从看守台一直看(見張り台からずっと)1

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2011年3月25日

真人はその時上海にいた。上海師範大学の宿舎、思習園の一室。

まだ肌寒い春の空気が漂う季節であった。ぽちぽちと春の花が咲き始め、既に梅の花は満開だった。中国社会では、梅は大変好まれる。

真人は中国の新聞、「上海日報」を片手にしていた。掲載されている写真は、大船渡(岩手を襲った大津波で、大船渡湾に大きな津波の渦が発生し写真となっていた。

思えば、あの大地震から2週間がたった。真人の実家は宮城県亘理郡亘理町にあった。波高9mの津波が一瞬に襲い、平屋建ての実家は跡形もなく全壊した。当時宮城県にいた母、猫は助かったが、実家に残されたものは其の殆どが太平洋の藻屑か、瓦礫となった。真人の母と猫は避難所に逃れ難を脱せ兄の東京世田谷にある家に無事移動が完了出来た。そして同時発生した原発事故は未だ収束の気配すらない。むしろ第一原発地下構内に残されたプロトニウムがいつ溶け出してもおかしくはないのだ。まさか自分が海外にいるときにこのような未曾有の事態があろうとは。

母や家族は助かった。しかし精神的ダメージが強く、まともに立って歩けるほどではなかった。外出もままならないまま、1人ぽつんと大学の寮に閉じこもっていた。

たまに外へ出て新聞を買いに行く。「上海日報」という新聞をよく買ったが、それは真人の友人、沈静という若い記者が必死に日本の惨状を記事で紹介していたからだった。中には、福島の子供たちの甲状腺検査のショットも掲載され、中国での日本の地震に対する関心の高さをうかがわせていた。

 忌々しい東日本で起きた地震は死亡不明者が20,000人以上にのぼり、原発の大事故も併発した。真人の実家は宮城県亘理郡亘理町。家は津波により全壊し、母親とペットのねこは助かったものの、家財道具はほぼ2度目に来襲した波に持って行かれた。もう実家はないのだ。そして帰る家もない。父親は2年前に慢性の進行がんでこの世を去っていた。

 

真人、46歳。09年リーマンショックで会社を解雇され、仕事を失い日本での再就職を求めていた。しかし、日本は当時どん底の不況、仕事がどうしても日本で見つからない為、中国上海へ来て普通語をマスターするため学習していた。上海師範大学に留学し、中国での再就職にチャンスをかけていた。

 中国で目標とするものは、HSK(中国語レベル試験)の6級以上。これさえ取れば中国の労働ビザは取りやすくなる。しかし、2週間前の東日本の地震で再就職の自信を失いかけていた。もう原発事故が収束しないと日本に帰れないかもしれない。そんな不安が頭をよぎり、とても授業に出ることができない精神状態が続いた。実は震災前週3日家庭教師の中国語レッスンを頼んでいたが、ある日些細なことで家庭教師と大喧嘩に至ったのだ。原因は真人の精神状態であった。とても勉強できる状態ではない、やる気を失った真人に、家庭教師のリリーが業を煮やしたのだ。学習中いつも日本帰国を考えている真人についにリリーはついに切れた。

 

「あんたの中国に来た目的はなに?中国語をマスターして仕事を見つけることでしょ?日本に戻ったって仕事なんかないわ。あなたは常に日本のためとか言うけれど,日本に帰って何ができるのよ?あの放射線まみれの日本へ戻るの?バカじゃないの?あなたに与えられた使命はひとつ、中国語をマスターして仕事を見つける。見つけて日本へ恩返しをする。それしかないわ。」

 

真人は大声を上げて泣き出した。46歳の中年に属するだろうか、この大男はもうお手上げのように進むべき道を失っていたのだ。

 

今日も白酒を昼間から飲んだくれていた。日中酒を飲み、学校構内をウロウロしているなんて、大阪の浮浪者のおっさん達の何も変わりない。このままでは自分がダメになるだけだ。何とかして立ち直れないと。既に3月から始まっているレギュラーの授業も相当の遅れを取っている。担当教員に事情を話しして、しばらく休暇を欲しいと申し出ていた。

 

某日、これからどう再出発していこうか。真人は考えた。

「実家もないし、仕事もない。日本へも帰れない。もはやこの大学(上海師範大学)と討ち死にしてやろうか。」

他に方法も手段もなかった。家庭教師のリリーの言うことはわかる。なんとか自分を奮い立たせたい。そしてその勇気こそが前に進む原動力になるのだ。

人間はもう八方が塞がれば信じられないパワーを出す。なにかそのきっかけさえあれば。真人は日本から持ち込んだPCを見ていて、ふとある文章に目を留めた。

PCのハードディスクから、書きかけの旅行記が出てきた。そう、真人は22歳の時、インド、ネパール、タイでバックパッカーの旅へ出た。あらゆる困難を切り抜けて無事日本へ帰国した。

「確かこの物語は東京に居る際に執筆を始めたのでは?」

真人は思い出した。1年前上海に来る以前に時間があったため、これを書き出したのだ。しかし、何かが原因で書くのをやめてしまったようだった。

現在は上海にいる。この「海外での活躍物語」を書いてみようと思った。20数年前のお話である。自分を奮い立たせるために、こうした冒険記は書いてみても良さそうだと感じたのだ。確かこの旅行で3回死の淵に立たされた、それくらい厳しい旅行ではなかっただろうか?

 

 

暫く1987年に時間軸を戻してみよう。そして物語は、執筆開始当時の文章から始まる。2009年11月を最後に途中で放棄してしまった物語である。

 

                 記



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