえず婚」である。

これでとりあえず悪い環境から脱出できた。めでたし、めでたし。

 

平成五年、平成六年と、続けて男の子を産んだ。

「でかした。男の子か。お前たちの子や。それほど頭悪ないやろ。エエ大学行って、エエところに就職するんや。楽しみやな」

「そんなんまだ早いやろ。」笑い声が広がった。

自分の親に喜ばれた。こんなに喜んでもらえたのは初めてだ。両親の不和のおかげで、私はお稽古事を頑張っても勉強を頑張っても、ほとんど褒められたことがない。愛情は、すべて長男に持っていかれた。悲しい運命だ。しかし、子供が私ばかりでなく自分の親まで幸せを繋げてくれるなんて。ところが、それも束の間だった

子供ができた後は、愛情はどんどん私ではなく、孫に注がれていく。それを私は、複雑な気持ちで見ていた。

 

年子と言うのは、一般的に育てにくいと言われているが、やはり正解だ。経験して初めて分かった。人の話を鵜呑みにしているのが悪かった。それでも、理由がある。さっさと出産と育児を終えて、再び社会復帰したいという気持ちが働いていた。そうだ。家庭の中にいると、実家の家族のギクシャクとした関係が思い出されて、窮屈な気持ちになるのだ。

 

長男は早産だったが、しばらく入院して退院した後は、何の問題もなく元気に育った。次男のお産は楽だった。子犬のように簡単に生まれてきた。親孝行だ。その後も、すくすくと順調に育っていった。生まれながらにして、いや生まれた後も、次男は手がかからない子と言うレッテルが、しっかり貼られた。

 

しかし、穏やかな家庭の平凡な幸せという神話は、この時から崩れ始めていたのだ。

 

何かが違う。

そう思い始めたのは、長男が生まれて間もない頃。あらゆる発達が少し遅いように思われた。首の座り、ハイハイ、つかまり立ち、どれも遅い。しかし、それらは個人差の範疇と思い、さほど重要視しなかった。

「そのうちできるよ」と周囲から言われ、本当にそのうちできていたためだ。しかし、二歳を過ぎたころから、発達の不安が大きくなっていった。言葉の発達が遅く、他の子供達と交流が乏しく、いつまでたっても一人遊びが続いていた。

それでも、それも個人差ということで処理をしていた。自分自身も決して友達付き合いが良い性格ではなく、ひとりでいるのが好きな方であるから、「この子もそんな子なのだ」と思った。

その一方で、長男は他の子供にない優れた能力も発揮し始めていた。三、四歳にかけて、図鑑で、動物、植物、昆虫の名前の大部分を覚え、アルファベットや難しい漢字も何の苦も無く覚えていた。また、折り紙や切り紙を根気よくやり続け、好きな絵本のストーリーすら簡単に丸暗記できるのだ。さらにジグソーパズルも得意で、何回もはめたり崩したりして瞬く間に仕上げてしまう。天才ではないかと思えたほどである。

それに比べ、次男は陽気で明るく、活発にはしゃぎまわる子供だった。言葉の発達も順調で、多くの人とコミュニケーションを持ちたがった。半面、一つのことに集中するという根気はなく、それほど手先が器用でもない。平凡な子供である。

が、今考えれば、こちらが正常で、長男が変わっていたのである。私は、ついつい知的好奇心がある長男の方を、無意識に多くかわいがってしまった。このことが後々、次男の心の成長に支障をきたすようになるとは、その時は思ってもみなかった。

 

長男は、幼稚園に通うようになると、集団行動に適応してゆかなくなった。次男は、社交的なので、友達を何人も作って、元気いっぱい外遊びをしていた。小学校に入ると、長男の、問題はいちだんと大きくなっていった。しばしば集団のルールが理解できないため、自己中心的な行動が目立ち、とうとうそれが原因で、イジメのターゲットとなってしまった。

「親のしつけが悪い」 陰でささやかれ始めた。

「私のせいだろうか?」

そう思い始め、子供に注意して見るが、いっこうに治らない。こうしている間もイジメは続く。それでも、長男は学校に通い続け、登校拒否になったことも無い。その姿がいじましい。

そのうち、イジメは本人ばかりではなく、私や次男にまで向けられていった。たまったものじゃない。家族は少しずつ崩れ始めた。

発達障害とはこういう病気である。

 

実家の二の舞を踏まない。

それが、私の希望であり願いであったはずなのに。私自身精神的苦痛から子供に八つ当たりすることも増えていった。そんな時、自分の父のことを思い出していた。

父は、仕事に追い詰められていたのだ。そして私は子育てに追い詰められているのだ。

私も、父のような女になりかけていた。

子供に厳しくしかっている態度が、他人から見れば、こっけいで面白く見えるらしい。嫌なものだ。いくら事情を説明して理解してもらえず、なめられたものだ。

もともと長男は、マイペースでおっとりとした性格なのだが、小学校の高学年になると、今まで我慢していた忍耐の緒が切れたのか、爆発を始めた。奇声を発したり暴れたりと、その回数が次第に増えて行った。それでも周囲の者は、うれしそうに笑っている。イジメとは楽しいものであるらしい。

その頃、次男は、兄のことには気にもとめず、エンジョイしていたように思う。次男の場合、イジメを受けるといっても軽いもので、大半はクラスメイトと楽しい時を過ごしていた。

「あいつがKの弟かあ」

長男が校内で問題が起こすたびに、次男は事故処理に当たっていた。次男は、クラス役員を度々引き受け、学校の行事にも率先して参加するリーダー的存在だった。私は、そのような性格ではなかったが、学校に迷惑をかけているという申し訳なさから、PTA役員を快く引き受けていた。

これは大きくなって聞いた話であるが、小学校時代、次男は、明るく振舞っていながらも心は少々崩れそうになったこともあったらしい。

その時、私は長男ばかり気になって、次男の方をあまり向いていなかった。次男は、その頃から愛情の不足を感じていたらしい。

長男には、友人と呼べる人はいなかった。母親が常に遊び相手をしていた。様々な劣等感を補い忘れさせるために、放課後や休日は、外に連れ出し、自然遊びを体験させていた。休日にはよく家族のキャンプや旅行にも行ったものだ。あの時の家族の笑顔は忘れない。

高学年の一時期、二人とも塾に通わせていたが、長男が精神に支障をきたし始めたころから、きっぱりとやめ、のびのびと育てることに変更した。ゲームも早々とやめさせた。子供はそれが無ければ無くても案外やっていけるものである。選択は決して間違いでは無かった。

 

二人が中学校に入ると、事態は悪化した。長男は、もはや学校生活をまともに送れない。部活動ももちろん参加できない。校区の公立中学校なので、小学校時代のイジメッ子たちがそのまま入学する。事態が変わるはずもない。

「校区外の私立中学校へ入れるべきだった」

その時ばかりはそう思った。その後も長男へのイジメは続き、時折授業にも参加できなくなるので、私も頻繁に学校に呼び出されるようになった。

 

広汎性発達障害。初めて病院で診断され、長男は手帳を持った。

「これから、どうこの病気と向き合えばいいのか」

こんな事実が分かっても、学校生活は何ら変わることはない。

「こんな子供を学校に通わせるな」

保護者の声も増えてきた。長男の病気など誰も受け入れてくれないのだ。生徒たちの中には、故意に刺激し、暴れさせ内申書を傷つけ、進学の邪魔をしようとする者もいた。あまりの悪質さに、「恨んでやる」と思ったほどだ。しかし、待てよ。そんなことをしても、私たちは得にはならない。それよりもむしろこの病気を克服し、将来を切り開くことこそ、いい仕返しなのである。

「いつか、キミたちを見返してやるからな」

心に決めた。

「私は家族全員の笑顔を取り戻す」

次男は、兄とは良い意味でも悪い意味でもライバルで、中学時代自ら剣道部に入った。

弱い精神を鍛える。そんな意味では、武道はいいらしい。剣道のことは皆無である。しかし、それでも剣道部は厳しく大変な部であることはわかる。次男は、最初の頃は、やめるやめると言っていた。それでも続ける執念がいじましかった。「我慢」 その大切さとすばらしさを剣道から学ぶことができたように思う。

中学生活の間、次男は剣道一筋だ。私も送迎や準備の手伝いに振り回された。

剣道は始めたばかりで、それほど強くもなく、試合で芳しい成績を上げることもなかった。剣道の専門用語は分からない。

「『捨て大将』て何?」

次男は、試合では、あくまで脇役、いつも「捨て大将」なんだそうだ。

スポーツは、好成績を残す優れた選手は、ちやほやされる。その他の人は、心がいじけてしまうことが多い。が、次男はいじける様子もないようだ。

本当は、そういう人間の方が、社会人になった時に価値があるのではないだろうか。

兄のことといい、剣道のことといい、次男の存在は、いつも部屋の隅っこにいる存在だ。だが、着実に、一歩一歩、物を学んでいるのだ。

一方、勉強は、ボロボロだ。中学一年生の時、結構よかった成績は、どんどん落ちている。それは、長男も同じこと、むしろこっちの方が深刻かもしれない。

父の思い。高学歴でいい仕事に就く。まさに崩れ去ろうとしている。これじゃあ、実家に帰りにくい。

 

中学卒業後、長男は通信制の高校へ。一年後次男は、県外の高校へ進学した。長男は隣の市の高校へ週三回のスクリーニングをする。次男は、兄の悪評がたたり、自分も悪く言われるのでこの校区で生活するのが苦痛だと言い、隣の岡山県へのがれた。剣道と寮生活をするためでもある。

寂しいスタートだ。それ以来、次男は私の愛情不振が募り、私の存在を否定するようになった。、次男は、ひたすら棒(竹刀)を振り続けた。人生の棒はふらないでほしいが、とにかく、剣道に対する姿勢は真面目である。

長男は手におえない状況になった。外出しても、どこで何をやっているかが心配だった。どこかで犯罪行為をしてないか、気が気でなかった。電車に乗せるのも怖かったので、学校まで自転車で通わせた。が、これとて安全安心なわけではない。交通ルールが良くわからないのも、この病気の一つの特徴だった。赤信号で突っ切ったり、猛スピードで爆走したり、気違いじみていた。時折補導もされる。しかし、電車の中で暴れるより、マシである。通院し、薬はもらっているものの、夜はほぼ毎日、怒鳴り散らす。時折激しく乱れる。止めようものなら、髪の毛を引っ張りむしりとられたり、殴られたり、物を投げつけられ、壊されたりする。それは、天気にも影響するらしく、アメダスのような男だ。雨の日は特に感情が乱れた。そんな時は、自転車で外に飛び出していった。雨が降っていようが、夜中であろうが出ていく。それでも家には帰って来た。あまりにも心配なので、携帯電話を持たせ、GPS機能を使って、長男の所在を確認することにした。

そのうち、スクリーニングのない日に、自転車で遠乗りするようになった。最初は県内に収まっていたが、次第に隣の大阪府、京都府、岡山県に走行距離を伸ばし、奈良県、滋賀県と信じられない距離になっていった。困ったことに、タイヤがパンクすると、長男は私に電話をかけ、迎えに来てくれるように頼んだ。車の運転はあまり得意でなかったが、息子のため、京都や奈良まで、ミニバンに乗って、自転車の撤収に行ったのを覚えている。

こんな生活であったから、次男をかまう暇なし。次男の存在を忘れてしまっていた。次男には本当にかわいそうなことをした。

定期的にお小遣いと日用品を送り、送迎する時や用事のある時に車を出してやることぐらいが次男とのつながりである。

私の家族は、完全に崩壊している。しかし、これを乗り越えなければ、未来はない。

 

寮生活とは、どんなものか私にはわからない。次男の高校の寮は、何人かの相部屋であるようだ。そのような社会にも、サル山の秩序のような、上下関係や横のつながりがあるようだ。時折イタズラされたり、お金を取られたりするらしいが、ボスの前では逆らえない。次男は新米なのでチンピラである。

次男は、時折、帰省する。岡山県でも北部なので、交通の便が悪く、電車で家に帰るには四時間半くらいかかってしまう。最初のうちは、自分でそうやって行き来していたが、さすがに不憫に思って、車を出すことにした。車で二時間半。それでもいい距離だ。

こんな際にも、長男を連れていく。

「なんでお兄ちゃんまで来るの?また変なウワサが立ったら、ここでも居心地が悪くなるやん。」

次男が口をへの字にした。確かにその通りだ。それでも、長男を一人で一分一秒野放しにしておくのは危険だ。どんなトラブルに巻き込まれるかわからない。野獣を飼っているようだ。それくらい長男の精神状態は悪かった。

「がまんして、お願いだからがまんして」

私はどれだけ次男に我慢をさせたことだろう。長男に縛られ、愛情を注いでやることさえできない。

それでも、グレるということはなかった。我慢、そうこの我慢が母親からの独立、自立へと次男を人生の勝利へと、徐々に導いてゆくのである。それは私の気づかぬところで着実に進んでいた。

 

これからだ。卒業したものの、長男にはあてはなかった。大学に行けるほどの学力もないし、受験勉強をしていない。就職と言っても、こんな病状じゃ、ダメだ。突然やることが無くなって、自転車の遠乗りが、毎日になる。これじゃあ、本当にダメになってしまうと思い、私が、家庭教師になって、英語と国語をやり直しさせる。一時期より精神は次第に落ち着いてきているものの、集中力はあまりなく、ニ、三時間の勉強がやっとである。大学進学には、程遠い。

自転車に乗って帰って来ない日があった。事故にあっているのではないかと心が張り裂けそうになった。次の日、警察から電話があった。

「沼津警察署です。息子さんが道を尋ねて来ました。」

ぎょっとする。沼津って、静岡県じゃないのか。その日は、夕方から新幹線に乗って、静岡県に迎えに行った。夜中なのでビジネスホテルに一泊。自転車は宅急便に頼む。大きなムダをムダにしたくないので、次の日、沼津や箱根や小田原の周辺をレンタカーに乗って、観光した。こんなことは、その後、何回も続いた。静岡県の三島、それに神奈川県の箱根までも自転車で遠出をしたことがある。どうやら、目標は東京だったらしい。その後自転車を静岡駅に置いて東京にも行った。その遠出の走行距離を合計すると、地球を二、三周は、回っている。

とにかく自転車の遠出は一刻も早くやめて頂きたい。

「自転車の遠出はやめて、お母さんと一緒に、車でドライブしよう」

そう誘ったのである。

「うん」

長男は嬉しそうにうなづいた。不気味だ。

とんでもない大冒険と試練の始まりである。

 

二人とも高校を卒業した。至って当たり前のことが、我が家では大そうなことだった。長男は、母親がホームティーチャーとなって、レポートとテストをやりとげた。また、英会話スクールに通って日常会話をマスターした。次男は、剣道中心の生活。偏差値の高くない高校だったが、そこではトップだった。

 

次男は、引き続き県外の大学へ行った。剣道が強い大学と聞いた。家に一度も帰らず、そのまま大学へと荷物を移動させたようだ。学歴社会とは無縁な大学である。思わぬ進路に、ただただとまどうばかりだ。私の父はこの年亡くなった。父には孫の成功を見せられなかった。親不孝なことをした。

長男とのドライブが始まると、次男との関係は、疎遠になった。

ドライブはほぼ毎日。最初、そして、大阪府、京都府、奈良県、岡山県と自転車の遠出の時と同じように距離からだが、車なら山道や土道にも行ける。そんなわけで、山菜採りや名水巡りと、どんどん山中に分け入った。雨の日も、雪の日も、夜でも何でもありだ。

「ダカールラリーしてるみたい」

そんなひどい道もあったっけ。その後、走行距離を伸ばし、滋賀県、岐阜県、福井県、和歌山県、鳥取県、島根県へと。そしてついには愛知県へも行った。どうかすると、片道の走行距離は三百キロ以上にも及び、半日ドライブしている日もあった。信じられない。新車を買うも、四年半ほどで十万キロ。五年目には、すっかりボロボロである。

車の運転が苦手だったというのは既に昔のこと。今では、男並みの運転をしている。苦痛で奇声を上げていたが、なぜか慣れてくると、一日中運転してもそれほど疲労を感じないのだ。それにつれて、この状況を悲運だと思わず、自分も他の人は味わえない特別な体験をしようと前向きになった。それ以来、長男の手帳割引を利用してテーマパークや観光名所を巡ったり、B級グルメを食べ歩いたり、特産物を買い漁ったりして過ごした。そして長男は温泉巡り、その間、私は観光スポットに立ち寄って、写真を撮ったり、スケッチをしたりした。そして、二人で一生分の国内旅行をした。

どんな状況でも、人生、体験できること学ぶことはあるものだ。無駄な経験などない。

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