从看守台一直看(見張り台からずっと)2

前話: 从看守台一直看(見張り台からずっと)1

「見張り台からずっと」

 

1987年3月28日

生まれて成田空港に初めて着いたとき、真人は戸惑いを感じた。京成成田空港駅に着くと、改札口に物々しい警備を行う警備所があり、暗い通路沿いに長い行列ができていた。全ての人の全ての荷物を係員がひっくり返すような感じで中身を出していた。この渋滞がどれくらいで収まるだろうか、真人の前に10人くらいの人が待っていただろうか。「いつここから開放されるのだろうか」それだけをしばしみていた。

真人の番が来た。係員の一人がぶっきらぼうな口調でこう吐き出した。「パスポートを出しなさい」「何も危険物、可燃物、金属物はないですね?」

危険物や可燃物はどこからどこまでをいうのだろう?おまけに金属物とは何までをいうのか?さっぱり理解できない上でこう係員にいった。

「なにもないです」

係員は荷物の中に出したものを全て入れると、そのまま「次の方」と真人の後ろを呼んだ。

 当時、世界中どこの空港も警備は物々しかった。前年度の1986年にフィリピンのマニラで革命が起きると、飛行機ハイジャックやテロを恐れ警備が一段と強化された。また

翌年に韓国でオリンピックが催される為、空港関係者はかなりぴりぴりしていたようだ。日本でも実はその年の4月に国鉄が民営化され「JR」という民営会社になる予定だった。2年前に同時多発テロが首都圏の国鉄で発生したこともある。成田はいうまでもなく左翼団体から狙われる格好の地域であったことは間違いない。

 京成の改札を出ると、バスが来ていた。バスに乗り込むと積み切れないくらい多くの乗客を乗せて車両は北ウイングと南ウイングの中間地点に止まった。止まると出発カウンターまで移動を余儀なくされる。そこからは歩くかカートを使うしかない。

真人はエジプト航空(MS)の乗り入れる北ウイングの中に入っていった。時間的に欧米行きや米国行きの便が出発するラッシュの時間でもあった。随分早く空港に着いたためチェックインカウンターはまだ開かない状態だった。その前に空港内でもぶらぶらするか、そう思い、荷物を持ったまま北ウイング内を歩き出した。

 空港内は非常に慌しかった。どうしたものか、真人は外国人旅行者でごった返す空港を観察し少し驚きを感じたのだろうか、少し呼吸が荒くなりだした。右も左も外国人、3月28日という日本では入社や人事異動、入学卒業を控えている時期の為、日本人の旅行者はあまりみなかった。学生の卒業旅行も既に3月末を迎え、学生の旅行ブームは終息気味の時期でもあった。

 

「レンドンさん空港にいるかな?」真人は思った。レンドンさんとは、真人が同日まで勤めていたAOTS(財団法人海外技術者研修協会)で出会ったフィリピン人の国賓研修生であった。2児の母でもちろん旦那も奥さんも国家関係の仕事をしている。

前もって説明しておこう。真人はAOTS[の職員でレセプション係りを勤めていた。100人海外の技術研修生を収容するその財団法人は、政府の通産省と民間企業の出資で出来た法人である。真人は物品の販売や通訳、事務所業務を切り盛りしていた。真人だけではなく他3人の学生アルバイトが交代で24時間勤務にあたっていた。場所は横浜市磯子区汐見台の高台。駅は京急上大岡が近かった。レンドンさんは研修期間を終えフィリピンの帰国の途についていた。

 

奇しくも彼女の帰国日が真人の旅行日である3月28日であることを知った。もしかすると偶然成田空港でお別れが出来るかもしれない、そう思っていたが初めての成田空港で右も左もわからない。彼女が搭乗する予定のノースウエスト航空22便の場所もわからない。これだけ人が多い中彼女を探し出すのはほぼ不可能に近いだろう。そう思って真人は半ば彼女との空港での再会を諦めていた。

 

15時過ぎ、北ウイングにあるエジプト航空カウンターがにわかに忙しくなってきた。チェックインを始めるらしい。真人はすぐにカウンターの前に並んだ。どこで何をすればいいか何せ何もわからない。出国カードすら書けるかどうか不安の中、あえて自分の強みといえば英語が出来る点だけであった。エジプト航空のチェックインカウンターには日本人である。この先日本人に出会うのは何ヶ月先になるだろうか?

 カウンターでチケットを出すと、係員の女性は笑みを浮かべて語りだした。

「アベ・・・マサトさんですね。パスポートをお見せいただけますでしょうか」

真人はパスポートを出すとそのまま彼女の手際よい仕事の進め方に見とれていた。彼女は航空券の1枚を切るとそれをPCのキーボードに乗せてそのままたかたかとキーを打ち出した。作業が実に手馴れていた。

そのうち、デスクの下のほうから硬い紙を出してそれを真人に渡した。搭乗券である。

「エコノミー、28Aです。1時間前にエジプト航空のゲート13にお集まりください」

真人はそれを受け取ると、すぐ出国の方向に向かい出国の手続きを始めた。途中2000円の空港利用料を自動販売機で買った。あとは記入済みの出国カードを出して出国のスタンプをもらう。そこまでは本で読んだとおりだ。

あっけなく出国手続きを済ませると、広々とした場所に出た。空港内には免税店が並び、そして左右にまたゲートまでのセキュリティがそろっていた。

出国した真人はそこでぐっと胸に重みを感じていた。

 

-もうここから日本じゃない、そう、ここからは外国なのだ。まだ大学生だけれど4月からは身分は無職になる。そう、就職活動も失敗し、結婚相手とも別れ、臨時の仕事も失い、住所もなくなった。全てが、ないない尽くしの旅なのだ。おまけに全財産はTC1300ドルと現金約10万円、この予算で半年間海外に出て自分を見つけてくる。こんな経験はかつて自分の人生の中であっただろうか?真人の人生において屈辱を覚えたことは幾多あった。中学時代転校先で執拗ないじめに遭ったこと、大学受験で失敗したこと、そして昨年86年は結婚を誓った彼女が宗教団体に巻き込まれ、AOTS内が大騒動になったこともあった。やむを得ず断腸の思いで彼女と別れたこと等など。

果たしてこの旅に生きて帰ることが出来るだろうか?

 

昨晩出発前の祝いの席で板垣の前で泣き出したこと、今日AOTSを離れる時職員全員が磯子汐見台の研修センター前に出て僕を見送ってくれたこと、そして後輩の工藤が頭を深々と下げて「先輩、今までありがとうございました。気をつけて帰ってきてください」と見送ってくれたこと、そうだ、もう後に戻ることは出来ないのだ。自分の行い、態度次第でこの旅の先は暗黒にもなるし虹色にもなりえる。これから後はすべて自分自身で全てをなさねばならない-

 出発ロビー付近は多くの外国人旅行者がたくさん往来していた。中には公然で平気にキッスするカップルだろうか、そんな熱々のシーンを見るとまさに自分自身の過去のふがいなさをその時真に実感する真人だった。もしあの時、1986年の宗教団体の介入が無ければこんなことに・・・・そう思った。

 

 1986年10月16日

 話はさらに半年前の1986年10月まで遡る。

秋の気配漂う秋晴れが続く横浜、磯子区汐見台。そこにAOTSという財団法人海外技術者研修協会の施設があった。主に一般企業からの技術研修生を受け入れ、教育から研修そのものを請負うその団体に、真人は学生ながら臨時職員として住み込みにて働いていた。1986年2月、初出勤以来3名の仲間とそして彼の兄(横浜研修センターOB)と日々仲良く過ごしていた。

そんな日々の中、真人は食堂の1人の新卒職員に猛烈な恋をした。安田理恵、真人と同年で短大卒、そして彼女は1986年4月正規職員として食堂に配属された。その彼女の可愛らしさとくりくりっとした目に真人は一瞬にして虜になった。真人は直ぐに安田理恵にアプローチした。学生バイト数人が同じ職場で働いていたそのAOTS内では最も美しいと評判の安田理恵に対して狙いをつける男性が多く、真人がその集団に加わったことで安田争奪戦が始まった。そして真人はこっそり狙いをつける彼らの目を避け、ある日彼女を上野公園のデートに誘い込む事に成功した。すなわちその時点で勝負は決まっていた。安田理恵がAOTS入職後僅かに2ヵ月後のことだった。

 上野公園のデート以来、真人と理恵は熱愛のカップルとなっていった。デートはほぼ毎日続きたびたび真人の部屋にも遊びに来るようになっていた。また鎌倉や横浜周辺のデートスポットにも度々出没した。同年6月に入ると真人は理恵の両親とお逢いし既に結婚を前提としたおつきあいに発展していたのだ。

ところが7月を過ぎると少しずつ雲行きがおかしくなっていった。理由は真人の就職活動が芳しくなく度々希望会社に落ちてしまっていたことであった。就職活動に絶対的な自信を持つ真人は、当時特別なコネがなく、また大学内ではゼミの授業すら出てこない不真面目さが大学の教授の怒りを買い、推薦状をもらう事が出来なくなっていた。実力で合格を目指すにもコネ社会の日本では、到底一流会社に入社することは至難の業だった。すると彼女は少しずつ真人に不信感を抱くようになっていた。本来の実力なら真人は絶対一流会社に就職できるはずだ。学校の成績もすこぶるいいしなんていっても英語会話が出来る。末は外資系か商社か入社といわれていたはずが、結局どこも採用してくれる会社が無かった。K日本、Y船航空、S鉄道・・・全て落ちてしまったのだ。就職の良いT経済大でよいところに就職するのであれば、ゼミの力が絶対であった。そのゼミすら当てにならない状況で希望した会社に入れる筈が無かった。気がついてみれば真人は従業員10人足らずの中小留学斡旋会社すら落ちていたのだ。

 

理恵が横浜の洗脳心理セミナーに通いだしたのは、1986年9月のことであった。真人の就職がうまくいかない中、ついにセミナーという一種マインドコントロールにはまりだしてから理恵の様子が違っていった。目つきがおかしくなり、セミナーに洗脳された彼女はもはや後戻りできず、2人の関係はもうすでに崩壊に向かっていた。彼女がセミナー会社を通し少しずつ真人の心理的支配から逃れようとしていたのだ。就職で失敗する真人を尻目に理恵はセミナーの世界にどっぷり浸かっていったのだ。

 ある日のことであった。理恵が真人を呼び出した。場所は横浜駅からさほどとおくないビルの中だった。恐らくそれが例のセミナーであることは重々承知していた。しかし真人はこの目でセミナーの実態を確かめるべく敢えて入り込んでいった。しかしそれは裏目に出て、真人は14万円の大金をはたいてセミナーを申し込まざる得ない状況に入っていった。学生時代海外留学に出る為汗水働いて貯めたなけなしのお金だった。

そしてそれ以降セミナーにだまされ続け、最後には7日間の合宿まで参加させられる羽目となっていった。ベーシック、アドバンス合計合わせ50万円の大金をどぶに捨てようとしていたのだ。

 異変に気がついたのは真人の兄であった。すぐさま真人に契約の解除をするよう勧告したが、既に真人はセミナーに心身ともに漬かってしまっていた。状況を理解した真人の兄はすぐにこういった。

「直ちに別れろ。彼女と別れるしかない。」

真人は事の重大性にようやく気付いた。AOTS内では既にセミナーの勧誘が活発に行われ、理恵中心とした勧誘網がどんどん広がりつつあった。

真人は当時のAOTS,K館長に直訴した。安田理恵がセミナーを館内で勧誘しまくっています。直ちにやめさせてください、と。

その夜真人は理恵を呼び出した。場所は最初にデートした磯子汐見台三丁目のバス停前だった。

「今日お前とは縁を永遠に切る。もうセミナーの勧誘が出来ないよう館長に頼んだ」

真人は絶叫する理恵を尻目に研修センターへ戻っていった。目には一杯の涙を浮かべて。

 

それからというもの真人はすさんだ生活が続いた。ついに大学すら行くことはなくなっていた。一日中研修センターの1室に閉じこもり、詩を書き、曲を歌う毎日だった。いつからか、継続していた就職活動もやめてしまっていた。このままでは大学すら満足に卒業できない。将来の事で不安に陥り、真人は大学に相談へ行き留年を申し出た。しかし事務課は留年しない方がよいとアドバイスした。あと8単位を取ってしまえば楽勝で大学は卒業できる状況にいた。しかもAの数は32に達し、普通なら一部上場企業も狙える程の成績であった。

絶望の末死んでしまおうかと思ったこともあった。しかし22の若さゆえ死んでどうするのかその理由すら全く頭に浮かんでこなかった。

 ある夜AOTSで盛大なパーティが催された。インドの研修生がその日の翌日帰国するのだ。真人はそこで知り合ったロイというカルカッタ出身のお金持ちと仲良くなった。ロイ氏は真人に言った。

「インドにいつでも遊びにいらっしゃい」

真人は考えた。そうだ、今残っているお金で世界一貧しい国を旅行してやろう。インド・ネパールがいいな、あとはバンコックとマレーシアも付け足して、半年くらい旅行できないか?そうすれば語学も今よりうまくなるし、帰国後何処かの会社が採用してくれるだろう。そう思った。しかし旅の本来の目的は、自分探しであった。

真人は早速計画を立てた。今あるお金が40万、航空運賃他を除けば20万くらいになるだろう。1日10ドルとして、180円だから(当時の円レート)111日は海外にいられる。最後の給与分8万を足せば半年はいられるのではないか。

真人は、旅行を決断した1987年2月より具体的なプラン作りに入った。まずは航空券。一番安い切符をカルカッタまで購入する。1年オープンチケットだ。最終的な残金はいくらになるかわからないが、最終目的地をトルコのイスタンブールにしよう。そこまで行って引き返すことはできないだろうか?真人は真面目に考えた。

そして真人はエジプト航空とインド航空の切符を購入した。1年オープンで14万円だった。思ったより安かった。

ライフダイナミックスで損失しかかったお金は横浜市の消費者センターの弁護士を通じその大半を取り戻すことが出来た。しかし損失も5万円と大きかった。

今ある金銭的な余裕と、それから可能な旅行先を探し、まず最初の目的地をタイのバンコクとする。そして14日以内にインドのカルカッタに上陸を果たすのだ。

こうして真人の貧乏旅行プランが設計されたのだ。もちろん帰国が最低条件だが、いつどうなるかもわからない。また帰国しても生活は一切保障されていないのだ。半ば博打に近いような旅行を敢行することで真人は自分自身を何とか変えようとしていたのだ。

 

 そして、真人は飛行機の搭乗口にいた。

 搭乗の時間が来た。真人は搭乗口へゆっくり歩いた。まもなく正面にX線検査と思われる場所があった。どうやらここを通過しないと搭乗口には行けないらしい。物々しい警備という印象があったが、その当時起きていた世界各地でのテロや事件を考えれば当然のことともいえるだろう。荷物検査を通るとそこは広々とした搭乗ゲートであった。真人の乗るエジプト航空機はあと1時間後の出発である。それでもどうも落ち着かないのは、これがはじめての海外旅行だからであろうか?いやそうではない。たぶん真人自身飛行機に乗るのが彼の人生にとってはじめてのことだったからに違いない。そして飛行機に乗れば向こうは異国の地である。全く初めての経験であること及び未知への恐怖が何かを駆り立てていたのであろう。

 搭乗口のTVでは選抜高校野球の試合を写していた。しかし全く興味すら湧かない。どうせ向こうの地へ行けば全く違う文化に遭遇するのであろうから、日本で何がどうなっているかは暫くどうでもいいことだと思っていた。そういえば来週(1987年4月)には国鉄が民営化して、「JR」に変わるのであろう。歴史的な変化がこれから行われようとしているのに、真人はそんなことに興味すら示さなかった。

搭乗口に入ってから40分が経過していた。搭乗ゲート前には大きな列が出来上がっていた。おそらくエジプト航空前の欧米線の出発だろうか、外国人といえる人々が長い、長い列を作り待っていた。この便が行けば次は真人の便だ。

 真人は期待と緊張が高まり、心臓の動悸すら速くなっていくのに気がついた。日本よさらば、そしてこれからいつ戻れるかわからない旅が始まるのだ。それ真人がかつて経験したことが無い大きな人生の賭けでもあった。高校受験の涙、大学受験時の絶望、そして彼の恋愛の終焉・・・・これ以上のことがこれから行われようとしていたのだ。

 突如チャイムが鳴り、館内の放送が鳴り響いた。「エジプト航空403便にご搭乗のお客様、搭乗の時間となりました。搭乗口11番の前にお並びください。なお403便はマニラ・・・」

いよいよ来た!真人はすぐに11番ゲートの前に並ぼうとした。しかし既に数人のお客が真人の前にいた。真人は10番目くらいの場所になった。10分後ゲートが開いた。すぐ目の前に飛行機が止まっていない。バスなのか?なんなのか?真人たちはそのまま搭乗口の下に降りると目の前にオレンジ色のバスが止まっていた。それが真人たちをエジプト航空の止まっている場所へ運ぶバスであった。

「意外とお金が無いんだな。エジプト航空は。」ゲートの前に飛行機が着かない理由がエジプト航空にお金が無いと真人は信じていた。しかしそれは全くの誤解で、当時成田には1本の滑走路と北南のゲート2つしかなく、常に飛行機がゲート前に着けることが出来ない状態だったのだ。その前に止まっていた欧米線が目の前に止まっていたからエジプト機はその先の滑走路横に止めてあったのだ。

 バスを降りるとそこには威風堂々とした飛行機の機体があった。白にオレンジの帯が入った「EGYPYAIR」の文字が目新しいボーイング767であった。

 タラップを登り、飛行機内に入り込んだ。実際飛行機を見るのも乗るのもこれが初めてである。目新しい航空機という空間は真人が今まで見てきた全ての乗り物の中でもまるで最も異次元の空間であったに違いない。しかもフライトアテンダントは全て金髪のエジプト人であったからカルチャーショックはなおさら強かった。これが自分をどこまで運んでくれるのだろうか?勿論到着地はバンコクなのだから少なくともその先へは行かない。ただエジプト航空機の中で流れているアラブの音楽、飛行機内の壁に書かれている模様、そして金髪の女性アテンダントを見ていると、自分をバンコクの先、エジプトのカイロまで運んでくれるのではないかという錯覚に陥った。

真人は窓際の席に座った。常時外を見ていたが1時間経過しても一向に飛行機が飛び立つ気配がなかった。初めて乗る飛行機、初めての海外というから緊張は物凄くあったに違いない。果たしていつ飛び立つのだろうか、その緊張だけが時間とともに変わらず流れていった。そのうち機内アナウンスが聞こえた。英語であった。何をどうしたのか全て解釈する事はできなかったが、「30分遅れます」というのだけは聞こえた。真人は少しだけ安心した。

 30分経過するまもなく、飛行機がゆっくり動き出した。おそらくメイン滑走路まで機体を動かすのであろうか、とにかくゆっくりと動いた。そして10分もすると飛行機は止まった。それからであろうか、20分以上経っても機体はどうにも動き出す気配さえなかった。これは、当時の成田空港が滑走路1本のみという状態であった為、空港が込み合い常態的に飛行機が待たされるということだったらしいのだが、真人はとにかくいらいらした。一体いつ飛び立つというのか?イライラを通り越し怒りまで覚えるようになった。

 突然、機体のエンジンが轟音を立てて機体が動き出した。そして激しく機体が走るとその瞬間、胴体が地面から離れ空中に上がるまであっという間だった。飛行機初めての真人は飛行機が飛び立つ際の力が腹に加わり、激しく気分が悪くなった。子供の頃に読んだアポロ11号の飛行士が、地上を離れる際に味わう引力の圧を受けるあの苦しさを今ようやく初めて体験をしたことになる。

 飛行機が雲の上に出るまで10分もかからなかっただろう。さすがは新鋭機767である。乗り心地は他の飛行機に比べ数段良いとの話を真人は聞いていた。飛行機が安定するとノンスモーキングのサインが消えた。真人はようやくマイルドセブンに火をつけた。(当時の飛行機にはかなりの喫煙席があった)

 やがて金髪のアテンダントが現れると、席の前のテーブルを次々に倒し始めた。その様子といったらかなり激しく、乱暴な光景に写った。国鉄でさえ社内検札は頭を下げて丁寧に対応するのに、外国の飛行機はかくもサービス精神の塊もないのだろうか?そして何も言わずアテンダントは大きな銀色の箱を後ろの方まで移動させた。さらに、座っている客に対して「ビーフ、オア、チキン?」と聞きまくっていた。真人のところにくると、真人は「チキンプリーズ」というと何も言わずテーブルの上にどん!とトレイを置いた。これが真人にとってはじめて体験する「機内食テイスト」だった。

 初めて口にする機内食は美味しかった。まあAOTS(横浜研修センター)の食事がいまいち真人の口に合わなかったが我慢して食べていた事を思い浮かべれば上々ではなかっただろうか。15分経たないうちにトレイの上の食べ物は全て食べ尽くしていた。

 

 そのままエジプト航空機は上空を南方向けて飛行を続けていた。空は夕焼けというのか鮮やかなオレンジ色の空が西側に広がっていた。時間にして6時を過ぎた辺りであろうか、日本はまだ3月だった為日暮れが早く5時を過ぎれば真っ暗であるが、空の上はお構いなしといった感じだっただろうか、しばし夕焼けとの遭遇という贅沢なひと時を過ごしていた。もうそのままあと数時間でフィリピンのマニラ空港へ到着する。マニラはトランジット(一時寄港)なので空港内は歩けるが外へ出る事は出来ない。真人はあのAOTSにいたフィリピン人の人妻研修生、レンドンさんに思いを馳せていた。彼女はもう到着してマニラの実家に帰っているだろうか、たぶんそうに違いないだろう、と。

 そのうち飛行機は下降を始めた。どんどん下がっていくとシートベルトと禁煙のサインが「ポン」という音とともに点灯した。いよいよマニラ空港、つまり真人にとって初めての海外ということになる。機内放送で「機はあと1時間余りでマニラ空港へ到着します。」との英語放送が流れていた。あともうまもなくで真人は人生初めての異国の地に降り立つ事になるのだった。

 

 飛行機は空港に着いた。トランジット(寄港)時間は1時間だった。その間空港のターミナル内であればどこへ移動しても構わない。ただ時間に遅れる事だけは許されなかった。

真人は好奇心深々にて飛行機の外に出た。幸いタラップではなくゲート横付けなので降りるのは楽だった。何気なく空港の待合室に出た時、空港の広々としたターミナルが目に写った。見る人見る人誰もが黒髪の色の黒いフィリピン人であったのだ。

「これが南国の地か!」真人は初めて降りるマニラの空港の中を歩いた。そうだ、ビールでも飲もうか!小銭でUSドルを持っていたので買い物には問題がなかったが、何か緊張をしていた為、先ず空港のトイレへ行ってそれからビールを買おうと思った。「トイレはどこだろう?」真人は空港を見渡すと、右奥の方に人の絵がかいてある電灯のついた入り口を発見した。ここだと思いその場所に小走りした。

トイレに入ると中の異様な光景が真人を襲った。何と空港係員の赤い服装をした男たちが10人ほど立って真人を迎えていた。1人は中を案内し、1人は大のドアをあけ、1人はトイレットペーパーを2周ほど巻いて手に持っていた。そして真人が小便に着こうとすると、その周りを男たちが囲んだのだ。これではとても用を足す事なんて出来ない。真人は何も出さず、用を足したふりをしてその場所を去ろうとすると、なんと男たちは一斉に「チップ!チップ!」と大合唱を始めたのだ。真人は恐れおののいて日本円の50円を床に落とすと、男たちは一斉にそのお金めがけて手を伸ばした。半分小競り合いとなっていた。

一瞬の出来事だった。何がおきたのかわからなかったが、少なくとも「地球の歩き方」にはマニラの空港の様子など出ていなかったし、こんな光景を見たのは生まれて初めてだったし、まさにこれが海外なのか、と思った瞬間、我を失っていた。

結局マニラではビールも買わず何もせず飛行機へ戻った。用を足していないままなので飛行機が飛び立つまでトイレには行けない。じっと我慢の上マニラを離れるまで待たなければならなかった。そしてもう空は一面暗闇の中、飛行機はマニラの空港を離れ一路バンコクへ向って飛行を開始したのだ。

 

1987年3月29日

エジプト機が1時間遅れでバンコクのドンムアン空港に着いたのは既に日付が変わった29日であった。バンコク空港は先のマニラとは違い空港内が落ち着いていた。いかにも東南アジアの空港という感じか、空港内を歩くと広々とした通路に驚かされていた。

真人はパスポートを出して先ず入国ゲートへ向った。初めての海外への入国である。係員にパスポートを出したが殆ど確認をしないままスタンプを押され渡された。いよいよタイ国に入ったのだ!検疫と税関も殆ど何事もなく通過した。そこへ広がったのが人の多さ!タクシータクシー!と喋り捲る人たち、そして熱帯特有のもあっとした高温多湿な気候、真人は一時外に出るものの空港のエアコンが恋しく再び中に入ってしまった。

「このままではバンコク市内へはいけない・・・」

初めての海外、しかも到着が深夜という事もあって動けなかったのだ。真人はドンムアン空港が24時間対応の空港である事を知っていた為、到着ロビーから2階の出発ロビーへ移動した。出発ロビーは人が少ないうえ多くのいすが開放されている。

そこへ腰掛け、タイの「地球の歩き方」を荷物から出して読んだ。その最中である。

「日本の方ですか?」

後ろからそう声がした。真人は振り向くと背後に3人組の日本人が立っていた。

「そうですが・・・」真人は恐る恐る答えると

「あのー僕たちも旅行なんですが、海外初めてで今のエジプトに乗ってきたのですが、今からどこか泊まれるホテルありませんか?」

真人も初めての海外である。どこが何なのかどうしたらよいのか分からないし、自分自身も第三者からのアドバイスをもらいたいと思っていた。

「ホテルは知りませんよ。でもこの時間ですから今夜は空港に泊まった方がよいのではないですか?」真人はそう答えた。

「そうですね、でもこの空港で泊まれるのですか」

真人には地球の歩き方で知った知識があった。

「空港は24時間オープンしていますから大丈夫ですよ。外より空港内の方が、セキュリティは安全なはずでしょ?それにエアコンが効いているし。」

3人はお互い頷くと荷物を降ろし真人の周りに円をえがくように座った。海外で日本人同士がこうして話し合うのも初めての経験だった。

真人が話を聞いていると、この3人組はどういう人たちか分かってきた。住まいは埼玉で大学生、遅めの春休みでタイを10日間くらい周るという貧乏旅行者だった。真人が6ヶ月以上というロングタームの旅をすることについては3人とも驚いてはいたが、海外知らずの初心者という点では、4人とも同条件であった。ただこの3人とはバンコク市内へ入ったら別れなければならないだろう。真人はそう考えていた。

「とりあえず明朝はどんな感じですか?」真人は3人に聞いた。

「そうですね、バスでバンコク駅周辺についたら考えますよ」1人が答えた。

「じゃあ今日はここで休んで、明日は市内までご一緒しましょう。」

そう同意すると、昼間の疲れが出たせいであろうか、空港の地べたに寝転んだ真人はとても眠くなり、そのまま深い眠りに着いた。他の3人も誰もいない空港の待合室の中でしばしの休息を取っていた。

 

翌朝、目が覚めた。あの3人はまだ寝ている。時計の時間を見ると6時半。そう、真人は腕時計をタイ時間の2時間ほど戻しておいたのだ。確かに6時半は時差を見ても正しい時間だ。

「さあ、おきよう」3人は寝不足のまま目を覚まし、周囲を見渡した。

「バンコクだよ。これから市内へ行きますよ!」

4人は荷物をまとめバックの中に詰め込んだ。真人に一瞬不安がよぎった。日本人とはいえ知らぬ人と1夜を過ごしたので、お金など取られてはいないだろうか?

「ちょっとトイレへ行って来るね。」真人は荷物を全て持ち、空港のトイレに入った。鍵を内側から掛け、お金を入れた袋を確かめた。大丈夫だ。なにもやられてはいない。

真人は3人とともに空港内を歩いて、空港の前の道を渡った。南国の蒸した空気が真人らを一気に包みこんだ。周囲は朝6時半なのにもの凄い暑さだった。30度はゆうに超えている感じだっただろうか。

空港と国道を挟む歩道橋を渡り、向こう岸に行くとバンコク市内行きのバスを待った。そのうち青いバスが目の前に止まった。タイ語のなんだか蛇のような字で何が書いているか分からないが、たぶんバンコク市内と思いそれに乗った。中は物凄いエアコンで冷え冷えとした車内だった。

時間はラッシュアワーなのかバスはぎゅうぎゅう詰め状態だった。エアコンで冷えまくっていてまるで冷蔵庫の中にいるかのようであった。車掌が回ってくる。少量お金を持っていたので20バーツを払うと、コインを返してくれた。

「バスは15バーツみたいですよ。」さっきの3人組の1人が声をかけた。

真人は納得して立ったままバンコク市内への到着を待った。

30分するとバスは市内に入ったのか、大きなビル街の中を走っていた。

「そろそろ降りましょうか?」真人は言うと3人は頷いた。

問題はバスを降りるタイミングだった。日本のバスのようにブザーはないし、どこかで降りなければ永遠に降りられない。そして真人たちは現地の人が降りるタイミングを求めた。

そのうち、現地の人が4人降りた。「今だ!」真人たちはなだれを起こす様にバスから降り去った。「さあ、行こう!!」

着いた場所はどこだろう・・・・?全く場所がわからなかった。停留所は全てタイ語で書かれている。誰かに聞いたら教えてくれるだろうか?

真人はAOTS勤務の時にタイ人からバンコクの地図をもらっていた。それを広げて現在地を確認しようとしたが、何処がどこだかよく分からない。

そこへ現地の人と思われる男性が通った。真人は英語で男性に聞いてみた。

「バンコク中央駅に行きたいがここはどこか?」

男は地図を指してこの場所を「スクムビット」と答えた。

「ここはスクムビット通りだ。わかったぞ!」真人は叫んだ。

おまけにバスの乗り場も分かった。ここで真人は3人と別れる予定にしていたが、3人とも「どうしても一緒に行きたい」というのでバンコク中央駅まで同行することにした。

バスを乗り換え、中央駅らしい建物の場所に着くと4人はバスを降りた。ここがバンコク、チャイナタウンの入り口であった。駅はとても首都の駅とは言いがたい古い建物で、周辺は屋台や果物屋がひしめいているような場所だった。

真人は眠かった。昨日の疲れや暑さで体がまいっていたので、どこか泊まれる宿はないか探す事にした。ひとつきにかかったのが、地球の歩き方にあった「新亜飯店」というホテルだった。ここがきれいで安くて安心らしい。

真人は3人を連れて新亜飯店へ向った。そのうちに宿を見つけたが情報とは程遠く、ぼろ宿の典型という感じだった。受付に行くとしわくちゃの老婆が出てきた。

「タゥライ(いくらいですか)」と真人は聞いた。老婆は

「ハンドレッドバーツ(100バーツ)」と答えた。500円くらいなら文句も言えないだろう。そう思い100バーツを払うと部屋に案内してくれた。

部屋は2階にあった。ホテルのスタッフが南京錠の鍵を開けると、そこにはダブルベットとシャワールームがあった。決してきれいでも新しくもないこの部屋でしばし休みを取ろうと真人は思った。ここで3人と別れることにした。話によると2泊バンコクにて泊まったあと、パタヤの方へ行くとのことであった。

「元気で。さようなら。」真人は3人と握手をするとそのまま彼らが部屋を出て行くのを見送った。そうして真人は水シャワーを浴び、十分に体が乾かない状態でベットにうつぶせになると、そのまま寝入ってしまったのだ。

 

数時間後、部屋のドアが音を立てて叩かれていた。何だろう・・・と寝ぼけ眼で真人は鍵穴から外を覗いた。男性と女性が立っていた。

What’s happened?

真人は聞くと、タイ語で何かを話をしている様子だが、何がなんだか分からない。仕方がなく扉を開けると、男がいきなり部屋の戸をこじ開け、中に女を入れようとした。驚いた真人は2人を部屋に入れないように扉外に押し戻した。

真人は驚き英語で叫んだ。

What’s happened to you?

すると男が、女の手を掴み真人の首下に回した。動転した真人はその手を払おうとしたが、また男は女の手を掴み真人にこういった。

This woman 200 barts one night,OK?

これは売春だ、と真人は思った。しかし地球の歩き方には売春宿とまで情報を載せていたのであろうか?それとも噂の通り、世に名高い売春天国のバンコクの一面を見ているのであろうか?

真人は、2人を部屋から追い出し、またベッドの上にて寝転んだ。全く初めての体験だった。こんなところでお金を使っていては6ヶ月の旅行なんて続けられるはずがない。ましてや売春をする為に自分は日本を出てきた訳ではないのだ。

それから部屋伝いに女を紹介する売春斡旋は3回ほど続いた。部屋を出ると、売春女が部屋の周囲をうろついていた。ここは明日中にチェックアウトしよう、と真人は考えた。とても連泊する宿ではないと肌で感じ取ったのだった。

 

1987年3月30日

到着2日目の朝、その日はまたまた暑い日だった。新亜飯店をチェックアウトした真人は、近くの屋台で焼き飯を食べ腹ごしらえしたあと、チャイナタウンの奥の方へ向って歩き出した。周囲がとても古い建物が密集しており、崩れそうな家屋が続く中、何も周囲の危険を感じず中へ中へと入っていった。人気がまるでない。いつか写真で見た香港の紫禁城という感じに近いのだろうか、バンコクの下町と言われるチャイナタウンを歩いていた。     今日以降の部屋を押さえるためだが、それにしてもとてつもなく、変な場所に入ってしまっていた感じがした。

 ラウンドアバウトの辺りに着くと、帽子をかぶった女性が立っていた。その女性を横目に通り過ぎようとした時であった。彼女が英語で話しかけてきたのだった。内容はこうであった。

「私、バンコクへ来て7日目なのですが、道に迷ってしまって・・・・この場所はどこか教えてくださらない?」

真人にはきれいな女性に見えた。彼女の持つ地図を見ながら英語で真人は教えていた。

ちょうどその時である。後ろから来たタクシーが急ブレーキをかけてとまり、真人はその女性とタクシーの間に挟まれた。ひやっと悪寒が走った。

「とりあえず車に乗って一緒に行って頂けないかしら。」そういうと女は力づくに車の中へ真人を荷物ごと押し込んだのであった。ものすごい力であった。

車は勢いよく走り出した。そして信じられないスピードでチャイナタウンを走り抜けると、早速郊外の道路に入った。おそらくバンコクの高速道路に違いなかった。

車内には運転手、先ほどの女が真人の左、そしてもう1人女が乗っていた。

「静かに、問題ないから。」先ほどの女がそういった。真人は女の胸元を見ると、黒々とした胸毛が露出しているのに気づいた。さらに右手には何か金属の黒光った物体が見えた。

その金属物が拳銃であることが分かるまでそう時間がかからなかった。そう、この2人の女は実は男で、しかも拳銃を持っている。もう駄目か・・・真人は震えながらも観念していた。頭からぼたぼたと汗が落ちていくのがわかった。

1時間は走っただろうか、車は郊外の白いホテルに着いた。そこで車を降り真人は2人に案内されるようにホテルの1室に入った。

体はもう震えがとまらなかった。ただいいなりに従うしか方法はなかった。そのうち女の1人が「服を脱げ」と指示した。真人はパンツのみで裸になった。

そして荷物を全て彼女ら(?)に渡すと、「暑いからシャワーでもあびてきな」と言われた。

もう荷物や30万円のお金やTチェックはやられただろう。そう観念した。お金を取った後はピストルで自分を射殺するのだろうか、いやだ、こんな目に遭ってまで恥をさらしたくはない!そう考え真人は彼女らが奥の部屋に移った後服を持って逃亡を試みた。

服を中途半端ではあるが着た状態で荷物を持ってドアを通り、塀を越えようとしたその時だった。1人に後ろから肩を掴まれ真人は部屋に戻されたのだ。真人はあっさり観念するしかなかった。もうどうするにも退路を断たれた状態になってしまっていた。

相手は武器を持っている、容易に脱出できるはずはないだろうと思っていた、それよりお金や航空券は無事なのだろうか、それだけが気がかりだった。

何時間か経過しただろうか、真人は荷物や服を返されそれを身にまとうと、彼らの指示で車に乗り込んだ。車はまた勢いよく走り出し、真人をまたバンコクの街中に戻そうとしていた。車は高速を走り、バンコクのどこかの地域に入った事は確認が出来た。

市内の某所に着いたとたん、信号待ちの間仲間の1人が左のドアを開けると「Goodbye!」と言って荷物ごと車から真人を押し出した。真人は炎天下車から出され、道路上に投げ出された。真人の体とバックが道路上に横たわった。真人はやれやれ、どうやら命だけは無事だったらしい、と一瞬安堵の気持ちになったが、一瞬頭をよぎったのはお金と航空券、そしてパスポートの安否だった。荷物をひきずり車道から歩道に入った所で荷を確認した。そして以下の事に気づいたのだった。

 

財布・・・・・何も入っていなかった!3千円と小銭のみが残っていた。

内ポケット・・航空券とパスポート以外は何もなかった

腹巻・・・・・何もなし

バックのシークレットポケット・・・・T/Cの領収書以外何もない

 

つまり、現金3千円以外は全て強盗されたということになる。ただT/Cのレシートがかろうじて命綱になってくれた。これだけが不幸中の幸いだった。

発狂、狂乱状態とはこのことをいうのだろうか、真人は狂ったように炎天下の中街中を走り回った。そして会う人人に対して「お金がやられた、警察はどこだ」と叫び回っていた。死の淵に立たされた人間が出すまさしく「叫び」に近かった。真人は頭の中は真っ白であったし、とても冷静な行動を取れる状況ではなかった。信号待ちしていた白バイの警官に英語で説明したが、全く通じなかった。誰も助けてくれる気配すらなかった。

真人は何故か通りかかった中学校の中に入っていった、ちょうど授業中だったが、その授業の中に突然現れ、汗と土まみれの体で「助けてくれ」と英語で訴えていた。教室内が騒がしくなった。奇声を上げる生徒までいた。教室内は段々と騒然としていた。

奇しくも、そこへ別の先生が現れた。女の先生だった。

「どうしましたか?なにがあったのですか?」

どうやら英語の先生だ。飛び込んだ教室から英語の先生へ連絡が行った模様だった。

真人は実情を話した。するとその女の先生はこう優しく応えてくれた。

「ツーリストポリスがこの先200m先にあります。この警察は英語で話せます。今行き先を書きますから行って見てください。」

真人は心から先生方に感謝した。真人にとって中,高、大と人生の中で、今までで一番優しい人と感じたのは、このバンコクの英語教師だったに違いない。

真人はとにかく歩いた。そして右側にタイ警察のマークの入った建物を発見した。中に入るとエアコンが効いていて涼しい。しかも飲み水まであった。

エアコンが効いた室内で待たされている真人は、ようやく落ちつきを取り戻した感じであった。ツーリストポリスは普通の警察ではなく、外国人旅行者向けにその年から設置されたトラブル窓口だった。実は真人が旅行で訪れた1987年は「タイ観光年(visit Thailand year)」と言われ、タイ政府が観光客を世界中から呼ぶ為に大々的なキャンペーンを行っていた。しかしながらこうしためでたい時期に泥棒の被害に遭うとはどんなにアンラッキーな事だったろうか。しかも海外3日目である。

事務所内では3人ほどの旅行者が捜査の順番を待っていた。炎天下走っていた真人はここでミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。果たしてこれからどうしたらよいのだろうか?お金は貸してくれるのだろうか?

そこへ1人の日本人と思われる男性が真人に声をかけた。

「どうされましたか?」

真人はバンコクで会った日本人2人目だったのか、ほっとため息をついて話し出した。

「チャイナタウンでやられたのですよ。強盗に。」

すると、男性はあっさりとこう言い放った。

「そうですか、よくあることですね。」

よくあること?このタイという国は泥棒の巣窟というわけか??じゃあ泥棒や強盗に遭った自分は情けないということなのだろうね。真人は聞いてみた。

「あなたはどうされたのですか?」

「私ですか?昨日ベッドで一緒になった女にやられましてね。5000バーツをやられました。うかつでしたね。はっはっは。」

男は笑い楽しそうに話をした。つまり、昨日一緒に寝た女が彼の財布の中のお金を持ち逃げしたということだった。さらに真人は聞いてみた。

「ここ(警察)ではお金とか貸してくれますか?」

男性は急に真面目な態度で言った。

「何言っているの?ここではお金貸してはくれませんよ。被害届の発行だけですよ。」

真人はがっかりした。手持ちのお金は3千円しかない。3日も持たないだろう。考えとしてはT/Cの再発行が完了するまで何とか生活をしていかなければならないということだ。するとその男性が真人にこう尋ねてきたのだ。

「お金に困っているの?どうしたのですか?」