从看守台一直看(見張り台からずっと)2

前話: 从看守台一直看(見張り台からずっと)1

「見張り台からずっと」

 

1987年3月28日

生まれて成田空港に初めて着いたとき、真人は戸惑いを感じた。京成成田空港駅に着くと、改札口に物々しい警備を行う警備所があり、暗い通路沿いに長い行列ができていた。全ての人の全ての荷物を係員がひっくり返すような感じで中身を出していた。この渋滞がどれくらいで収まるだろうか、真人の前に10人くらいの人が待っていただろうか。「いつここから開放されるのだろうか」それだけをしばしみていた。

真人の番が来た。係員の一人がぶっきらぼうな口調でこう吐き出した。「パスポートを出しなさい」「何も危険物、可燃物、金属物はないですね?」

危険物や可燃物はどこからどこまでをいうのだろう?おまけに金属物とは何までをいうのか?さっぱり理解できない上でこう係員にいった。

「なにもないです」

係員は荷物の中に出したものを全て入れると、そのまま「次の方」と真人の後ろを呼んだ。

 当時、世界中どこの空港も警備は物々しかった。前年度の1986年にフィリピンのマニラで革命が起きると、飛行機ハイジャックやテロを恐れ警備が一段と強化された。また

翌年に韓国でオリンピックが催される為、空港関係者はかなりぴりぴりしていたようだ。日本でも実はその年の4月に国鉄が民営化され「JR」という民営会社になる予定だった。2年前に同時多発テロが首都圏の国鉄で発生したこともある。成田はいうまでもなく左翼団体から狙われる格好の地域であったことは間違いない。

 京成の改札を出ると、バスが来ていた。バスに乗り込むと積み切れないくらい多くの乗客を乗せて車両は北ウイングと南ウイングの中間地点に止まった。止まると出発カウンターまで移動を余儀なくされる。そこからは歩くかカートを使うしかない。

真人はエジプト航空(MS)の乗り入れる北ウイングの中に入っていった。時間的に欧米行きや米国行きの便が出発するラッシュの時間でもあった。随分早く空港に着いたためチェックインカウンターはまだ開かない状態だった。その前に空港内でもぶらぶらするか、そう思い、荷物を持ったまま北ウイング内を歩き出した。

 空港内は非常に慌しかった。どうしたものか、真人は外国人旅行者でごった返す空港を観察し少し驚きを感じたのだろうか、少し呼吸が荒くなりだした。右も左も外国人、3月28日という日本では入社や人事異動、入学卒業を控えている時期の為、日本人の旅行者はあまりみなかった。学生の卒業旅行も既に3月末を迎え、学生の旅行ブームは終息気味の時期でもあった。

 

「レンドンさん空港にいるかな?」真人は思った。レンドンさんとは、真人が同日まで勤めていたAOTS(財団法人海外技術者研修協会)で出会ったフィリピン人の国賓研修生であった。2児の母でもちろん旦那も奥さんも国家関係の仕事をしている。

前もって説明しておこう。真人はAOTS[の職員でレセプション係りを勤めていた。100人海外の技術研修生を収容するその財団法人は、政府の通産省と民間企業の出資で出来た法人である。真人は物品の販売や通訳、事務所業務を切り盛りしていた。真人だけではなく他3人の学生アルバイトが交代で24時間勤務にあたっていた。場所は横浜市磯子区汐見台の高台。駅は京急上大岡が近かった。レンドンさんは研修期間を終えフィリピンの帰国の途についていた。

 

奇しくも彼女の帰国日が真人の旅行日である3月28日であることを知った。もしかすると偶然成田空港でお別れが出来るかもしれない、そう思っていたが初めての成田空港で右も左もわからない。彼女が搭乗する予定のノースウエスト航空22便の場所もわからない。これだけ人が多い中彼女を探し出すのはほぼ不可能に近いだろう。そう思って真人は半ば彼女との空港での再会を諦めていた。

 

15時過ぎ、北ウイングにあるエジプト航空カウンターがにわかに忙しくなってきた。チェックインを始めるらしい。真人はすぐにカウンターの前に並んだ。どこで何をすればいいか何せ何もわからない。出国カードすら書けるかどうか不安の中、あえて自分の強みといえば英語が出来る点だけであった。エジプト航空のチェックインカウンターには日本人である。この先日本人に出会うのは何ヶ月先になるだろうか?

 カウンターでチケットを出すと、係員の女性は笑みを浮かべて語りだした。

「アベ・・・マサトさんですね。パスポートをお見せいただけますでしょうか」

真人はパスポートを出すとそのまま彼女の手際よい仕事の進め方に見とれていた。彼女は航空券の1枚を切るとそれをPCのキーボードに乗せてそのままたかたかとキーを打ち出した。作業が実に手馴れていた。

そのうち、デスクの下のほうから硬い紙を出してそれを真人に渡した。搭乗券である。

「エコノミー、28Aです。1時間前にエジプト航空のゲート13にお集まりください」

真人はそれを受け取ると、すぐ出国の方向に向かい出国の手続きを始めた。途中2000円の空港利用料を自動販売機で買った。あとは記入済みの出国カードを出して出国のスタンプをもらう。そこまでは本で読んだとおりだ。

あっけなく出国手続きを済ませると、広々とした場所に出た。空港内には免税店が並び、そして左右にまたゲートまでのセキュリティがそろっていた。

出国した真人はそこでぐっと胸に重みを感じていた。

 

-もうここから日本じゃない、そう、ここからは外国なのだ。まだ大学生だけれど4月からは身分は無職になる。そう、就職活動も失敗し、結婚相手とも別れ、臨時の仕事も失い、住所もなくなった。全てが、ないない尽くしの旅なのだ。おまけに全財産はTC1300ドルと現金約10万円、この予算で半年間海外に出て自分を見つけてくる。こんな経験はかつて自分の人生の中であっただろうか?真人の人生において屈辱を覚えたことは幾多あった。中学時代転校先で執拗ないじめに遭ったこと、大学受験で失敗したこと、そして昨年86年は結婚を誓った彼女が宗教団体に巻き込まれ、AOTS内が大騒動になったこともあった。やむを得ず断腸の思いで彼女と別れたこと等など。

果たしてこの旅に生きて帰ることが出来るだろうか?

 

昨晩出発前の祝いの席で板垣の前で泣き出したこと、今日AOTSを離れる時職員全員が磯子汐見台の研修センター前に出て僕を見送ってくれたこと、そして後輩の工藤が頭を深々と下げて「先輩、今までありがとうございました。気をつけて帰ってきてください」と見送ってくれたこと、そうだ、もう後に戻ることは出来ないのだ。自分の行い、態度次第でこの旅の先は暗黒にもなるし虹色にもなりえる。これから後はすべて自分自身で全てをなさねばならない-

 出発ロビー付近は多くの外国人旅行者がたくさん往来していた。中には公然で平気にキッスするカップルだろうか、そんな熱々のシーンを見るとまさに自分自身の過去のふがいなさをその時真に実感する真人だった。もしあの時、1986年の宗教団体の介入が無ければこんなことに・・・・そう思った。

 

 1986年10月16日

 話はさらに半年前の1986年10月まで遡る。

秋の気配漂う秋晴れが続く横浜、磯子区汐見台。そこにAOTSという財団法人海外技術者研修協会の施設があった。主に一般企業からの技術研修生を受け入れ、教育から研修そのものを請負うその団体に、真人は学生ながら臨時職員として住み込みにて働いていた。1986年2月、初出勤以来3名の仲間とそして彼の兄(横浜研修センターOB)と日々仲良く過ごしていた。

そんな日々の中、真人は食堂の1人の新卒職員に猛烈な恋をした。安田理恵、真人と同年で短大卒、そして彼女は1986年4月正規職員として食堂に配属された。その彼女の可愛らしさとくりくりっとした目に真人は一瞬にして虜になった。真人は直ぐに安田理恵にアプローチした。学生バイト数人が同じ職場で働いていたそのAOTS内では最も美しいと評判の安田理恵に対して狙いをつける男性が多く、真人がその集団に加わったことで安田争奪戦が始まった。そして真人はこっそり狙いをつける彼らの目を避け、ある日彼女を上野公園のデートに誘い込む事に成功した。すなわちその時点で勝負は決まっていた。安田理恵がAOTS入職後僅かに2ヵ月後のことだった。

 上野公園のデート以来、真人と理恵は熱愛のカップルとなっていった。デートはほぼ毎日続きたびたび真人の部屋にも遊びに来るようになっていた。また鎌倉や横浜周辺のデートスポットにも度々出没した。同年6月に入ると真人は理恵の両親とお逢いし既に結婚を前提としたおつきあいに発展していたのだ。

ところが7月を過ぎると少しずつ雲行きがおかしくなっていった。理由は真人の就職活動が芳しくなく度々希望会社に落ちてしまっていたことであった。就職活動に絶対的な自信を持つ真人は、当時特別なコネがなく、また大学内ではゼミの授業すら出てこない不真面目さが大学の教授の怒りを買い、推薦状をもらう事が出来なくなっていた。実力で合格を目指すにもコネ社会の日本では、到底一流会社に入社することは至難の業だった。すると彼女は少しずつ真人に不信感を抱くようになっていた。本来の実力なら真人は絶対一流会社に就職できるはずだ。学校の成績もすこぶるいいしなんていっても英語会話が出来る。末は外資系か商社か入社といわれていたはずが、結局どこも採用してくれる会社が無かった。K日本、Y船航空、S鉄道・・・全て落ちてしまったのだ。就職の良いT経済大でよいところに就職するのであれば、ゼミの力が絶対であった。そのゼミすら当てにならない状況で希望した会社に入れる筈が無かった。気がついてみれば真人は従業員10人足らずの中小留学斡旋会社すら落ちていたのだ。

 

理恵が横浜の洗脳心理セミナーに通いだしたのは、1986年9月のことであった。真人の就職がうまくいかない中、ついにセミナーという一種マインドコントロールにはまりだしてから理恵の様子が違っていった。目つきがおかしくなり、セミナーに洗脳された彼女はもはや後戻りできず、2人の関係はもうすでに崩壊に向かっていた。彼女がセミナー会社を通し少しずつ真人の心理的支配から逃れようとしていたのだ。就職で失敗する真人を尻目に理恵はセミナーの世界にどっぷり浸かっていったのだ。

 ある日のことであった。理恵が真人を呼び出した。場所は横浜駅からさほどとおくないビルの中だった。恐らくそれが例のセミナーであることは重々承知していた。しかし真人はこの目でセミナーの実態を確かめるべく敢えて入り込んでいった。しかしそれは裏目に出て、真人は14万円の大金をはたいてセミナーを申し込まざる得ない状況に入っていった。学生時代海外留学に出る為汗水働いて貯めたなけなしのお金だった。

そしてそれ以降セミナーにだまされ続け、最後には7日間の合宿まで参加させられる羽目となっていった。ベーシック、アドバンス合計合わせ50万円の大金をどぶに捨てようとしていたのだ。

 異変に気がついたのは真人の兄であった。すぐさま真人に契約の解除をするよう勧告したが、既に真人はセミナーに心身ともに漬かってしまっていた。状況を理解した真人の兄はすぐにこういった。

「直ちに別れろ。彼女と別れるしかない。」

真人は事の重大性にようやく気付いた。AOTS内では既にセミナーの勧誘が活発に行われ、理恵中心とした勧誘網がどんどん広がりつつあった。

真人は当時のAOTS,K館長に直訴した。安田理恵がセミナーを館内で勧誘しまくっています。直ちにやめさせてください、と。

その夜真人は理恵を呼び出した。場所は最初にデートした磯子汐見台三丁目のバス停前だった。

「今日お前とは縁を永遠に切る。もうセミナーの勧誘が出来ないよう館長に頼んだ」

真人は絶叫する理恵を尻目に研修センターへ戻っていった。目には一杯の涙を浮かべて。

 

それからというもの真人はすさんだ生活が続いた。ついに大学すら行くことはなくなっていた。一日中研修センターの1室に閉じこもり、詩を書き、曲を歌う毎日だった。いつからか、継続していた就職活動もやめてしまっていた。このままでは大学すら満足に卒業できない。将来の事で不安に陥り、真人は大学に相談へ行き留年を申し出た。しかし事務課は留年しない方がよいとアドバイスした。あと8単位を取ってしまえば楽勝で大学は卒業できる状況にいた。しかもAの数は32に達し、普通なら一部上場企業も狙える程の成績であった。

絶望の末死んでしまおうかと思ったこともあった。しかし22の若さゆえ死んでどうするのかその理由すら全く頭に浮かんでこなかった。

 ある夜AOTSで盛大なパーティが催された。インドの研修生がその日の翌日帰国するのだ。真人はそこで知り合ったロイというカルカッタ出身のお金持ちと仲良くなった。ロイ氏は真人に言った。

「インドにいつでも遊びにいらっしゃい」

真人は考えた。そうだ、今残っているお金で世界一貧しい国を旅行してやろう。インド・ネパールがいいな、あとはバンコックとマレーシアも付け足して、半年くらい旅行できないか?そうすれば語学も今よりうまくなるし、帰国後何処かの会社が採用してくれるだろう。そう思った。しかし旅の本来の目的は、自分探しであった。

真人は早速計画を立てた。今あるお金が40万、航空運賃他を除けば20万くらいになるだろう。1日10ドルとして、180円だから(当時の円レート)111日は海外にいられる。最後の給与分8万を足せば半年はいられるのではないか。

真人は、旅行を決断した1987年2月より具体的なプラン作りに入った。まずは航空券。一番安い切符をカルカッタまで購入する。1年オープンチケットだ。最終的な残金はいくらになるかわからないが、最終目的地をトルコのイスタンブールにしよう。そこまで行って引き返すことはできないだろうか?真人は真面目に考えた。

そして真人はエジプト航空とインド航空の切符を購入した。1年オープンで14万円だった。思ったより安かった。

ライフダイナミックスで損失しかかったお金は横浜市の消費者センターの弁護士を通じその大半を取り戻すことが出来た。しかし損失も5万円と大きかった。

今ある金銭的な余裕と、それから可能な旅行先を探し、まず最初の目的地をタイのバンコクとする。そして14日以内にインドのカルカッタに上陸を果たすのだ。

こうして真人の貧乏旅行プランが設計されたのだ。もちろん帰国が最低条件だが、いつどうなるかもわからない。また帰国しても生活は一切保障されていないのだ。半ば博打に近いような旅行を敢行することで真人は自分自身を何とか変えようとしていたのだ。

 

 そして、真人は飛行機の搭乗口にいた。

 搭乗の時間が来た。真人は搭乗口へゆっくり歩いた。まもなく正面にX線検査と思われる場所があった。どうやらここを通過しないと搭乗口には行けないらしい。物々しい警備という印象があったが、その当時起きていた世界各地でのテロや事件を考えれば当然のことともいえるだろう。荷物検査を通るとそこは広々とした搭乗ゲートであった。真人の乗るエジプト航空機はあと1時間後の出発である。それでもどうも落ち着かないのは、これがはじめての海外旅行だからであろうか?いやそうではない。たぶん真人自身飛行機に乗るのが彼の人生にとってはじめてのことだったからに違いない。そして飛行機に乗れば向こうは異国の地である。全く初めての経験であること及び未知への恐怖が何かを駆り立てていたのであろう。

 搭乗口のTVでは選抜高校野球の試合を写していた。しかし全く興味すら湧かない。どうせ向こうの地へ行けば全く違う文化に遭遇するのであろうから、日本で何がどうなっているかは暫くどうでもいいことだと思っていた。そういえば来週(1987年4月)には国鉄が民営化して、「JR」に変わるのであろう。歴史的な変化がこれから行われようとしているのに、真人はそんなことに興味すら示さなかった。

搭乗口に入ってから40分が経過していた。搭乗ゲート前には大きな列が出来上がっていた。おそらくエジプト航空前の欧米線の出発だろうか、外国人といえる人々が長い、長い列を作り待っていた。この便が行けば次は真人の便だ。

 真人は期待と緊張が高まり、心臓の動悸すら速くなっていくのに気がついた。日本よさらば、そしてこれからいつ戻れるかわからない旅が始まるのだ。それ真人がかつて経験したことが無い大きな人生の賭けでもあった。高校受験の涙、大学受験時の絶望、そして彼の恋愛の終焉・・・・これ以上のことがこれから行われようとしていたのだ。

 突如チャイムが鳴り、館内の放送が鳴り響いた。「エジプト航空403便にご搭乗のお客様、搭乗の時間となりました。搭乗口11番の前にお並びください。なお403便はマニラ・・・」

いよいよ来た!真人はすぐに11番ゲートの前に並ぼうとした。しかし既に数人のお客が真人の前にいた。真人は10番目くらいの場所になった。10分後ゲートが開いた。すぐ目の前に飛行機が止まっていない。バスなのか?なんなのか?真人たちはそのまま搭乗口の下に降りると目の前にオレンジ色のバスが止まっていた。それが真人たちをエジプト航空の止まっている場所へ運ぶバスであった。

「意外とお金が無いんだな。エジプト航空は。」ゲートの前に飛行機が着かない理由がエジプト航空にお金が無いと真人は信じていた。しかしそれは全くの誤解で、当時成田には1本の滑走路と北南のゲート2つしかなく、常に飛行機がゲート前に着けることが出来ない状態だったのだ。その前に止まっていた欧米線が目の前に止まっていたからエジプト機はその先の滑走路横に止めてあったのだ。

 バスを降りるとそこには威風堂々とした飛行機の機体があった。白にオレンジの帯が入った「EGYPYAIR」の文字が目新しいボーイング767であった。

 タラップを登り、飛行機内に入り込んだ。実際飛行機を見るのも乗るのもこれが初めてである。目新しい航空機という空間は真人が今まで見てきた全ての乗り物の中でもまるで最も異次元の空間であったに違いない。しかもフライトアテンダントは全て金髪のエジプト人であったからカルチャーショックはなおさら強かった。これが自分をどこまで運んでくれるのだろうか?勿論到着地はバンコクなのだから少なくともその先へは行かない。ただエジプト航空機の中で流れているアラブの音楽、飛行機内の壁に書かれている模様、そして金髪の女性アテンダントを見ていると、自分をバンコクの先、エジプトのカイロまで運んでくれるのではないかという錯覚に陥った。

真人は窓際の席に座った。常時外を見ていたが1時間経過しても一向に飛行機が飛び立つ気配がなかった。初めて乗る飛行機、初めての海外というから緊張は物凄くあったに違いない。果たしていつ飛び立つのだろうか、その緊張だけが時間とともに変わらず流れていった。そのうち機内アナウンスが聞こえた。英語であった。何をどうしたのか全て解釈する事はできなかったが、「30分遅れます」というのだけは聞こえた。真人は少しだけ安心した。

 30分経過するまもなく、飛行機がゆっくり動き出した。おそらくメイン滑走路まで機体を動かすのであろうか、とにかくゆっくりと動いた。そして10分もすると飛行機は止まった。それからであろうか、20分以上経っても機体はどうにも動き出す気配さえなかった。これは、当時の成田空港が滑走路1本のみという状態であった為、空港が込み合い常態的に飛行機が待たされるということだったらしいのだが、真人はとにかくいらいらした。一体いつ飛び立つというのか?イライラを通り越し怒りまで覚えるようになった。

 突然、機体のエンジンが轟音を立てて機体が動き出した。そして激しく機体が走るとその瞬間、胴体が地面から離れ空中に上がるまであっという間だった。飛行機初めての真人は飛行機が飛び立つ際の力が腹に加わり、激しく気分が悪くなった。子供の頃に読んだアポロ11号の飛行士が、地上を離れる際に味わう引力の圧を受けるあの苦しさを今ようやく初めて体験をしたことになる。

 飛行機が雲の上に出るまで10分もかからなかっただろう。さすがは新鋭機767である。乗り心地は他の飛行機に比べ数段良いとの話を真人は聞いていた。飛行機が安定するとノンスモーキングのサインが消えた。真人はようやくマイルドセブンに火をつけた。(当時の飛行機にはかなりの喫煙席があった)

 やがて金髪のアテンダントが現れると、席の前のテーブルを次々に倒し始めた。その様子といったらかなり激しく、乱暴な光景に写った。国鉄でさえ社内検札は頭を下げて丁寧に対応するのに、外国の飛行機はかくもサービス精神の塊もないのだろうか?そして何も言わずアテンダントは大きな銀色の箱を後ろの方まで移動させた。さらに、座っている客に対して「ビーフ、オア、チキン?」と聞きまくっていた。真人のところにくると、真人は「チキンプリーズ」というと何も言わずテーブルの上にどん!とトレイを置いた。これが真人にとってはじめて体験する「機内食テイスト」だった。

 初めて口にする機内食は美味しかった。まあAOTS(横浜研修センター)の食事がいまいち真人の口に合わなかったが我慢して食べていた事を思い浮かべれば上々ではなかっただろうか。15分経たないうちにトレイの上の食べ物は全て食べ尽くしていた。

 

 そのままエジプト航空機は上空を南方向けて飛行を続けていた。空は夕焼けというのか鮮やかなオレンジ色の空が西側に広がっていた。時間にして6時を過ぎた辺りであろうか、日本はまだ3月だった為日暮れが早く5時を過ぎれば真っ暗であるが、空の上はお構いなしといった感じだっただろうか、しばし夕焼けとの遭遇という贅沢なひと時を過ごしていた。もうそのままあと数時間でフィリピンのマニラ空港へ到着する。マニラはトランジット(一時寄港)なので空港内は歩けるが外へ出る事は出来ない。真人はあのAOTSにいたフィリピン人の人妻研修生、レンドンさんに思いを馳せていた。彼女はもう到着してマニラの実家に帰っているだろうか、たぶんそうに違いないだろう、と。

 そのうち飛行機は下降を始めた。どんどん下がっていくとシートベルトと禁煙のサインが「ポン」という音とともに点灯した。いよいよマニラ空港、つまり真人にとって初めての海外ということになる。機内放送で「機はあと1時間余りでマニラ空港へ到着します。」との英語放送が流れていた。あともうまもなくで真人は人生初めての異国の地に降り立つ事になるのだった。

 

 飛行機は空港に着いた。トランジット(寄港)時間は1時間だった。その間空港のターミナル内であればどこへ移動しても構わない。ただ時間に遅れる事だけは許されなかった。

真人は好奇心深々にて飛行機の外に出た。幸いタラップではなくゲート横付けなので降りるのは楽だった。何気なく空港の待合室に出た時、空港の広々としたターミナルが目に写った。見る人見る人誰もが黒髪の色の黒いフィリピン人であったのだ。

「これが南国の地か!」真人は初めて降りるマニラの空港の中を歩いた。そうだ、ビールでも飲もうか!小銭でUSドルを持っていたので買い物には問題がなかったが、何か緊張をしていた為、先ず空港のトイレへ行ってそれからビールを買おうと思った。「トイレはどこだろう?」真人は空港を見渡すと、右奥の方に人の絵がかいてある電灯のついた入り口を発見した。ここだと思いその場所に小走りした。

トイレに入ると中の異様な光景が真人を襲った。何と空港係員の赤い服装をした男たちが10人ほど立って真人を迎えていた。1人は中を案内し、1人は大のドアをあけ、1人はトイレットペーパーを2周ほど巻いて手に持っていた。そして真人が小便に着こうとすると、その周りを男たちが囲んだのだ。これではとても用を足す事なんて出来ない。真人は何も出さず、用を足したふりをしてその場所を去ろうとすると、なんと男たちは一斉に「チップ!チップ!」と大合唱を始めたのだ。真人は恐れおののいて日本円の50円を床に落とすと、男たちは一斉にそのお金めがけて手を伸ばした。半分小競り合いとなっていた。

一瞬の出来事だった。何がおきたのかわからなかったが、少なくとも「地球の歩き方」にはマニラの空港の様子など出ていなかったし、こんな光景を見たのは生まれて初めてだったし、まさにこれが海外なのか、と思った瞬間、我を失っていた。

結局マニラではビールも買わず何もせず飛行機へ戻った。用を足していないままなので飛行機が飛び立つまでトイレには行けない。じっと我慢の上マニラを離れるまで待たなければならなかった。そしてもう空は一面暗闇の中、飛行機はマニラの空港を離れ一路バンコクへ向って飛行を開始したのだ。

 

1987年3月29日

エジプト機が1時間遅れでバンコクのドンムアン空港に着いたのは既に日付が変わった29日であった。バンコク空港は先のマニラとは違い空港内が落ち着いていた。いかにも東南アジアの空港という感じか、空港内を歩くと広々とした通路に驚かされていた。

真人はパスポートを出して先ず入国ゲートへ向った。初めての海外への入国である。係員にパスポートを出したが殆ど確認をしないままスタンプを押され渡された。いよいよタイ国に入ったのだ!検疫と税関も殆ど何事もなく通過した。そこへ広がったのが人の多さ!タクシータクシー!と喋り捲る人たち、そして熱帯特有のもあっとした高温多湿な気候、真人は一時外に出るものの空港のエアコンが恋しく再び中に入ってしまった。

「このままではバンコク市内へはいけない・・・」

初めての海外、しかも到着が深夜という事もあって動けなかったのだ。真人はドンムアン空港が24時間対応の空港である事を知っていた為、到着ロビーから2階の出発ロビーへ移動した。出発ロビーは人が少ないうえ多くのいすが開放されている。

そこへ腰掛け、タイの「地球の歩き方」を荷物から出して読んだ。その最中である。

「日本の方ですか?」

後ろからそう声がした。真人は振り向くと背後に3人組の日本人が立っていた。

「そうですが・・・」真人は恐る恐る答えると

「あのー僕たちも旅行なんですが、海外初めてで今のエジプトに乗ってきたのですが、今からどこか泊まれるホテルありませんか?」

真人も初めての海外である。どこが何なのかどうしたらよいのか分からないし、自分自身も第三者からのアドバイスをもらいたいと思っていた。

「ホテルは知りませんよ。でもこの時間ですから今夜は空港に泊まった方がよいのではないですか?」真人はそう答えた。

「そうですね、でもこの空港で泊まれるのですか」

真人には地球の歩き方で知った知識があった。

「空港は24時間オープンしていますから大丈夫ですよ。外より空港内の方が、セキュリティは安全なはずでしょ?それにエアコンが効いているし。」

3人はお互い頷くと荷物を降ろし真人の周りに円をえがくように座った。海外で日本人同士がこうして話し合うのも初めての経験だった。

真人が話を聞いていると、この3人組はどういう人たちか分かってきた。住まいは埼玉で大学生、遅めの春休みでタイを10日間くらい周るという貧乏旅行者だった。真人が6ヶ月以上というロングタームの旅をすることについては3人とも驚いてはいたが、海外知らずの初心者という点では、4人とも同条件であった。ただこの3人とはバンコク市内へ入ったら別れなければならないだろう。真人はそう考えていた。

「とりあえず明朝はどんな感じですか?」真人は3人に聞いた。

「そうですね、バスでバンコク駅周辺についたら考えますよ」1人が答えた。

「じゃあ今日はここで休んで、明日は市内までご一緒しましょう。」

そう同意すると、昼間の疲れが出たせいであろうか、空港の地べたに寝転んだ真人はとても眠くなり、そのまま深い眠りに着いた。他の3人も誰もいない空港の待合室の中でしばしの休息を取っていた。

 

翌朝、目が覚めた。あの3人はまだ寝ている。時計の時間を見ると6時半。そう、真人は腕時計をタイ時間の2時間ほど戻しておいたのだ。確かに6時半は時差を見ても正しい時間だ。

「さあ、おきよう」3人は寝不足のまま目を覚まし、周囲を見渡した。

「バンコクだよ。これから市内へ行きますよ!」

4人は荷物をまとめバックの中に詰め込んだ。真人に一瞬不安がよぎった。日本人とはいえ知らぬ人と1夜を過ごしたので、お金など取られてはいないだろうか?

「ちょっとトイレへ行って来るね。」真人は荷物を全て持ち、空港のトイレに入った。鍵を内側から掛け、お金を入れた袋を確かめた。大丈夫だ。なにもやられてはいない。

真人は3人とともに空港内を歩いて、空港の前の道を渡った。南国の蒸した空気が真人らを一気に包みこんだ。周囲は朝6時半なのにもの凄い暑さだった。30度はゆうに超えている感じだっただろうか。

空港と国道を挟む歩道橋を渡り、向こう岸に行くとバンコク市内行きのバスを待った。そのうち青いバスが目の前に止まった。タイ語のなんだか蛇のような字で何が書いているか分からないが、たぶんバンコク市内と思いそれに乗った。中は物凄いエアコンで冷え冷えとした車内だった。

時間はラッシュアワーなのかバスはぎゅうぎゅう詰め状態だった。エアコンで冷えまくっていてまるで冷蔵庫の中にいるかのようであった。車掌が回ってくる。少量お金を持っていたので20バーツを払うと、コインを返してくれた。

「バスは15バーツみたいですよ。」さっきの3人組の1人が声をかけた。

真人は納得して立ったままバンコク市内への到着を待った。

30分するとバスは市内に入ったのか、大きなビル街の中を走っていた。

「そろそろ降りましょうか?」真人は言うと3人は頷いた。

問題はバスを降りるタイミングだった。日本のバスのようにブザーはないし、どこかで降りなければ永遠に降りられない。そして真人たちは現地の人が降りるタイミングを求めた。

そのうち、現地の人が4人降りた。「今だ!」真人たちはなだれを起こす様にバスから降り去った。「さあ、行こう!!」

着いた場所はどこだろう・・・・?全く場所がわからなかった。停留所は全てタイ語で書かれている。誰かに聞いたら教えてくれるだろうか?

真人はAOTS勤務の時にタイ人からバンコクの地図をもらっていた。それを広げて現在地を確認しようとしたが、何処がどこだかよく分からない。

そこへ現地の人と思われる男性が通った。真人は英語で男性に聞いてみた。

「バンコク中央駅に行きたいがここはどこか?」

男は地図を指してこの場所を「スクムビット」と答えた。

「ここはスクムビット通りだ。わかったぞ!」真人は叫んだ。

おまけにバスの乗り場も分かった。ここで真人は3人と別れる予定にしていたが、3人とも「どうしても一緒に行きたい」というのでバンコク中央駅まで同行することにした。

バスを乗り換え、中央駅らしい建物の場所に着くと4人はバスを降りた。ここがバンコク、チャイナタウンの入り口であった。駅はとても首都の駅とは言いがたい古い建物で、周辺は屋台や果物屋がひしめいているような場所だった。

真人は眠かった。昨日の疲れや暑さで体がまいっていたので、どこか泊まれる宿はないか探す事にした。ひとつきにかかったのが、地球の歩き方にあった「新亜飯店」というホテルだった。ここがきれいで安くて安心らしい。

真人は3人を連れて新亜飯店へ向った。そのうちに宿を見つけたが情報とは程遠く、ぼろ宿の典型という感じだった。受付に行くとしわくちゃの老婆が出てきた。

「タゥライ(いくらいですか)」と真人は聞いた。老婆は

「ハンドレッドバーツ(100バーツ)」と答えた。500円くらいなら文句も言えないだろう。そう思い100バーツを払うと部屋に案内してくれた。

部屋は2階にあった。ホテルのスタッフが南京錠の鍵を開けると、そこにはダブルベットとシャワールームがあった。決してきれいでも新しくもないこの部屋でしばし休みを取ろうと真人は思った。ここで3人と別れることにした。話によると2泊バンコクにて泊まったあと、パタヤの方へ行くとのことであった。

「元気で。さようなら。」真人は3人と握手をするとそのまま彼らが部屋を出て行くのを見送った。そうして真人は水シャワーを浴び、十分に体が乾かない状態でベットにうつぶせになると、そのまま寝入ってしまったのだ。

 

数時間後、部屋のドアが音を立てて叩かれていた。何だろう・・・と寝ぼけ眼で真人は鍵穴から外を覗いた。男性と女性が立っていた。

What’s happened?

真人は聞くと、タイ語で何かを話をしている様子だが、何がなんだか分からない。仕方がなく扉を開けると、男がいきなり部屋の戸をこじ開け、中に女を入れようとした。驚いた真人は2人を部屋に入れないように扉外に押し戻した。

真人は驚き英語で叫んだ。

What’s happened to you?

すると男が、女の手を掴み真人の首下に回した。動転した真人はその手を払おうとしたが、また男は女の手を掴み真人にこういった。

This woman 200 barts one night,OK?

これは売春だ、と真人は思った。しかし地球の歩き方には売春宿とまで情報を載せていたのであろうか?それとも噂の通り、世に名高い売春天国のバンコクの一面を見ているのであろうか?

真人は、2人を部屋から追い出し、またベッドの上にて寝転んだ。全く初めての体験だった。こんなところでお金を使っていては6ヶ月の旅行なんて続けられるはずがない。ましてや売春をする為に自分は日本を出てきた訳ではないのだ。

それから部屋伝いに女を紹介する売春斡旋は3回ほど続いた。部屋を出ると、売春女が部屋の周囲をうろついていた。ここは明日中にチェックアウトしよう、と真人は考えた。とても連泊する宿ではないと肌で感じ取ったのだった。

 

1987年3月30日

到着2日目の朝、その日はまたまた暑い日だった。新亜飯店をチェックアウトした真人は、近くの屋台で焼き飯を食べ腹ごしらえしたあと、チャイナタウンの奥の方へ向って歩き出した。周囲がとても古い建物が密集しており、崩れそうな家屋が続く中、何も周囲の危険を感じず中へ中へと入っていった。人気がまるでない。いつか写真で見た香港の紫禁城という感じに近いのだろうか、バンコクの下町と言われるチャイナタウンを歩いていた。     今日以降の部屋を押さえるためだが、それにしてもとてつもなく、変な場所に入ってしまっていた感じがした。

 ラウンドアバウトの辺りに着くと、帽子をかぶった女性が立っていた。その女性を横目に通り過ぎようとした時であった。彼女が英語で話しかけてきたのだった。内容はこうであった。

「私、バンコクへ来て7日目なのですが、道に迷ってしまって・・・・この場所はどこか教えてくださらない?」

真人にはきれいな女性に見えた。彼女の持つ地図を見ながら英語で真人は教えていた。

ちょうどその時である。後ろから来たタクシーが急ブレーキをかけてとまり、真人はその女性とタクシーの間に挟まれた。ひやっと悪寒が走った。

「とりあえず車に乗って一緒に行って頂けないかしら。」そういうと女は力づくに車の中へ真人を荷物ごと押し込んだのであった。ものすごい力であった。

車は勢いよく走り出した。そして信じられないスピードでチャイナタウンを走り抜けると、早速郊外の道路に入った。おそらくバンコクの高速道路に違いなかった。

車内には運転手、先ほどの女が真人の左、そしてもう1人女が乗っていた。

「静かに、問題ないから。」先ほどの女がそういった。真人は女の胸元を見ると、黒々とした胸毛が露出しているのに気づいた。さらに右手には何か金属の黒光った物体が見えた。

その金属物が拳銃であることが分かるまでそう時間がかからなかった。そう、この2人の女は実は男で、しかも拳銃を持っている。もう駄目か・・・真人は震えながらも観念していた。頭からぼたぼたと汗が落ちていくのがわかった。

1時間は走っただろうか、車は郊外の白いホテルに着いた。そこで車を降り真人は2人に案内されるようにホテルの1室に入った。

体はもう震えがとまらなかった。ただいいなりに従うしか方法はなかった。そのうち女の1人が「服を脱げ」と指示した。真人はパンツのみで裸になった。

そして荷物を全て彼女ら(?)に渡すと、「暑いからシャワーでもあびてきな」と言われた。

もう荷物や30万円のお金やTチェックはやられただろう。そう観念した。お金を取った後はピストルで自分を射殺するのだろうか、いやだ、こんな目に遭ってまで恥をさらしたくはない!そう考え真人は彼女らが奥の部屋に移った後服を持って逃亡を試みた。

服を中途半端ではあるが着た状態で荷物を持ってドアを通り、塀を越えようとしたその時だった。1人に後ろから肩を掴まれ真人は部屋に戻されたのだ。真人はあっさり観念するしかなかった。もうどうするにも退路を断たれた状態になってしまっていた。

相手は武器を持っている、容易に脱出できるはずはないだろうと思っていた、それよりお金や航空券は無事なのだろうか、それだけが気がかりだった。

何時間か経過しただろうか、真人は荷物や服を返されそれを身にまとうと、彼らの指示で車に乗り込んだ。車はまた勢いよく走り出し、真人をまたバンコクの街中に戻そうとしていた。車は高速を走り、バンコクのどこかの地域に入った事は確認が出来た。

市内の某所に着いたとたん、信号待ちの間仲間の1人が左のドアを開けると「Goodbye!」と言って荷物ごと車から真人を押し出した。真人は炎天下車から出され、道路上に投げ出された。真人の体とバックが道路上に横たわった。真人はやれやれ、どうやら命だけは無事だったらしい、と一瞬安堵の気持ちになったが、一瞬頭をよぎったのはお金と航空券、そしてパスポートの安否だった。荷物をひきずり車道から歩道に入った所で荷を確認した。そして以下の事に気づいたのだった。

 

財布・・・・・何も入っていなかった!3千円と小銭のみが残っていた。

内ポケット・・航空券とパスポート以外は何もなかった

腹巻・・・・・何もなし

バックのシークレットポケット・・・・T/Cの領収書以外何もない

 

つまり、現金3千円以外は全て強盗されたということになる。ただT/Cのレシートがかろうじて命綱になってくれた。これだけが不幸中の幸いだった。

発狂、狂乱状態とはこのことをいうのだろうか、真人は狂ったように炎天下の中街中を走り回った。そして会う人人に対して「お金がやられた、警察はどこだ」と叫び回っていた。死の淵に立たされた人間が出すまさしく「叫び」に近かった。真人は頭の中は真っ白であったし、とても冷静な行動を取れる状況ではなかった。信号待ちしていた白バイの警官に英語で説明したが、全く通じなかった。誰も助けてくれる気配すらなかった。

真人は何故か通りかかった中学校の中に入っていった、ちょうど授業中だったが、その授業の中に突然現れ、汗と土まみれの体で「助けてくれ」と英語で訴えていた。教室内が騒がしくなった。奇声を上げる生徒までいた。教室内は段々と騒然としていた。

奇しくも、そこへ別の先生が現れた。女の先生だった。

「どうしましたか?なにがあったのですか?」

どうやら英語の先生だ。飛び込んだ教室から英語の先生へ連絡が行った模様だった。

真人は実情を話した。するとその女の先生はこう優しく応えてくれた。

「ツーリストポリスがこの先200m先にあります。この警察は英語で話せます。今行き先を書きますから行って見てください。」

真人は心から先生方に感謝した。真人にとって中,高、大と人生の中で、今までで一番優しい人と感じたのは、このバンコクの英語教師だったに違いない。

真人はとにかく歩いた。そして右側にタイ警察のマークの入った建物を発見した。中に入るとエアコンが効いていて涼しい。しかも飲み水まであった。

エアコンが効いた室内で待たされている真人は、ようやく落ちつきを取り戻した感じであった。ツーリストポリスは普通の警察ではなく、外国人旅行者向けにその年から設置されたトラブル窓口だった。実は真人が旅行で訪れた1987年は「タイ観光年(visit Thailand year)」と言われ、タイ政府が観光客を世界中から呼ぶ為に大々的なキャンペーンを行っていた。しかしながらこうしためでたい時期に泥棒の被害に遭うとはどんなにアンラッキーな事だったろうか。しかも海外3日目である。

事務所内では3人ほどの旅行者が捜査の順番を待っていた。炎天下走っていた真人はここでミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。果たしてこれからどうしたらよいのだろうか?お金は貸してくれるのだろうか?

そこへ1人の日本人と思われる男性が真人に声をかけた。

「どうされましたか?」

真人はバンコクで会った日本人2人目だったのか、ほっとため息をついて話し出した。

「チャイナタウンでやられたのですよ。強盗に。」

すると、男性はあっさりとこう言い放った。

「そうですか、よくあることですね。」

よくあること?このタイという国は泥棒の巣窟というわけか??じゃあ泥棒や強盗に遭った自分は情けないということなのだろうね。真人は聞いてみた。

「あなたはどうされたのですか?」

「私ですか?昨日ベッドで一緒になった女にやられましてね。5000バーツをやられました。うかつでしたね。はっはっは。」

男は笑い楽しそうに話をした。つまり、昨日一緒に寝た女が彼の財布の中のお金を持ち逃げしたということだった。さらに真人は聞いてみた。

「ここ(警察)ではお金とか貸してくれますか?」

男性は急に真面目な態度で言った。

「何言っているの?ここではお金貸してはくれませんよ。被害届の発行だけですよ。」

真人はがっかりした。手持ちのお金は3千円しかない。3日も持たないだろう。考えとしてはT/Cの再発行が完了するまで何とか生活をしていかなければならないということだ。するとその男性が真人にこう尋ねてきたのだ。

「お金に困っているの?どうしたのですか?」

真人はチャイナタウンの件を全部お話した。すると男性はタイ製のタバコに火をつけると、ふぅーと口から煙を吐き出した。

「そうですか。私のホテルに来ますか?50バーツで相部屋だけれど当面は生活できますよ。何なら200バーツくらいは貸してもいいけれど。今夜泊まるところないでしょ?」

「それはありがたい」

真人は男に感謝した。かなり旅なれているというのか、バンコクのことは知り尽くしているらしい。この警察で被害届を発行してもらった後、この男性のホテルへ行こう。そこから旅道中最悪の事態になった時に聞いていたAOTS(海外技術者研修協会)のバンコクオフィスへ電話をかけ、何とか彼らのヘルプを受けよう、そう考えた。

警察での調書取りが終了し、被害届を発行してもらい真人はその男性と彼のホテルへ行く事にした。真人は男性に聞いた。

「お名前教えてくれますか?」

「石川です。」

男は答えた。

石川さんはフィリピンやタイなどを歩き、随分旅なれている感じだった。

2人は警察前からバスに乗り込んだ。バンコクの夕暮れをバス車中から眺めながら真人は今日一日起きたことを振り返った。この日絶対にやってはいけないことを3つもやってしまった事を心から後悔、反省した。まず、1つ目に何故危ないといわれているチャイナタウンを奥深く進んだのか?2つ目に知らぬ人間に誘われ車に乗ってしまったこと、そして3つ目にお金を細かく分散させておかなかったことであった。

夜はトラングゲストハウスという石川さんの部屋に泊まる事にした。チャオプラヤー川沿いの道にあるこのホテル、部屋はできたばかりであろうか、エアコンのない点を除けば満足出来る程だった。中は物凄くきれいで1泊5000円くらいしてもおかしくないホテルだった。真人と石川さんはメコンウイスキーを飲みながらタイの話で盛り上がっていた。その先旅が継続できるかどうか危うい状況であったにもかかわらず、2人は飲んでハッスルしていた。

 真人は夜AOTSの事務所に電話を入れた。以前の勤め先だ。なんとかしてくれるかもしれない。電話に出たのは女性であった。真人は事情を話して、電話の主にバンコク駐在の日本人に取次ぎをお願いしたが不在のため、女性にトラングホテルの電話番号を伝えた。

 

 翌朝、石川さんとともにホテルの近くの屋台へ歩き出した。タイカレーの朝食である。ようやく南国の雰囲気にも慣れてきた。悔んでも悔みきれないのは「あの事件さえ」なければ、という思いであった。わずかタイ到着2日目であんな事件に巻き込まれるとは返す返す残念であり、精神的にも辛かった。

 宿に戻ると、真人宛に電話があったことをフロントマネージャーが伝えてきた。前日AOTSのバンコクオフィスに電話を入れた伝言がきちんと伝わっていたらしい。電話の主は「YOSHIMURA」とあった。

「やった!!吉村さんだ。」

AOTS横浜研修センター時代、真人の上司であり日本語の先生であった吉村氏が休暇でバンコクに来ているという。確か日本を出る際に

「私もバンコクへ行きます。」

という吉村氏の話を聞いたことを真人は思い出した。

吉村氏が今泊まっている宿はインペリアルホテル806号室だった。早速宿に電話を入れると、ホテルのフロントはすぐに吉村氏の部屋へつないでくれた。

「もしもし、吉村ですが。」

電話の主は紛れもない吉村氏であった。真人は絶叫した。同時に小躍りした。

「吉村さん!?阿部です。お久しぶりです。」

吉村氏は昨日の伝言を聞いていたのか、やや神妙な声で真人に尋ねた。

「昨日の話しは事務所で聞いたけれど、大丈夫なの?お金もないらしいが。とりあえず一度会いましょう。インペリアルまでタクシーで来てください。タクシー代は払いますから。」

吉村氏がそう伝えると真人はすぐに準備をしてインペリアルホテルへ向った。しかし、そこで問題が起きる。3輪タクシーのトゥックトゥックを止め行き先を伝えたが全然言葉が通じなかったのだ。仕方がなくトゥックトゥックは諦めバスに乗り市内に向ってからホテルへ行く事にした。ところが真人の乗車したバスは市内から大きく迂回し、インペリアルから逆の方向へ走り出した。よくバスの路線を知らなかった故に起こしたミスであった。結局市内でタクシーに乗り換えホテルに着いたのが電話のあと1時間半後となってしまっていたのであった。しかしなんとかインペリアルホテルに着くことが出来た。

部屋をノックすると、吉村氏が出てきた。

「随分かかったね。タクシー使わなかったの?」

真人はタイで見る吉村氏を日本で会った頃よりたくましく感じていた。

「タクシーに行き先伝えたのですが。言葉が通じなかったのですよ。」

「タクシーってトゥックトゥック?3輪の?もしかして?」

「え?ああ、そうです。」

 真人が答えた。

「ありゃ駄目だよ。あれは言葉通じないよ。普通のタクシーじゃないと。」

真人はその時またも犯した自分の失敗に気づいた。見慣れない3輪のトゥックトゥックに乗ったために、吉村氏と面会するのにかなりのロスタイムを生んでしまったのだ。なにぶん初めての旅であったので、何もかも手探りであった。だからとても旅なれた行動を取るなどという余裕など何もなかったのだ。しかしながら、吉村氏という強力なサポートがついた事が、真人にとってこの上なく心強かった。真人はインド航空出発の2週間後の間バンコクに滞在するのだが、このタイの地で徐々に旅慣れをしてきた実感はあった。

 

1987年4月2日

吉村氏のヘルプもあり、真人は優雅なバンコクの旅を満喫することが出来た。昼夜と2つの顔を持つバンコクは真人の好奇心をくすぐるだけではなく、驚き、ショックを隠せなかった。たとえば昼、チャオプラヤー川の優雅な流れと歴史のある仏像建築、近代的なオフィスビルやショッピングセンターがそれぞれの顔を覗かせれば、夜は派手なゴーゴーバーやショーなど東洋一といわれた欲望の天国の顔がある。吉村氏が滞在中真人はタイのどちらの顔をも見ることが出来たことは、とてもご満悦であった。

 とはいえ、真人はお金のことが心配だった。T/Cの再発行がどれくらいかかるのか、そしてインドへ旅立つ412日までの期限でそれが完了するか、その点が大きな問題であった。1日にタイの軍人銀行へ再発行の手続きの為訪れたばかりだった。その時に行員が言うには、「(再発行まで)4日は見て欲しい」との回答だった。これだと残りのバンコク滞在中に何処か1箇所観光にいける計算になる。もし再発行が遅れればお金がないゆえ、近くの屋台で飯を食べる以外に動くことが出来ない。もう既に手持ちは底をついていたのだ。

 吉村氏滞在最終日の夜、嬉しいお客が食事会に加わった。元いすゞ研修生のプラパン、サテイ、プラティンの3人だった。いずれも吉村氏の計らいで食事会が実現した。真人は彼らに会えることを心待ちにしていたがこんなに早いタイミングで実現できるとはよもや思わなかったのだ。

 プラパンがふざけて真人のバンコクでの失敗を茶化した。

「だめよー。チャイナタウン歩くなんて危ない!危ない!」

「だってしょうがないじゃないか!タイ初めてだもの。」

「お金なくてかわいそうね。夜遊びにいけないじゃん。」

「俺は夜遊ぶ為に旅行しているんじゃねえんだよ!」

 楽しい会話が続いた。これからどのような旅になろうか、予想もできなかった。真人ははしゃぎ、今までの失敗を精一杯忘れるようにみんなの前では努めた。

そんな一夜ももう終わろうとしていた。吉村氏は真人に500バーツ札を渡した。

「少ないがとっておいてくれ。あと足りなければAOTSのバンコクオフィスにコンタクトしてね。」

真人は涙を流しながら感謝した。そう、既にタイ滞在5日が経過していたのだ。

 

 吉村氏が帰国した頃、真人の命の恩人であった石川さんもいつの間にかチェックアウトしていた。お礼も言う暇もなくまた彼も渡り鳥のごとく別の地域へ足を延ばしているのだろうと思った。

 石川さんの代わりに今度は別のルームメイトが新たに来ていた。カナダ人のロジャーという医師である。彼は日本、中国、タイとアジアを旅行して周っている生粋のバックパッカーという感じの男だったが、いかんせん愛想の微塵もない堅物であった。笑いもしなければこちらの話を伺うとじっと黙って視線を向ける。まるで獲物を捕らえようとする虎の目のようだった。この男性と真人は3晩お付き合いすることになる。

 初日はまだよかった。自己紹介や趣味や身の回りの話が出来た。しかし2日目になると、ロジャーが訪れたカンチャナブリという観光スポットの件で2人は激しく英語で対立した。そのきっかけは第二次世界大戦の話だった。

「何故日本はアジアを侵略したか全くわからない」ロジャーが言う。

「アメリカ、イギリス、オランダ、中国が経済封鎖して石油を日本に入れなかっただろう?あれが原因だ。」

「しかしあのような日本の強力な軍隊は当時必要だったのか。」

「日本だけではない。アメリカ、イギリス、ヨーロッパの国はどこでも強力な軍事力を持っていた。」

「日本にとって第二次大戦は正義の戦いじゃないだろう?あれは侵略だ。」

「石油を止められていたのだから、他所の資源を探すのは当然だ。」

「いや、そんな自衛の戦いではない。明らかに侵略ではないか。」

「日本は戦争を回避したかった。降伏したかった。でも米英はそれを許さなかった。そのため4年もああした戦争を続けるしかなかったのだ」

真人とロジャーの話は常に平行線を辿った。しまいにはお互い疲れて風呂に入りだすや、お互い無口になりそのまま夜を過ごした。

 寝入る前にロジャーが真人にそっと聞いた。

「バンコクの夜の遊び場知っているか?」

真人はこれチャンスと地図を取り出した。

「教えてあげよう。まずここでバス4番に乗り・・・・」

真人がロジャーに教えた盛り場とは、吉村氏と訪れたパッポンストリートのことであった。

 

1987年4月3

バンコクは初夏の4月を迎えていた。暑さ本番という感じであるが、ホテルからは出来るだけ出ないようにしていた。翌日4日はT/Cが戻るかもしれない日であった。もしこの日に再発行が完了すれば、7日から涼しいチェンマイへ旅行しようと心に誓っていた。そしてチェンマイ行きの寝台車チケットを買える場所まで調べていた。

残るお金は1300USD,これが真人の全財産であり生命線だった。旅行出発前にに検討していたトルコのイスタンブール行きは現金の盗難の為ほぼ断念していた。それどころかT/Cが戻らなければ次のインド旅行すら危ない情勢なのだ。12日が境目として、まだ時間はあったが予断は許されない状況にいた。

もしこのままお金を受け取れず日本に帰国したらどうなっただろうか?家もなく就職浪人中の真人は住むにも困るに違いない。預貯金は全て旅行にはたいてしまった。このまま引き下がることが出来ようか?生活に困窮するのは嫌だった。

吉村氏ですら、帰国したほうがよいとは一言もいっていない。家の両親だったら真っ先に帰国を勧告するであろう。いや兄貴ですらそういうに違いない。

1986年に愛する彼女と別れ何一つ希望を見出せないまま、自分は海外にいるのだ。このままのこのこ帰国しAOTSに顔を出すなどそんなマネができるものだろうか?一挙に皆の笑いものとなり、国賊とまで言われつつ横浜を追い出されるだろう。一文無しになっても自分はたくましく旅行を続けなければならない。しかし先立つものがすぐにない、という人生初めての侘しさを異国の地で味わされることとなった。

夜ホテルの部屋にいると、ロジャーが帰ってこないのに気がついた。あいつめ、さぞパッポンでゴーゴーガールと豪遊しているのだろうか?むしろなかなか帰ってこない点を見れば夜を満喫しているに違いない。

12時過ぎロジャーは帰ってきた。あの硬い顔は紅潮して満面の笑みを浮かべていた。

「どうだい、楽しかったかな?」

真人は多少馬鹿にした感じでロジャーに声を掛けた。

「いや、素敵な場所を紹介してくれてありがとう。ものすごく楽しかったよ」

ロジャーがこんな感謝をするとは意外!また意外だった。こいつもすきモノに違いないだろう。医者なんて根っからスケベだろうし、それは欧米アジア関係なく万国共通なのだろうと真人は感じた。

 いやそれ以上にあの堅物が子供のように顔をぎらぎらさせているのはなんていう変化だろう。旅は人を変えるに違いない。そう思った。

 

 朝になるとロジャーは早々とホテルを出て行った。次の行き先も告げず、こちらも石川さんと同様、渡り鳥だったのだろうか?

 

1987年4月4日

 ついに銀行へ行く日がやってきた。本日T/Cが再発行されれば1300ドルを手にすることが出来る(日本円で当時20万円)。勿論インドからその先の地域へ旅行する事が出来るし、何より毎日屋台でいい加減うんざりしていた真人の舌が美味しいものを求めている。お金が欲しい。

 朝9:00にタイ軍人銀行へ出向いた。窓口で真人は3分ほど待っていた。ようやく待たされた挙句に、女性行員がT/Cのカバーと紙を持ってこちらへやってきた。ようやく再発行が完了したと真人はその時確信した。

 しかし、意外な事に女性行員がこう話し出したのだ。

「申し訳ありません。600ドル分はサインの照合が出来たので今日お渡しできますが、残り700ドルがまだ照合がすんでいません。まだ数日かかると思われますが。」

 その話を聞いて真人は憤慨した。

「何故600ドルは先に出て、700ドルは今出ないのですか?」

 行員もこう言い返した。

「T/Cの場合こちらではどうにもなりません。ニューヨークの本店に確認して照合できなかった為に700ドルが遅れているのです。」

真人は8日後の12日のインド行きフライトだけ心配していた。このチケットはもう変更が出来なかったからだ。意地でも12日までに700ドル残りを受け取り、ドンムアン空港へ走らなければならない。その為真人は銀行のカウンター越しに係りの者に対し食い下がらなければならなかった。

 「12日までに間に合いますか?インド行きカルカッタまでの飛行機に乗らなければならないのです。最悪700ドルはインドで受け取れますか。」

 「インドでは受け取れます。ただ手続きがはじめから必要になります。」

 「じゃあ何としても12日までに間に合わせてください!!」

女行員は裏に行き、上司らしき人間と話をし始めた、10分くらいして今度は男性が窓口に来た。どうも女行員の上司とみられる、かなりビシッとした感じの男性だった。

 「Mrアベ、この700ドルは後数日かかります。ニューヨークの本店の照合に時間がかかっている為です。3日後以降にもう一度きていただけませんか?恐らく先の600ドルはサイン照合がスムーズだった為早く再発行できました。ただあとの700ドルは事務手続きが遅れていると思います。再発行までそうかからないでしょう。」

 男性の話し方が思いのほか丁寧だったので、真人も落ち着いて話すことが出来た。

「12日までには確実に間に合いますか?」真人は聞くと、男性は話した。

「確実とは言い切れませんが、(それまでに再発行できる)可能性は十分あります。毎日ニューヨークの本店に連絡を取っていますので確認次第再発行が出来ます。」

「わかりました。また3日後に来ましょう。」

そう真人は言うと、席を立ち早々に銀行を後にした。

700ドルはまだとはいえ、もう先に600ドルは手にした。4日間ホテルでひもじい屋台職に我慢し続けてきたのだ。これからは少しまともな食事及び旅行が出来るだろう。真人は銀行を離れると、まっすぐバスに乗りバンコク中央駅へ行った。勿論目的は一つであった。チェンマイまでの旅行をこれから開始するのだ!

 

1987年4月7日

 

真人はバンコク中央駅にいた。チェンマイ行きの夜行列車に乗る為だった。チェンマイはタイ北部の都市で北の拠点、人口15万でタイ第二の都市であった。元々タイの北方民族が住んでおり顔つきは限りなく日本人に近い。しかも美人が多い里でもあった、近くにはメコンデルタ地帯があり、タイ、ラオス、カンボジアの3国がお互い交流を行っている。

 真人は南のプーケット島ではなく、北のチェンマイを選んだのはバンコクの暑さからであった。連日40度近い気候にほどほど参っていたのか、お金がないためエアコンつき部屋には泊まれず、扇風機だけの安宿で我慢していた。いよいよ脳みそが暑さで爆発したという感じだったのだろうか。

 バンコク~チェンマイは約800km、東京から広島までの距離があり、夜行列車で12時間というところだった。

 5時、バンコク中央駅に立ち、チェンマイ行き寝台特急を待った。タイ国鉄が誇る最新鋭のデラックス特急寝台列車・・・とは聞いていたが、入線してきた列車は過去の日本国鉄のお下げ車輌だった。それでもエアコン車や食堂車が連結され、いかにもゴージャスな列車ではあったが、真人の予算では2等寝台が精一杯だった。

 駅のホームでは売り子が一杯で、フルーツや弁当、焼き物、花、みやげ物からカセットテープや本まで討っているものまでいた。お祭りのごとくにぎやかであり、また華やかだった。

 真人は2等寝台の車輌に乗った。日本ですら寝台車輌は経験がない。しかもその雰囲気というもの、まさに南国タイといった感じの車輌である。乗客も白人、黒人、アジア、マレー系など色とりどりだ。

 真人の前に座った女性はドイツ人だった。本国で国語を教える教師で今はバカンスでタイに来ているという。英語がぺらぺらなので真人と彼女とは英語でしばし会話をした。勿論真人がバンコクで遭った強盗事件の話をしたら、彼女は教師らしくこう答えた。

 「様々な人生を学びましたね。」

そう前向きにお話できるのは嬉しかった。何かきっとよい旅になるに違いない。

 列車が動き出すと、喧騒の市内を離れて草原地帯まであっという間だった。そのうち車掌とレストランの注文取りがやってきた。メニューを見ると、カオパット(焼き飯)で70バーツ(350円)、あまり安くないがとりあえず注文した。ドイツ人の女性も同じくスープ、パンと焼き飯を頼んだ。

 ディナーが来た時には「アユタヤ」を通過した時だった。まだ周辺は明るいがもう7時は回っていただろう。車内では楽しい会話が流れていた。電車の中で知らぬ同士で楽しめるなんて日本の列車では考えられない事だろう。国鉄の車輌なんてぶすーとした乗客ばかりだというのに。

 8時を過ぎると辺りは真っ暗になった。真人はウォークマンでバンコク市内で購入した洋楽を聞いていた。ドイツ人の女性は本を読んでいた。

 10時を過ぎ就寝となった。寝台は2段ベッドで真人は上に陣取った。ただ上は余り風通しがよくなく、天井の扇風機が頼りになっていた。後はもう寝るだけの世界だった。

 

 朝5時に目が覚めた。周囲を確認したい為ベッドを降りた、車輌のデッキに立つと、なんとそこは別世界だった。かやぶきの屋根の農家らしい家が続き、人が見えると上半身裸の人たちが見える。一体ここはどこなのだろう、と真人は思った。

映画で見たアフリカの風景と遜色がないだろうか?今にでも裸の男たちが何語を話しているかわからないうちに我々の方へ向かってくる可能性があるだろう。もしかすると槍で殺されてしまうのではないか?そんな錯覚にも陥りそうだった。

 バンコクから約700km、タイ北方の都であるチェンマイまであと少しだった。食堂車では朝食の準備が出来ていたが、真人はさほどお腹が空いていなかったのだろうか,車内係の注文取りに対してもあえて注文を避けた。チェンマイのホテルに入ったら何かを食べようと思っていたからだろう。それにしても真人は眠かった。

 7時半、列車はチェンマイに着いた。ここがタイ国鉄の最北端の駅である。日本でいえばさながら稚内といった感じだろうか?しかし駅はしっかりとした作りだった。改札を過ぎるとお待ちかねのタクシーとゲストハウスの売り込みが多く立っていた。真人はここで、車内で知り合ったドイツ人と別れた。そしてゲストハウスの売り込みを探した。

 「安いよ。70バーツ1泊だよ」そんな日本語を流暢に話すタイ人がいたのには驚いた。チェンマイはタイ有数の観光地であるからだろうか、バンコクの日本語の通じなさを考えればここは天国である。早速タイ人が持つホテルの写真を確認した。

 「エアコンなし、シャワー付きで70バーツか。まあまあだな。」

真人は即決をすると、タイ人は自分の車のある方向へ歩き出した。そこで真人が見たものは、トゥックトゥックではなく自転車の牽引する文字通り、人力車だったのだ。

 「凄いね。これに乗れるの?」

タイ人は笑顔を浮かべて頷いた。人力車に乗れるなんて京都でも横浜でも経験がない、まさに「初体験」であったのだ。

 人力車はゆっくりと進みだした。速度は明らかに遅いがのんびりした風景と静けさを鑑みれば決して悪くはない。むしろこういう雰囲気は観光には良いのではないだろうか?バンコクにいた時、トゥックトゥックのエンジンのやかましさから見ればはるかに快適な乗り物である。人力車はチェンマイの街をゆっくりと進んだ。

 20分くらいだろうか、少し町並みから離れた所にゲストハウスがあった。確かに古くもなく新しくもない、値段から見ればリーズナブルな感じだろうか。

 受付に行き、70バーツを前払いすると部屋へ案内してくれた。部屋は白を基調とした小奇麗なホテルであった。真人は部屋へ入るなりシャワーを浴びるとそのままベッドの上に寝てしまった。

 

 起きたのはたぶん午後3時をまわっていただろうか。すでにかなりの時間を睡眠に使い果たしてしまった。翌日になればまたバンコクへ戻らなくてはならない。真人は焦って直ちにホテルを出ると市内の中心部向かって歩き始めた。バンコク少数民族に会うツアーもたぶん参加できないだろう。チェンマイのお城をみて、市内を回ってどうも終わりそうな感じだった。チェンマイの市街は決して大きくない。バンコクの市内に比べ高層ビルもなければ街もなんとなく閑散としていた。古都と言えばタイではアユタヤ、チェンマイのことをいうのだろうが、地味な街というイメージのままチェンマイの良さを発見できず、ホテルへ戻る結果となってしまった。真人はむしろそれでもよいと思っていた。まずバンコクを離れる事が一番の目標であり、そのために人生史上初めて海外の寝台列車に乗ることができたのだから。

 時間は夕方5時をまわっていた、ゲストハウスの食堂には世界中のバックパッカーが集まっていた。さすがに日本人は1人もおらず、会話は全て英語だった。しかし真人はなぜかその場所ではしゃいでいた。真人の周りにはタイ人女性が英語の勉強のためバックパッカーと一緒に英語を話していた。真人はその中で(約15人位)唯一のアジア人バックパッカーであったが英語に関しては自信を持っていた。しまいにはタイ人に英語を教えたりその場を満喫していた。

 時間はかなり夜遅くまでその場にいた。お酒はさすがに沢山飲めなかったが、その場の雰囲気を十二分に楽しむことができた。

 おそらく夜10時前後だったろうか、真人は部屋に戻りそのまま寝入ってしまった。

 

 バンコクの疲れか、寝台車両の疲れが影響したか、チェンマイツアーは単純に寝てばかりいる旅行となった。翌日4時発のバンコク行き特急に乗ったが、その時も単に寝台に乗っただけで、他に途中下車や観光をするわけではなくそのままバンコクに戻ることになった。その為タイ滞在中最も印象の薄い旅行となってしまったが、それはT/Cの700ドルが未だ戻ってこないことと、12日にはいよいよインドへ上陸することになる為、その合間にちょっとした気分転換に訪れたのがチェンマイであったのだ。

 49日、朝列車はバンコク駅に到着した。そしてまた喧噪のバンコク市内へ入り、真人は一路トラングホテルをトゥックトゥックに乗り目指した。

 

1987410

 

 トラングホテルには新しいルームメイトがいた。彼の名前は「ジョン」、デンマーク人バックパッカーだった。デンマーク語では「ヨハン」とでも呼ぶのだろか?真人は彼のことをジョンと呼んでいた。日本在住経験があり片言の日本語ができ、気さくな性格だった。もちろんコミュニケーションは英語だった。

 ジョンはバックパッカー仲間がたくさんいたこともあり、食事は大抵そうした旅行者が集まるところを選んだ。真人らが住まいとしていたトラング地域は、王宮に近い場所でタイ語で「バーランプー」と呼ばれる下町のことをいった。時期がタイの夏にあたり、市場ではたくさんのフルーツが売られていて、勿論ドリアンも切り売りされており、街中がドリアンの匂いが漂っていた。

 真人がチェンマイからバンコクに戻ってきた10日にジョンは真人の部屋に入ってきた。それから2人は友達関係となった。夕食も共にした。飲み歩きバンコクの街を朝方3時までほっつき歩いたりしていた。ジョンも真人もそうした過ごし方が好きなのだろうか、夜は夜で徹底的に付き合った。そのうち時間の感覚を無くすくらい2人は昼夜一緒に過ごしていた。

 11日はいよいよ「タイ軍人銀行」へ行く。いよいよ700ドルの払い戻しを受ける時が来た。

 

1987411

 

 その日は朝から忙しかった。ジョンがタイを離れ次の行先へ行く日だった。真人はジョンのパッキングを手伝い、ホテルの前まで荷物を運んだ。たった2日間だったが思い出に残る出会いだった。真人はジョンのデンマークの住所を確認し、日本に戻ったら手紙を出す旨伝えた。ジョンは笑みを浮かべると真人と握手をしてタクシーに乗り込んだ。次の行先は「ビーチのきれいなところ」としかいわなかったが、それがタイ国内なのか別の国なのか真人は知る由もなかった。

 ジョンを送り出した後は、トラングホテルで焼き飯を食べいよいよ銀行に行くことにした。真人は停留所で「2番」のバスを待った。しばらく来なかったがようやく来てそのまま銀行方面へ向かった。銀行はスクムビット通り沿いにあるから、バーランプーからはバスで30~40分くらいの場所にあった。

 午前中に銀行へ着いた。真人は受付へ行き事情を話すとそのカウンターで待つよう言われた。果たしてT/Cの照合は済んだのであろうか、もしかして照合が間に合わないとカルカッタで再度リファンド手続きを最初から行わなければならない。

 真人は緊張の面持ちで、しばし対応してくれる女性行員の顔を見ながら、彼女が残念そうな顔をしないよう祈っていた。

 「このT/Cのリファンドは出来ますか?」

真人は銀行から発行してもらった用紙を女性行員に差し出すと、女性はそれを確認して笑顔を見せ、「少々お待ち下さい」と英語で言うと奥の方へ向かっていた。

 女性行員が奥に行ってから10分ほどが経過した。リファンドは結局出来なかったのだろうか?何をこんなに時間を要しているのだろうか?真人は内心かなり心配であった。バンコクでリファンドが出来なければインドでやればよい。ただインドの場合それがよりスムーズに行われるかどうかはわからなかった。なるべくなら日本の金融機関に近いタイでリファンドを受けた方がその後の旅行もきっと順調に進むに違いない。

 15分が経過し少しいらだち始めた。一体何時になったら自分のお金は戻ってくるのだろうか?日本の銀行と違いここはかなりアナログなスピードで業務を進めている。時間がかかるのは仕方がないにしても、またされた揚句に「やっぱり無理でした」という最悪のシナリオだけは回避しなければならない。タイで人生史上最大の「盗難劇」に出会ってしまっている以上、そのけりはタイで決着しなければならないと真人は考えていた。

 ようやく奥の部屋から先ほどの女性行員が姿を見せた。そして彼女の右手には「トーマスクック」の表紙が入った厚手のお札サイズのものを手にしていた。これはもしや、と真人の期待は最高潮となった。女性行員はそのまま真人の前に座り、真人を前にしてこういった。

 「リファンド完了です。」

 その瞬間真人は右手にこぶしを作った。700ドルのリファンドが出来たのだ!!これであと数カ月はこのまま旅行を続けることが出来る。

 「ありがとう。本当にありがとう」

 真人はその行員に感謝した。そして戻ってきたチェック11枚にサインをすると、それをようやく手にすることが出来たのだ。バンコクで不運な事件に巻き込まれてからすでに14日が経過していた。

 

 1987412

 ドンムアン空港に戻るのは二週間ぶりだっただろうか。真人は様々な事を経験し、色んな人たちに出会い助けてもらっていた。この二週間は過去の人生上1ヶ月にも2ヶ月にも匹敵するくらい密度の濃い期間だった。その間に多くの人たちと出会い、また別れていった。これからはインド、その他の国へ行くことになる。行く手にはもっと険しい壁が立ちはだかっているに違いないだろう。真人は12日以降こそ本当の旅の本番であると思っていた。

 インド航空402便はカルカッタ行きである。ドンムアンの待合室から402の727をガラス越しに見ていた。すでに待合室は人で一杯だった。ターバンを巻いた男性がたくさんいるし、サリーを着た女性も多く見かけた。ここからは全く未知の世界に突入する。真人はウォークマンにタイで購入したローリングストーンズのテープを聞きながら自分に景気づけしていた。

 搭乗の時間が来た。ゲートを降りてバスで行くらしい。タイはこれで最後ではなく、またここへいつかは戻る予定にしていた。タイエアーと書かれたバスに乗ると、また南国のむわっとした空気に包まれた。大勢の乗客はインド航空カルカッタ行きの727に乗る為、727が止まっている場所まで一緒に移動した。

 727はかなりの小型機である。ちゃんと飛んでくれるだろうか。タラップから室内に入るとエアコンが効いていた。自分の座席は後ろの方の喫煙席であることを確認した。飛行機も2週間ぶりの搭乗となった真人は、飛行機が飛ぶ時間をひたすら待っていた。

 そのうちのCAがサリーを着こんでこちらへ飲み物を持ってきた。その時CAが渡すタイミングを間違えたのか、真人はそれを受取れず自分の膝の上にこぼしてしまったのだ。膝から下は液体でびしょびしょとなった。

 「Oh,I’m sorry」そうCAの女性が言うとすぐに機体中へ足早に戻って行った。真人はてっきりこぼしたものを拭くタオルとかウェスを持って来てくれるものと思っていた。しかしその期待はもろくも裏切られた。彼女が持ってきたのは布ではなく「おかわり」であったからなのだ。一瞬味わったカルチャーショックであった。

 飛行機がようやく動きだした。時間通りか多少の遅れがあったか気がついていなかったが、何はともあれ飛行機はカルカッタ向けて飛び立っていった。

 日がかなり落ちてきており、雲の上に機体が出るとそこは夕焼けの真っ赤な日に包まれていた。もう下界はどうなっているか知る由もなかった。この飛行機は8時過ぎにインドのカルカッタに到着するだろうということくらいしか、わかりようもなかった。これからどのような旅が続くのか、真人は手帳をバックから取り出し、AOTS時代の名簿を確認始めた。カルカッタに着いたなら、まず電話をする人の名前をきちんと控えておいたのだ。その人の名前は「ロイ」といった。AOTS時代にインドからの研修生として横浜に住んでいた人だ。一説によるとカルカッタの名士ということでかなりのお金持ちらしかった。この人に空港から電話をすれば迎えに来られなくてもどのホテルが良いか教えてくれるかもしれなかった。それだけインドの旅行は、真人自身は初めてであり不安を感じていた。

 少しだけ飛行機内で寝入ったが、その他はほとんど目を覚ましていた。これから緊張のタイミングが訪れるかと思うと安らかに眠っている場合ではなかった。飛行機は少し降下を始めたからカルカッタ空港向けて高度を落としてきているのかもしれないと思った。

 意外と安全なフライトであった。飛行機が徐々に高度を下げだすと既に暗闇になったインドらしき土地が上空から見えてきた。何やら日本とはまるで違う怪しげな雰囲気であった。明かりがぽつんぽつんとしか見えなかったので、多分田舎には違いなかった。

 ノンスモーキングとシートベルトのサインがついた。英語の放送で間もなくカルカッタ空港に到着しますとのアナウンスであった。そして暗い中飛行機は滑走路にどんと音を上げ到着したと思うと、滑るかのようにターミナル入口の方向けて動き出していた。

 真人にとって旅行第二ラウンド目の土地「カルカッタ」に足を踏み入れた。

 

 空港の入国審査は意外にも簡単に済んだ。また税関検疫もほぼフリーパスであった。インドはもっとこれらに時間を要すると考えていた真人にとっては拍子抜けではあったが、何はともあれインドに無事入国出来たのは確かだった。タイにてあのような事件に巻き込まれながらも、何とかインドまで入国出来たのはとても嬉しかった。期待に胸弾んで空港の扉を開けると、そこは空港のロビーになっていた。広々とした中で、どこへ行って何をしようとしばらく考えていた。空港の中には銃を持った警備員が数名立っており、また空港の出口には物凄い人の数がラッシュアワーのように押し合い、もみくちゃとなっていた。この状態では空港の外に出るのは危険だ、何か安全な方法を考えなければ。そう真人は思った。「そうだ、ロイさんに電話をしよう!」ロイさんは真人が86AOTS横浜でお世話になったインド人研修生だった。万が一ということもあり電話番号を手帳に控えてきたのがよかった。まずは公衆電話の位置を確認することだ。しかし、公衆電話といってもコインを全く持っていない。まずどこから聞けばよいか辺りを見回していたら、Information の看板を見つけた。「ここだ!」

早速係に市内に電話を掛けたいがどうすればよいか、と聞くと、一回1ルピーで掛けられるという。真人はポケットからお札を出して差し出すと、細かいおつりをくれた。係の男性が黒い電話を差し出した。真人は手帳を取り出し、ロイ氏の電話番号を確認した。ゆっくり番号を確かめるようにダイアルを回した。「ツーツー」という音のあと、数秒時間がかかったが呼び出し音が聞こえてきた。そして10回もすると、呼び出し音が切れ「ハロー」という女性の声が聞こえた。「ロイさんのお宅ですか?」と真人が聞くとその女性は「そうです」と答えた。

「私は日本から来た阿部といいます。日本でのロイさんの友人です。今カルカッタの空港から電話をしています。ロイさんはいらっしゃいますか?」

するとその女性は愛想うよく、

「ちょっとお待ち下さい」と英語で答えた。

それから5分くらい待っただろうか、だいぶ時間がたったがようやく人が出た感じであった。

「阿部さん、ロイです。お久しぶりです。ようこそインドへ!」

真人は嬉しくなった。

「ロイさん久しぶりです。今カルカッタに着きました。」

「今空港ですか」ロイ氏が聞いた。

「そうです。空港です。」

その後ロイ氏から意外な言葉が出た。

「実は今風邪を引いてしまい、迎えにいけません。ホテルは予約していますか?」

「いいえ、していません。」

ロイ氏がしばらく考え込んだ。そしてようやく話し出した。

「じゃあ、空港でホテルを予約してください。明日また電話を下さい。」

電話を切ると真人はさすがに困ってしまった。空港で予約出来るホテルは全て高級ホテルで、10ドルパッカー(一日10ドルで生活する旅行者)の真人にとっては予算的には大変きつい。地球の歩き方に出ているホテルが全て予算ベースになっているので、予算は1泊500円~700円までである。

 真人は周辺を見渡した。まず空港を安全に脱出することが先決である。ではどのように出るべきだろうか?

 空港内の看板を見渡していると「エアポートバス」という表示があった。たぶんこれが空港~市内へのアクセスなのだろう、と真人は思った。恐る恐るそのエアポートバスのカウンターに近づき、真人は聞いてみた。

「このバスは、カルカッタの街部に行きますか?」

すると係員が答えた。

「行きますよ。20ルピーです」

よし、これならダウンタウンへ行ってくれる。真人はそう思い、チケットを買おうとした。そこへ、たぶん欧米系だろうか、1人の男性が何かとカウンターの係員に聞いていた。何でも市内の行き先であろうか、細かく色んな事を聞いている感じであった。係員が説明するとその彼は納得したのだろうか、20ルピーを出して切符を買い求めた。

もしかするとその彼も自分と同じ境遇ではなかろうか?真人はそう思い、その男性に聞いてみた。

「あなたもダウンタウンに行くのですか?」

「そうです。」彼は答えた。

「ホテルはもう予約していますか?」

「いや、まだしていません。市内へ入ったら探します。」

真人は思った。彼はきっと自分と同じバックパッカーでインドもカルカッタも初めてであろう。いっその事誘ってみようか、と思った。タイでは欧米人とルームシェアを何度もしているので慣れている。多少高い部屋でも2人でツインに泊まればいくらか安くはなるだろう。

「もしよろしければ一緒に宿を探しますか?」真人は聞いた。

そしてその彼から快い返事が返ってきた。

「いいですよ。ではあなたの(ホテルの)予算は?」

真人は予算のことを聞かれるのは嫌だったが素直に答えた。

「1泊5ドルくらいかなあ。高くても10ドルですね。」

「だったらいいでしょう。わかりました。」

あまりに簡単な返事だったので、拍子抜けした。恐らくこれがバックパッカーの標準的な宿予算なのだろう。

真人とその欧米人は、空港の外に出ることにした。

出口の外には、多くのインド人が群がりプラカードを持つもの、数字を書いた紙を手に持ち、何だか叫んでいるような光景があった。そして出口の内側に門兵が2名、自動小銃を持ち立っていた。この状態で外に出れば明らかにもみくちゃにされるだろう。空港のバスはその先にある。何とか無事強行突破しないと、と真人は思った。

「いいですか、いきますよ。」真人はその彼に声を掛けると、一斉にドアを開けながら外へ飛び出した。何が何だかわからない状態で、人ごみを掻き分けるのに必死だった。真人は多くのインド人に腕を捕まれたり、体を触られながらも、何とか空港の人ごみを脱出することが出来た。

「いやーすごい人でしたね?」

真人が言うとその彼も、そうだったね、という感じで頷いていた。2人ともほっとした様子であった。

 

 バスのエンジンがかかった。とはいえ、エアコンがついていないバスであった。バスは街中をかなりのスピードで快走した。しかしエンジン音がやかましく、とても先ほどの彼に話しかける事は難しかった。2人はただバスが市内に入ってくれることだけを祈っていた。

 30分くらいすると市内の中心地と思しき場所に入っていった。9時を過ぎているというのに人の往来が激しい。東西南北から人が中心部分に集まり、また去っていく。頭に布を巻いたような人がいればサリーを着た女性も数多くいる。同じ都会でも東京などと違うことは、通勤の上り下りというものがなく、人という人が中心に集まりまたあちこちに散らばっていくという感じだろうか。全くの異国に来たのだ!

 バスはある場所に突然停車した。真人が運転手に向かって叫んだ。

「ダウンタウンですか?」

 運転手は「そうだ」というので、真人とその欧米人の彼はバスを降りた。さてこれからが宿探しなのだ。

「どこらへんに行きますか」真人はその彼に聞いた。

「どこへ行きます?」

同じことを聞かなくてもいいだろう?と思いながら真人は

「この路地の向こう側に行ってみましょう。」

周辺は、ホテルらしき場所は沢山あったのだが、どれがいいか何ともいえない。しかもホテルの内見をしないと決めることが出来ないだろう。その欧米系の彼はすごく繊細そうな感じがしたのだからなおさら宿は慎重に決めなければいけないと感じていた。

 1件ホテルらしき場所を見つけた。しかし外観があまりきれいではなかった。それでもその日は寝るだけでもいいという気持ちで入っていった。真人はフロントに聞いてみた。

「1室2名でいくらですか?」

そのフロントの係はそっけない態度で答えた。

「1泊200ルピー。(2400円)」

少し予算オーバーな感じかな?と思ったが、それでも今日は寝れるだけでもいいと思い、フロントに確認した。

「部屋を見せてもらえますか?」

フロント係はあまりよい顔をしなかったが、OKというそぶりをして鍵を抱え2人を案内した。暗い通路を通りまるで魔宮の中に吸い込まれる感じで中を歩いた。階段の踊り場でカレーを作っている者までいた。そしてフロント係は部屋の鍵を開けた。

するとどうだろうか?部屋の空気はかび臭く、しかも窓がついていなかった。天井には扇風機が無くエアコンは無論ない。シャワールームは汚く入る気がしない。これはとても泊まれるような代物ではないことがわかった。

 真人は遠慮します、といい、その場を離れることにした。勿論一緒にいた彼も同意見だったらしく、

「あれは難しい。他をあたることにしよう。」と言った。

その後ホテル探しには苦労した。3件とも泊まれるような場所ではなく、値段も決して安くは無い。時計は既に夜10時を回っていた。さすがに疲れた2人は次の場所でなんとなく1晩を過ごせればいいかな、と思っていた。

 4件目は最初に入った路地の手前にあるホテルだった。なんとなく最初に見過ごしていた感じがあったが、そんなに汚いホテルではなかった。2人はフロントに行き、値段を聞いた。1泊100ルピー。まあまあ納得できる値段だった。部屋の内見を希望すると快く案内してくれた。それまで行った4件の中では一番対応がよく感じた。

 部屋に入ると、きちんと清掃が行き届いていてバスルームもそんなに汚くは無い。ちゃんとトイレは洋式のトイレだし、ベッドはメイキング仕立てという感じで納得した。但しフロント係が意外な言葉を発したのだ。

「最低3泊であの値段です。」

真人は動揺した。まず彼が何泊するかが問題であった。真人はその彼に

「君は何日カルカッタにいるか?」と聞いた。

「僕は1週間くらいここ(カルカッタ)にいるから3泊はOKだよ。」と言ってくれた。

よし、これで決定だ。こうして3泊分÷100ルピー÷2の金額をそれぞれ支払った。それにしてもずいぶん時間がかかった。時計は10時半を回っていた。

 

 2人はようやく部屋に入り荷物を置いてそれぞれのベッドに横たわった。さすがに疲れたし、何といってもお腹がすいた。昼の機内食以来何も口にしていなかったから、真人はもう腹ペコでふらふらな状態だった。とにかく飯を食べに行こうと思った。

 「ご飯食べに行きませんか?」真人はその彼を誘うと、その彼は快く承諾した。2人は貴重品だけ持ってホテルの外に出た。いくら10時過ぎでも何かあるだろう、と真人はバンコクの24時間オープンしている屋台を想像していた。

 10分くらい歩くと、古ぼけた食堂らしき形のお店を発見した。恐らく大衆食堂とでもいうだろうか?ここに入ろうと真人は彼を誘い、中に入った。中には地元の人間もいたが、外国人バックパッカーも大勢いた。真人とその彼は、欧米系らしいバックパッカーの男性客の前に座った。そしていきなり英語での会話が始まった。

 恐らくバックパッカーの情報交換場所とでもいうだろうか、英語で話をするのはいいがまずは腹ごしらえが優先だ。なにを食べようとメニューを見れば全てカレー料理のみで、他には選択肢が無いことに気づいた。ここはインド、カレーしかないのは当たり前だろうと、真人はマトンカレーとプレーンライスを頼むことにした。

 テーブルの周りでは、バックパッカー同士の意見交換が続いていた。まずそれぞれがどこを経由してインドに入ってきたかということ、どこが危険で何処が安全かという情報、及びそれぞれが泊まっているホテルの場所と名前、値段などが交換された。そうした話しの中で真人らが泊まっている宿はそんなに条件は悪くない事がわかった。バックパッカーは真人が日本人、同室の彼がスイス人、他は全てアメリカ人であった。

 カレーが来た。お腹がすいていたのでとにかく腹に入れようと、がっつきはじめた。真人は重要なことを1つ忘れていたようだ。それは、民衆の店で食べるカレーは通常のカレーの20倍は辛いということであった。しかし、最初に食べた感じではさほど辛さを感じなかったため、既に皿の半分くらいは平らげてしまっていた。その後である、胃から胸にかけて焼けるような熱さを感じ始めた。そう、インドカレーの辛さが体の神経全てを伝わって脳に到達したという感じだった。一瞬喉の奥から火の手が上がったように思えた。

 「うぁ!!」絶叫した。

真人は目の前にあった水、ラッシー(ヨーグルトドリンク)を手当たり次第飲み始めたが全く回復の効き目が無い。「水をくれ!水だ!」と給仕係に言ってもらったが、あっという間にテーブルの上にある水や飲み物は全て飲み干していた。周囲にいたバックパッカーたちも気の毒と感じたのか、真人に飲み物を与え続けていた。

 ようやくカレーの辛さから開放され、チャイを飲んで落ち着いた真人はその夜はホテルに戻った。既に12時を回っていたが、2人はまだ寝付ける感じではなかった。スイス人の彼と2時くらい話し続けただろうか?カルカッタの観光ポイントやどこへ行くとかそんな話しから、バンコクで出遭った災難についても真人は話していた。スイス人の彼は翌日何処へ行くのであろうか?真人は、翌日はカルカッタの市内から、出来ればマザーテレサの「死を待つ家」に行けたらと考えていた。

2人が寝入ったのは、午前2時くらいであった。

 

1987年4月13日

 カルカッタの朝は早く来た感じがした。真人は目を覚ますと、スイス人の彼は歯を磨いていた。朝は割と清々しい涼しげな風が入る気持ちよさを感じていた。

 真人は時計を見た。昨日インド時刻にあわせていたのでおそらく正確といえるだろうか、まだ7時を回ったばかりの時間だった。スイス人は、朝は元気なのだろうか、洗面所やシャワー室を忙しげに歩き回っていた。こういう場面では国民性というか人格が出るものだな、と真人は思った。

 「朝食は食べた?」真人は彼に聞いてみた。

 「まだだ。君は?」

そう聞かれたので真人はこう答えてみた。

 「ホテルのルームサービスはどうかな?少し高いかもしれないがカレー以外のものが食べられると思うよ。」

真人は前夜食べたインドカレーに辟易としていたのだろうか、そのようにスイス人の彼に誘ってみた。

 「いいよ。君に任せるから」

真人は、このスイス人は意外に話せる人間だな、と思った。バンコクにいた欧米人はどちらかといえばわがままで自分の主張を通すタイプだったから、少し友好的な感情を持てた。

 真人は部屋にあったルームサービスのメニューをみて、プレーンオムレツとトースト、ミルクを頼んだ。スイス人もそのオーダーに従った。

 暫くして頭に布を巻いた給仕係が昼食を持ってきた。真人は1ルピーのチップを渡して早速スイス人と朝食を頂くことにした。洋食での朝食は何年振りであろうか、タイですら焼き飯とカレーばかりだったというのに、インドにきたらいきなり洋食になった。しかもトーストもオムレツはどちらもなかなかおいしかった。これがセットで10ルピーは安いのではないかと真人は思った。

 食事を取りながら真人はスイス人の彼に聞いてみた。

 「今日はどうするつもりなの?」

 スイス人はパンをほおばりながら答えた。

 「インドのモスクでも見に行こうかと思っているんだ。」

 「じゃあマイダン公園のほうだね?」真人は地球の歩き方で得た付け焼刃的な知識を披露したつもりだったが、スイス人のほうが黙ってしまった感じだった。

 「・・・・」

暫く2人の間に沈黙が生まれた。ばつが悪いと真人は感じたのだろうか、何となく微笑みながら相手の目をじっと見ていた。彼も恥ずかしそうに目をそらす感じはまるで日本人というか、日本の東北出身者という感じさえしたのだった。

 「そうだね。暫くしたらホテルを出ようか」

そう真人が言うと、スイス人の彼はそっとうなづいた。

 

 真人は先にスイス人のお出掛けを見送った後、ホテルからロイ氏のところへ電話することにした。電話の値段は1ルピーだったがインドの場合掛ける時間と料金は連動していないらしい。何分掛けても1ルピーなのだろうか?

 ロイ氏に掛けると、また奥さんが出た。真人はロイ氏が家にいることを確認しほっとした。

 暫くするとロイ氏が電話口に出た。

 「今日はどこに泊まっているのですか?」

 そう聞いてきたがよくホテルの場所がわからないので、受付のインド人に代わり場所を告げてもらうことにした。インド人は英語やヒンドゥー語とはいえない言葉で話し続けた。そして用件が済んだのか、受話器を真人の方に渡した。真人は電話を持ち話した。

 「わかりましたか?」

 「わかりました。あなたのホテルの場所はわかりました。今日7時にそちらへ車を向かわせます。あなたはホテルの部屋で待っていてください。」

 真人は了解し電話を切った。今日はロイ氏の接待を受けることになるのだろうか?あのAOTS横浜研修センター時代はパーティで踊り歌い抱き合った仲でもある。またセンターの受付では様々な相談に答えたこともあった。とても優しいおじさんという感じではあったがインドで会うとなるとどのような男性に変化しているのだろうか?

 電話の用事が済み、真人はいよいよカルカッタの市内に出ることにした。

 

 真人は漸く自分のいる位置がわかってきた。「サダルストリート」という外国人バックパッカーの集まる有名な場所にいたのだ。どおりで前日あれだけの欧米人バックパッカーが集まってきたのは無理のない話だった。サダルストリートならばここからどこへ行くべきであろうか?暫く歩いていると突然インド人が日本語を話しかけてきた。

 「何か売るものなーい?」

バンコクでは全くお目にしないこの光景にはびっくりした。彼らは全く人見知りをしないのだろうか?国民性なのか、たくましいのか、お金に執着しているのか、そのいずれもそうなのだろうか。

 朝から気温は30度を軽く上回っていた。とにかく額から出る汗が全く止まらない。このまま水分補給を怠るとすぐに熱中症に陥る危険性は重々感じていた。真人の持つステンレス製の水筒にはミネラルウォーターは十分入っていたがすぐに飲み干すだろうと考えていた。

 カルカッタの市内はバンコクのそれに比べ大変汚らしく、古い感じがした。あの盗難に遭ったチャイナタウンすらここよりましであろうかと思う感じである。道路は穴だらけで歩道は掘り返されたような跡だらけだし、建物の横には生ごみが放置され、悪臭がただよっていた。まるで終戦直後の日本がそうであったように、カルカッタも近代化が何十年も遅れこのような感じになったとしか思えない様相だった。道路上では自動小銃を持ったMPが交通整理をしているし、トラム(路面電車)は旧式のピューゲル型集電の骨董品で、さながら昭和30年以前の日本を彷彿とさせる光景だった。ノスタルジーというよりは別の世界へ入り込んでしまったという感じであろうか、何もかも異次元を感じざるを得なかった。

 真人は歩いている途中、誰かが自分のズボンを引っ張るような感じがした。何だろうと後ろを振り向くと、そこに老婆がひざまずいて真人のズボンのすそを引っ張っていた。そしてその老婆の背後を見ると、そこには茣蓙の上に赤ん坊らしき体が横たわっており、さらに見るとなんと赤ん坊の体には両手両足がついていなかった。

 仰天した。真人は老婆の手を振り払い、その場を走るように去った。まるでバンコクでの盗難を感じるほどの衝撃が走った。真人は呼吸を荒く、水筒の口を外し、水を飲んだ。

よほどその場面が衝撃だったのだろうか、暫く立ち尽くしたがようやくまた歩き始めた。

頭の両脇から汗が吹き出ていた。この汗は決して暑さ故の汗ではなく、先ほどの光景を肌で感じ取った為のものだっただろうか。真人はその先に行くことを躊躇し始めた。

前方の道はどうもスラムに入る感じがした。街全体が路上生活者に溢れていたので全てがスラムに感じたがその先の道を入る勇気がなかったのだろうか、道を渡り公園の方へ歩くことにした。果たしてマザーテレサの「死を待つ家」とはどこにあるのであろうか?

 公園に行くには道沿いに走るトラムの線路を渡る必要があった。トラムの電車はひっきりなしに、しかもゆっくりとした速度で往来し、なかなか簡単に渡るタイミングを計るのが難しかった。だがここを超えない限りその先はない。そこで真人は地元民が同じように渡るタイミングで線路を越えることにした。左側の男女が越えたら僕も超えよう。そして彼らが動きだした時に、「よし!」と思い線路を難なく越えた。真人はほっとしてそのまま公園に向かおうとしていた。

 その時であった。空に雲はなかっただろうが、ぽつぽつと空から水の滴が頭上に落ちてくるのを感じた。「雨か?」と疑ったが空は晴れている。とても雨が降るような気候とは思えなかったが、その滴はさらに多く落ち始め、真人の上半身はもうびっしょりになりかけていた。ほどなく雨は大降りに変わっていた。真人は急いで雨宿りできる場所を探したが、公園の手前で中に入れるような建物や木々がなかった。そうもいっている間に雨はさらに激しくなった。雨は地面全てに水を叩きつけ、土を跳ね上げさせた。まるで雨の勢いで土が空中に舞い上がる光景を真人はこれまで見たことがなかった。道は強い雨の影響で道は泥沼状のような感じになっていた。雨は容赦なく大粒の雫を地面に叩きつける。真人のはいていた靴はもう水が中に入り、泥水が浸水し、かなり重たくなっていた。何処か雨をしのげる場所を探したがもうどうにもならない状況となっていたのだった。

 全身ずぶぬれになり、水で体が重くなった真人はとにかく建物のある場所をさまよったがとうとう雨を避けられる場所を見つけることができなかった。そして雨がおさまるのを待つしかなかった。

 雨は降り出してから20分ほどで止み始めた。空は相変わらず晴天のままであった。雨のお陰で日中のあの激しい暑さから逃れることは出来たが、体中は雨水で染みてしまい鎧を着ているような重さだったし、靴は泥が浸水してとても履けるような代物ではなくなっていた。それでも真人はホテルに帰るしかなかった。

 真人はトラムに乗ることを決めた。近くに駅があり、2,3駅乗ればホテルのあるサダルストリートに着くことが出来ると思ったからだ。ホームと思しき駅で待っているとすぐにトラムは来た。2両編成の車両の一番後ろは女性専用車になっていた。当時日本では女性専用車はなかったので、真人は非常に物珍しく感じた。

 1両目のトラム内には男性の乗客しか乗っていなかった。車両は古く何となく昔東京で乗った記憶のある電車のように感じた。しかし車両はぎゅうぎゅう詰めの混み方であった。

全身ずぶぬれであったのでそのまま公共交通機関に乗るのは引け目を感じたが、ただ余り乗客は気にしていなかった。これが東京の東急や京急ならなんていわれるだろうか?真人の服を濡らした水が水滴となって車両の床に落ち続けていた。

 10分位してからトラムを次の駅で降りることにした。次の駅がサダルストリートの入り口になるだろうか、電車がブレーキ音を鳴らすと真人はそのまま下りることにした。電車から外に出ると、やはり先ほどのスコールの影響がここでも出ていた。道は台風一過の後の如く、泥まみれになっていた。雨がやんで何処かで非難していた商人がいたのか、早々に店を営業し始める商店主を多く見かけた。

 真人はのどが渇いていた。とはいえジュースばかり飲んでいるのはお金がかかるし体にもよくない。出来ればインドのフルーツをたくさん買い込んで、部屋で食べよう、出来れば同室のスイス人にも分けてあげよう、と真人は思った。道沿いに露店をやっている所を見つけた真人は、ここで何かを買おうと思った。お店にはスイカがたくさん積み上げられていた。売り子はおそらく小学生と思われるくらいの年齢の子供である。

 「ねえ、このスイカ1個いくら?」真人は聞いた。

すぐに子供が答えた。

 「15ルピー。(150円)」

少し高すぎやしないか?ジュースが3ルピーなのにスイカはその5倍か?

 「じゃあ5ルピー。」

真人が言うと、子供は首を大きく横に振った。そんな値段では売れない、というのだ。外国人が英語で答えているからであろうか?するとその少年は、ちょっとしたパフォーマンスを行った。まずスイカを半分に切って中を真人に見せたのだ。スイカの断面は美しい赤であったしとても美味しそうだった。これでも5ルピーで買うのか?という態度だった。

 「7ルピーではどうだ」真人が聞いた。するとその切った半分のスイカを示し、少年は言った。

 「この半分のもので7だ。」

 真人は切った果物を買うのは衛生上よくないと考えていた。その場で切ったスイカは買う気は毛頭ない。しかしこの子供も頑張っているし、もうこれ以上交渉するのもいかがか?と感じるようになった。バンコクの市内で値切りするようには、インド人相手では無理と考えたのだろうか?

 結局10ルピーでスイカを買った。少年はきわめて満足そうだった。面目躍如という感じだろうか、真人も少年の気迫ある商売熱心さに感服していた。

 ホテルに戻ると、真人は早速シャワーを浴びようと思った。先ほどの雨で靴も服も泥まみれである。ちょっとした洗濯なら合成洗剤を持っていたので、それをもってバスルームに行った。そして、水道の蛇口をひねると、なんと水が出てこないのだ。洗面所やトイレの蛇口も全て駄目である。これは部屋の設備がおかしいのだろう、と思い真人はフロントへ電話をかけた。

 「水が出ませんよ。」

するとフロントがこう答えたのだ。

 「断水です。」

断水?!カルカッタならよくあることと真人は理解していたに違いない。しかしタイミングが悪すぎる。先ほどスコールを浴びて全身汗と泥まみれになって帰ってきたばかりなのだ。今すぐにでも汚れた全身を洗い流したい、と感じるのは当然だったろう。

 暫くしてスイス人のルームメイトが帰ってきた。彼はもう観光を終了したのであろうか?シャワールームに行こうと扉を開いた瞬間、真人は言った。

 「断水だよ。」

真人がルームメイトに言った。しかし彼はうんとうなずくだけでそれ以上は何も言わなかった。あたかもこの国やこの地方なら当然ありえるということを認識していたのだろうか?スイス人の彼はベッドの上に横たわった。そして真人にこう言ったのだ。

 「君はこの国をどう思う?」

突然の質問で真人は言葉を失ったが、すぐにこう返事をした。

 「どう思うか?とは何も言葉が見当たらないけれど、どんなことだろう?」

 「何でもいい。この国の文化、政治でもいいし、住んでいる人たちについてでもいい。」

 「そういうと、難しいな。まだインドは2日目だし。」

2人の間にしばし沈黙が襲った。真人は沈黙を避けようと、先ほど買ってきた1個のスイカを出した。

 「まあまあ、まずこれでも食べよう。話はそれからだ。」

真人はナイフをバックから出して、丁寧に2等分に切った。そしてその半分を取り出した。スイス人の彼は真人に感謝してスイカを受け取った。2人はベッドの上でスイカを食べながら話し始めた。まずスイス人の彼が言い出した。

 「君は何故この国を旅行しようと思ったのだ?」

真人は素直にこう答えた。

 「インドに友人がいること。あと物価が安かったから。」

スイス人は、ふーんという感じで聞いてたので、真人が逆に聞き返した。

 「君は?どうしてインドにいるの?」

返事はすぐに返ってきた。

 「インド料理に興味があったから。実は僕、母国ではレストランの経営者なんだ。」

真人はなるほど、と思い、そのまま聞き続けた。

 「何でインド料理に興味があったの?」

 「インド料理は母国(スイス)にはたくさんあり、インド人も多いから」

真人は程なく聞き返した。

 「じゃあカルカッタではなく、南インドでも行けば?」

 「もちろんそれは考えている。」

真人はさっき聞いたスイス人の質問が気がかりだったので、確認の為聞いてみた。

 「さっき君は、僕にインドについてどう思うか聞いていたよね?」

スイス人はすぐに返答した。

 「そうだよ。」

 「何かそれについて聞いてみたいことがあったのか?」

 「カルカッタについた初日、夕食を一緒に食べたよね?あの時カレーを食べて苦しんでいる姿をみて、どうしてこの国を旅行に選んだのか不思議だったんだ。」

 「あ!あれね!?」真人は微笑んだ。同時に笑いが出た。

 「あれはね。のどが渇いているのにおなかが空いていたから慌てていたんだ。もちろんカレーは辛かったけれど、僕が慌てていたんだね。タイにいた時はそんなことはなかったけれど。初めてのインドで少し緊張したかな。」

スイス人の顔にも笑みが浮かんだ。2人はスイカを食べ続けていた。少し疲れていたので真人はうとうとし始めた。このまま寝てしまうのでは、と思った。

 「それにしても断水まだなのかなあ。」

真人がそういうと、昼間の疲れからとうとう寝入ってしまった。現地時間で16時過ぎだった。真人は全身汚れたままロイ氏の約束時間までしばしの休息を取ったのであった。

 

 真人は目を覚ました。時計を見たら6時半を過ぎていた。ロイ氏のお迎えがそろそろ来る時間だ。すぐに起き上がり、部屋を見渡すとスイス人はいない。もしか断水はまだ続いているのだろうか、と思いシャワールームへ行って蛇口をひねった。水は出てこなかった。真人は昼間の泥まみれのまま会うのは嫌だったがこれではどうにもならなかった。顔をタオルで拭くと、夕食会の準備に取り掛かった。しかし、Tシャツズボンを変えても靴は泥まみれのままであった。この姿で今夜ロイ氏に会わなければいけないのか。

 7時をまわりそろそろお迎えが来る時間になった。Tシャツくらいしか着替えがない状態で簡単に準備を済ませなければならない。こればかりは自分が悪いのではなく、カルカッタの水道局が絶対に悪いのだ。

 7時半、部屋の外でようやく一台の車がホテル前に着いたのを確認した。黒塗りのアンバサダーという車だ。たぶんこれがロイ氏の迎えの車だろう。部屋で待つ真人には、外から革靴が木の床を叩くように歩く音が聞こえていた。まもなく到着であろう。

 部屋の扉をノックする音が聞こえた。そこに立つ男性はどのような人間だろうか?真人は恐る恐る扉を開けると、目の前には正装をしたインド人の姿があった。

 「Mr.ロイのお友達ですか?今お迎えに着きました。」

真人の顔が恐怖から笑顔に変わった。ついに日本でお会いした友人とインドで再会することが出来るのだ、と。

 

 ホテルから車で夕食会の場所まではそうかからなかった。ただ市内を相当な速度で走りぬけた為、どれくらいの距離だったか覚えてもいなかった。車は市内でのかなり立派なレストランの前についたのは確かだった。レストランの正面にはターバンを頭に巻いた門兵が銃を持って2名立っているという、真人が生涯見る機会がまずないといった構えの超高級レストランだった。真人とレストランの職員が一緒に中を歩くと、エアコンが前面に効いていて非常に涼しかった。レストラン内部といえば、もう高級の上のクラスと言えるような、マハラジャの宮殿を思わせるような作りだった。中に入っても奥行きがあるのか、ロイ氏が座っているテーブルがどこかわからなくなるような場所だった。

 「ミスター、こちらです。」

真人が紹介されたテーブルには、既に数名のインド人が座っていた。そして奥の方に案内されると、そこにはあの横浜で一緒だったロイ氏が立ち上がって真人を迎えた。

 「お疲れ様真人さん、インドへ、カルカッタへようこそ!」

真人はロイ氏に固い握手をした後、お互いの再会を喜ぶかのように抱き合った。夢はこのとき現実のものとなったのだ。

 「ロイさん、お久しぶりです。ここでお会いできるのは本当に夢のようです。」

ロイ氏は満面の笑顔で真人を迎えた。 

 「とにかくお座りください。私達カルカッタ人民組合はあなたの訪問を心待ちにしておりました。」

ロイ氏の言葉に真人は首をかしげた。カルカッタ人民組合?少なくとも横浜のAOTSでは聞いたことのない名前だ。AOTSOB会みたいなものだろうか?まさか政治組織ではなかっただろうか。真人はカルカッタの町中の壁という壁に書かれた政治関係の落書きを思い出していた。政治運動が激しい街なのかもしない。

 そのうちその人民組合のメンバーの1人が質問してきた。

 「カルカッタの印象はどうですか?」

これも返答に困った。辛いカレー事件、手足のない子供、突然の雷雨、断水停電。カルカッタのイメージについて聞かれれば真人は何一つよい印象を伝えることは不可能であろう。しかしこんな高級レストランに呼ばれて悪い話をするわけにはいかない。真人はとっさのひらめきでこう答えた。

 「歴史のある街ですよね?街中歩いていると歴史を感じます。古さもありますが古さについていえば日本の東京のような不自然さはなく、どっしりとした感じがあります。」

 ロイ氏はその言葉に感銘したのか、このように答えた。

 「そうですね。カルカッタは日本のように金持ちばかりが居る街ではありません。貧乏人もお金持ちも同じ街に住んでいます。しかも皆ハッピーだ。しかし日本の東京はどうでしょう?お金がないと住めない街です。貧乏人には非常に生活しにくい街です。その点カルカッタはどの人種、どの階級にとっても住みやすい街です。」

 ロイ氏はAOTS時代に様々な高層建造物を見てきたからこういえるのであろう。同時に真人は現在こそ小金持ちではあるが、日本に帰れば一挙に貧乏人の仲間入りとなるのである。その点は鋭くロイ氏は日本の現状を指摘したのかもしれなかった。

 「真人さん、まず飲み物を頼みましょう。何がいいですか?」

そういえば真人はインドに着いてからミネラルウォーターとコーラしか口にしていなかった。何があるのかすら、真人はわからない。

 「ロイさん、何があるのですか?」

一瞬失礼な質問をしてしまったと真人は後悔した。

 「阿部さん、ここは何でもありますよ。ビール、ワイン、ウイスキー、シャンパン、ブランデー、ないのは日本酒くらいなものです。」

 真人はロイ氏のジョークに助けられた。よかった。では今日は好きなお酒が口に出来るのだ、と真人は感じた。

 「ではビールを頂けますか?」

真人はそういうと、ロイ氏は手を2度ほど叩いた。すぐに店の給仕係がやってきて、ロイ氏がなにやら注文をし始めた。一礼をすると係はその場を去った。

 ロイ氏がさらに真人に聞いた。

 「阿部さんは今後の予定はどうですか?他のインドの街へ行ってみますか?ニューデリーやボンベイは行かれますか?」

 真人は何も考えていなかった。ただ2日間暑さに参ってしまったため、なるべく涼しい場所を探していた。昔印度に駐留していた英国軍が避暑地として訪れた名高い場所等々。

 「ダージリンはどうですか?」

真人がそういうとすぐにロイ氏の顔が皺だらけに歪んだ。

 「ダージリンはやめたほうがよいです。あそこは非常に危ないです。反政府軍と軍が鉄砲で撃ち合っています。あそこは本当に危険だ。」

 そういわれると特に如何したいとかの感情はなかった。むしろ宿に帰ってから考えてもよいだろうと思ったくらいだ。

 「阿部さん、もしあなたがよければ明日でもあさってでも私の秘書をつけますよ。あなたの好きな場所にいくらでも行くことが出来ます。どうですか?カルカッタだけならどこへでも案内できます。」

 ロイ氏の提案は正直嬉しかった。カルカッタの金持ちだからこそできる接待なのであろうか?日本で自分がロイ氏にしたことは本当に些細なことばかりだった。例えば、横浜上大岡のイトーヨーカ堂に行くのに道ばかりではなく付き添い買い物の手伝いをしたことや、日本語の勉強に参加し色々教えたことくらい、後はパーティでギターを弾きまくって馬鹿騒ぎをしたくらいなものだった。それがどうしたことだろう?インドに来るなり秘書と専用車を無料でつけてくれるとの話だ。こんなにすばらしい接待がどこにあるだろうか?

 「ロイさん、あなたの友情には本当に感動しました。では明日は、私は予定がありますのであさってはいかがでしょうか?明後日なら朝からあいています。」

ロイ氏がうなずいた。

 「阿部さん、では明後日、あなたのホテル前に9時に行きましょう。」

本当に真人は嬉しかった。バンコクでの吉村氏のエスコートも素晴らしかったが、このインドでロイ氏の接待をこんな形で受けるとは予想もしていなかった。

 その後、晩餐会は夜遅くまで続いた。真人はインドの宮廷料理を心から堪能し、そして酔いしれた。つい先ほどまでシャワーすら浴びていなかったことすら忘れていた。カルカッタ人民組合なるメンバー達も気さくで楽しい人たちであった。

 夜10時、宴は終わり、真人はロイ氏の見送りを受け専用車でホテルに戻った。

部屋に戻るとスイス人が居た。酒に酔った真人を見て如何思ったことだろうか?

 「水は出ますよ。」スイス人の言葉にほっとして真人はようやくシャワーを浴び、靴を洗濯できた。 

 シャワーから上がると酔ったためか、真人はスイス人に対して気持ちよさそうに夜の晩餐会の話を一部始終した。貧乏旅行者がいきなりマハラジャ級のもてなしを受けたのだから、あまりスイス人の彼には面白い話ではなかっただろう。しかしその彼は楽しそうに真人の話を一部始終聞いていた。

 真人が寝る前にスイス人の彼に聞いてみた。

 「君はこれからどこへ行く予定?」

彼はすぐに返答した。 

 「君が今日アドバイスした場所だよ。南インドさ。」

そうか、やはり料理人、インドのカレーの極意を確かめにいくのであろうか?真人はその夜ロイ氏と話していながら1つだけこれからの行き先を心に決めていた。それは事前に検討こそはしていたが、真人にとって実に意外な場所であったかもしれない。バンコクでお金をやられる前はインドから陸路でトルコのイスタンブールに入ることを検討していた。今その夢が去った中、真人はインドから陸路で進める第三国目を検討し始めていた。そしてそのチケットは明日自分自身で買い求める計画なのだ。ロイ氏の誘いを明後日にしたのもそのためだった。

シャワーこそ浴びたがインドの夏の夜は暑く、寝苦しい一夜だった。

 

 1987年4月14日

 カルカッタ滞在3日目となった。真人はこの日は次の行き先への切符を求め、インド国鉄の切符販売所へ行く予定にしていた。さすがに昨日のロイ氏のフレンドリーな晩餐会に感動したのか、カルカッタへのイメージも大分よくはなってきていたが、朝からまたまたトラブルが発生した。またしても「断水」だった。

 「この国はどうなっているんだよ!!停電断水、停電断水。毎日じゃないか!」

真人は怒りの声を上げたが、同室のスイス人の方は冷静だった。

 「まあ怒らないで。この国の状況はわかっているでしょ?」

 「そりゃあわかるけれど・・・停電と断水が1日に5回も起きるんだぜ。僕が小さい時日本は貧しい国だったけれど、それでもこんな事はなかったよ。」

真人の怒る気持ちはわからないでもなかった。昨日雨で汚れた靴を洗うにも水が出てこない為出掛けられないのだ。いったん洗えば日中の日光のお陰ですぐに乾くのだが、水が出ないことにはそれも出来ずじまいだった。結局タイで買ったサンダルを履いて外出するしかなかった。ただサンダルでは日中40度を超える地面の上を歩き続けると足が火傷状態になるので、長い時間歩くことは出来ない。大切な飲み水を足にかけてあげないと足が火ぶくれしてしまうので、飲み水がなくなってしまう。ましてやここはインド、タイのバンコクのようにコンビニで氷を買って云々なんて贅沢は絶対に出来まい。

 真人はこのまま出掛けることにした。外に出ると9時だというのにもの凄い太陽熱が襲ってくる。頭には帽子をつけているが、これでは到底持たないくらい日の照らし方が強い。日本では考えられないくらいの太陽光線の強さを肌で感じた。30分外に居るとめまいや吐き気を起こしそうな、それだけインドの暑さはすごいということなのだ。

 トラムに乗り、カルカッタの行政庁区域の一角にインド国鉄のオフィスがある。34駅目で降りてすぐの場所だった。日中猛烈な日差しの下外を歩かなくて済んだ真人はほっと一息だった。

 中に入ると冷房が効いていた。何かこのままこの場所に一日中いたい、という気がしてきた。順番を待つ為列を作って待った。たぶん真人は10番目くらいの位置に居ただろうか?

切符販売所の長いすに座って順番を待っている時だった。後ろで何か日本語の会話が聞こえてきた。日本語を聞くのはタイ以来久しぶりだったので興味はあったが、まずは自分の求める切符を買うことに専念する為、一切日本語の主とは関わりを持たず、ひたすら地球の歩き方を読んでいた。その時である。

 「地球の歩き方を読んでいるよ。」ひそひそと後ろから声が聞こえた。同じ日本語である。それでも真人は振り向かなかった。もう欧米のバックパッカーと寝泊りし、飯を食べ、情報交換出来る程のレベルに達していた為、日本人には興味がなかった。しかし真人の希望を無視するかのようにひそひそ日本語は執拗に続いた。

 「どこへ行くのだろう?」

 「声かけてみたら?たぶん日本人だよ。」

真人はうっとうしくなった。でもそれでも本を読み続けた。そしてついに彼らの方から日本語で話しかけられたのだ。

 「すみません。日本の方ですよね?」

真人は振り向いた。年齢的に20代の同年代と思われる2人組の若者であった。

 「はい、そうですが?」

そう日本語で答えた。するとその2人組は手を叩いて喜び出した。

 「やった!日本人だ。やっと日本人に会えた!」

待合所は彼らの声が響き渡り騒々しくなった。中には驚いたインド人までいた。

 「ちょっと・・・声を小さくしてください。みんな驚いていますよ。」

2人組の1人が声小さめに誤った。

 「すみません。脅かしてしまって。僕らインド初めてだったのでここで日本人に会えるとは思っていなかったのです。いや、驚かせて本当にすみません。カルカッタは長いのですか?」

 「いや、僕は3日目ですよ。」

1人は目を丸くして驚いた。サンダルに腰手ぬぐい、髭ぼうぼうの顔に頭に巻いたバンダナの姿を見れば、かなりの年期の入った旅行者に真人は見えたのだろう。

 「本当ですか?そんな風にみえないなあ。もうかなり長い事旅行されているのかと思いました。これから何処かへ行かれるのですか?」

真人は見も知らない相手に次の行き先を話すのは厭だったが、バックパッカーの鉄則であるお互いの情報交換は密にすべきというルールの下で彼らに打ち明かすことにした。

 「そうですね。パトナという場所にこれから行きます。」

質問した1人は首を傾げた。

 「え?パトカですか?」

真人は少し笑ったが、すぐに返答した。

 「パトナです。ここから列車で1日かかる場所です。ここに行きます。」

真人は地球の歩き方を見せ、パトナの場所を地図で指差した。

 「へぇっ。こんな場所に行くのですか?ニューデリーとかベナレスとかそんな場所を想像していましたが、それで汽車の切符を買うのですね?」

 「そうです。」

真人は答えると、2人は黙った。そういえば日本語を話すのは数日振りだった。前日ロイ氏と会った際に多少の日本語を使ったが、それも3言程度だった。人生の中でこれほど日本語と疎遠になった時期というのは以前あっただろうか?AOTS横浜研修センターですら、外国人と英語で話をしていても、日本人がゼロということはなかった。このまま旅行を続けると日本に帰国した時にはぎこちない日本語になってしまうのではないだろうか?真人は逆にその事を心配し始めた。

 真人の番が来た。窓口で日付と行き先を告げた。

 「4月17日、パトナ行き夜行急行を1枚、寝台車は3等で。」

係員は黙々と切符の発行を行った。また予約は電話で取るという日本ではもう考えられないシステムで行っていた。この切符を買うのに20分くらい待たされただろうか、しかしついにカルカッタ発パトナ行きの切符を手に入れることが出来たのだ。そしてインド国鉄での旅行は初めての経験となる。

 真人は販売所を出た。そしてその後をつけるように、さっきの日本人が後をつけてきた。販売所から100m位のところで真人は振り向くと、彼らが真後ろに立っていた。

 「あのう・・・もしよろしければ泊まっている場所を教えて頂けませんか?」

真人は少し不思議に思った。

 「私はサダルストリートのゲストハウスにいますが、他に何か?」

2人組は少しおどおどした感じの様子だった。

 「実は僕らインドに来てまだ日が浅くて不安なのです。色々旅の情報を聞けたらと思いまして・・・」

真人は冷たくこう言い放った。

 「不安を感じていたらこの国での旅行は続けられませんよ。私もここの滞在3日目なのです。何も交換出来る情報はありません。自信を持ってください。あと日本人だけではなく色んな国の方々と接してみてください。何事もチャレンジですよ!」

真人の話に2人組は寄り添うようにその場を離れた。真人はタイのバンコクでもの凄く怖い目に遭っているため、日本人とはいえよそよそしく近づく者を警戒していたのだった。しかしこうした言葉が発せられた背景には、タイの事件もあるしまた今後進めていく旅行先での様々な難問、トラブルに対して如何立ち向かう為の身構えを持とうという自意識がそうさせたのだろう。それにしても真人は堂々としていた。成田空港を離陸して3週間と経っていなかったが、本当に強い旅行者へ変貌していた。しかし、真人はこれからの旅に不安を抱いていた。今後気候の変動に体がついていくかどうか、若さだけで乗り切れる局面ばかりではなく、自分の遭遇した今までの経験や知識が正しくその場その場の決断として機能するかどうかがこれからの課題であった。まさしくインドのカルカッタを乗り切ればその先は天国か、または地獄に堕ちるのか。

 真人は切符を購入した場所を離れ、またトラムに乗ってホテルへと戻った。その晩はスイス人の最後の夜となる。この日は特別な意味があるだろう。まずインドのチャイナレストランで彼と食事をする。食事で酒を飲むことに決めていた。もう宿近くのレストランはどこに行くか真人は決めていた。カルカッタの中国人が経営する中国レストランである。

 真人は部屋に戻ると、スイス人の彼が戻るのを待った。17時に彼は戻ってきた。

 「よし、食事に行こうよ!」

真人は彼を誘うと、彼もうんとうなずいた。今日は最後の晩餐になることだから。

 ホテルの裏に入るとちょっとした中華街があった。しかし横浜の中華街のような派手やかな場所とは違い、在印中国人が居住する地域という場所だった。2人は真人が指定する店に入った。いかにも中国人が経営するという感じのお店である。

 給仕からメニューを頂いた。中を見ると本当に中国料理である。餃子もあるしチャーハンもある。麺類も豊富である。真人はついメニューに見とれた。

 「中華料理はすきなの?」

スイス人は真人に聞いた。

 「君も好き?僕は大好きだな。僕の住んでいた横浜は世界一のチャイナタウンがあるんだよ。」

 スイス人の彼は優しく微笑んだ。真人は彼に同意をもらいながら好きなメニューを次々に頼んだ。餃子、炒飯、焼きそば、野菜炒め、等々。

 中華料理はお互いが和む空気を作り出した。何せ毎日がカレー、カレーである。いい加減カレー粉から開放されたという思いが2人の中にあったのかもしれない。

 スイス人の彼が真人に話しかけた。

 「君は何故今回旅行しようと思ったの?」

真人は僕について彼が確認したい事が今あると感じていた。カルカッタの空港で一緒に泊まろうなんて話しかけた東洋人なんてこの先にも現れるはずがないだろうから。

 「実は愛していた彼女と別れたんだ。僕は先月まで大学の学生だった。就職も出来ず彼女も失い、全て失う中何かを求めて旅を決意したのだ。確かにインドには友人はいたけれど、本当はヨーロッパとかアメリカを旅したかった。でも十分にお金がなかったんだよ。結局一番物価の安い国を旅行することに決めたのさ。」

 真人はビールを片手にそれを飲み干した。そして給仕に、「もう一杯」と声をかけた。

「で、君の夢は何なの?」

スイス人の彼が聞いた。

「僕の夢?なんだろう?考えたこともなかったし、夢にも見たことがない。本当は音楽で職につきたかったけれど、それは難しいな。そうだなあ。世界中を見られる仕事に就きたいな。それは本当に僕にとって夢でしかないけれど。」

暫し2人の間に沈黙が訪れた。何を話していいか真人もスイス人の彼も思いつかなかった。お互いはビールを飲みながら黙々と中華料理を食べている。それも何も遠慮なく好きな皿を好きなだけという感じだった。真人もこれからの旅如何ではこれだけの量を平らげるのは最後になるかもしれなかった。

 スイス人の彼が真人に聞いた。

 「で、君はこれから何処へ行くの?」

真人は少し間を置いた。そういえば彼に行き先を話していなかった。パトナまでの切符を買ったがその先については真人の他知る由もなかったのだ。真人は一呼吸し、自分を納得させるかのような落ち着きをしてから、スイス人の彼に行き先を教えた。

 「ネパールだよ。」

 スイス人の彼は軽くうなずいた。理由も聞くことなく、テーブルに置かれた料理を食べ続けていた。 

                                                                                                      

1987年4月17日

     カルカッタ滞在も既に5日が過ぎていた。スイス人バックパッカーはもうカルカッタを離れ南インド方面に旅行を続けているはずだった。真人も17日を最後にカルカッタを離れ、北インドのビハール州にあるパトナという町へ旅立つ。切符は既に購入しており、夜にカルカッタ駅へ行けばそれで乗れる。実は、15日にロイ氏の秘書であるサンダール氏が真人と一緒にカルカッタの市内観光に行ったばかりである。

 州議事堂、博物館、動物園といえばお決まりのコースであったが、真人が見たいと思っていたマザーテレサの「死を待つ家」はとうとう見せてもらえなかった。サンダール氏に懇願したが、「そこはたぶんはいることが出来ない。」というお話だった。外国人に対して見る事ができない、というより「見せたくない」というのがインド人及びカルカッタ市民の本音なのであろう。彼らインド人が日本に旅行に来た時に「浅草の山谷を見せてくれ」といわれたら断る気持ちと一緒なのだろう。マザーテレサ関連は、今度またカルカッタに来た時に見ればよい、と真人は開き直っていた。

 サンダール氏は真人が列車でカルカッタを離れる時に同行するようにと、ロイ氏から言われたらしく、真人の乗る列車と時間をしきりに確認していた。

 「大丈夫ですよ。駅へは1人で行けますから。」

そう真人はサンダール氏に伝えたが、サンダール氏はそれではおさまらなかった。

 「いいえ、ロイさんからいわれています。カルカッタ駅までお送りします。」

そう言われれば送って頂いた方がありがたい。後は教の夜の準備だけはきちんとやっておく必要があった。

 カルカッタは物資が不足している感じがあり、日用品などはなかなか買える場所にめぐり合う事が出来なかった。バンコクのように大丸、そごう、東急など日系デパートが目白押しの場所とは全く異なっていた。たとえ必要なものが買えてもすぐ使っているうちにぼろぼろになってしまう感じは否めなかった。これからもっと物資の乏しい北インドやネパールへ旅行するにはこれで充分という訳にはいかなかっただろうが、もうやむをえない。万が一の食料品として、日本からカロリーメイトを5パック携帯してきた。もし仮に食い

ぱくれた場合はこれで何とか一時しのぎができるだろう。水は緊急浄化財を30日分持ってきているので、ミネラルウォーターが手に入らない場合はこれで対応する事にする。何せもっと衛生環境の悪い国に向うのだから、最低限これだけの準備は必要だろう。さらに真人は日本でコレラ、A型肝炎の予防接種を受けており、そして横浜の医者から抗生物質であるテトラサイクリン錠をかなり持ってきていた。これで駄目だったら最悪現地の医者にかかることになるであろう。

 16時にサンダール氏が車で迎えに来てくれた。列車は19時発なので随分と早かった。真人は5日間滞在したサダルストリートのホテルをついに離れた。受付のインド人も名残惜しそうに真人たちを見送った。

 サンダール氏は先ず彼の家に車を走らせた。どうも「ぜひ我が家へ」という感じだったに違いない。真人はそれに従うようにサンダール氏の家に向った。

 カルカッタの比較的新しい街にあるという感じだったであろうか、真人のいたサダルストリートのような貧しさは殆ど見かけなかった。清楚な高級住宅街という感じだろうか、サンダール氏が、真人をその一角に招きいれるかのように、両手で案内をした。

 「さ、ここですよ。」

インド人がどんな場所に住んでいるか興味津々だったので、真人はものめずらしそうな感じで中に入った。サンダール氏の自宅はレンガ調の洒落た造りであり、中は木目調の内装で非常に落ち着いた感じだった。真人は中に呼ばれ、家の客間であろうか、アンテークなテーブルいすのところに座るよう案内された。

 「ちょっとお待ちくださいね。」

真人はお辞儀をして、しばらくの間待った。10分くらい経過しただろうか、家の奥からサリーを着た女性がその場に現れたのだ。その女性は赤調のサリーを身にまとっており、なかなか顔を見せなかったが、真人の方を一瞬向いた時、その顔の全貌が露になった。鼻が高くきりっとしたインド人特有の顔で、エキゾチックな美貌の持ち主であった。年齢は20代から30代くらいであろう。

 「彼女は私の奥さんです。」

サンダール氏が言った。嘘だろ?!と真人は思った。サンダール氏の年齢は聞いていなかったが頭に毛がなく、小太りでいかにも50代男という感じであったからなおさら目の前の

美女との違いにただ驚くばかりであった。東京の新橋にいる親父達がこの光景を見たら皆怒ってしまうだろう。

 「正直驚きました。本当にお美しい。」

真人はその彼の奥さんをみながらうっとりとしていた。サンダール氏はもう鼻高々という感じであった。インド人は奥さんを滅多に他人に紹介をしないのであろう。真人が日本からのお客さんであり、またロイ氏の友人であるから真人に引き合わせたに違いない。

真人はサンダール氏とチャイを飲みながらいろいろ話した。奥さんが中に入ると、真人はサンダール氏に話しかけた。

 「いやー!すごい。こんな美人な奥さんいるなんてうらやましい。流石ですな。」

サンダール氏もご満悦な様子だった。

 「じゃあ今度はロイさんの家に行ってみませんか?」

サンダール氏に沿う提案された。何でも家がすぐ近くにあり、歩いても10分かからないという。ならそれではお邪魔してみますか、という気持ちに真人はなった。

 2ブロック先まで歩くとロイ氏の家があった。お屋敷とまではいかないがここの周辺では一番造りが良い建物がロイ氏の家らしかった。確かに家中に大きな垣根が取り巻いており、家は2階建ての構造になっていた。これが東京の世田谷とか目黒ならば相当な邸宅という風に見られるに違いない。

 サンダール氏の案内で真人は家に入った。中はかなり広い。玄関だけでも6畳はあるだろうか?そのうち家のハウスキーパーらしい中年の女性が出てきた。サンダール氏と23言はなすとそのハウスキーパーは家の奥に入っていった。

 暫くして女性が現れた。またしても赤のサリーをまとった女性である。今度は「どうぞ」を日本語で挨拶をしてきた。しかも、サリーに包まれたその顔は、物凄い美貌である。インドのミスコンテストを見ているのだろうか、比較しては申し訳ないがサンダール氏の奥さんをより研ぎ澄ませたようなシャープな顔の美女である。真人は腰を抜かしそうになった。すぐに奥から男性の姿があった。ロイ氏の登場である。

 「やあ、真人さん、ようこそ我が家へ。こちらは私の奥さんです。」

ロイ氏が答えた。一体なんということだろう。こちらも物凄い美女が妻だというのだ。インドという国の懐の深さは一体なんだろうか?と真人は思った。貧乏人から金持ちまで貧富の差は激しいとは聞いていたが、それにしても彼らのようなお金持ちが日本に帰れば一文無しの真人をかくも手厚くもてなすという事は常識から見ても非常に稀有な事に違いないだろう。これにはAOTS横浜研修センターという存在が非常に偉大であるということしかいえないだろう。過去真人のように大学生職員がインドやタイを訪れて各地の研修生の厚いもてなしを受けた話を真人は聞いた事がある。訪問した先の中にはその国の(小国ではあるが)王族の親戚であったという話も聞いた。当然ながら一大学生が日本では絶対に経験出来ないようなもてなしを受けたという話もあった。おそらく真人がその場その時間にて経験していることは、普通の大学生で普通の大学ライフを過ごした人間としてはありえない事だろう。良くも悪くも自分はこの場を経験しているのだ、と感じた。

 ロイ氏の余りに美しい奥さんを見とれていた真人は、しばし言葉を失っていた。ロイ氏は、そんな真人に語りかけた。

 「真人さん、あなたは日本に帰ったら何をしますか?」

真人はロイ氏の質問に戸惑った。これから何をしようか考えていなかったからだ。

 「そうですね。・・・・難しいかもしれませんが、国際交流の仕事をしてみたいと考えています。」

 ロイ氏はすぐに反応した。

 「そうですよ!それが一番です。YKC(AOTS)で働くのが一番です。」

真人は、それはそうだ、と思っていても、それが出来ないもどかしさを感じていた。AOTSには別れた彼女がいるし、いくら縁故でも自分の入職をウエルカムに考える職員は誰もいないだろう。何故ならAOTSに在籍していた時は、真人は新興宗教問題で様々な波紋を巻き起こしていたからだ。パーティの時の傍若無人な振舞いや、特定な研修生に手厚くする点、新興宗教事件の際の態度等等。

 「ロイさん、僕はAOTSには戻れないと思います。というよりAOTSに戻りたいと思いません。」

ロイ氏は首を傾げた。

 「ホワイ?」

真人はこの事を説明するのは難しかった。なので何でもいいからAOTS以外で出来る仕事を模索しているのだと説明した。

 「真人さんの考えには感服しました。是非自己実現してもらいたい。頑張ってください!」

2人は固い握手を交わした。ロイ氏は腕時計を見た。たぶんもうまもなく駅へ行った方が良い時間であろう。時計は5時半を回っていた。真人の乗るパトナ行き夜行急行は19時出発である。指定券を既に入手しているとはいえ、何が起こるか分からない国なので、早めに駅に行った方が安全と考えていた。その点ではロイ氏も同様に考えてくれているだろう。

 「真人さん、そろそろ時間ですね。」

ロイ氏の言葉に真人はうなずいた。そしてロイ氏はさらに付け加えた。

 「真人さんがカルカッタに戻るとしたらいつですか?」

真人はすぐに答えられなかった。1年オープンの航空券はカルカッタ発なのでいずれは戻るつもりだった。しかしいつとなると容易には答えられない。道中何が起こるかわからないからだ。

 「ロイさん、では旅先から手紙を出します。」

真人の言葉にロイ氏もうなずいた。

 「わかりました。その時は空港まで行きます。」

真人はロイ氏の言葉に大変な信頼を寄せていた。もう旅立つ時間だ。彼がいなければ継続できない旅となっては困る。これからどんな困難が待ち構えているか考えるだけでも恐ろしかった。しかしながらインドのカルカッタという土地で、日本の横浜で出会ったインド人にこれ程まで世話を受けるとは夢にも思っていなかった。別れはとても寂しいがこれを乗り越えなければ自分の先はないだろう、と真人は考えていた。バンコクで強盗に遭い、身包み剥がされた状態で真人を救ってくれたのは、同じAOTSの吉村氏であった。AOTS

の偉大さをつくづく感じる旅となったのだ。

 「真人さん、もうここを出ましょう。」

ロイ氏の言葉に真人は発奮した。よし!またこれから一人の旅が開始されるのだ。いざ行け、ネパールへ。

 ロイ氏、サンダール、そして真人は専用車でカルカッタ中央駅を目指した。

 

 駅に着いた。サンダールと真人はロイ氏の姿が見えない事に気づいた。先ほどまで一緒だったのだが一体どうしたことだろうか?

 「サンダールさん、ロイさんはどうされましたか?」

真人の質問にサンダールが答えた。

 「大丈夫、ちょっと買い物に行っているだけですよ。」

カルカッタ駅まで来て買い物とは一体なんだろう?真人は不思議に思った。しかしその不安はすぐに解消された。ロイ氏が戻ってきたのだ。右手には紙袋を携えていた。

 「阿部さん、遅くなってごめんなさい。これ、夕食です。汽車の中で食べてください。」

真人は恐る恐るロイ氏の持つ紙袋を受け取った。一瞬紙袋の口を開いてみると、インドの駅弁だろうか、サンドイッチが入っていたのだ。

 「ロイさん、ありがとう。」

真人は胸を詰まらせた。涙をこらえながも汽車には乗らなければならない。真人はロイ氏から受け取った弁当と、バックを肩にかけ列車に乗り込んだ。

 「皆さん、本当にありがとう。またカルカッタで会いましょう。」

真人は2人に深く礼をして、列車の中に入り込んだ。そして自分の車輌の席を探した。おそらくここが自分の席であろうと思われる場所には男女2人の白人と1人のインド人が座っていた。

 

 列車は3段式の寝台車だった。とはいっても、日本で走っているような車両よりさらに30年くらい古い感じがした。外装は黒塗りで、中はほぼ木製、3段式の寝台ベッドは単純に真ん中の二段目が壁に沿ってたたんであるのを下ろすだけの簡易式で、横にはなれるがとてもベッドという代物ではなかった。さらに真人が驚いたのは、窓が鉄柵で完全に固定されていたことだった。以前日本で調べた時に書籍に書いてあった内容と同じだ。「インドの鉄道は、たびたび山賊に襲われる危険がある。そのために列車の窓は鉄格子状のもので完全に固定されている。山賊の侵入を防ぐ為だ」但しいくら鉄格子で固定されても鉄砲の弾はほぼ貫通するだろうから、中にいる乗客は自己防御出来ないのではないか?さらにかつて戦後まもない日本の列車が火災で燃え、窓ガラスが鉄柵で固定されている為逃げられず、100名以上の死者を出した「桜木町事故」のようなことはないだろうか?真人は色々なことを考えると心配でならなかった。しかしこれからが本番のインド旅行となるのだ。

 向かい席の白人の男女のうち、男性が聞いてきた。

「どちらの国ですか?」

まるで挨拶代わりのような質問だが、真人はそのまま返した。

「日本です。あなたは?」

白人の男性は笑みを浮かべて答えた。

「イギリスです。」

真人の今回の旅においてイギリス人との出会いは初めてであった。

すると、隣に座っていたインド人らしき男性が話し出した。

「日本から1人旅?それは大変ですね。大丈夫でしたか?何か旅の上で問題など起きませんでしたか?」

インド人の英語を聞いていて、一般のインド人の英語ではない、と真人は思った。横浜研修センターで何十人ものインド人と接してきたから、そのインド人の英語は只者ではないと感じたのだ。

「あなたはどこの出身ですか?」真人は聞いた。

「私?カルカッタですよ。それがどうかしましたか?」

「いや、英語がちょっと違うもので、他の国の方かと思いました。」

そのインド人は少し誇らしげになって答えた。

「私の母国はインドですが、イギリス暮らしが長かったもので。」

なるほど、と真人は思った。おそらくインド人の中でも上流のクラスにおられる方に違いない。英語の発音がまるでインド訛りではなく、非常に綺麗なのだ。

「そうですか。非常に綺麗な英語を話されるので、少し驚きました。そうですね。私はタイにいた時に事件に巻き込まれました。」

インド人が目を丸くして聞き返した。

「事件ですか?何があったのですか?」

真人は正直に、タイのバンコクで強盗に遭った話を淡々と話した。するとその事件について、イギリス人カップルとインド人から質問攻めに遭うこととなった。非常にこうした強盗事件が珍しいのか、犯罪が多すぎて対策が取れずどうにもならないことなのか、いずれにしても彼ら3人の興味となった事は間違いなかった。その座席では欧日印の4人が英語で激しい議論を交わしていた。真人はいつからこうした議論を英語で理解できるようになったのであろうか?真人は旅行前、AOTSではそこそこ英語を話せる職員の1人ではあったが、ディスカッションが普通に出来るレベルではなかった。それが旅行1ヶ月も経たないうちにどうしたことだろうか、ほぼ日本語並みに話せるレベルまで到達していたのだ。現地人や欧米人パッカーと接する機会が多かった事もあろう。言葉というものはやはり知識を詰め込むだけの勉強では絶対成長しないのだ。話すトレーニングにより言葉はより強化される。そんなことであるなら在学中にさっさとアメリカでも行ってしまったほうが何ぼも語学上達の道となっていたに違いない。

 

 カルカッタを出て2時間が経った。4人はディスカッションに疲れたのか、各々が車窓を眺めたり、本を読みながら過ごしていた。インドの北東部に位置するパトナまでは列車で12時間である。あと10時間はこの狭い車内で過ごさなければならない。真人はロイ氏からもらった弁当を空けたくてしょうがなかった。何よりおなかがぺこぺこである。昼は食べたが、既に9時を回り夕食を食べる時間であるが目の前の3人に見られながら食事をするのはいささか気が引けた。出来るなら皆が就寝する時間頃に食べ始めよう。そう思いひたすら我慢することにした。

 10時を過ぎ、さあ寝ようという雰囲気になってきた。真人は3段のうちの中段を予約していたことになっていた。中段のベッドをそのまま手前に引くと、ベッドに早変わりとなった。無論ベッドというより1枚の板といった方が正しい解釈となり得るが。

 ベッドの中段の隙間に入ると、真人はこそこそと弁当の包みを空け、むさぼるように食べ始めていた。

 

 1987年4月18日

真人は目を覚ました。どうも熟睡したのであろうか、辺りは南国の日差し一杯という感じであった。列車はどの辺を走っているのだろうか?真人は時計を見た。6時半である。もう2時間もすれば予定通りパトナに着く事が出来るであろう。

真人は辺りを見回すと、イギリス人2人は寝ていたが、インド人は荷物ごといなくなっているのに気付いた。恐らく途中駅で降りた可能性がある。イギリス人の2人組みは熟睡真っ最中という感じがしたので、起こすこともなくそのまま眺めていることにした。

 7時頃、列車はある駅に到着した。すると列車に多くの乗客がなだれ込んできた。中にはバナナやパパイヤを積んだ売り子まで車内に入ってきている。もしや日本と同じようにインドの通勤ラッシュのような光景であったのだろうか?人が押し合い乗って来ていた為、その騒動に熟睡中のイギリス人カップルも目を覚ましたようであった。

 「どうしましたか?」

イギリス人の男性の方が声をかけた。真人は周囲を手で指し、ご覧の通りですというジェスチャーをした。これ以上何も説明をする必要があるだろうか?確かに列車の中は人で一杯だった。人口世界二位であるインドでは、こんな光景は当然普通の事であったろう。日本の小田急や中央線もすごい混雑をするのであれば、インドだってこんな事は当たり前の事に違いない。

 しかし、次の駅に列車が停車すると事態はさらに過激化した。どうやら列車に乗れない人々が外の梯子を使って屋根の上に乗って来ている様だった。列車の天井がドタドタと人の足音で響き渡っていた為だ。これは、NHKのTVで見たインドの列車番組と同じ光景に違いなかっただろう。車内にいて外を見ることは出来ないが、相当数列車の屋根に人が乗っていることは間違いなかった。車内はかなりのにぎやかさを呈し、その上蒸し暑さから独特の匂いが充満していた。

 イギリス人の男性が真人に話しかけた。

「パトナはあとどれくらいですか?」

真人は正式な到着時間こそわかっていたが、インドの列車が時刻どおり到着するはずがないと見ていたので、こう答えた。

「問題なければあと1時間くらいでしょう。」

真人はこの列車がちゃんとパトナへ到着するのか心配だった。さらに昨夜一緒だったインド人が既に列車を降りてしまっていたので、列車の到着は雰囲気で確認するしかない。日本の列車のような丁寧なアナウンスなんてないのだ。

 太陽が昇り、外はもの凄い暑さであった。時間にして8時過ぎだというのに灼熱の空気が車内に入り込んでいた。パトナに着く頃は気温40度を越えているのではなかろうか?

列車の車窓は草原地帯から民家が大分見えてくる光景へと変化してきた。そして1020分経過するごとに民家の数が確実に増えつつあった。恐らく人口90万のパトナの街まであとそうないだろうと真人は思った。

 8時半を過ぎた辺りだろうか?列車が速度を極端に落とした。もしや、と思い近くに立っていたインド人男性に真人は聞いてみた。

 「次はパトナですか?」

しかしインド人の反応はなかった。何か英語が通じないのだろうか?右手を左右に振るともうあさっての方向を見ていた。これでは駄目だ、と真人は思った。いざとなれば列車が着いた時に外を見てパトナの駅表示板があればすぐにでも降りようと考えた。列車はブレーキをゆっくりかけたが、列車の連結部分ががたがたと激しい音を立てた。そしてキーというブレーキがかかったと思いきや、かたんという音を立てて列車は止まった。すると列車の屋根から人がどたどたと歩く音が響いた。また車内からも多くの人が出口に殺到した。

 真人は窓の外を見た。駅表示板はどこにあるだろう?右手の方にないと見た真人はドア辺りに立ち、そこから人々の降りる方向へと目を向けた、程なく駅の表示板らしき白い板が見え、よく見るとそこに「PATNA」の表示があるのを確認出来た。

 「パトナだ。パトナですよ!すぐ降りましょう。」

イギリス人カップルに声をかけた。バックを肩にして列車のドアへ歩き出した。殆どの乗客が降り車内はがらんとしていた。真人と2人はプラットホームに降りると、その日の朝の焼けるような暑さを肌で感じていた。

 パトナ。インドビハール州の州都である。紀元前5世紀頃は、マガタ国の首都として繁栄した古の都である。かつてはパータリプートラという名を名乗っていたくらいの知識くらいは、真人は高校時代世界史の授業で習った経験があった。駅はまあまあ大きいが、カルカッタのような熱気はなく駅前は閑散とした感じであった。

 駅の外に出ると早速観光斡旋員のお出ましが来た。80Rsと書いた紙を持った男が真人の所に来た。そしてなんと彼は日本語を話し出したのだ。

 「80ルピー、安いですよ。いかがですか?」

なんと商売熱心な国民なのだろう?こんな中小都市まで日本人がやってくる世の中になったのだ。それにしてもこれだとこれからの旅は非常に楽になるだろうと真人は思った。

 「君達はどうするのか?」真人はイギリス人カップルに聞いてみた。

 「僕らは自分でやりますよ。大丈夫です。」

 「じゃあここでお別れですね。よい旅行を!」

真人は2人に握手をして別れることにした。

そして真人はそのインド人男性と同行することにした。

「ちょっと待って!」

真人は大事な事を思い出したのか、こう話した。

 「国境のラクソウルという町を知っているか?」

インド人はうなづくと答えた。

 「ネパールに行くのですね?ラクソウルならバスがいいですよ。ご案内します。」

 「じゃあホテルに行く前に切符売り場に案内してくれないか?」

インド人はノープロブレムというと、真人を駅の近くに案内した。そこにあったのは、なんと人力車だったのだ。これではあのタイのチェンマイの時と状況は全く一緒だった。

 「乗っていいのか?」

真人は恐る恐る聞いた。

 「ノープロブレム。早く乗って下さい。」

それにしても驚いたものだ。インドもタイも田舎に行けばこうした光景は一緒なのだろうか。インド人は軽くペダルを踏み込むといきなりスピードを上げた。とても人が漕いでいるとは思えないくらいの馬力だ。そしてどんどんスピードを上げていった。15分くらいしただろうか、人力車は街から少し離れた場所に着いた。

 「ここですよ。」

インド人はバラックを指差した。確かに建物の名前は「アショカトラベル」と書いてありいかにも旅行代理店の雰囲気をかもし出していた。中に入ると口髭を生やした男性が出てきた。少し強面の感じがした。

 「どこへ行くのですか?」

真人は答えた。

 「ラクソウルまで行きたいのですが。」

口髭の男はすぐ答えた。

 「OK.いつ行きたい?」

 「明日でも早ければいいです。」

 「じゃあ明日で予約しましょう。片道80ルピー。1枚でいいですか。」

 「OK。」

あっけなく次の行き先は決められた。バラックの中では切符の発券作業が行われた。とはいっても手書きでバウチャーを書いているだけの話であった。男性は切符を発行するとそれを真人に渡した。

 「ありがとう。」真人はそう言い、80ルピーをお札で渡した時だった。

 「チップ、チップ」とその口髭がはやし立てた。

やれやれ、しょうがないな、と真人は思い、別に5ルピーを渡した。しかし男は不満な顔をすると、真人に向けてこう言った。

 「最低10ルピーだ!」

今度は真人が怪訝な顔をした。チップをもっとよこせとは何事だ、こちらは客だろう。

 「これで不満かい?俺ならこれで満足するけれど。」

真人はそう吐き捨てると、口髭が開き直った。

 「まあいい。明日ここのバスターミナル9時集合だ。バスはTATA1台で出発。いいね。」

真人はうなずき、先に会った男性とこれからホテルの下見に行こうとバックを持ち上げた。

 

 パトナのホテルはカルカッタより安い感じがした。初めの1回の下見でバザールに近いホテルに決定した。180ルピーで決着した。部屋にはエアコンはついていないが、天井扇風機があり、シャワールームもきちんと完備しており不満がなかった。少なくともカルカッタで宿泊していたホテルよりも随分マシなホテルであると真人は感じていた。真人を案内した地元の男は気持ちよくその場を去った。彼にいくらのKB(リベート)が入るかわからないが、何はともあれこれでネパールインド国境までの準備は整ったのだ。

 真人は昨夜の寝台車内でよく眠れなかったのと、暑さによる疲れでホテルの部屋に入るや否や、そのままベッドの上に倒れこんだ。確かに疲労は蓄積していた。ホテルのベッドの上に寝るともうシャワーを浴びようという気すら失せていた。何をしようというよりどうやって体中の疲れを癒す方法があるのだろうか、答えは寝るだけであった。

 

 うとうとしてから随分時間がたっただろうか?辺りはもう真っ暗だ。何時だろうと腕時計を見ようとしたが、真っ暗で全く見えなかった。朝11時に部屋に入り今はいったい何時なのか、真人は手探りで部屋の電灯のスイッチを探した。ベッドのちょうど上にスイッチらしきものがあり、それを押すと部屋の明かりがついた。やれやれと目が十分開かないまま腕時計を見た。なんと夜中の10時を回っているではないか?この間昼も夜も食べないまま、そういえばあの寝台車でロイ氏から頂いた弁当を食べて以来何も口にしていない。真人は慌ててホテルの部屋を飛び出し、そして階段を走り降りた。

 ホテルの外に出るとまだ人気は十分にあった。これがインドなのだろう、そしてバザールはどちらの方向に行けばあるのだろうか?真人は街の明かりが一番輝いている方向に向かって歩き出した。賑やかな所へ行けば食事くらい取ることは出来るだろうと思った。バザールの入り口に差し掛かると、もうインド特有のパイプ音楽が流れ、そして沢山の人たちが歩いていた。夜も十時過ぎだというのにこの賑やかさは何であろうか?そして真人は一軒の食事所を探し当てた。

 メニューは単純にカレーだけしかなく、真人はマトンとプレーンライス、そしてラッシーを頼んだ。もうインドに入って数日経つ。メニューを見なくても何を頼んだらいいか位のことは既に分かっていた。そして食事がテーブルの上に置かれるとただむさぼり食うだけであった。

 あっけなく食事を終え、真人はバザール周辺を歩いた。とりわけ欲しいものがある訳ではなく、街の雰囲気と情報が分かればと思いぶらついたか、外国人らしき人間を見つけることは出来なかった。そして12時を回る所で真人はホテルへ戻る事にした。

 パトナでは何も歴史的建造物や文化遺産を見ることなくその滞在を終えた。目標は陸路でのネパール国境越えなのだ。

 

1987年4月19

朝7時、ホテルのチェックアウトの時間が来た。

真人は荷物をまとめ、フロントに降りて「チェックアウト。」を告げた。すると係りが部屋に戻るように真人に伝えた。どうやら部屋の中をチェックするらしい。

タイではそんな事はなかったが、インドのルールなのであろうか?特に汚したとか部屋の破損など有り得るわけはなかったが。

 部屋に戻り20分すると、フロントの人間がやってきた。部屋の内見をするというのでその係りの行うように任せ真人はその間ウォークマンで音楽を聴いていた。

するとその係りは真人のウォークマンに興味を示したのか、音楽を聴いている真人の肩を叩いた。

 真人はウォークマンを耳から外すと、その係りの興味の視線を辿るとそれは真人のウォークマンであった。

 「これ、いくらするんだい?」

この質問に真人はちょっと返答に困った。そして言った。

 「これは売れませんよ。」

男性は、右手の指を二本揺らしながら言った。

 「そうじゃない。もし現金だといくらするのか聞いてみただけだ。」

真人は男性にウォークマンを渡し、これは1000ルピー以上すると伝えた。

 「そうか。やはりするね。」

男性はウォークマンを試してみて、その音質のよさに感慨深い表情をしていた。

 「実は私には1人息子がいてな、プレゼントしたいと思っていたのだがそう簡単にはいかないね。インドは物がない国だから本当にこんな素晴らしい機器が手に入る日本は、素晴らしい国だよ。」

 男性は、立ち上がり部屋の件はOKと伝えた。真人は荷物をまとめ部屋を出た。追加チャージはなく難なくホテルを出る事が出来た。そしてリクシャー(人力車)を捕まえ、前日のバスセンターの名刺を渡し、その場所に行くようワーラー(運転手)に伝えた。

 

約束の時間に着いた。真人はその場所であるパトナバスターミナルを出発し目的地であるラクソウルへ同日に入る。ラクソウルとはインド・ネパール国境にあるインド側の街であり、そこから歩いてイミグレーションと税関を超えればビールガンジというネパール最南端の街に到着する。しかしパトナからラクソウルまでは約500kmの間険しい砂漠地帯を行かなければならない、まさに体力勝負であり、気合の入る国境越えとなるのであった。

 朝9時には早くも数人のバックパッカーがバス乗り場に集合していた。白人が2人そして黒人男性が1名、あとは真人という面々であったが、残りはインド人もしくはネパール人乗客という感じであろうか、20人くらいがバスの乗車を待っていた。

 早くも黒人男性が真人に気付いたのか、話しかけてきたのだ。

 「どこまで行くのですか?」

こうしたバックパッカー同士の挨拶はもう日常茶飯事となっていたのだろうか、何故自分が乗るバスから行き先を分析出来ないのだろうか、真人はやる気なさそうに答えた。

 「ネパールですよ。あなたは?」

黒人は英語で話しかけられて嬉しそうだったのか、笑みを浮かべながら答えた。

 「僕もネパール、ポカラへ行きます。いや、久々に会話できて嬉しいな。僕はトム、アメリカ海兵隊員で来月まで休暇をもらってインドへ来ているんだ。一緒に同行できて嬉しいね。」

 トムというアメリカ人はかなり体格が良く、ちょっとしたプロレスラーのような体系をしていたが、栄光ある米軍海兵隊の一員とあっては、この暑さも体力的にはなんら問題ないだろうと真人は思った。

 朝の日差しは強烈だった。帽子をかぶっていたが容赦なく直射日光が頭に注ぐ感じで、まるで頭の上にオーブンがあるような感じだった。おそらく雨傘が一本あったらかなり直射日光を防げる事が出来るだろうが、真人には雨合羽はあっても傘は持っていなかった。地球の歩き方にでもこの事を投稿してあげようか、と真人は考えたものだった。

 「乗車時間だ。」

口ひげをはやした男が手を上げてバスの位置を指した。いよいよバスに乗車となった。

バスはTATAというインド製でかなり使い古した感じではあった。バンコクのバスも古ければこちらも相当な古さだった。勿論エアコンなんてついていない。真人は乗り込むと自分の座った座席のところのみ窓を全開にした。砂漠地帯を走行するのであれば窓は締め切らなければならない。また砂が入ってこないようバンダナで口を覆い、サングラスをかけた。水は2リットル用意したがすぐに飲みきってしまうのは目に見えていた。問題は道中水を手にすることが出来るかどうかにかかっていた。タイの旅行のように簡単にはいかないだろう。

 バスの座席にはトムと名乗るアメリカ人が真人の前に座った。彼もウォークマンを聞いていたが、真人のような薄型のカセットサイズではなく、まるで分厚い辞書のような厚さの機器を持っていた。日本のウォークマンのいくら歴史は古いとは言えても、辞書サイズの形なんて見た事もなかった。

 トムは陽気だった。バスがエンジンをかけると「イェーイ!」とはしゃぎだすし、前の席からやたら真人に話しかけてきた。真人も応えていたが、これから灼熱のつらい旅になるというのにこんなに嬉しそうな表情をするトムの神経がわからなかった。恐らく軍隊生活より異国のバス旅行は何倍も楽しいのであろうか、重い銃を撃ったり、毎日駆け足して気候関係なく辛い訓練生活に比べればこちらの方が天国に違いないだろう。

 9時半にバスは動き出した。年代物のTATAバスはまるで漁船に乗ったかのような激しいエンジン音とともにバスターミナルを離れた。そして比較的広い道に入ると徐々に速度を上げていった。

 しかしそれにしてもなんという悪路だろうか、バスが走る度に車体と体がジャンプする。天井に頭をぶつける事だってあるのかもしれないといわんばかりのひどい走行であった。真人はバス酔いになるというより、頭や体をどこかにぶつけないかどうか心配だった。その時「どーん」という激しい音とともに車体が跳ね返った。ちょうどウォークマンのカセットを取り替えようとしていたその時だったので、2本のカセットテープが飛んで後ろの座席に飛び込んだ。真人はすぐさま後ろに行き、ちょうど誰も座っていなかったので2本のテープを回収した。本当にやれやれという感じだった。

 一方でトムは絶好調だった。「We are the world!」と歌い始めたので何の曲かすぐ分かったが、なんてのんきな奴だろう、と少々軽蔑の視線をトムに送っていた。

 「この運転の状態であんたはハッピーだね!」

でもそれはトムに聞こえるはずがない。真人は席に座ると、別の音楽を聴くことにした。

 バスはガンガー(ガンジス川)を渡る。車がやっと対面通行が出来る橋の上をTATAバスは走った。なんて馬鹿でかい川なんだろう、と真人は思った。走っても、走っても川は対岸が見えない状態だった。結局渡るまで20分くらいはかかっただろうか。これから先は未知のインドの地域に入っていく。

 

 パトナを出て2時間が経過した。外は相当な暑さで、もう真人は汗蒸発を防ぐ為長袖のトレーナーに着替えていた。おそらくバスの中は50度近い暑さになっていたに違いない。水分はこまめにとっていたが、水筒の中の水が枯渇する事が恐ろしかった。飲みたくてもぐいっと飲む事は避け、極力口と喉の渇きを潤す程度の水分補給にとどまらせた。それにしてもバスに乗っているインド人乗客の逞しさには驚いた。何一つ不満を言う事はなく、じっとバスに座って乗っていたのだ。我慢強いというか、とにかく歩かずにバスで移動している事が感謝なのだろう。自分もただこの状況を黙ってやり過ごすしか方法はない。耐えるだけなのだと真人は思った。しかし、まだ12時前でありこれから地獄の暑さが襲ってくると思うと、夕方6時到着くらいまで体が持つのかどうか、体力の持続については正直半信半疑の思いであった。

 さらに2時間経過してバスはドライブインというような場所に到着した、運転手が「20分」というので、20分間の休憩だという事がわかった。それにしても暑さでトイレに行く気はないし、水や食事が補給できるような場所ではなかった。コーラ売りらしき子供を見かけたが、すぐにバスから離れていってしまった。トムが絶叫した。

 「おお、コーラを買いたかったのに買えなかった。」

彼は半泣き状態で叫んだ。よほどコーラがのみたかったのだろう。しかしこの暑さでコーラなんて飲んでしまったら後の乾きにさらに苦しめられる事になるに違いない。真人はひたすらじっとするより他はなかった。トムはコーラが買えなかった失望の為下を向いていた。

 バスはすぐに動き出した。12時に何も食べられないのであれば、これから食事はどうすればよいのだろうか、と思ったが、それ以上に心配したのは水の補給であった。食欲は全くといってよいほどなかったが、水に関しては飲まないわけにいかない。いずれ脱水症状から熱痙攣や熱虚脱が襲ってくる危険性は周囲の環境からも十分にあった。そしてその症状を防ぐ方法は、体に衣服を巻きつけ体からの水分蒸発をなくすことしかなかった。

 

 休憩所からバスに乗って1時間経過した。バスの中は既にサウナの中と化しており、真人はもうなすすべもなかった。頭に帽子、目にサングラス、口の周りにバンダナ、長袖のトレーナーを着てただじっとしていた。どんなに考えてもどんなに工夫しようともこの暑さから脱する方法は他にはなかった。下手に動いたりすればそれだけ体力は消耗していく。ただその場所その時間をやり過ごすしか方法はなかった。トレーナーシャツの中はもう汗も出ず完全に乾いていた。ただ皮膚の上は異常な体温となっており、熱中症で倒れることだけを真人は心の底から心配をしていた。

 12時の休憩から走り出して2時間を要したが、休憩を取る気配すらなかった。運転手はこの悪条件の中よく体力が持つものだ。本当に逃げ出したいくらいの暑さ、苦痛である。人生の中でこんな苦しみをどれほど味わうことがあるというものなのか?

 次第に真人は意識が朦朧としてきた。暑さで頭がやられたのだろうか、考える力すら徐々に低下していくのを感じた。水筒には一口分の水が残されているだけになった。これをのんでしまうともう他に手に入らないのであればおしまいと考えたのか、一口だけ水を残しておいた。ただ次の休憩ポイントで水が手に入る事を心から望みながら。

周囲は砂漠地帯に入ったようだった。真人は窓ガラスを締め砂の進入を防ぐ事にした。外は風が吹いてもう視界がゼロのような状態になっていた。運転席でも砂嵐からバスはワイパーを動かしていた。真人は遊牧民族のようにただ下を向いて砂嵐がおさまるのを待った。外はどうなっているかさっぱり分からないし、聞いてももうどうにもならないだろう。真人は雪や台風の嵐こそ経験はあるが、砂嵐は全く人生では初めての経験だった。窓を閉めていても砂は容赦なく車内に入ってきて、もう口の中は砂が進入し相当ざらざらしていた。

 砂嵐がおさまったと思った辺りで、バスが突然止まった。やれやれ、ようやく休憩ポイントか、と思ったが乗客は誰一人降りようとしなかった。一体何があったのか?運転手やその補助が車から降りて、何をするかと思ったら突然大きな金属を何かで叩く音がバス内部に響いたのだ。

「何が起こったのか。」真人は慌ててバスの前部に行くと、そこには信じられない光景があった。運転手がハンマーでエンジン部分を叩き出したのだ。そしてそれは1回だけではなかった。2度も3度も引き続き運転手はハンマーでフロント部分をぶったたいていた。そしてボンネットとしてエンジンをカバーする板が大きな音を立ててバスから剥げ落ちたのだ。

「なんて乱暴なことをするのだろう?」

真人は止める事もなく彼らが続ける作業を見守るしかなかった。そして他の乗客も運転手とその助手が行う作業をただ見守っていた。そこへ、トムがやってきた。

「何が起こったのか?」

真人は、先ほどまで非常に陽気だったトムが、少し元気がなさそうに思えた。

 「エンジンが故障したみたい。動くかどうかわからないよ。」

真人の言葉にトムは血相を変えてバスから降りて作業しているバスの前部へ動いた。彼には何かのアイデアがあるのだろうか?しかしトムも同様だった。結局2人作業するままに任せるしか方法がなかったのだ。ただトムは作業をじっとつぶさに見守っていた。アメリカ軍海兵隊ならではの何か秘策が思いつこうとしているのだろうか?

真人は周囲を見渡した。風は止んだがそこはまさに砂漠のど真ん中という場所だった。草木は多少あるがあとは砂と岩、そして剥き出しの土が若干あるだけの砂漠地帯だった。道を走る車もそう数は多くない感じだった。真人が困り果てたのは、水がないこと、そして故障した現場の周囲には民家などない。このままバスが動かなかったならここでヒッチハイクをして脱するのだろうか?それとも・・・バスの後ろを振り返ると動物の遺骨が2対砂に隠れそうな状態で剥き出しになっているのを発見した。まさか、バスが動かなければここで我々もこのような目に遭う事があるのだろうか?時計の時間は14時をまわっておりまだまだ灼熱の勢いは一向に衰える兆しは見えなかった。

 バスの乗務員はひたすらエンジンを確認している。彼らはメカのプロなのか、そうではないかすらわからなかったが、その時は彼らの腕を信じるしか他に方法はないだろう。とにかくこの周辺の黄色い土地から脱して民家のある地域へ行きたい。それだけをひたすら祈っていた。もう水筒に水は殆ど残されていない状態だった。

 その時だった。バスの前部から人が泣き崩れる声が聞こえた。真人は驚き、バスの前部分に行くと、そこで泣き崩れていたのは、なんとトムであったのだ。

 「神様お願いです。私達を救ってください。お願いです。」

なんと彼は紙にお祈りしながら、大粒の涙を流していたのだった。もはや助からないと思ったのだろうか、でもまだまだ希望はあるはずだ。泣く元気があるくらいなら助かる方法を模索すべきではないだろうか。

 そう思っていた真人に異変が生じ始めていた。体が熱っぽくなり頭痛とだるさが体全体を支配した。そして歩くにも足がふらついて歩けなくなっていた。真人は外に出ていることに危険を感じ、バスに戻ろうとした。ところが両足が震え上手くバスに乗り込むことが出来ない。「誰か後ろを押してくれ。」そう思いながらも這いながら何とかバスに乗り込んだ。ドアから自分の座席に戻るまでどれくらいの時間を要しただろうか?このままでは死んでしまうかもしれない。真人は朦朧とする意識の中で、もしやと思い日本から持参してきたものをバックから何とか取り出した。そしてそのものを少しずつ口の中に入れた。梅干であった。震える両手で持参してきたうち2つを何とか食べ、バスの中にあった毛布に体を包ませそのまま静止の状態にした。もうこのまま車が動き出すことを祈り続けるしかない。そして意識を持ちながらもひたすら時間が経過するのを待ち続けた。

 1時間が経過しただろうか。運転手がエンジンを入れてみた。しかしセルがからんからんと空しい音を立てるだけでエンジンが動き出す事はなかった。それからまた暫く時間が経過していた。

 真人は相当具合が悪化していた。無理やり吐き出そうにも胃の中は空っぽである。先ほど食べた梅干の皮だけが吐き出るだけだった。もうこのままでは生きて生還しても病院生きだろう。でももしかすると死んでしまうかもしれない。何とかするにも他に方法はない。真人は水筒を取り出した。先ほど一口分の水を確保していたがそれを飲もうと覚悟した。もう水は手に入らないかもしれないが、ここで手遅れになるよりは今手を打っておくべきではなかろうか。真人は水筒に口をつけ、そのまま水筒を立てた。口半分くらいの水が入った。それを思い切り飲み干した。喉が一時的に生き返る感じがした。これ程水が体に力を与える経験は今までしたことがあっただろうか?試合中の水飲みを禁止していた草野球でもこんなに活力となった事は経験上なかった。ともかく最後の水が真人を救った感じがあった。後はバスが直り動き出すことを祈るだけだった。

 真人は何を思っただろうか?いくら貧乏旅行でも生死の狭間を行き来するような体験をどうして想像しただろうか?バンコクの強盗もそうだし、今現在エンコしたバスに取り残されている自分の姿もそうだった。何故自分だけこうしたひどい目に遭わなければならないのだ?今頃日本、横浜のAOTS内の食堂では、別れた自分の女を含め美味しい料理を食べながら職員達がわが世の春を満喫しているに違いない。そして過去自分が経験したように職員同士で恋愛の花が咲き、近くの磯子の公園や横浜の港をデートしている光景まで想像できた。他人の幸福を考えると自分の置かれた境遇に対して怒りを覚えるし、何より癪でならなかった。若しこの旅行で自分が死に絶えてしまったら、どう彼らは自分の事を思うだろうか?情けないやつという人間もいるだろうし、たまたま運が悪かったという人間もいよう。とにかくこの局面を脱して自分はこの先の旅行を続けなければならない。そうだ、生きて日本に帰ることが重要なのだ。こんな馬鹿な場所で死んでたまるか。

 その時だった。先ほどセルが空回りしていたエンジンが、なんとかかったのだ。エンジンがようやく動き出したのだ。何とかこの場から移動出来る。そしてトム達も誇らしげな表情でバス内に入ってきた。

 「直ったぞ!ヤッホー!」

トムが奇声を上げた。ついにバスが動き出したのだ。命が救われたのだ。

 真人は時計を見た。午後450分を経過していた。

 バスが街に入ったのは7時半を過ぎていた。なんと休憩なしてそのままインドの国境の街、ラクソウルへ入ってしまった。

 真人は先ほどの炎天下から解放され、少し気分は持ち直していた。しかし長袖トレーナーと毛布は着込んだままバスに乗っていた。吐き気はないものの、バスを降りた後自分自身の足で歩けるのだろうか?食べ物は口にしていないし、相変わらず脱水症状のままだった。ただあの炎天下の中で食べた2つの梅干が、真人を体力的に回復に近づけてくれたことは確かだった。何とか今日はこれで乗り切れるだろう。そしてバスを降りればインドの出国、ネパールの入国を経て宿に着くことが出来る。何とか飯にありつけそうではないだろうか?

 ラクソウルはインド北部の小さな街で、ネパールとの国境にある。標準的なバックパッカーが陸路からネパールのカトマンドウやポカラへ入るにはここが一番便利な基地でもある。ラクソウルのバス停からインドのイミグレーションまでは歩いていける。しかし、その先のビールガンジの街までは何か交通機関を使わないと行けない距離なのだ

 真人は疲弊した体でまず入出国、バスの手配、そして安宿の手配をその日のうちにしなければならなかった。これには到着後の現地観光員(自転車リクシャー)に任せるしか方法はないだろう。

 バスは街の真ん中に着いた。ようやくバスから降りることができる、と思いバスのステップを下りた瞬間、もう現地観光員のお出ましだった。プラカードに「ビールガンジ」とアルファベットで書かれていたが、もう彼らに頼るしか方法はなかった。

 「どこへ行く?」1人のインド人が聞いた。

 「ビールガンジ。」真人は答えた。

 「いや、ネパールのどこへ行くのか?」

真人は首を傾げた。ネパールの何処へ行く事が何で今必要なのか?といっていてももめると飯にありつく時間が遅くなる。ここは素直に従おう。

 「カトマンドウだ。」

 するとそのインド人の男性は、右手人差し指を曲げて真人を案内した。真人は疲れた体に鞭を打ってバックを抱え歩き出した。すぐに見つかったのはインドのイミグレーションだ。まるで掘っ立て小屋か山小屋のような建物に警察が立って警備をしていた。

 イミグレーションは早かった。何も申告するものもなければ、わずか1週間くらいの滞在だ。係りはスタンプをぽんと押して、後ろを指差し真っ直ぐ歩くよう告げた。そしてイミグレーションを抜けると今度は正面にネパールの入出国管理事務所があった。ここも木で出来た粗末な建物だった。真人はそこを抜けると、今度は英語で聞かれた。

 「ツーリストか?」

 「イエス。」

 「じゃあビザ代30USドルだ。」

えっ?30ドルもかかるの?真人は驚いたがここを通らなければ先はない。真人はしぶしぶ30ドルを払った。あと何ドル残っているのだろう?そちらの方が心配になってきた。イミグレーションの係員は淡々とパスポートを確認して、ビザ台の領収書を真人のパスポートに貼っていた。すぐに係員は真人に聞いた。

 「バックを見せてみろ。」

真人はたった1つの財産であるバックを係員に渡した。変に難癖をつけて高価なものを没収しようとでもするのであろうか?係員が真人のバックから全てのものを引き出し、そして目に付けたものを真人の前に見せ付けた。ウォークマンだった。

 「これは君の持ち物か?」

 「はい。」

 「(ネパール)国内では売らないな?」

 「はい。自分しか使いません。」

 「では、この物をネパール出国時に必ず持っていること。仮に国内で売った場合は出国時500ドルの課税がされるので気をつけるように。」

 真人はあっけに取られて聞いていた。その物品がソニーのウォークマンだったのでなおさら驚いた。しかも入管の係員はご丁寧にも真人のパスポートに書置きまでしていたのだ。

 -この者はソニーのウォークマンを持っているので出国時に確認するように-

でもそれ以外は何も注意問題なく、無事ネパールに入国することが出来た。真人にとってこれがこの旅3カ国目であり、しかも人生初である「陸路での入国」を果たすことが出来たのだ。感慨深さはあったが、まだ飯にありつける状態ではなかった。

 先ほどの自転車リクシャーの運転手が来ていた。恐らくこの後ホテルにでも案内をするのであろう。それにしても彼の費用がいくらなのか心配になってきた。

 「ねえ、この先バスチケットとホテルは大丈夫なの?」

 「ノープロブレム。」

ノープロブレムしか言わないようなので、さらに聞いてみた。

 「このタクシーの金額はいくら?」

すると運転手が答えた。

 「20ルピー」

まあまあか、と思い、彼に従う事にした。今度はカトマンドウ行きのバスチケットを買わなければならない。運転手は真人をチケット販売所に案内した。ここは非常に小さい建物で、前のパトナの切符売り場と変わらなかった。ネパール行きの切符はちゃんとあるのであろうか?真人は係りにチケットについて聞いた。

 「明日。カトマンドウ行き1枚だがある?」

係りはそっけなく答えた

 「1人150ルピー。明日の8時出発ね。」

真人は言われるがままに払った。バスはデラックスコーチという風にチケットには書かれてあった。とにかくネパールまでの足は何とか確保出来た。

 リクシャーの運転手はそこからホテルのある場所へと真人を連れて走り出した。実際走りだして15分が経過したが、未だ自転車がそのホテルの場所へ着く気配は何もなかった。

 「まだかかるのか?」

真人は聞くと、運転手は、

 「ノープロブレム」

と答えるだけだった。一体いつになれば着くのだろうか?

走り出して20分後、運転手は自転車を漕ぐのを突然止めた。そして真人の方を向いてこう言ったのだ。

 「もう8時を過ぎている。なので、あと30ルピーが必要だ。」

 真人は一瞬顔が引きつった。こんな時間にこんな場所で料金値上げとはなんなのか?

 「おい、それより何時にホテルに着くのか?今お金のことを言うより宿に着くことが必要だろ?お前、俺をなめているのか?」

 運転手は平然として答えた。

 「20プラス3050.今払わないと宿には行けない。」

 真人は怒った。自分自身もふらふらの状態でここまで来ているのだ。その上今こんな場所でお金の交渉をされても困る。ここはなめられてはいけない。インドの先のパキスタン、イランなどに入ったらもっと面倒な交渉事が待っているに違いない。ここは引くのはよそうと思った。

 「50は払わない。お前、さっき20って言っただろう?覚えているか?自分で20って言ったのだぞ。わかるか?何で俺はお前に50を払わなければならないのだ?8時になれば自動的に2.5倍に上がるのか?」

 運転手は黙っていた。そのうち彼の方がなにやら悲しい表情に変わって行くのを感じた。涙を流しているようにも見えた。真人はここをどう収拾するかを考えた。とにかく宿に入らないことには飯が食えない。もう8時半をまわっていた。翌朝は8時だから宿に着いて飯を食べたら後は寝るだけなのだ。何とか時間を短縮しなければならない。

 「じゃあ30でどうだ?30なら払う。その代わり宿まで必ず着けてくれ。いいな。」

 運転手はあっさりと「OK」といい自転車のペダルを漕ぎ出した。何とか説得に応じてくれたのが非常に嬉しかった。途中運転手が家族の元にお金を届けるというので、突然迂回を始めた。真人はしょうがないな、と思いつつも運転手の家へ同行することにした。

しかし、家についてからが長かった。なかなか道に出てこなかったのだ。時間は9時を過ぎている。もう真人は完全に切れていた。運転手が戻って来るなり、怒鳴った。

 「早くしろ!!真っ直ぐホテルまで行け!早くだ!」

運転手は家族に売上を渡す事が出来たせいか、非常に早いピッチで走り出した。最初からこの馬力で走ってくれれば9時なんて時間にはならなかったに違いない。

 ゲストハウスの明かりが見えた。そこに泊まり真人は荷物を取り出した。もうどんな部屋だろうとお構いなしだった。ホテルのフロントに行き部屋代を聞くと「50ルピー」といわれた。何も言わず50を払うとフロントは鍵を真人に渡した。

 「そうだ、食事は何処で食べられるのか?」

 真人がフロントに行くと、正面に店があるのでそこで食べればよいと答えた。部屋に入る前に飯を食べたい、それだけを思い真人は正面のレストランに入った。

 

 レストランには通常のネパール料理とインド料理、そして中華まであった。真人はメニューを見ると目に付いた「焼き飯」を頼んだ。何でもいいから飯が食べらればそれでいい、問題は今極限まで来ている空腹を1分でも早く満たすこと、それだけだった。真人の目の前には現地のネパール人であろうか、比較的若い男女4人が座っていた。彼らは真人の方を凝視しながら何かを話し出していたが、真人は一切興味がなかった。飯がとにかく出来るだけ早くテーブルの上に置かれるのを待った。

注文して10分もかからないうちに焼き飯が登場した。真人は、目の前におかれた何の変哲もない焼き飯を見ると完全に表情が変化していた。そして、熱いのかまわずそのまま右手で飯をすくい上げるとそれを無理やり口に運んだ。何十時間ぶりの食事だろうか、とにかく11秒でも早く胃の中に到達させる為、さらに右手で飯を掬うとそれを口の中にねじ込んだ。さらにもう一回、もう一回と食べていくうち、自分自身がとても先進国からやって来た若者とは思えないような、未開人に近い食べ方をしている姿に気がついた。真人の目の前に座っている男女はあっけに取られたように、真人の姿を見続けていた。まるで遭難し離れ小島に漂流していた人間が数年ぶりに発見され、飯を与えられた姿に近いものがあっただろう。それだけ厳しい、そして辛い旅を続けて来てようやくネパールという安住の地に入ることが出来た安堵感なのであろうか?

飯を食べると、そのままお金を払い向かいのホテルに向かった。

ホテルの部屋に入ると、なんとベッドの上を蚊帳が一面張りつくされていたのに気付いた。蚊が多いのであろうか、本で読んだが「蚊に刺されると現地の疫病に感染する」ということからこのような配慮をしていたのだろうか。とにかく真人はシャワーを浴びると極度の疲労からかそのままベッドに潜りこむと簡単に寝付いてしまった。部屋の温度は10度以下だったろうか、数週間ぶりに熱帯夜から開放されていた。

 

1987年4月20日

 なんと寒い朝を迎えたことか。朝真人は起床すると、吐く息が白いのに気がついた。ここは一体どこなのであろうか?ネパールに入ったとは知りながら、昨日摂氏50℃のインド大陸を横断してきた気候とはまるで180度違っていた。とにかくここは寒い。カトマンドウに行ったらもっと寒いのだろうか?

 8時にバスターミナルまで歩いた。通常ここでネパール旅行者はカトマンドウ、ポカラと行き先が分かれるのだ。そういえばあのアメリカ人軍人のトム君は一体どうしていることだろうか?確か彼はポカラを目指しているはずだった。真人はカトマンドウ行きになるからおそらく別の場所にてバスに乗っているに違いないと思った。

 バスターミナルに着くと随分多くのバックパッカーでごったがえしていた。中には携帯コンロでスープを作り、朝食を作っている者までいた。40名くらいはいるだろうか?ただ恐らく同じバスに全員が乗るとは考えにくかった。彼らは皆どこを目指しているのだろうか?

 真人は1人の白人の男に聞いてみた。

 「あなたはどこへこれから行くのですか?」

 するとその白人は堂々と自信を持って答えた。

 「チベットだよ。」

 するとその白人の友人までこう答えたのだ。

 「俺もチベットだよ。君はどこへ行くの?」

 真人は意外な言葉が返ってきたので少々戸惑ったが、はっきりこう答えたのだ。

 「カトマンドウ。実は友人がいるんだ。だから・・」

 その白人の男は言いかけた真人に確認した。

 「そうか。わかったよ、でもカトマンドウからチベットは行かないのかい?通常ここまできている旅行者は殆どチベットを目指すよ。」

 真人は意味がよく分からなかった。ここの街はネパールの入り口であって、チベットはまだ先の話ではないか?カトマンドウを目指しても殆どのバックパッカーにとってここは単なる通過点でしかないのか?第一自分にはバンコク~インドの往復切符がある。ネパールから中国側に降りてしまっては、またバンコクのプラパンさんやロイ氏に会うことは出来ない。ただ、チベットへ抜けるというのは物凄い冒険に違いあるまい。もし彼らから情報がたくさん入れば、チベット行きを検討してもよかろう。問題はお金の事だけなのだ。

 やがてカトマンドウ行きのバスにエンジンがかかり、これに乗る客はすぐに乗るよう言われた。バスはあのパトナ~ラクソウル間で大活躍したインドのTATA製のバスである。よりによってまたしてもTATAか。真人は大変悔しがった。

 バスに乗ると手書きで書かれたチケットの番号に従って座った。しかしなんということだろう。バスの座席はクッションではなく、板張りに近い椅子になっていたのだ。これでカトマンドウまで10時間はたまらないことになるだろう。真人はバックから布という布を取り出し尻の下に敷いた。今まで暑さ対策で着ていたトレーナーは、今度は寒さ対策の為に着なければならない。昨日まで砂漠を走っていた真人は一転、昼でも20度を越えない場所をその翌日走らなくてはいけない。これでは体がおかしくなってしまわないか、と若干心配になった。

 バスが動き出した。あのなんともいえない、漁船のようなエンジン音を立ててゆっくり車体が前に動き出したのだ。ゆっくりとバスはビールガンジの街を離れだした。これからが山道となり、険しいV字谷をゆっくり走行することになる。バスはすぐに民家の全くない山中に入った。道路は勿論舗装などされておらず、また昨日降ったのだろうか雨でぬかるんでいる道を走っていた。時速にすると20km出ているだろうか。これでは何時にカトマンドウに着くか予測も出来なかった。しかしバスの中の乗客は何一つ不満気な顔をすることなく、バスの中でゆったりと過ごしていた。

 1時間過ぎたところだろうか?バスがいきなり止まった。すると、バスの中に2人の売り子が乗り込んできた。大きなかごを頭に乗せ、その中にはバナナやゆで卵が並んでいた。真人はゆで卵を2つ買った。朝から何も食べていなかったことと、ゆで卵なら安全だろうと思ったのだろうか、1つ1ルピーで買った。

 売り子が急いでバスから出ると、今度はなにやらベレー帽をかぶった軍人または警察なのか、乗り込んできた。その者は人数を数えるとそのままバスから出て行った。ここはなんかのチェックポイントである事は気づいていたが、何の為にバスの中を点検しているのか分からなかった。まさかゲリラか反政府軍の武器や物資を運んでいないだろうか検査をしていたのかもしれない。

 バスは15分後その場所を離れた。周囲は本当に貧しい山間の街に見えた。そしてバスはどんどん山奥に入りつつあった。しかしあい変わらず道は舗装されておらず土状態だった。道は舗装どころかガードレールもなく、一歩間違えれば断崖絶壁の中を慎重にバスが進んでいる形になる。もし運転手がハンドル操作を誤ったらバスごと谷へ転落だ。山中を進むごとに道路状態はどんどんひどくなっていった。ぬかるんだ道にバスのタイヤが食い込むように回転はするが、半回転分が空回りしているのだろうか、エンジン音だけは大きな音を出して唸っているのに全然進まない。人が歩くより遅いのではないだろうかと真人が感じたほどだった。道が露天掘りした山道という感じであったが、果たして到着時間にカトマンドウに着くのだろうか、少々心配であった。さらにバスは急な坂になると、殆ど先に進まない。いっそのこと後ろから誰かに押してもらった方が上に上がるのではないかと思うほどだ。昨日のインドのバスが悪路走行中に車内でジャンプしながら乗っていたのと比べると、それはシマウマからゾウの背中に乗り換えたような違いがあった。

 それにしても車内のバックパッカーたちは静かだった。本を読むもの、ウォークマンを聴くものそれぞれといたが、時間の焦りなど全くなく安全に目的地に到着さえすればよいという開き直りだろうか、ほぼ全員いたっておとなしくしていた。これが日本人だとやれ、どこへ降りて何を食べようか、何を観光しようかとさわぎたてるのが通常だが、欧米人は目的地に着けばそれでよし、という感じなのだろうか。それにしてもこのバスの欧米人の殆どがチベットに行くのだろうか?チベットだと標高5000m以上の土地をバスで丸10日走り続けることになる。しかもバスは中古のものだし、高山病や風土病の危険がある。チベットに入ってから中国側に抜けるルートも面倒だし、ビザについてもよく知らない。本ではそのように書かれていた為、チベットはたぶん自分は行かないだろうと心に決めていた。自分の目的は現地で横浜時代に世話になった研修生たちに会うこと、こう割り切るしかないだろう。それに予算次第ではカルカッタからスリランカへ行く事も計画上あるのだ。チベットに行ってしまったらインドやバンコク線のリターン切符が全て無駄になってしまうのだ。

 11時を過ぎた。ようやくバスは山の中の小さな1件屋の前に着いた。レンガで積み上げられた壁に萱葺きの屋根といういかにもネパールの建物という感じだろう。どうもここはドライブインで昼食を取る事になると真人は思った。

 バスを降り中に入った。中は薄暗いひんやりとした感じだった。真人が家に入ると1人の老婆が出てきた。愛想よくにこりとすると、メニューと思われるものを真人に渡した。しかし、殆ど現地語で書かれているのだろうか、全く何か分からない。そこで、真人は老婆に「カリーはありますか?」と確認した。

 老婆はにこりとして頷いた。そこで真人は何とか昼食を注文できた。それにしてもなんとハエの多い事だろうか。周辺ひっきりなしに飛んでいるだけではなく、数匹が絶え間なく真人の顔にぶつかってきた。まるでハエの中で生活しているような場所である。近くに座っていた子供の頭、顔には何十匹ものハエが止まっている。この場所の衛生管理は大丈夫だろうかと心配したが、とりあえずお腹が空いていたので食事の給仕を待つ事にした。それにしても1つ大きな疑問があった。店の中に先ほどまで一緒だった欧米のバックパッカーが1人もいないのだ。彼らは何をしているのだろうか?

 1人の子供が食事を持ってきた。確かにカレーである。ただどうも金属製の入れ物の中のカレーが濁っている感じがした。真人は構わず右手でそれを口に入れた。味は悪くなかった。インドのようなカレーと違い辛くなく、どちらかといえば日本のカレーに似ているような感じがした。真人はおなかが空いていたのでひたすら食べまくった。

 カレーの中に黒いしなびた粒が入っていた。たぶん干し葡萄だと思って食べていたが、こんな山の中で干し葡萄なんて手に入るのだろうか、そのまま食べ尽くしていた。その時である。目の前を飛んでいたハエが1匹そのまま入れ物の中に入ってしまった。なんと汚い事か、そう思い真人はカレーに入ったハエを手で取り除こうとした時だった。そのハエの死骸の下から黒い粒が沈んでいるのに気づいた。そしてその粒がいずれもハエの死骸である事に気づくまでそう時間がかからなかった。

 真人は吐き気をもよおした。しかしここで吐く事は出来ないだろう。折角の食事を吐いてしまうなんて出来るものか。だが確かに食べたのはハエだったのだ。それも1匹だけではなく何匹も食べてしまった。これで病気にかかったらこの先どうすればよいだろうか。真人は気持ち悪さを何とか押さえ、店に5ルピーを払うとバスに戻った。バックパッカー

達が店に入らなかった意味がようやく理解できたが既に遅すぎた。

 バスは20分後その場所を離れた。なんとなく気分が優れないまま真人はバスの中で過ごすことにした。余りに気分が悪いので、バックの底にあった1ケースの食べ物に手を伸ばして、それを剥いて食べ始めた。カロリーメイトである。真人はいざという携帯食としてカロリーメイトを5ケース持参してきたのである。もし食べ物にはぐれた時や野宿した時の緊急食である。しかしなるべく食べないように我慢し続けていたが今回ばかりは仕方がないだろうとの判断であった。

 

 バスはさらに山奥へと突き進みように走った。とはいっても上り坂に関しては時速10km未満といったくらいひどく遅かった。坂道途中でエンジンが悲鳴を上げている為運転手がすかさずローギアに切り替えるのだが、速度は上がることなくやっとの事で坂を登れる程度だった。その代わり下りは早い。下ると一挙に車輪全快で滑り降りる。しかし圧倒的に上り坂の多い道のため、全体としては20km出ているかどうかのスピードだった。このままだとちゃんとカトマンドウに着けるのだろうか。夜中遅くなる事は覚悟しなくてはいけないが、既にインドのカルカッタを出て3日目、とにかくインド・ネパールの鉄道バスに乗り続けてきた真人は一旦休みが欲しいと思うのも無理はなかっただろう。幸いにインドと違いネパールは日中こそ27℃以上に気温が上がるものの、朝や夕は非常に涼しかった。このままネパールに入ってくれれば暑さでめげる事ももうないだろう。

 それにしても乗客たちは辛抱強い。これ程までTATAバスの走りに辟易としているのに、彼らは全く物落ちしないというのか、動じていないのだ。白人らはただ寝るかペーパーバックを読んで過ごしているかだし、乗客のネパール人らも何も言わずじっとしている。早く現地に着いてくれ、と祈っているのは真人くらいなものだったろう。真人はとにかく焦って生きてきた。大学受験も、就職活動も、部活も恋愛までもただ時間とにらめっこしてきた。彼の家族や仲間がそうしたのであろうか、走らないと倒れてしまいそうな人生を送ってきた。とにかくお金と時間だけは自分の自由にさせてくれなかったようだった。それが大学を卒業後、実質無職という肩書きになるのであろうが、日本から何千キロと離れたインドとネパールの国境に来ていてただバスに乗っているだけだった。彼の同級生などはもう会社に入社し今頃会社の叩き上げ研修に参加している頃だった。もし、今日本にいたら会社の合宿所で座禅を組むとか、徹夜でディベートをやらされたり、社是をきちんと最後まで読めるまで上司に殴られるような体験をしていたかもしれない。それらの社会人としての義務役割を全て放棄して、真人は今自分自身との戦いに臨んでいる。義務としてやらない代わりに、自分自身で人生を選択し、自分自身で体験している「生き残る」為の葛藤を自分自身で体験しているのだ。これの何処が間違った生き方だというのだ?会社に入社していれば身分と賃金が保証されるが、自由は全くないし発言や提案などの権利も保有されない。日本株式会社の一員として立派に僕として働くしかないのだ。日本は円高が進みいよいよ1ドル120円台に突入しようとしている今、世界から日本を眺めるのはどうであろうか?大学生の頃はそうした考え方はあくまで授業やゼミというシュミレーション作業の中で知るしか方法はなかったが、実際世界有数の貧しい国に来てみて、これを肌や空気で体験してみるのもよいだろう。もし大学四年の時に彼女を慕って心理セミナーに出続けて嘘っぱちな愛を誓い、半ば暴力団染みた金融機関に入社して半信半疑のまま人生をまっとうしていたとしたら、自分はどうなっていただろうか。本当に心の底までぞっとする思いだった。会社人間には絶対になりたくはないが、サラリーマンの父を持つ子供にとって会社人間から逃げる事は出来ないのだ。それが日本株式会社に生まれ教育を受けた人間の宿命でもあろう。心理セミナーに洗脳されるのは本当に嫌な事だったが、この洗脳を受けなければ自分は大成しなかったかもしれない。いや、大成は必要なかったのだ。貧しいなりに正しく自分が主張できるような生き方を貫ければよいのだ。顔で笑い、心で泣き無能なのに優秀な振りをして生きる事が「かっこいい」生き方なのだ。将来的に日本はこれから変わっていくだろうが、今はなんでも外見、見た目、振りをすることが求められる世界なのだ。自分に正直に生きる必要はない。社会や会社は自分が道化師にように振舞う事を進めるが、自我を主張する事は全て否定される。今は残念ながらそういう時代なのだ。全てが格好よければそれでいい。混じり物は何も要らないし味も要求されない。まるでコップの中に入った透明な水に水性のスカイブルーの絵の具を落として中でかき混ぜればそれは「飲み物」とみなされる時代なのだ。そんな液体を飲まされても絶対にまずいとはいえない。何故なら見た目が綺麗であればちゃんとした飲み物として認められるからだ。おかしな話だが現時点で1987年という年はそのような時代に他ならなかった。果たしてこれが経済成長といえるのだろうか?日本の繁栄は反面自分の国の隠された「負」の部分を抹消する事でその存在性を主張しようとしているのだ。それに反対や異議を唱える者は誰もいないだろうし、また必要もないと見られるのだ。真人は大学の就職説明会の際、何度も就職担当者からこういわれたものだ。

「たとえ受ける会社がおかしいと思っても、絶対に正しいと思え。会社に都合の悪い事は全て隠せ。会社に入ればそれでいいのだ。下手に自分を主張する態度は許されないぞ。」

流石に真人は異議を唱えた。

「じゃあ会社の奴隷でいろというのですね。今まで勉強してきた経済学やその思想は出してはいけないということですね。大人というのは主張しないでただ相手に従うのが本当のスタイルなのでしょう。残念ながらそんな大人にはなりたくはないですね。」

1986年当時、真人は就職活動のため面接に臨むと、いきなり罵声を浴びる事がたびたびあった。中には「彼女がいるのか?」「付き合って何年だ?」「どういう関係だ?」とまで根掘り葉掘り聞かれた事もあった。私生活の事まで干渉するような会社の社長の下では、入社してもどのような社会人人生になるかはもう事前にわかったようなものだった。日本の就職というのは無残なもので、高校大学を通じ「新卒」というその1回きりしか認められていない。どんなに外国語が出来てもどんなに資格を持っていても、この社会の実態を変える事は出来ないのだ。その新卒という切り札を捨ててしまった真人にとって、これからの行き方は苦難の連続である。社会の底辺の仕事をするかもしれないだろうし、身分や賃金までとても人様には言えないような条件となることになるかもしれない。はっきり分かっている事は、帰国が近づく毎に恐怖心が襲ってくるに違いないという感覚だった。既にタイのバンコクにて現金を10万近く盗まれてしまった真人にとって、欧州への旅行は断念せざるを得ないしこの先あと3ヶ月居られるかどうかの金額しか持ち合わせていない。日本に戻れば一文無しで成田からスタートする事になるだろう。もしかするとホームレスになるかもしれない。しかし今現在ネパールにいる自分が半ばホームレスのような存在なので大して心配するほどのことはないが。

 バスは徐々に山から下り始めた。どうも一番高いところまで行ったようだった。時計の時間は15時を過ぎていたのでこれからは下りだろう。カトマンドウでさえ標高1700mあるので今の高さは、標高2000m以上はあるのはないだろうか?

 バスの登りの悲鳴はなくなった。一方的に下りに入り、バスはただブレーキを操作するだけになっていた。いよいよカトマンドウ盆地が近づいたといってもよいだろうか、周りはまだ険しい山道ではあるが、次第に過疎の地域から民家が多くなってきた。ネパールの首都に近づいているという実感が湧いてきた。

 16時を過ぎると道は平坦になっていた。民家はかなり多くなり、ちょっとした市街を形成しているような感じの場所をバスは進んでいた。もしかするとここがカトマンドウであろうか?それでもバスはなお平坦な道を激走している感じがした。もうまもなくカトマンドウに入るであろう。ようやく着くのか、3日間の死闘の上ようやくネパールの首都に入る事が出来るのだ。

 そしてバスが走る道沿いは人が多くなってきた。人と多くの牛が道を往来していた。ここがカトマンドウの中心部だと思っても間違いないような賑やかさである。道には多くの露店が見られ、まさに町のバザールという雰囲気が見られてきた。17時過ぎ、バスは王宮の広場らしい場所を左折すると、広い通りに出た。そしてさほど時間が経たないうちにバスは大通りの横に止まった。するとネパール人らしき乗客がすぐに出口に殺到した。さらには白人たちが席を立ち上がり、バスから降りる準備を始めた。間違いなくここが終点であると認識した。

 真人はバスを降り、長い間待ちに待ったネパールの首都、カトマンドウの土地を踏みしめたのだ。

 気温は少し寒いくらいだった。少し埃っぽい空気ではあるがさほど気にはならなかった。通常今までの旅ではバスの周辺に旅行社の人間が取り巻くが、今回は誰も来ない。むしろその方が静かだろうと、真人は地球の歩き方を出した。先ずは現在地の確認をする必要がある。

 真人は、近くにいたネパール人らしい人物に確認した。

 「英語、話せますか?」

 その男性は「イエス」とうなづいた。

 真人は、カトマンドウの地図を指して、今ここはどこなのか教えてくれるよう頼んだ。

 「ここは、ダルバール広場(王宮)の近くですよ。」

 男性は丁寧に場所を説明してくれた。真人は現在地を確認でき、男性にお礼した。さて、この先どうホテルを探すかだ。地図があるのでどこに行けば良いかわかるだろう。真人はバックを背中にして歩き出した。王宮から近い評判の良いホテルを探す事にした。そして10分くらいでそのゲストハウスを探し出す事が出来た。真人は中に入ると、受付にいた女性に確認をした。

 「今日は1部屋1人大丈夫ですか?」

 そういうと女性は答えた。

 「大丈夫です。160ルピーです」

真人は何も考えずにこの宿に泊まることにした。

 「あと確認したいのですが、ここに電話はありますか?」

 真人が確認すると、女性は答えた。

 「ありますよ。」

 真人は、ネパール人研修生であるサキャ氏にコンタクトを取ろうとした。86年YOKE(横浜市国際協会)公費研修生であったサキャ氏は半年ほど横浜に滞在していた。ネパールでは国立大学の薬学部の教授であり、英語は達者であった。真人はAOTS時代に全て英語でコミュニケーションが出来た数少ない研修生だった。無論サキャ氏は日本語も出来たが、職業柄日本語を使う必要がないため全て英語でやりとりしていた。なので先ず彼に連絡を取って会うことをすべきと真人は考えた。

 「あとで電話してもいいですか?」

 真人が女性に聞いた。

 「いいですよ。1ルピーです。」

 女性は答えた。

真人はその場で60ルピーを払うと案内された部屋に入った。部屋の中は薄暗くまるで山小屋のような感じだった。真ん中に木で出来た簡易ベッドがぽつんとあるほか、机と椅子がそこには配置されていた。無論扇風機やエアコンなどはついていない。真人はインド・ネパールでかなりひどい部屋を見てきたので、別段驚く事は何もなかった。それよりこの宿に何泊滞在するのか、そしてカトマンドウの他にどこか旅行へ行くのか、決める必要があった。

 真人は部屋に荷を置くと受付に戻った。そして女性から電話を借りると、AOTS横浜時代に聞いたサキャ氏の電話番号にダイアルした。少し緊張したがやがて女性が電話に出た。

 「ハロー、英語出来ますか?サキャさんのお宅ですか?」

 電話の主は何も言わず暫く電話を保留した。電話番号が間違っていなければ、と思い電話に出る声を待った。2分ほどして電話機に出たのは男性の声だった。

 「真人さんですか?」

その声は紛れもない、あの懐かしいサキャ氏の声だったのだ。

 「サキャさん、私です。今カトマンドウにいます。」

サキャ氏はそのダンディー振りから落ち着いてこう答えた。

 「真人さん、先ずあなたのホテルの名前と電話番号を控えさせてください。」

真人は、電話番号を女性から聞いて答えた。

 「ホテル名は”SITA HOME“で電話は1109021123です」

サキャ氏は電話の先で真人の言う内容を控えているような感じがした。

 「あなたのホテルはわかりました。あさって時間がありますので、11時頃あなたのホテルへ行きます。大丈夫ですか?」

 「ええ、大丈夫です。あさってお待ちしております。」

真人は電話を切り、女性に1ルピーを硬貨で払った。

 何はともあれ、2日後サキャ氏に会えることは間違いなかった。真人は安心してその日の夕食をどこかでとることにした。最初にシャワーを浴びようと思ったがこのままどこかで食事をしてベッドに寝てしまう方が安上がりだし得策である。それよりろくに食事を取っていないし、カルカッタを出発してから既に34日、うち車中泊が1泊という強行スケジュールをこなしていたのだ。列車やバスに乗っているだけとはいえあれほどまで過酷な気候環境を乗り越えてきたのだから体も悲鳴を上げているに違いなかった。

 真人は地球の歩き方を1冊持って町に出た。幸いホテルは街の繁華街に近く食事には困りそうもなかった。真人はホテルから数メートル先の大通りに出てそこを渡ると、明らかに外国人のゲストハウスが集まっていると思われる一角に出た。この先にレストランが集中していると見られるのだ。そこの中で比較的美味しいというチベタンレストランを探した。地球の歩き方の名称と同じ店を見つけると迷わず中に入った。中はレンガつくりでいかにもヒマラヤのふもとといえるような作りをした山の食事処という感じだった。給仕が1人中から出てきて真人にメニューを渡した。

 メニューを見ると、流石にチベタンレストランという感じだろうか、中国色の強いメニューが目に入った。餃子、焼き飯、野菜炒め、ヌードル等等、今までインド色の強い食事から中華メニューに変わり真人はほっとした。真人は餃子と焼き飯を頼んだ。餃子は現地では「モモ」と呼ばれる水餃子で、明らかに中華料理をチベタン料理として売り出していた。

 長旅を征服出来て自分自身に褒美を与えようというのか、真人はビールを1本頼んだ。インド製のビールでこれもあのカルカッタでルームメイトのスイス人と飲んだ以来のお酒となる。ビールはよく冷えていて非常に美味しいと感じることが出来た。またモモとの相性もよく、真人はようやく至福の時を迎える事が出来た。お客が誰もいないレストランの中で真人は小さく「ネパール万歳!」と三唱を繰り返していた。

 食事が済み、ようやくホテルでゆっくりする事が出来た真人は外にあるシャワーを浴びた。なんとホットシャワーは日本以来である。それまで1ヶ月近く水のシャワーのみ浴びてきていたのだ。信じられないが本当の話であった。

 シャワーを浴び気持ちよくなった真人は部屋のベッドの上にころがり、ネパール版地球の歩き方を読んでいた。が、疲れがあったのか30分もするとそのまままぶたが自然と下り記憶がなくなった。

 

1987年4月22日

 真人の目が覚めたのは、いきなりのドアのノックによってだった。それまで真人は死んだように寝ていた。部屋をカーテンで真っ暗にしていたので昼か夜かも分からない状態だった。ドアを開けると昨日のフロントの女性がいた。真人はドアを開けた。

 「ユアフレンド?おともだち。」

 真人は何の事か一瞬わからなかったが、外に待っていた人物があのサキャ氏であることに気づいたのだ。そうだ、今日ホテルまで来られるということだった。寝ぼけ眼で腕時計を確認し、ようやく11時過ぎであることを確認した。真人は急いで着替え、フロントへ向かうとそこにはあの横浜時代によく話をした眼鏡をかけたジェントルマンがたっていた。

 「真人さん、ネパールへようこそ!」

そうその男性は真人に声をかけると、右手を差し出した、真人は笑みを浮かべながらその右手を強く握った。

 「サキャさん本当にご無沙汰です。この場所でお会いできることを本当に光栄に思います。」

 真人が感激のあまり右手を強く握り返した。そういえばその年の2月にサキャ氏が2ヶ月の日本研修を終え母国であるネパールに戻ってからすでに3ヶ月が経過していた。しかしその3ヶ月後にまさか自国の地を踏みしめ、あたかも近所に住んでいる友に会うかのごとく電話をかけ、こうしてヒマラヤのふもとの町で会えるとはサキャ氏も想像していなかったことだろう。出来る限りなら長くネパールの土地に居て欲しい、そのような思いがサキャ氏の握手の力から十分に伝わってきた感じがした。

 「では行きましょうか。」

サキャ氏が真人を案内始めた。行き先は勿論サキャ氏の自宅である。

 「真人さん、我が家は非常に見晴らしがよい。ヒマラヤの山々が庭から一望できます。」

サキャ氏が歩きながらそう言った。そうして2人はバス停と思しき看板の下にて止まった。看板はネパール語で書かれていた為何がなんだかわからないが、たぶんバスの行き先がかかれているのだろと真人は思った。

 20分くらい経過した時だろうか、バスがやってきた。白地に青い帯がついた日本では20年前に廃車になったようなぽんこつバスである。

 「さあ、これに乗りましょう。」

サキャ氏の合図で2人はバスに乗り込んだ。バスは大きなエンジン音を立て動き出した。とにかくバスは遅かった。しかもものすごい満員状態である。やっとのことで動いている感じがしたが、これでも歩くより早ければいいという感覚だろうか。

 窓の外はまるで牧歌的な風景が続いていていた。草原のような場所で家が点在しており、牛たちがほぼ野放しになっている。まるで数年前に旅行で訪れた

北海道
の札幌郊外を思わせるような光景であった。

 乗ってから30分ほどだろうか、サキャ氏が声を上げた。

 「ここで降りましょう。もうすぐ我が家です。」

2人はバスを降りると、田園風景の中小道を歩き出した。舗装どころか土や石の悪路である。雨や風が吹き荒れたら悲惨な状況になるだろう道に思えた。周囲には数件の家があったがいずれも土壁の上に藁で編んだ屋根を載せたという代物である。日本のような地震国ではとてもこのような家は作れまい、と真人は思った。

 5分くらい歩いただろうか、サキャ氏が右手で場所を指差した。

 「ここが我が家ですよ。」

真人はその右手の人差し指の先を見た。レンガ作りのしっかりとした家屋だった。おそらくこの周辺では一番の豪邸といえようか。

 真人はサキャ氏の案内により家に入ると多くの女性たちが真人を迎えた。みな一様に両手の掌を合わせ、「ナマステ」といった。まったくネパールらしい挨拶であった。

 「さ、どうぞ。」サキャ氏の案内により中に入った。あのインドのロイ氏のような豪華さはないが、それでも家の中は広々として気持ちがよい。しかも多世帯住宅だろうか、家族の人数があまりに多く感じた。

 「サキャさん、ここには何人くらい住んでいるのでしょうか?」

真人は聞くと、すぐに答えた。

 「21人です。」

 真人はその数の多さにびっくりした。

 サキャ氏は一番奥にある自分の書斎という場所に真人を案内した。ドアを開けるといきなり涼しい風が部屋を通り抜けた。

 「どうですか。これが私の部屋です。ここからはヒマラヤの山々が見えます。勿論天気がよければエベレストも見ることが出来ますよ。」

 真人は窓側に行き、外を覗いた。残念ながら曇りで山々は見えなかった。

 「そうですね。天気がよくないですね。真人さんにとってはアンラッキーです。」

 サキャ氏は残念そうに答えた。しかし真人は嬉しそうだった。

 「いや、ここからの眺めは素晴らしいものです。天気よりここの空気は最高ですよ。」

 「そう言って頂き光栄です。」サキャ氏は照れくさそうに答えた。

 

 暫く横浜時代の話から、サキャ氏の仕事の話をしただろうか、12時半を過ぎると家の女性の人が食事を持ってきた。なにやらカレーが入った器から米、野菜のいためなどテーブルを料理が埋め尽くした。

 「これはネパールのダルバールという食事です。どうぞ、好きなだけお召し上がりください。」

 真人はこのような食事はインド以来だったので嬉しそうだった。とにかく食べに食べた。そしてお替りが続いたのだ。

 「阿部さん、遠慮は駄目ですよ。」

サキャ氏の言われるままに食事を取ったが、やはり量がすごかった。もう食べきれないサインを出すくらい真人はたくさんの食事を平らげた。

 「じゃあお茶にしましょうか?」

 サキャ氏はその女性を呼ぶと、チャイ(紅茶の甘い飲み物)を2杯分持ってきた。

 「いかがでしたか?ネパールの家庭料理は?」

 サキャ氏が言うと真人はこう答えた。

 「とてもおいしいです。でも味付けはインドより辛さがないですね。気候の関係でしょうか。でも食べやすくて日本人はおいしく感じますよ。」

 「そうですか、それはよかった。」

サキャ氏は嬉しそうだった。そして彼は真人にこう言った。

 「日本はどうですか?」

その答えに真人はしばし答えにくそうだった。

 「そうですね。特に違いはないけれど、あるとすれば3月から国鉄が民営化してJRになったそうですよ。」

 サキャ氏が答えた。

 「そうですか。」

 「何か思い出がありますか。」

 真人はそう質問した。サキャ氏は少し考えたようだがこう答えた。

 「日本、特に横浜の思い出が非常にあります。正直懐かしいです。ネパール生まれの私にとって日本は全てが衝撃でした。新幹線、高速道路、高性能な車、港や駅、あまりに日本は進んでいます。私が横浜にいたときは本当に楽しかったです。今思うと幻だったのかもしれませんね。」

 「そうですか。でも確かに日本は、物は豊かですが最近奇妙な犯罪が多くなりました。逆に住みにくくなっているかもしれません。」

 「でもあの文化の凄さはとにかく素晴らしい。そうですね、機会があれば・・・勿論無理だろうけれど日本に留学してみたいです。」

 サキャ氏の言葉に偽りは感じられなかった。このあまりに牧歌的なネパールの風景から日本の近代的な生活は想像もつかなかった事だろう。日本の社会の変化スピードはどのアジアの国々からみても異常なほど速いと思われるだろうし、新たな技術が次々に出続ける経済はまるで魔法か手品のように見えるに違いないだろう。ウォークマン、ワープロ、コードレス電話、ハイファイVHSビデオ・・・ネパールには再生できるソフトすら売っていないだろう。もしかすると自分の持っているSONYのウォークマンはサキャ氏の半年分の給与の総額に匹敵するかもしれない、それだけ経済格差があるのだ、と真人は感じた。

 サキャ氏が立ち上がり、見せたいものがあるというので見ますか、と英語で言った。真人は見たいというと、立ち上がり1階に降りていった。

 数分でサキャ氏が戻ってきた。彼の手には黄色いプラスチックの物体がにぎられていた。

そしてこれを真人に差し出したのだ。

 「これは?」真人は手に取ると、それは明らかにTVゲームであるようだった。

 「そうです。これはTVのゲーム機です。」サキャ氏は誇らしげに答えた。

 「日本で買ったのですね。」

真人は聞くと、その通りとサキャ氏は答えた。

 「サキャさんはTVゲームが好きなのですか?」

真人は意外そうに聞いた。

 「そうですね。好きです。好きなんですけれど。」とサキャ氏はもったいぶって話しかけると、そのあとこのように話したのだ。

 「家にTVがないのですよ。どのように使うかが問題なのですけれどね。」

そういいながらサキャ氏は大笑いしたのだ。真人もつられて笑い出した。いや、笑い事ではなかった。真人の部屋にもTVがなかったからだ。サキャ氏は何故こんなTVゲームを買ったのか、それはわからなかったがこのTVゲームこそが日本の繁栄文化の象徴でるかのように思えてきた。

 「サキャさんは本当にまた日本に来たいのですね。」

真人はそのように話すと、サキャ氏は顔を窓の方に向けて話した。

 「そうですね。行きたいですね。でももう行けないかもしれない。」

サキャ氏の目は窓の外遠くヒマラヤ山脈を越え、中国大陸をさらに越えて日本海の向こうにある島国日本に向けられているようだった。そしてあの横浜にて滞在した夢の時間に想いを馳せていたのかもしれない。あの夢のようなひと時はまさに人生の中では一瞬の出来事であったに違いない。昨年12月大晦日に行われたパーティでは真人はギターを弾きながらインド、中国、スリランカ、タイ、そしてネパール出身の研修生達とジョンレノンのイマジンを歌ったのだ。その輪の中にサキャ氏がいた。お酒が全く飲めないサキャ氏にとっては真人の歌は非常にフレンドリーさを感じていたに違いない。他の研修生達は酒を飲んで大声を出して歌って騒いでいたのにだ。あの想い出はもうやっては来ないだろう。しかし真人は今現在ネパールにいる。あの年末の想い出と一緒なのだ。

 窓の外を見ていると、雨が降り出してきた。そして雨は次第と強くなっていった。

 「いかん、そろそろ帰らないといけないですよね。」

 サキャ氏は真人に聞いた。真人もあまり長く家にいるわけにはいけないと思っていた。

 「そうですね。そろそろ帰りましょう。」

 真人は立ち上がった。時計を見るともう4時をまわっていた。

 「サキャさん、本当にありがとうございました。大変楽しいひと時を過ごせました。」

 サキャ氏は笑みを浮かべると、真人を家の戸へ案内した。そして別れ際には21人いるうちの約20人ほどのファミリーが家の外にて真人を見送っていた。

 雨が降り続く中、真人はバスに乗りカトマンドウの市内に戻っていった。市内のどこかでバスを降りたが、そこがどこか分からなくなっていた。暫く雨の中市内をうろうろしていた。カトマンドウの路は殆どが舗装されておらず、路地裏は水溜りが出来ると車が通る度に黒い水が高く跳ね上がった。路沿いにある商店では、牛が店に並べてある柑橘を食べると店の主人が牛の頭をはたきで軽く叩いた。牛は申し訳そうにその場を離れていった。路の脇にある石の上には乞食が物乞いをしている。しかし誰も立ち止まろうとしない。タイでは確か坊さんがお金をあげていたように思える。

 何処からともなく、昔々の光景が真人の脳裏に蘇ってきた。あの幼年時代、高度経済成長時代とはいえまだ日本が貧しかった時代と状況が見事にラッピングしていたのだ。そして見るもの全てがあの4~5歳の時に見た光景に近かった。目の前から誰かが歩いてくる。

果たして誰だろう、そして遠くの方から「まあちゃん。まあちゃん。」という呼び声が聞こえてくるように思えた。もしかすると幼年時代に住んでいた街にいた幼馴染の声に違いなかった。はっ!と真人は我に帰ると、その人がネパール人の子供である事に気付いた。赤のシャツと白の短パンを履いた子供が自分の目の前にまで迫ってきた。真人は動悸が激しくなり、目の前の事実を大きな目で見ていた。子供はまさに真人に抱きつくかの如く正面から全力疾走で真人に向かってきたのだ。真人はその子供が幼馴染であろうが誰であろうが胸で受け止めるつもりだった。が、子供はそのまま真人の立つ右側を走ったまま通り過ぎていった。真人が見た全ては幻であった。確かに子供の時に雨の日、軒先から幼馴染が「まあちゃん、遊ぼうよ。」と声を上げて真人の傍に走りよってくる姿に違いなかった。

 もう海外に出て1ヶ月近く経過しようとしていた。さすがにホームシックにかかったのだろうか、それとも極度の孤独により気持ちが荒んできたのだろうか、幻覚を見るようになっていたのだった。真人は全てを忘れ、真っ直ぐホテルに帰ることにした。

 18時前に真人はシタホームに戻った。するとそこには中国系か日本人か、東洋系の顔が2つあった。新しいお客であろうか、真人は声をかけてみた。

 「日本人ですか。」

 そう聞くと答えはすぐに返ってきた。

 「日本人ですよ。あなたも日本人ですか?」

 真人は満面の笑みを浮かべた。あのインドのカルカッタでは日本人を避けていた真人が、日本人の来客を心から待っていたのだった。

 「あとで遊びに行きますよ。部屋番号を教えてください。」

 真人は自分の部屋番号を教え、後に彼らの部屋番号を聞いた。

 夜時、真人はその日本人の部屋をノックした。

 「どうぞ。」何の確認も無く彼らは真人を通した。部屋はツインに2人で泊まっているらしい。ここはインドでもそうだったように様々な旅の情報を手に入れるための儀式でもある。

 真人はタバコを口に加え、日本から持参したライターで火をつけると、バックパッカーの礼儀になっている言葉を話し出した。

 「何処へ行くのだね?」

 相手は特別に何の疑問も感じず答えた。

 「そうですね。ネパールのあちこちかな?」

 「チベットは行かないのか?」

 真人はあの欧米人の言葉を思い出していた。

 「チベットは難しいですよ。1週間にバス1便でしょ?国境のビザ取得の問題もあるし、なによりバスが高所を走るでしょ?6000mじゃ高山病になりますよ。そんなリスクを課してまで中国側に降りたくはないですよ。」

 真人はタバコを吸い上げ、一服ふうっと吐き出すとこう答えた。

 「じゃあメインはネパールかい?パキスタンとかあっち方面は行かないの?それとももうこちらに来るまでどこか寄ってきたとか。」

 「もう行った場所は、タイ、インドとか・・・」

 真人は一瞬噴き出した。

 「やべえ!それって俺のコースじゃん?じゃあお互い同じコースを辿ってきたわけだ。」

 相手の男は考えたが、数十秒してから答えた。

 「ネパール、インド、タイ、これだけでも十分旅行する価値はあると思いますがね。特にこの国は楽しい。さて、いっぱいやりますか?」

 男はベッドの後ろから数本のビンを持ち出した。そのうち1本を真人に差し出した。

 「さあ、1本どうぞ。」

 真人はそれを受け取ると、なにやらお酒であると思った。何気なしに蓋を開け一口すすると、考えるまもなく即座に答えた。

 「リキュールじゃないか?こんなものをこの国で作っているのか?」

 男性は答えた。

 「結構洋酒はこの国では製造工程がたくさんあるらしいですね。」

 真人は酒すら久しぶりなので、それを暫く飲み続けた。良い気分になってきたのだろうか、2人の男性を相手に日本の事について話し出した。何せカルカッタでも十分日本人と話をしなかった真人である。今日はあのカトマンドウの幻を見て興奮したのだろうか、2人の日本人を相手にして雑談は進んでいた。

 もう1人の男性が真人に葉巻らしいものを渡した。

 「これ吸ってみませんか?この辺では珍しいタバコですよ。」

 真人はアルコールで少し気分が良くなったためか、気持ちよくその1本のタバコを受け取った。そのタバコは既にパッケージを剥いだ後のなまめかしい状態で渡されたが、真人は臆することなく受け取り、そして火をつけてみた。何のこともない、普通の葉巻のような味がした。少し苦く、重い味ではあった。

 「どうですか?」

 タバコを真人に渡した男はにやにやしながら言った。

 「いや、別に普通じゃないの?こんなものは何処にでも売っているよ。」

 真人は答えていたが、その男性の笑みが非常に不気味に思えていた。しかし何のことかさっぱり分からず、ただ貰ったタバコを吸い続けていた。何となくタバコのような感じと違ったのだろうか、頭の後ろの方が熱くなることに気付いていた。視界は問題ないがさっき飲んだ酒が無性に効いてきた感じがするのだろうか。

 「このタバコさ、日本のわかばみたいな味だけれど、甘い味って、タバコらしくないよね。何だろう、森永のチョコレートは他の奴より甘いけれど、お酒飲んで食べる奴は見た事がないな。ネパールのチョコは食べたことがある?」

 真人は何やら分けの分からない言葉をしゃべっていた。2人の男性は面白そうに聞いていたのか普通に答えていた。

 「面白いでしょ?この国は。だから別の国に行きたいと思わないんですよ。」

 1人が話していた。そのうちの2人が同じようにタバコを吸っている。それも気持ちよさそうに。なんだか分からないうちに部屋全体が揺れているのに真人は気付いていた。

 「うわっ!!地震だ。」

 真人は立ち上がろうとしたが、部屋の地べたにあぐらをかいて座っていた真人は簡単に立ち上がれなかった。1人が大爆笑をした。

 「地震なんかじゃありませんよ!!大丈夫ですか?」

 真人は我に帰ったが、どうも気分が悪いようだった。真人は立ち上がり、その部屋を後にして自分の部屋に戻ろうとしていた。ドアを閉めると、2階から下の階段を降りるが這って下りないと難しいくらいだった。はて、そんなに酒を飲んだだろうか?しかしこの頭のふらつきはとても酒の飲みすぎとは違う感覚だった。やっとの事で階段の手摺を見つけるとそれに掴りながら何とか部屋の前に戻ってきた。部屋まで戻るのに1時間以上経過したような錯覚があり、鍵で部屋を開けるとそのままベッドの上に滑り込んだ。

 暫く時間が経過した。そして喉を締め付けるような吐き気を覚えた。部屋を這いながらトイレの場所を探したがなかなか見つからなかった。やっとの事で便器のたどり着くとそのまま吐き出した。トイレの上で暫く寝ただろうか、そのうち意識がなくなりベッドかまたはトイレかの往復を繰り返した。そしてそのまま熟睡してしまった。

 

 

 真人はAOTS横浜研修センター受付の業務をしていた。季節は春、卒業式シーズンであろうか、あちらこちらには黒スーツと艶やかな衣装の女性達を見る事が出来る。真人もその月、卒業式だった。しかし、就職先は未定である。その点は前項で述べたとおりであるが、失恋と絶望の中就職を諦め国外へ脱出する事に決めたのである。そしてAOTS横浜研修センターでの受付の業務はあと2週間で終了するのだ。

 真人は噂を聞いていた。彼の元恋人であった理恵はもう別の男性を見つけ婚約までしてしまっていたらしい。男性は電気メーカー最大手のSOOYの社員である。まさに玉の輿ともいうべき男性を手に入れていたのだ。女性というのは何と合理的なのだろうか、真人の卒業などお構いなしにこうした噂まで館内に飛ばしていた。

 研修センターに1台の車が止まった。そして1人の男性が受付に入ってきた。きりっとした顔立ちにスポーツマンらしい体つき、いかにももて顔といえるような感じだった。

 「あのぅ、理恵さんとここで待ち合わせしているのですが。」

 真人はどきっとした。彼があの理恵の婚約者であったのか?しかも車を乗りつけ自分の前に現れるとは何事だ。真人は動揺しながらもその場で答える事無く事態を見ていた。

 そのうちに後ろから女が現れた。理恵である。しかも数人の食堂スタッフがついている。皆黒い服装で現れていた。何を見ているだろうか、前の彼女が男性を連れて目の前に現れているのだぞ。

 「あら、武田さん、お車で来られるなんて貴方らしい。では参りましょう。」

 理恵は真人の方を一瞥するとそのままあさっての方を向いて受付を通り過ぎた。数人の女性達がひそひそお話をしていた。

 「やはり天下のSOOYですからね。理恵さんは見る目がありますわねえ。」

 「前の男性は大学生だったらしいわよ。あの男と別れて正解よねえ。」

 そして彼らは研修センターから車で離れていった。受付の周辺にはもはや誰もいなかった。

 真人は夢が覚めると、ベッドの上で寝ていたことに気付いた。悪夢であったが夢で良かったと真人は安堵した。しかし一体何日が経過しただろうか?どうも風邪を引いたらしかった。数日寝たが今が何月何日か分からなかった。部屋のカーテンを開けるとまぶしい限りの天気だ。真人はここ数日ベッドから起き上がった事はなかった。トイレは数回通ったが起き上がった回数も良く覚えていなかった。はっきりしていることは、この場所で寝入る前の最後のシーンが、あの日本人と飲んだ日であったこと、トイレで吐いてそのままベッドの上で寝てしまった事、その翌日猛烈な悪寒に襲われ、頭痛と吐き気が続き、ミネラルウォーターと日本から持ち込んだ風邪薬だけを口にしていたこと、それだけだった。つまり何月何日であるかは誰かに聞かない限り分かるはずがないということだったのだ。

 風邪の症状は何となく良くなっていた。ただ数日ベッドから殆ど起き上がることなく寝続けた体は、そう簡単に元通りの状態になるはずがなかった。もし3日間寝続けたとしたら水分以外は殆ど摂らず過ごしたことになる。その証拠にベッドの周囲にはミネラルウォーターの空瓶が無数になまめかしく散乱しているのに気づいた。

 とにかくここから一度出なくては、真人はそう思ったが体がいうことを効かない。何とか這ってドアの所に出た。そしてノブを引き通路を通り目指すフロントに向けて動き出した。目線がフロントのデスクに向くと、このゲストハウスの主である女性が座っているのを確認した。女性は少しだけ笑みを浮かべているようだった。

 「すみません、教えてください。今日は何月何日ですか。」

真人は聞くと、女性は快く答えてくれた。

 「425日です。」

 真人は気づいた。そうか、あれから3日が経過していたのだ。途中風邪の症状で熱が出て寝たきりの状態になったのは覚えていた。それはあの日本人の2人組と酒を飲んだ日の翌日だろうか。多分そうだとするともうあの2人はこの場所にいない可能性がある。

 「あなたが風邪を引いたとの事で薬と水をお部屋に持っていきましたよ。」

 フロントの女性が答えた。そんなこともあったのか、と真人はその時振り返った。一度だけフロントに行き、医者がいるかどうかと薬があるかどうかを尋ねた記憶があった。感染症や外傷、胃腸薬は大量に日本から持ってきてはいたが、風邪薬は持ってこなかった。風邪を引いても薬なしですぐ治るだろうと考えていた為、風邪薬の常備は想定外だったのだ。

 「あと、部屋代払っていただけますか?今日までの分と明日以降の4泊分です。」

 フロントの女性はそういった。やはりしたたかというか、当然なのであろう。今十分なルピーがないことに気づいた真人はこう答えた。

 「夕方でよいですか?必ずお支払いします。まずは両替させて下さい。」

 女性はノープロブレムといい、夕方に宿泊代を払う事を了承した。

 真人は部屋に戻り、この3日間を振り返った。何故あの3日前の夜、日本人グループから貰ったタバコを吸っただけであんなに気分が悪くなったのか、そしてあの時ろれつが回らない状態になったのはどういう理由からだろうか、考えてみた。問題はあのタバコだった。一瞬葉巻のような形状をしており、長さが5cmくらいの中途半端な形をしていた。味は単なる葉巻であったし特別何か違う感じはしなかった。思い出すには普通の葉巻より少し甘い感じはしたが、あのような葉巻はAOTS横浜研修センター時代にも研修生のお土産として頂いた経験があった。とすると、一体何が違っていたのだろう。少し気になったのは市販されている葉巻と違い、何か葉の中が細工されているような気がしたのだ。葉の一部を刳り貫いて何かを詰めている感じ。ここはネパールという国だ。とすると・・・

 「まさか・・・あれでは・・・」

 真人ははっと気がついた。あれとは、ネパールに原生している葉を加工してタバコに混ぜるものがその正体である。彼らはそんなものを持ち歩いていたのだろうか?もしかするとあのタバコがまだ部屋にあるかもしれない。警察に通報されたら大事だ。真人は部屋中ありとあらゆる場所を見渡し、隠されていそうな場所は徹底的に調べた、バックの中、タバコの中、帽子、小物入れ、財布。

 結局ものはなかった。真人は安堵したが、この先このような場面が幾つも考えられるかもしれない、と感じた。国が国である。元々カトマンドウは60年代、70年代とヒッピーの聖地として栄えた場所である。あのビートルズがインドのシタールを音楽に持ち込み、音楽のみならずインドの思想、生活スタイル、格好まで西洋に輸入された。こうした文化や生活様式は、東洋を目指したヒッピーたちによって先進国にもたらされたものである。勿論あのタバコも例外ではない。ただあのタバコは法律によって厳しく管理されているから所持しているだけで刑務所送りになる可能性だってある。タイやマレーシアなら死刑に相当する。真人が記憶するには、一昨年アメリカ人の女性がマレーシアで大麻の不法所持によって絞首刑を宣告された事件が発生している。比較的インドやネパールは麻薬に対する取締りが寛容である為、旅行者は普通に民衆からこうしたものを買い求め、服用してしまう。但しそれは度合いが違うとはいえどの国においても刑法で処罰されることになるのだからやはりいけないことなのだ。

 タバコの件は解決したが、問題は真人の健康状態にあった。何となく風邪の症状からは解放されたが、未だに気だるい感じは否めなかった。とにかく両替もあることだし一度部屋から出て外に行こうと真人は思った。

 部屋を出たのは午前11時過ぎだった。お腹も空かず何も飲みたくなく健康とはいえない体だったが、今部屋から出ないとまたおかしくなると気づいたのだろうか、なるべくゲストハウスから遠く離れた場所を目指した。

 15分歩くとカトマンドウの中央に出た。前方に広々とした公園が広がっていた。ここがあの有名な王宮広場であることはすぐに理解できた。真人は道路を横切り王宮広場の芝生を踏みしめた。芝生の上に立つと、その柔らかい感触からかなるべく花が咲いているような場所を選び、公園の中央へ進んだ。

 公園のほぼ中央に来た真人は、そこで芝生の上に座りはるか北の方にある山々を眺めた。エベレストらしき山は見えなかったが、天気が良かったためか3000m級の山々はしかりと視界の中にあった。その場所の位置からカトマンドウは高度の高い場所にある盆地であることがわかった。

 真人は疲れていた。病み上がりであったことも原因しているが、ここ1ヶ月余り1人で日本からタイ、インドを経てこのネパールという高地にいることが不思議に見えてきたのだろうか。それ以上に日本からはるか5000km以上も離れたこの地にいることが不思議でならなかった。真人は瞼を閉じゆっくりと今までの事を回想し始めた。

 -タイで盗まれたお金の影響でこの先の度は順風満帆とはいかないだろう。残金からもこの先せいぜい2ヶ月くらい旅行を続けることが限界だと思う。この間の風邪といい、いつ現地の疫病に感染するとも限らないし、どのようなトラブルが今後待ち構えているかも見当がつかない。この先極限まで経費を切り詰めた旅行をどこまで続けられるだろうか。ああ、日本が懐かしい。この間会った日本人はどうも自分にはあわなったし、果たして欧米人以外で友人を見つけることが可能であるのだろうか。日本はこのヒマラヤを越え、中国の様々な場所を経由し日本海の向こうにある。日本では皆どのような生活をしているのだろうか。そうだ、今朝見た夢はなんだったのか?彼女とはすでに別れたのだからあんな夢を見なくてもいいではないか?そういえば今年の2月に横浜研修センターで似たようなことがあった。理恵の彼氏ではないが、自分の仲間たちが理恵を夜中のドライブに誘ったことがある。自分が勤務中で、勤務終了したら皆に合流してもよいか聞いたところ、1人にかたくなに断られたっけ?多分その事件の事が夢で出てきたのだろうなあ。理恵とかもう今頃別の彼氏が出来てもおかしくはないだろうな。それに対して自分はこの外国の辺境で何をしているのだろう?夢と野望を抱いて日本を脱出してきたのに、もうこんな弱腰ではとてもこの先の旅は続けられないだろう。もう旅を中断して日本に帰国しようか?それもいいアイデアではないだろうか?でも住む所はどうするのだ?AOTSには自分の後任を既に決めてしまってきているから、自分がまた戻るなんて事は出来ないだろう。じゃあどこに住んで仕事を始めるというのだ?そんなことが出来ないから日本を飛び出してこの地にいるのではないか?畜生!こんな中途半端な旅なら最初からしなければよかったのだ。じゃあ何故旅行に来たのだ?自分自身を見つめなおす為、海外から自分の住む場所を見てみたいから?それとも根性をつけるため?発展途上国に行ったという勲章を自らの手で飾る為だろうか?何を自分は求めて旅行をここまで続けてきたのか?待てよ、まだ目的は終わっていないではないか?ネパールだってカトマンドウしか見ていないではないか?他に旅で訪れた場所があったのか?何を求めてここまで来たのだ?もう一度考え直す必要があるのではないか-

 真人は自分自身を執拗に責めようとしていたが、それは無駄なことであることに気づいた。それより、今の状態を冷静に分析し、何をこれから始めて何を求めていくかをもう一度考え直すことにした。だが、旅の疲れからかどうしても自分自身を前向きに見つめなおす事が出来なかった。

 その時、背後から誰かが真人の方向へ歩み寄ってくるのを感じた。確実に誰かが近づいてきている。それは芝生を踏みしめる音や人間が歩き寄るその空気で感じていた。しかし真人は後ろを振り返ることが出来なかった。恐怖で怯えていたのである。芝生を踏みしめる音は徐々に大きくなっていった。そして明らかに人が真人のすぐ背中の辺りに立っていると感じたとき、彼は首をすくめた。

 「日本人かい?」

 男性の声がした。英語で話してきたのだ。

「イ、  イエス」真人はどもりながら答えた。

 「ここに座ってもいいか?」男性が真人に聞いてきた。

 「ど、どうぞ。」

 そしてその男性は真人の背後から回りこみ、真人の正面に座った。口ひげを生やした30歳くらいの男性だった。

 「あなたはいつネパールに来たのか?」

 男性は真人に聞いた。

 「1週間くらい前」真人は英語で答えた。

 「どこかネパールを旅行したのか?」

 男性がそう聞いたので答えざるを得なかった。

 「ネパールはカトマンドウ、あとパタンだけ。」

 「ポカラ(ネパール西部の観光地)は行ったか?」

 真人は執拗に聞く男性の質問をただ淡々と答えるだけだった。

 「いや、行っていないよ。」

 そう真人は答えると、その男性は質問を止めた。無意味と感じたのか、彼の意図がこれ以上質問を続けてももはや意味を成さないと感じた為だろうか。

 沈黙を破り、その男性は真人に聞いた。

 「ハッシシはやったか?欲しいか?」

 この質問に真人は男性の目をじっと見た。まるで警察のおとり調査か何かではないのか?確かに自分は自分としての意図としてこのような体験はしたことがない。でも3日前に同宿者の日本人に強引に勧められてそのようなものを経験した可能性があった。しかし真人はかたくなにこう言った。

 「ないよ。あっても欲しくはない。」

 その解答に男性は信じられないというジェスチャーをした。あたかもこの国に入ったらこのようなものを経験することは当たり前であろうといわんばかりの表情であった。

 「ではドルチェンジは必要か。」

 男性の言葉で真人ははっと気づいた。T/Cをルピーに交換しないと宿代が払えないからである。いっそのことこの男性にドルの両替をお願いしたらどうだろうか?しかしこの男は会ったばかりで何も信用が出来ない。さっきハッシシなどという言葉を出している以上信じないほうがよいのではないか。

 「いいよ。何も要らない。」

そう言い、真人はまた頷くと、男性は居場所を失ったのかゆっくりと立ち上がって先ほど来たと思われる方向に歩き始めた。勿論別れ際はお互い無言であった。

 真人はまた下を向いていた。もういい加減こんなやり取りも疲れてきた。日本人だからなのか、現地の人間が接してくる方法は大抵やみ両替か、裏風俗か、麻薬関係の斡旋であったからだ。この形は真人が日本を離れて以来、タイ、インド、ネパールとどこへ行っても一貫して同じであった。あたかも日本人は世界中の詐欺師のかもになっているからであろうか、こうした甘い誘いに負けてしまう日本人があまりに多いからであろうか、真人は外国に出て現地の人間が見る日本人像について、かなり間違った認識を持っていたことに気づき始めた。横浜研修センターは政府機関であったため、ここに来所する外国人研修生たちは優秀でかつ意識が高かったのだろう。しかし一旦異国の地に踏み入れればここは金で何でも買えてしまう人間の欲望の排泄地であるのだろう。まさにこれが現実であるのだ。日本を出て1ヶ月、ようやく真人は日本と海外とのギャップに気づき始めた。日本で生活するにはさほど困ることはない生活も、日本を一歩出るとどうであろうか?それにしてもこんなホームシックは今まで体験したことがない。大学生活でも、アルバイトでも常に自分の傍には親友が存在していた。それが今、誰も心を打ち明けられる友人がいないのだ。勿論友人たちはネパールから遠く離れた日本の地にいる。今まで旅行中世話になったAOTS旧研修生たちは友人とはいっても、いつも会って相談できる環境にはないのだ。勿論地元の生活やその為の安全対策、いざとなった場合の緊急連絡先としては大変助かるが、今真人に必要なのは、旅を続行させるかそれとも日本に引き返すかどうかのジャッジをすべき状況に置かれていた。この先旅を続けていても真人自身が辛い思いをしていくだけだし、日本での再就職が遅れることによりさらに自分自身が不利な立場になると思われた。だがこの旅を続けるまで、1年以上働き続けたしこの苦労が無になってしまうのは今後人生上非常に後悔となることが予想されるのではないだろうか。その後悔が後々襲ってくるほうが真人は不安であり恐怖に感じるのであるのだ。では、この旅をどこまで続けていけばよいのだろうか?神様、どうかよいアイデアを私に下さい。

 時間は15時を回っていた。公園の周辺はまだ明るかったが、日差しが緩み少し腹寒くなってきた。このままこの場所に居続けるものではないし、何より食事も両替もまだ済んでいない状態であった。あと1時間もすればこの場所からホテルに戻らなくてはならないだろう、そう思い真人はホテルより持ち出したウォークマンを聴くことにした。テープはタイで購入したもので、レッドツェッペリンの曲が入っていた。うん、これはのるなあ、かなりいい感じだ。次第に音量を上げると芝生の上で胡坐をかいていた真人はロックのビートに合わせ体を揺れ動かしていた。

 その時であろうか、学校の制服を着た3人組の子供が目の前に現れた。そして彼らは真人の前に座ったのだ。そして真人の顔を覗きながら英語で聞いてきた。

 「何をしているのですか?」

 真人はイヤホンを耳から外しながら彼らに答えた。

 「音楽を聴いているのですよ。」

 3人のうち1人が羨ましそうに真人に聞いた。

 「僕も聴いていいですか。」

 真人はいいよ、というとその1人に本体ごと渡した。恐る恐る両耳にイヤホンをつけると、そのあとどうしたらいいか迷っていた。

 「このPLAYを押すんだよ。」

 真人が操作方法を教えるとその1人は言われたようにボタンを押した。その瞬間彼はひっくり返るような衝動を覚えた。

 「ワオ!!」

 音量の大きさに驚いたのだろうか、いや小さな機械から生み出させる大音量のサウンドをはじめて耳にした衝撃というのだろう。その瞬間、もう1人が遠くにいた仲間に合図をしたのだろうか、遠くの方から大群衆が真人らの座っている場所に集まり始めた。真人は驚いた。その数が半端でないくらい多かったことと、全員小学生と思しき子供達であったからなのだ。しかも彼らは英語を使えるのだ。

 「あなたはどこから来ましたか。」

 仲間のうち1人が真人に声をかけた。

 「日本ですよ。」

 真人が答えると、その1人は大きくうなずいた。日本から来る客が多かれど、このような国際交流はめったに無いことなのかもしれない。そのうち真人の周囲には大勢の子供たちだらけになった。さながら海を越えて来た芸能人を歓迎するかの如くだった。

 子供たちはそのウォークマンをひったくるように廻しあった。誰かが聴くと次は別の子と、物珍しそうな様子でウォークマンの音に酔いしれていた。

 「すげえ、これ。いったい何なの?」

 ウォークマンの音を聴いた1人が答えた。そして次の誰かにウォークマンが手渡されていく。少し乱暴な扱いもあったので真人はすぐに注意した。

 「どうか注意してね。手荒く扱わないように。」

 そう警告をしても、子供たちに手渡った機械はもう完全に高価なおもちゃであったのだ。

すると、集まってきた200とも300人とも人数が把握できない子供たちが相次いで英語で真人に質問を浴びせてきたのだ。

 「日本人はみなお金持ちですか。」

 「ネパールはどんな国ですか?」

 「日本にいくのに飛行機は何回乗りますか。」

 真人は全て英語で答えたが、それにしてもまるで外国から来た芸能人扱いであった。勿論真人はいい気分で彼らと接していた。彼らのフレンドリーさに先ほどまで悩んでいた旅の継続か帰国かの自問自答はどこかへ吹き飛んでしまっていた。

 子供達が公園から家路に着こうとしているまで、あっという間に1時間以上が経過していた。真人はいつの間にか地元ネパールの子供たちに救われていたのだ。ホームシックはどこへ消えてしまったのか、継続か帰国かの議論ももう真人には不要だった。あとはこの先どこへ行くか、何をしたいか、それだけを考えることにした。

 真人がようやく公園を後にしたのは午後4時過ぎだった。

 

 

1987年4月25日

 出発は朝6時であった。真人はゲストハウスからそれほど遠くない場所にある長距離バスの乗り場にいた。目的地はネパールの西方にある街、ポカラである。ポカラはカトマンドウから西方200kmの場所にある、ネパール第二の都市である。周囲を山々に囲まれ、ヒマラヤ山脈の8000m級の山を見ることが出来る風光明媚な場所である。また、アンナプルナ(8019m)のトレッキング基地としても名高い場所だ。

 数日間真人は考えた。旅を継続するか帰国するかの瀬戸際に立たされた真人は、結果的には旅を継続する事を心に誓った。タイでの現金盗難事件によりネパールより遠方に行くことは予算的に難しくなったが、ネパールやインド、タイ合計3カ国をくまなく旅行することは物理的に可能であろうと思った。そこでネパールで最も人気がある観光地、ポカラを選んだのである。カトマンドウでは8000m級の頂を拝むことが出来なかったが、ポカラはよりヒマラヤの山々に近づくことが出来る為、白い頂を見ることが出来る。また準備が十分であればアンナプルナのベースキャンプ付近までトレッキングすることも可能なのだ。

 バスは朝6時発車で、インドTATA製のメールバス(郵便物を運ぶ為のバス)であった。通常のバスより郵便物運搬を目的にしている関係で運賃が安かった。

 バス乗り場には多くの欧米系バックパッカーが並んでいた。彼らはポカラへ足を伸ばし楽しむのかそれとも、ヒマラヤへのトレッキングを試みようとしてるかのどちからであろうと真人は思った。

 バスに乗ると、横には白人が座った。一言二言話をしたら、フランス人との事であった。その彼はあまり他のことに興味がなく、パンをかじりながらペーパーバックを読み続けていた。他には欧米人が20人、他は現地のネパール人の乗客という割合で、ほぼ満席でバスは出発し、カトマンドウを離れた。

 バスは真人が数日前にカトマンドウへ入った道を戻るように進んだ。恐らくビールガンジ行きと、ポカラへ入る為の国道のジャンクションがこの先にあると真人は思った。そしてバスは知らぬうちに真人が来た道とは別の道路へ入っていった。勿論道路は舗装などされているはずもないため、道路の窪みを通ると車両ごとジャンプし真人たちも同様車の中で跳ね上がった。

 雨が降っていたのが、道路は全般的にぬかるんでおり道のあちらこちらに大きな水溜りが出来ていた。満員のバスは水溜りを通過する度にタイヤが大きな水柱を上げた。またぬかるみに車輪を取られ、登りの道に差し掛かるとなかなか前に進むことが出来なかった。車が街を出てから2時間ほど経過したときだった。ついにエンジンが悲鳴を上げたらしく、バスは道の左側に着くとそのまま動けなくなってしまった。

 真人はインドからネパールに入る道上でバスが故障し危うく熱中症で危険な状態になったことを思い出した。もしかするとここでも非常にやばいことになりやしないかどうかと。ただこの時の気温は20度を下回っていたし、またポカラ~カトマンドウの国道はネパール一の交通量を誇る道であったため、大型車両がひっきりなしに通る。真人はまったく心配をしていなかった。ネパール人の車両運行スタッフがバスを降りて、エンジンルームの点検修理に入っていたが、乗客たちは全く動揺することなくバスの内外で時間を過ごしていた。あのフランス人乗客はバスの上にある荷物棚の上に腰掛けて本を読み漁る有様である。この余裕はどこから来るのであろうかと真人は真剣に思った。日本人であれば焦って要らぬ心配をして、または修理担当者に罵声を浴びせたり一人いらいらしたりするであろう。国民性の違いなのか、元々住んでいる場所の文化の相違なのであろうか、真人が不思議に思うのも無理はなかった。

 バスの故障は1時間もかからないうちに終了した。運転手はボンネットを閉め、そのまま運転席に入った。エンジンをかけると2,3回は空回りしていたが、4度目くらいにエンジンがカラカラという音の後に大音量を上げ見事に回りだした。この時の心境はあの映画「飛べ!フェニックス号」という古いアメリカ映画を思い出させるようなものだったがあの映画ほど切羽詰った心境ではなかった。

 バスは次第に山間地帯に入っていった。ここからはまさに悪路との闘いであった。振り続けた雨が地盤を悪路に変えてしまった為、バスのタイヤが空回りしながらやっとのことで道を先に先に走ることが出来た。真人は特に心配した様子もなくただバスがポカラの街に入ればいいとだけ思っていた。別に日付が翌日になろうとバスが街につけさえすればあとは自分自身で宿探しをする。それだけのことだった。

 バスは途中ドライブインと思われる民家の前に止まった。バスの車掌が「30分休憩」と乗客に大声でアナウンスしたのを真人は見ていた。真人はバスを降りるとドライブインの中には入らず外で休息を取ることにした。

 もちろんドライブインで提供される食事は全てカレーである。そこらじゅうハエが飛んでおり、給仕の子供たちも髪の毛を洗わないからだろうか、油まみれの髪にハエの死がいがたくさん埋もれている、なんとも清潔感のない髪型をしていた。こんな中でドライブインのカレーを楽しめる雰囲気ではない。白人バックパッカーはカレーにありつき会話と食事を楽しんでいたようだが、真人は表に出て売り子からゆで卵を3つとパンを購入した。ゆで卵をあっという間に2つ平らげると、パンをズボンのポケットに入れてまたバスに乗り込んだ。車内を見ると全員乗ったようだった。

 バスは動き出した。真人は「ふぅー」と安堵の呼吸をした。これなら何とか200km先のポカラに無事入れるだろうと思った。

 天気は一向に好転しなかった。雨交じりの天気で当然期待していたヒマラヤのアンナプルナやマナスルという荘厳なる山々の風景を拝むことは出来そうもない。外は小雨でたまった水たまりの上をメールバスが走り泥を跳ね上げる光景の繰り返しだった。そのうち時間が経過してくると、社内で誰も話し声を上げる者も少なくなり、そのうちぴたっと話し声が止まった。

 真人もウトウトを繰り返した。

 雨音がすごい。バスの中にも雨のしぶきが容赦なく入ってくる。日本の車とは違い窓ガラスのシーリング(密閉)技術がままならないのだろう。瞬く間に豪雨のせいで魔裟斗の上半身はびしょびしょだ。インドの旅もきつかったが、ここもまんざらではない。なんでこんな自然環境の厳しい国を旅に選んだのだろう?真人は感じた。確かにヨーロッパへ行くためには往復の飛行機代が30万円かかる時代だった。中での生活費も馬鹿にならない。しかも欧州の友人はデンマーク人1人だけ、インド系は山ほどいる。だからといって、病スレスレの超低空飛行旅行をどうしてしなければならなかったのか?真人は色々なことを考えていた。そのうち狭い車内で寝に入っていった。

 目が覚めた。車窓はなんとなくと快適な感じがした。周囲には多くの人が往来している。

「ポカラ!」

車掌が行った。うーん、カトマンドゥからどれくらいかかっただろうか?真人は時計を見るとカトマンドゥの出発から今の時間を足し算して所要時間を換算した。約8時間20分だった。それにしてもひどいバスだったなあ、と思いバックを下ろし下車した。

 ポカラは乾いていた。空気も程よい清々しさを醸し出していた。日本で言えば4月初旬であろうか?さて、今日の宿はどこにしようか?

 「なんでもいい。安くていい場所知らないか?」

真人はガイドに聞いた。すると、

 「あいつについてきな。」と英語で答えた。後ろではリキシャ(自転車)の若い子がにこやかにしている。

 さっそく5ルピーを払うと、リキシャに乗った。なにか若い男は鼻歌を歌っていて楽しそうだった。2ブロック過ぎると、「ここです。」と英語で答えた。

 「ポカラゲストハウス・・・・ありふれた名前だな。」

 1週間分の宿代を払い、中に入ると宿泊者は日本人だらけであった。カトマンドゥの日本人はあんなもの、まるで宿全体が日本人だらけの民宿だった。

 何やら髭の男が真人に歩み寄ってきた。

「ようこそポカラへ、私は原口と申します。あなたは?」久々に日本語をまともに聞いた。

「私は真人、インド経由で陸路をつかいここまできました。」

原口という男は自分の髭を撫でながら言った。

 「たいへんですな。難儀だったでしょう。私たちはパキスタンのラホールを出て国境に入りました。カトマンドゥはチベットに抜ける道なので、あんまり興味ありませんでした。あ、そうそう。」

 原口は思い出したのか、真人に言った。

 「せっかくポカラに来たから、屋上に上がってみましょうよ。」

 2人は、ゲストハウスの屋上に上がった。そこで真人が目にしたものは、まさしくヒマラヤの神なる山々の堂々とした姿だった。

 「あれがね、マチャプチャレ、神の山です。右にあるのがアンナプルナ、日本の登山隊も登頂しています。それから、マナスル。」

 8千mの山々を眺め、真人はしばらくポカラで休養することにした。こんなヒマラヤを見られるなんて、信じられない。しかも周囲は日本人だらけだ。

 「原口さんは、ここは長いのですが。」真人が聞いた。

 「ながいかなあ。6ヶ月くらいかな?」

 6ヶ月?そんなに魅力的なのか?そこまで魅力的な場所とは思わなかった。

 「(パキスタンの)ラホールより安全ですよ。ここ。」そう原口はいった。

 「真人さん、食堂でご飯たべながらビールでもどうですか?」

 そう言われると断り理由はない。数人の日本人たちと食堂へ行った。食堂は20人入れば一杯で、早めに食事を取ろうというのだ。

 「ここでおいしいものはなんですか。」真人が周囲に居る日本人に訪ねた。

 「水牛カレー!!」

 えっ?真人は驚いた。水牛とはなんだ?

 「ネパールはヒンドゥの国です。牛はダメだが、水牛はいいのさ。」

 真人は彼の話す言葉に乗じて水牛カレーを頼んだ。そしてビールを飲みながらようやくたどり着けた理想郷に感謝しながら今までの旅程をみんなに話し、みんなもそれぞれの体験を語った。綺麗なヒマラヤの風景とともに真人は部屋に戻り就寝した。

 

4月29日

 

 真人はポカラの宿にいた。同じ日本人たちとチェスを楽しんでいたのだ。ポカラに来て数日経つが、昨日来たような感覚にとらわれていた。

 原口が突然真人に行った。

 「日本ゴールデンウィークだし、日本の観光客に会ってきますか?」

 まさか?と真人は思った。こんな山の中に日本からくるものか?そう原口に言うと、

 「いますよ。香港経由でツアー来る奴。」

 「で、何しに行くんですか?」真人は聞いた。

 「決まっているでしょ?日本の情報を聞くのです。」

 真人は思った。そういえば日本の情報なんて全然聞いてもいない。第一春の甲子園の優勝校すら知らない。成田の待合ターミナルで見たのが最後だ。よし、行こう!!真人、原口、夢野は出発の準備をした。

 

 1時間後真人たちはポカラ市内にいた。車が縦横に走る、埃まみれの空気が漂う居心地が悪いところなのだが、3人で見回し日本人がいないかを確認してみた。右側に、白い帽子をかぶった赤いドレスを着た女の子を見かけた。

「どうです。あの子は?」真人は原口に言った。

「いいね。いってみよう。」3人の男らは可愛い女の子に近づいた。原口が恐る恐る女の子に近づき、一言を発した。

「あの。日本人ですか?」

女の子は逃げる様子もなく、原口の顔をしげしげ見ながら、その不細工な髭面に「ぷっ」と吹き出すかのごとく「そうですよ。」と返事をした。

 原口は久々に日本の女子に出会えたのか、言葉が詰まっていたところ,夢野が出てきて彼女のはなしした。

 「あの、僕ら日本を離れて何年も放浪していて。いま日本がどうなっているか知りたくて。聞いてもいいですか?」

 そこへその女の子の友達と見られる子がやってきた。2人は団体か個人かわからないが、見るからに真人たちとは異なる人種に見えた。美女と野獣という表現が最もピッタリくるのもこの情景を見ればそんな感じなのだが。

 女の子はヒソヒソ話し合い、そのうちのひとりが話し始めた。

 「なんだろう?新しいビールが出たかな?アサヒのなんとかドライとか。あとはともこ、何?」

 「国鉄がなくなったじゃない?JRとかになって。国電がE電になってだっさーい。」

 真人は聞いた。

 「春の選抜はどこが優勝しましたか?」

 女の子の視線が真人に集まった。真人は失恋後の自分探しの旅に来ていた。女の子に接するのは慣れていた。

 「選抜って高校野球?私は野球見ないから。なんかPLとかいうところらしいよ。」

 真人は納得した。そうか、結果的に下馬評通りPL学園が優勝したのだな、と思った。それから10分くらい話してから、彼女らはランチのためその場を離れた。3人はぶらつきながら他に日本人を見つけられず、ゲストハウスで食事を取ることにした。

 このゲストハウスはグルカ兵という、元イギリス軍人の父が経営している宿で、食事はブリティッシュスタイルだった。ハムエッグ、マフィンに紅茶という具合である。夜こそカレーになるが、イギリススタイルがあってか、ヨーロッパのゲストが多かった。真人は英語堪能のためか日本人が常に友人としているという感じであった。時間があればチェスをやり、外へサイクリング(自転車はあった)に行ったり本を読んだり思い思いの時間を過ごすことができた。

 真人は考えていた。タイのバンコクで所持金のほとんどをやられてしまい、現在は1000ドルのTCが残っているだけだった。最終目的地がトルコのイスタンブールだったが、金銭的に行けそうもなかった。思い切り陸路から入ろうか、そう思い原口に聞いたのだ。

 「パキスタンの陸路はインドよりきついからやめた方がいい。」それを聞き、欧州行きは諦めざるを得なかった。このままこの「天上の楽園」ポカラにとどまるか?現在のところフィリピン、バンコク、インド、ネパールまで来た。スリランカに戻りコロンボのサンパットさんのところへ行くか?カトマンドゥでバックパッカー達が騒いでいたチベットはどうだろう。問題は5千m地帯を進むので、高山病と中国のビザである。(当時は中国のビザを取るのが大変だった。1987年当時)残されたのはマレーシアとシンガポールである。ここを縦断するにはお金がかかる。さてどうしよう・・・

 そんな時1人のインドの商人が自分を呼んだ。面白いものを持っていると聞きつけたからであろうか?私はゲストハウスのリビングに行った。そこにはターバンを巻いた商人っぽい男性と男の子が2人いた。早速その商人はインドクイーンズイングリッシュを使い始めた。

 「君は日本人かな、なんか面白いものを持っているらしいが、見せてもらえんか」

 真人は聞いた。

 「ステレオヘッドホンですか?」

 商人は頷いた。

 「見るだけならいいですが。」真人はソニーのウォークマンを差し出し操作を教えた。中に入っているテープはバンコクで買ったザ・ポリスであった。

 商人は聴きだした瞬間、「おっ!」と驚きの声をあげ,暫く聴きに入った。そしてこう言い出した。

 「いくらだ?」

 真人は言った。

 「これは売れません。私の大切にしているものです。」

 しかし商人はそれを無視するように言った。

 「1万ルピーか(2万円くらい)それともそれ以上か?」

 「ダメです。いくらでも売れません。」

 商人は残念そうに思い、真人にウォークマンを返した。

 一応ネパールの入国の際ウォークマンは売らないよう、パスポートに書かれていた。しかしバンコクの誘拐事件を悔しく思い、もしかするとお金を挽回できるチャンスだったのかもしれない。辛さと悔しさがつのり、その日は早く寝ることにした。

 

5月2日

 真人にもうひとりのネパール人がやってきた。シェルパ族である。よくヒマラヤ登山をする際に水先案内、ポーターをすることで有名な山岳民族である。その山岳ガイドに接すくことができた。この山岳ガイドはなんと、あの植村直巳をガイドしエベレスト登頂の影の立役者となったリーダーの関係であった。

 真人のもうひとつの旅の目的はトレッキングであった。トレッキングはせいぜい8000m級のベースキャンプ程度であるが、日本での鍛錬は丹沢の冬山程度。ヒマラヤの8000mはまた違うのだろうとは真人は認識していた。

 「あの、アンナプルナのベースキャンプまではいけますか?」真人が聞いた。

 「いけますよ。でもね。」シェルパのガイドはいった。

 「今は水が悪いし、ヒル(血を吸う吸血動物)がたくさん発生している。この記事ですが。」シェルパはネパール語の新聞を真人たちに見せた。

 「見てください。水の被害で9000人なくなっているのです。水に害虫が発生している証拠です。」

 真人はがっかりした。

「時期が悪すぎたのですね。」

そう言うとシェルパは用があるといいその場を去っていった。真人と原口は2人きりになり、そこへ夢野が参加していた。

 「よう。お二人さん元気?何を話していたんだい?」

 「いや、真人さんの今後の行き先について話していたんだ。」

 「ネパールを出るのかい?どこ行きたい?俺はプーケット最高だったな。」

 原口も相槌すると同じことを言った。

 「確かになあ。俺の最初の海外はプーケット、カルカッタだったものなあ。プーケットはいいよ。」

 真人は夢野や原口の意見に思いを馳せた。今まで行った場所にビーチはなかった。チェンマイにしてもネパールにしても山間部ばかりだ。何か知らないがビーチに行きたいという気持ちが沸いてきたことは自身感じていた。

 「プーケットはバンコクからどう行きますか。」

原口が言った。

 「確か鉄道があるはず。ただ行き方はわからない。俺はバンコクからバスで行った。10時間くらいかかるけれど。100バーツしなかった。エアコンは付いていたと思うよ。」

 「そうそう、バンコクの西側の駅だよな。

 真人は2人の意見を聞いているうちに、ほぼプーケットを最終旅行地にしようときめかかっていた。が、どうしても脳裏から離れないのが、チベット行きだった。

 「原口さん、チベット行ったことあります?」

 原口が即座に応えた。

 「ないけれど、どうなの?高山病に半数近くかかるとかあるけれど、1週間近く5000m地帯をバスが走るみたい。あと国境で中国のVisaとれるかどうか、カトマンドゥで白人にでも聞いた方がいいねえ。」

 「水の害はあるのかなあ。」真人が聞いた。

 「あるかもね。できればタイの方が進んでいるからいいんじゃない?」

 真人は地球の歩き方、インド、ネパール、タイの3冊は保有していたが中国については、ゲットできた情報は皆無であった。当時中国は召喚状(中国人が呼んでいますよという証明。インビテーションともいう)がないとビザの発給はされなかった。なので、チベットの情報は皆無と言ってもいい、中国側から入ったパッカーに聞くしか手段がなかった。

 「トレッキングが難しそうなので、プーケットに進路を取ります。原口さん。」

 原口がうなずいた。

 「うん、俺もそれがいいと思う。チベット行ってもさ、何があるのは俺もわからない。」

 真人は気持ちを固めた。こうなればいち早く下山してインドに戻らなくてはいけない。しかしフライトは1週間後であった。それまで待つしか方法はなかった。

 

5月5日

 その日夢野が暴れた。何か悪い虫が入ったのか、体中が痛み出したという。状況を聞くと、「体中じんましんが起きていて痛い。眠れない。」らしい。

 私は持参していた抗生物質のテトラサイクリン錠と塗り薬を渡した。原因はわからないので、ネパールの薬草医を呼んで治療してもらうことにした。通訳は真人が担当した。医師の話では、なんだか細菌が体に混入したらしい。飲み薬の薬草と私の抗生物質でよくなれば良いと願っていた。

 その日ゲストハウスのコックがみんなに振る舞いたい料理があるというので、その夜パーティになった。私はパーティ準備までポカラの市内散歩することにした。

 雨季のネパールといってもその日は晴れていた。川では奥さん方が洗濯に勤しむ。何か変わったものはないかと思い、通りを見渡すと一軒の壊れたカフェに目が止まった。全部が木で出来たいかにも昔の、という感じでバラックの装いをしていた。ついつい珍しい所にはいってしまう真人の性格ゆえ、壊れそうなドアを開け中に入ると、そこは欧米系のお客だけで集まっていた。ネパール人の給仕が来たので、紅茶とシフォンケーキを頼んだ。壁を見てみた。ものすごい、たくさんの落書きだらけだ。書かれた文字を読んでいると「グルーヴィーしているよ。」とか「ベトナム戦争反対」「ドアーズのジムモリソン、コックが素敵」などと英語で書いてあった。ははぁ、これは60年代のヒッピーがネパールまで来て書いたものだな、と感じた。まるで60年代の世界に飛んでいってしまいそうな世界で、レコードまで積み上がっていたのでゆっくりと見た。ドーナツ盤(円盤の小さいシングル専用)が多くて、曲名を見ると「ヘイブルドッグ(ビートルズ)」「ホワイトラビット(ジェファーソンエアプレイン)」「紫の煙(ジミヘンドリックス)」などがあった。おそらく兵役を逃れたアメリカ人がここにヒッピーとしてたむろしていたのだろう、と思った。汚いカフェだったがケーキも美味しく、勘定を済ませ「サンキュー」と言って出た。

 その日は6時から野外でバーベキューだというので5時半にはゲストハウスに戻った。皆お腹がすいたのか、既に欧米人はすべて集合し、原口はじめ日本人も集まっていたが、夢野の姿はなかった。相当様態が悪いのだろうか?真人はすぐ夢野の部屋へいき、声をかけた。

 「大丈夫ですか。」

 真人は夢野の顔色を見た。朝に比べれば顔色は遥かにいいが問題は体中にできたぶつぶつだった。何が原因なのかわからないようなぶつぶつと腫れで、膿が流れ出している箇所もあった。

 「夢野さん、痛むのですか。」

 夢野は真人の方に視線をやるとにこやかな表情に変わった。

 「いや、傷まないけれど、治らないね。本当に。」

 「持病ですか。」真人は聞いた。

 「インドの時にかかったみたい。わからないんだ、アユルベーダ(インドの伝統薬方)も試したが、全然。でも傷まないからこれまでさ。」

 「日本へ帰ったほうが・・」夢野はすぐに真人の助言を遮った。

 「もう2年帰っていないし、いまさら日本に帰っても家も家族もいない。仕事もないし余計路頭に迷うさ。このままの方がまだ楽しいのさ。」

 「そうですか。私たちは野外でバーベキューやっていますので良かったらテラスに来てくださいね。」

 夢野は頷くとまたウトウトを始めた。

 真人は野外バーベキュー会場に戻った。ものすごいはしゃいでいたのが、イスラエルから来た2人組の女の子だった。原口もネパール酒に酔いしれ盛り上がっていた。

 「どこいっていたんだよ。おら、食べなよ。」原口は肉を真人に差し出した。

 「ちょっと夢野さんのところに・・」真人が言いかけると原口は言った。

 「あいつは病気だ。バーラーナシーからもってきた伝染病だ。原因不明だから関わらないほうがいい。ほら食べろ。」

 真人は肉を見た。焼けているのか半ナマなのかわからない。果たして大丈夫なのか?

 「原口さん、これ大丈夫ですか。食べても。」

 原口はぎろっと真人の方を睨んだ。

 「大丈夫に決まっているだろ?俺がいいと言っているし、コックが焼いたんだ。」

 魔裟斗は恐る恐る生焼けの豚に手をつけた。そしてネパール酒に酔いしれ、バックパッカー同士で盛り上がった。こういうみんなが騒ぐ機会もネパールではなかなかなかっただろう。高峰マチャプチャレを眺めながらのパーティに酔いしれた。

 

 パーティは9時に終わった。真人はシャワーを浴びると布団に潜った。酔いつぶれたのか、よく眠れそうだった。

 しかし、夜中だろうか、突然胃が痛みだした。なんだろう?下腹を見ると異様に膨れている。それにしても痛い。急いでトイレに駆け込んだが何ももよおさない。何がどうしたのか?お腹をさすりながら寝床に戻った。そして、猛烈な腹痛が続き、下痢が始まったのは早朝5時のことだった。

 

5月6日

 下痢は止まらなかった。部屋にいるよりトイレにいる時間が長かった。その日は一日中トイレにいた。原口から情報を聞きつけたコックが真人の部屋にやってきた。

 「大丈夫ですか?」英語で聞いてきた。

 「昨日の肉、生じゃないか。あれが原因だよ。」

 「私後で薬を持ってきます。」

 コックも盛り上がり、つい生肉を食べさせた事を詫びているのであろうか、1時間後に薬を持ってきた。しかしこの時期は雨季、一番病気にかかりやすい時期である。結局部屋とトイレの往復が続くばかりだった。

 ご飯をろくに食べていないのか、だんだんと便が白くなった。かなり胃はやられている。真人は日本から持ってきたカロリーメイトを食べ始めた。しかし携帯している量は精々1週間分しかない。後はどうするのか、さっぱり検討が付いていなかった。真人は横浜の医者からもらった抗生物質を飲んだ。医者からは「かなり強いので、滅多に飲まないように。」と言われていた。しかし背に腹は代えられない。それを1錠飲んだら、少しは落ち着いた。しかし、3時間後に熱っぽくなり、かーと来るような熱さに苦しめられた。しかし、そのまま寝てしまった。

 

 翌朝、下痢は止まった。トイレへの往復もなくなったが便は白かった。しかし相変わらずカロリーメイトの生活は続いた。残念ながらコックの持参した薬は全く聞かなかったみたいだった。

 原口が部屋にやってきた。

 「俺、明日カトマンドゥに行く。インドに戻る。」

 どうもそれを言いに真人のところに来た感じだった。

 「そうか。元気でな。」真人がそう言うと、

 「お前はどうするんだ?その体でカトマンドゥに戻れるのか?

 原口は言った。真人は抗生物質が効いていたとはいえ、下痢を止める作用だけだ。それでも下痢は完全には止まらず、かなりやせ細っていたのを原口は心配した。

 「どうするも、こうするも、この下痢じゃバスにも乗れない。7時間かかるだろ?カトマンドゥ行くのに。」

 原口が言った。

 「メールバスなら、6時間だよ。」

 「それでも、6時間かかるんだろ?」

 原口の助言通り、メールバスでカトマンドゥに戻る。カトマンドゥまで行けばサキャさんがいる。彼に会えれば、もっと良い薬を処方してくれるだろう。国立病院か、笹川良一が建てた立派な病院もある。なんとかカトマンドゥまで戻りたい。

 

 5月8日

 下痢は続いた。そして日本人たちも全員ポカラを去った。あの生肉を食わせたコックは、食堂に日本人が誰もいないという状況で、自分の過失に悩まされた。雨がどんどんひどくなり、パッカーの数も激減していたのだ。あの雄大なヒマラヤの8千m級の山々も雲に隠れ全く頂が見られない、雨季の時期に入っていた。このままでは完全にポカラ足止めとなるだろう。真人はそう読んだ。現にカトマンドゥ行きのバスが大雨で欠航しまくっていた。早く帰らないと、インドに戻れない。あと5日、5日。

 この日久しぶりに日本人の客がやってきた、佐藤さんという人で名古屋からポカラに入った。というよりパキスタンの国境からネパールのポカラに入った人だった。もともと会社員だが有給休暇を使いポカラにやってきた人だった。もちろん家族には内緒で入ってきたのだ。

 「学生時代に来たポカラが懐かしくてね、家内に黙ってきた。」

 そういう佐藤さんは真人と同じ大の洋楽好きで話は盛り上がっていた。やはり元ヒッピーでネパールにこもっていたらしく、もとは学生運動のリーダーだった。ガタイはごっついが、歯がぼろぼろなのか前歯がほとんどなかった。

 「佐藤さん、俺悩みがあるんです。」真人は言った。

 「いいよ。どうしたんだい?」

 真人はまず自分がお腹を下し動けないこと、5日以内にカトマンドゥ入りしないとインドに行けない、ビザがもうすぐ切れるなどの話をした。

 佐藤さんは真人の話を聞くと、いきなりニコッとした。

 「なんだ、そんなことか。それは・・・という細菌が体に入ったのさ。じゃあこいつやってみるか。」

 そういい、佐藤はポケットから何かモノを出した。黄土色した1つの塊に見えたのだ。

 「なんですか?これは。」

 佐藤が笑った。

 「まあ見てなって」そして佐藤は、自分の持つタバコをほぐし始めた。外枠の髪をそのまま残して。今度はタバコに先ほどの塊をライターでほぐし、タバコの中身と混ぜ始めた。それを2本のタバコにそれぞれ詰め直したのだ。

 「これ吸ってみな。人生観変わるよ。」佐藤はニコッとした。

 真人はそのうちの1本をもらいライターで火をつけた。何か変わった匂いがしたが、味は悪くなかった。それがなんなのか理解はできなかった。

 佐藤は笑いながら言った。

 「糞だよ。糞。わかる?パキスタンで手に入れたんだ。」

 真人はしばらくそのタバコを吸っていた。何ら普通のタバコと変わらないじゃないか?!そう思い立ち上がろうとしたその瞬間だった。いきなり目の前の風景が動き始めたのだ。真人はびっくりして叫んだ。

 「地震だーー!!」

 佐藤は実にリラックスしてチェルシー(当時売っていた飴)のCMソングを歌いだしたのだ。一体何だろう。

 佐藤が言った。

 「兄さん、ヒマラヤ山脈で地震は起きないよ。違う、違うんだ。信じろ!信じたか?わかるかこの威力。はは。」

 真人は宇宙空間に浮かんでいるような気がしたのだ。わからない。前代未聞の現象が自分自身の中で起きていることを知った。目の前が動いている。天井が動いている。何が何だかわからない現象が続く。そのうち母親と父親が出てきたのだ。

 「お父さん、お母さん、なんでネパールにいるんだ?」

 佐藤が笑い転げる。

 「完全にラリったなあ、兄さん。わかるか、パキスタン製の糞は世界一なのだ。」

 何がなんだか分からうちにそのまま寝に入った。目の前は依然と動き続けていた。

 

 5月9日

 目が覚めた。何が起きたのだろう?真人は昨夜の事を全く覚えていない。真人はベッドから這い上がり、佐藤さんを探した。どこにもいない。置き手紙すらない。不思議に思い、フロントの坊やに英語で聞いた。

 「Mr佐藤はどこにいるんだ。」

 すると、フロントの坊やが言った。

 「佐藤?ああ、今朝メール便でカトマンドゥに戻ったよ。」

 真人は仰天した。昨夜のことを確認するにも、当人はいない。一体あの物質は何で、自分に何が起きているかわからなかった。しかし状況を説明できる人物はもはやいなかった。うっ、と真人は腹を押さえた。また下したか。急いでトイレに行き、用を足すと何か自分の中での大きな変化に気づいたのだ。まさか・・・真人は便器の中を覗いてみた。

 正常だ。下痢が止まったのだ。しかも、ポカラに来た当時のままの身体に戻った気がした。嘘だ、絶対に嘘だ、と思いつつ考えた。佐藤が持ってきた物質に何らかの効果があったに違いない。よし!カトマンドゥに戻れる、と真人は確信した。

 急いでフロントに行き坊やに聞いた。

 「あす朝メールバスはあるか?カトマンドゥだ。」

 坊やが真人の質問に快く答えた。

 「あるよ。朝6時だ。」

 すぐ真人は言った。

 「急いで予約してくれ。あすチェックアウトだ。」

 坊やは頷くと70ルピーをよこせという。

 真人はすぐ次の質問を坊やに与えた。

 「車はなんだ。TATA(インド国産)か?」

 坊やが答えた。

 「ベンツだ。」

 真人がすぐに坊やの回答に反応した。

 「わかった。今金を持ってくる。予約してくれ。必ず予約するんだぞ。しくじったら許さないからな。」

 坊やは頷いた。

 これで悪夢のポカラから脱出出来そうだ、と真人は確信した。急いで荷造りを進めた。夕食はポカラ市内のレストランにしようか?と思った。もう日本人たちは誰もゲストハウスに残っていなかった。イスラエル人と思える姉妹が2人、そして真人がゲストとしているだけだった。幸い細菌性の下痢は止まった。いよいよカトマンドゥ、そしてカルカッタ、バンコクに上陸するのだ。

 パッキングにそう時間はかからなかった。片付けが終わり、最後のポカラでの夕食を1人で楽しむことにした。

 

 5月10日

 真人はカトマンドゥにいた。下痢は収まったが歯が痛くなったので、笹川良一の病院へ治療に行った。カトマンドゥのゲストハウスは欧米人バックパッカーしかおらず、真人は絶えず欧米人に質問された。

 「チベットへ行ってきたか?」

 「チベットの情報はないか?」

 誰が訪ねてもチベットのことしか聞いてこなかった。明日カトマンドゥ空港からインドに向かう。行きにお世話をしてくれたインド人のロイさんにテレグラムを打ったのだ。

 「I will be back to Calcutta tomorrow 5PM

カルカッタに着いたら、また行きのような事がないように、助けを呼んだのだ。これでカトマンドゥからのロイヤルネパール航空に無事乗ることが出来るだろう。

 インドはあの辛い日々を思い出す。どうしても長居したくはないと真人は感じていた。灼熱、人の死体、インド人の気質、そして辛いカレー,すべてが真人の内面に記憶として残り、同時にトラウマになっていた。なのでインドの滞在は4日程度にしようと心に決めていた。その道十分な資金がないし、日本から調達なんてどう考えてもできないことだった。いや、旅が続けられることに感謝しよう。あのタイでの誘拐があって、吉村さんの助けがなかったら日本へ帰らざるを得なかったろう。もう終わったことだ。食中毒もほぼ回復したし、無事インドに良ければそれでよかろう。そう思っていた。

 カトマンドゥのゲストハウスを出た。涼しいし空気が澄んでいた。また翌日から50度近い灼熱を歩かなければならない。そう思うとネパールの居心地の良さから離れることに辛さを覚えるようになった。

 宿の近くの書店により、「地球の歩き方インドとネパール」を売った。荷物を軽くしたかった。大したお金にはならないが一食分の食事代になった。それでネパール料理でも食べようかな?と真人は思い、レストランに入った。

 店に入ると、そこは欧米人でいっぱいだった。テーブルに座ると1人の白人女が私に声をかけた。

 「あんたチベットに行かない?行ってきたの?」

 真人は回答した。

 「行かないよ。行きもしない。」

 女は聞いた。

 「じゃあどこに行くのよ?」

 真人はゆっくりと答えた。

 「プーケット、タイランド」

 そう言うと、女は「ぷっ」と馬鹿にしたような態度で席を離れた。

 真人はまたチベットのことを聞かれるのではないかと思い、簡単なカレーライスを頼み、食べたらすぐにレストランを後にした。

 部屋に帰り、日記をつけると、就寝した。

 5月11日

 朝は早かった。直ぐにチェックアウトすると、市内の空港行きのバス乗り場に行った。空港に着ければもうカルカッタである。バスはTATA製のおんぼろだが、まともに走ってくれた。カトマンドゥ空港に着くと、あまりの空港の小ささに驚いた。これでは国鉄の中規模駅と変わらない。真人は荷物をチェックインカウンターに運び、チケットを差し出した。税関を通過する。しかし、ウォークマン所持のチェックは行われなかった。こんないい加減ならネパールで売ってしまったほうがよかったに違いない。

 ゲートに出るとそこにはターミナルバスも連絡通路もない。順番が来たら飛行機まで歩いて行け、ということなのだろうか。そのうち機内預けの荷物をトラックが飛行機まで運び、無造作に飛行機に放り込んでいる。本当にいい加減な国だ、と真人の目に映った。

 「40年以上遅れているかな。」そう感じざるを得なかった。

 

ロイヤルネパール航空の搭乗が始まった。もちろん歩いての搭乗である。飛行機に乗るとサリーを着た女性が出迎えた。初めて美しいネパールの民族衣装に出会った瞬間だ。今まで何を見てきたのだろう、と真人は感じざるを得なかった。

すぐにドリンクのサービスが始まった。これはエジプト航空やインド航空よりよほどいいではないか。乗っている乗客が殆どインド系のビジネスマンで、日本人は真人だけのような気がした。

ボーディング(搭乗)が終わり、飛行機が少しずつ動いていく。そこまでは良かったのだがいきなりメインエンジンが火を噴き、滑走路を走り出したのだ。その早さといい、まるで軍用機ではないか?後で知ったことだが、カトマンドゥ空港は山間部に位置するため滑走路が短いので、ものすごい急角度で機体を上げないとヒマラヤの山にぶつかってしまうそうだ。あまりに急角度の飛行で驚いた。

 

しかし、窓から風景を見た瞬間、生まれて初めて見るヒマラヤの山々と自然が目に入ってきた。雄大ですべてが黄土色をしているのに気がついた。この感覚は今までの真人の人生にはなかった、生まれて初めて見る「地球」の一部であった。エベレストと思しき高台、その先に見えるのはみんなが騒いでいた「チベット」なのであろうか。もちろん中国の一部も目に入った。真人は胸を締め付ける思いで窓から見える風景に唖然としていた。そして感じたのは人間1人1人のちっぽけさである。日本で恋愛や宗教に悩んでいた己の小ささ、そして過去の小ささを感じざるを得なかった。また何日も苦労して登ってきたインドからネパールへの行程もわずか1時間半という短さに代替される、その意義を感じ取った。さながら「ウサギとカメ」のレースのようなもの、時間をかければ必ず目的に到達できるのだ。今までそれをしてこなかった自分自身に呆れ返った。

 英語で「着陸準備」とアナウンスがあった。え?2時間は経っていないだろう。と思いつつも飛行機はあっという間にカルカッタ国際空港に着いていた。

 

 2度目のカルカッタである。入国手続きを終えるとすぐに外に出ようとした。そこに小柄な男性が真人のアルファベット文字を掲げて立っていた。前あった秘書とは違う。私が右手を挙げると小柄な男性は真人に握手を求めた。

 「ようこそ真人さん、カルカッタにようこそ。」

 「ありがとう」

 「私はロイさんの秘書、クマールです。私も6年前日本のAOTS(海外技術者研修協会,真人の以前の職場)で勉強しました。」日本語は相当達者であった。

 「よろしくお願いします。」

 真人は秘書に案内されると専用車に乗り込んだ。なんと、ロイさんは秘書と運転手と車を用意してくれたのだ。なんということだろう?ネパールではまるで個々の戦い、サキャさんはいたにせよ、ここまでの出迎えはなかっただろう。

 車はカルカッタ空港から市内に向けて走り出した。途中牛の糞地帯を車は走る。エアコンはないが軽快だ。これがやはりインドの風景だ。痩せた水牛が道を塞ぎ、クラクションで追いやる。動かないと運転手が降りてほうきで追い払おうとする。ヒンドゥ教では牛は神の使いだ。いじめたり痛めつけたりはできない。牛が動き出すとやっと車が走行出来る場所ができるのだ。

 1か月前に見たカルカッタと何も変わらないし、慣れた分自分の行動範囲が広がった気がした。あすはどこへ行こうか?

 車はメインストリートからカーリガートというカルカッタ南の街に入った。市電が動いていたのは懐かしい。真人はあるホテルの前で降ろされた。「ホテルブリス」と書いてあった。

 「ここがあなたの3泊分の宿です。どうですか。」

 ホテルの中を見た。古いがきちんとしたホテルだ。以前に泊まったカルカッタのホテルとは少し違う。インディアンスタイルのビジネスホテルという感じがした。ネパールでひどい宿を転々としていたのでなれていたのだろうか?

 「いいですね。ありがとうございます。」真人は秘書に頭を下げた。

 「実は私はあす仕事で、カルカッタにはいません。あさってカルカッタをご案内します。」

 真人はここまで気を払ってくれた秘書に頭を下げた。

 「ありがとうございます。」

 秘書は言った。

 「後でロイの方から電話をさせます。」

 真人は頭を下げ秘書と別れた。」お金を3泊分払うと部屋へ行った。

 部屋は小綺麗で、まとまっている感じがした。シャワールームにもバスタブは付いている。とにかくここで3日間過ごせればそれでいいのだ。

 しかし暑い。ネパールの冷ややかな空気とは別で、太陽の光が部屋に容赦なく入り、室温を上げている。時間はまもなく4時を過ぎようとしていた。

 フロント係りが真人の部屋に来た。電話の格好をしたので、ロイさんだろう。

電話のところに行き、取ると懐かしい声が聞こえた。

 「ロイです、お元気ですか?」

 真人は嬉しそうに答えた。

 「やあ、元気です。」

 「ネパールはどうでしたか?」

 「いいところでしたよ。涼しくて。」

 ロイが言った。

 「大変申し訳ない。私は忙しくて動けません。代わりに秘書とドライバーをつけます。」

 「わかりました。残念です。」

 「あの秘書のクマールは面倒見がいいですから安心してください。」

 ロイ氏が動けないのは残念だが、お金とビザの関係は到底解決はできない。真人はブツブツ言いながら外に出た。ディナータイムだ。

 食べ物は民衆のカレー屋に入った。以前あまりに辛いカレーで苦しんだ経験があるからだろうか、英語で「辛くないやつ」といった。それでも出てきたマトンカレーは相当な辛さだった。真人は半分以上残した。真人は宿に戻った。

 残暑残る中、暑くて眠れなかったがなんとか旅とネパールの疲れを癒すために寝た。自然と寝に入り、翌朝を迎えた。

 

5月12日

 良く眠れたのか朝は非常に快適だった。暑さは感じるが室温30度と言うところだろう。真人はシャワーに入り、少し休んだあとでホテルのレストランへ行った。そこのメニューはコンチネンタルブレックファーストがある。それを楽しみにしていた。

 さてこの日はどうしようか?地下鉄(カルカッタ唯一の地下鉄がある)に乗り、市内で買い物でもしようか?

 カーリガートから公園駅まで地下鉄に乗ろうか、と思いタクシーを止めた。すると中には黄色いサリーを着た女性が乗っていた。ブロンドの髪と褐色の肌、しかもブルーアイズ。見るからに「美人」であったが、何か常人と様子が違った。インドの女性が、ましてやこの日中に1人でタクシーに乗っているとは、なんかの上流階級なのか?

 彼女は真人の眼を見つめ、軽くウインクした。なにかこれは普通ではないぞ、と真人は思った。ここまでの過程の中で、これはもしや「売春婦」ではないかと感じるようになった。

 彼女は真人を見て「どこから来たの?」とインド英語で聞いた。

 「ジャパン。」

 「年はいくつ?」その回答にどうしようかと思った。

 「22。」

 女が答えた。

 「ハンサムね。若いし、好きだわ。」と言いつつ、真人の太ももの付け根をギュッと握ったのだ。さすがに真人は驚き、

 「だ、ダメ。」と答え彼女の方を見ると、魔女のような目つきで、

 「ねえ、お兄さん、いいところ行かない。」と言った。

 真人は慌てて、運転手の座席の方に身を乗り出した。そして、

 「ドライバー、カーリガート駅で下ろして!」

 ドライバーは頷くと、1ブロック先で車を止めた。真人はタクシー代とチップを払うと、そそくさと車を降りた。女は呆然としている感じだった。

 それにしても怖かった。一瞬真人はバンコクでのチャイナタウンの出来事を思い出した。あそこまではいかなくても、もっと恐ろしいことがある。それは病気である。HIVが東南アジアに上陸したというニュースは入手していたし、中には原因不明の病原菌もいるらしい。とりあえず先ほどの彼女の接触がなかったことに安堵した。

 カーリガート駅の地下鉄駅の入口には小銃を持った兵隊が2名警備に当たっていた。日本では考えられない光景である。なかに入った。少し薄暗く東京の地下鉄のイメージはない。切符売り場があってそこで買う。そして係員に切符を見せてプラットホームに向かうのだ。おそらく海外の地下鉄に乗るのはこの時が初めてであろう。真人はホームを見渡した。おそらく客が3~4人しかいない。バスや市電はいっぱいなのにどうしたことだろう?階級で乗せないのか?地下鉄が飛び抜けて高いからか、しかし日中の炎天下を遮断する意味では有効である。表なんて灼熱地獄で歩けたものではない。

 電車が来た。なんだか正面の形は営団地下鉄(東京メトロ)千代田線に似ている感じがした。日本の技術で作った地下鉄である。しかし、建設当時あのネパールでの親友原口が見たものは、

 「作業員がスコップで掘って土を1杯のザルに入れて10人くらいでリレーしていた。」

 らしい。その作業でここまでよく地下鉄をこさえたものである。

 電車がついて乗った。正直ガラガラである。真人は4つ目のマイダン公園という最初のカルカッタに泊まった地域に行きたいと考えていた。

 「マイダンパーク」と放送があったので電車を降りた。久々にカルカッタに戻ってきたなあ、という気持ちに真人はなり、嬉しくなった。さてこれからお土産でも買おうか。

 マイダン公園駅を出ると、すぐにインド人が真人の傍についた。

 「なにしたいの?買い物?」

 そう聞くので、真人はなれた口調で、

 「インドシルクが欲しい。どこで安く買える。」

 と聞くと、男は手を叩き、

 「あるよ。私についてきな。」

 と、シルク屋に案内してもらった。

 入口に入ると、大きい、なかには様々なカラーのシルクがおいてある。なにかシルクをみるだけで楽しくなるのであるが、ここは正直に聞くことにした。ブルーの非常に綺麗なシルクをみつけたのだ。

 「こいつはいくらだ。」

 男は主人らしき人に聞くと、

 「200ルピーです」と答えた

 真人は首をかしげ、

 「もうちょっと安くならんか。真人は聞いた。

 主人はシルクを男に運ばせると答えた。

 「見ろ、この美しさとエレガントさ、インド最高級品のシルクだ。見てみい、若いもの、これこそがインドシルクのベストだ。これは200以上、400以上の価値がある。とても下げれないな。

 「うーんでも、150なら直ぐにOKするよ。」真人が言うと、主人は別の召使を呼んだ。

 「この若者にあのシルクをつかわせ。と聞こえたのか、別のシルクを持ってきた。

 見た感じ、前に真人が選んだシルクの方がよかった。

 「若者、見よ、これが100のシルクだ。どうだ。よくないだろう?さっきの方が全然いい。だから前に見せたのを200でどうだ?決めてくれ。」

 なんと強引な?値引きはなしか?確かにインド人で値引きをしたケースはあまりなかった。つまりこういうのがインド商法なのだな、と真人は思った。

 「しょうがねえな。わかったよ。200で決着だ。」というと、主人はすぐに握手をもとめた。2人はなんだかわからない、固い絆の握手を交わした。

 

 ほかのシルクは諦めることにした、バンコクに戻ればタイシルクがある。真人は近くでカレーを食べまた地下鉄に乗り、カーリガートに戻った。その日は簡単に食事を済ませ寝ることにした。

 

5月13日

 ものすごい暑さに驚いた。午前8時、もう暑くていられない。直ぐにシャワーを浴びるが浴びたあとの水滴が直ぐに蒸発する位の暑さだ。

 真人はすぐに部屋を飛び出し、フロント前に行った。ここだけはエアコンがあるのだ。

 「いま何度ですか。」フロントに英語で聞いた。

 「38度かな。今日は45,6度は行くと思うよ。」

 「そんなぁ~」

 真人は辟易した。もうすぐタイのバンコクだというのにその一瞬が耐えられない。涼しいカトマンドゥにいただけに、この暑さは筆舌に尽くしがたいのだ。何度シャワーを浴びても、タオルで体を拭かないでベッドに寝転がっても、体は干からびらコルクのようになってしまうからだ。しかもシャワールームには無数のヤモリが張り付いている。この環境も安住ではない、と感じた。

 朝食をとり、唯一エアコンがあるフロントでTVを見た。世間はインドとパキスタンが戦争になるぞ、と騒いでいる。日本から来た自分にはあまり関係ない話ではあるのだが、この国では常にイスラム圏との争いが関心事なのだろうと思った。

 暫くすると秘書が来た。真人はこの日は秘書との一日同行となる。カルカッタの市内観光だが、真人が行きたいのは一つ、マザーテレサの「死の待つ家」だった。

 「どうですか?カルカッタは?」秘書の質問に真人はただ答えた。

 「暑い、それだけです。」

 秘書は笑いながら言った。

 「今日はとりわけ暑いです。もう40度です。今日は50度になりますよ。」

 真人は秘書が冗談で言っているものと思っていた。しかも笑いながら言うので、イギリス流の冗談でも言っているものと思い、こう返した。

 「クマールさん、今はインドの砂漠にいる痩せこけた牛のようですよ。これ以上痩せこけると食べる肉はありませんな。」

 秘書が突然真面目な顔になった。

 「インドでは牛は食べませんよ。神様ですから。」

 真人はしまった、と思った。冗談をひねり出そうと考えている中で、宗教問題を忘れていたのを後悔した。しかしもういいだろう、と思い支度をして、秘書の車に乗り込んだ。

 秘書が得意げに言った。

 「今日はカルカッタ博物館、カルカッタのお城の跡でも行きましょうか。夕食はあなたが毎日カレーを食べて飽きているでしょうから、中華にしましょう。」

 真人はラッキーと思った。中華なんて、ネパールのモモ(餃子)以来だろうか?インドで中華が食べられるとは思っていなかったのだ。

 車は博物館の前に着いた。秘書と真人は博物館の前まで行った。なぜか、秘書が頭をかしげるような素振りをしたのだ。そして博物館から出てくる係と思しき人間と話していた。ベンガル語なのでさっぱりわからなったが、秘書が真人に歩み寄り言った。

 「どうも博物館は、今日は休館ですな。お城の方へ行きましょう。」

 真人は流石に耐え兼ねて言った。

 「クマールさん、私行きたいところがあるのですが。」

 「ほう、どこですか。」

 秘書が関心有りげな素振りで聞いてくるので、真人は言った。

 「マザーテレサの死を待つ家です。」

 秘書と真人との間に沈黙が出来た。秘書もどう言い出そうかわからなかった。真人もインドの友人に対して少し引け目を感じていたが、どうしても見たかったのだ。1分はたっただろうか、炎天下45度は超えていただろうか、汗は全く出ず露出された皮膚は赤く焼けただれ悲鳴をあげていた。

 「ダメです。」秘書がきっぱりとといった。

 「どうしてですか。」真人は聞いた。

 「ロイさんから言われています。インドの厳しい部分は見せてはいけないと。お気持ちはわかりますが、あそこは見ないほうがいい。」

 真人は秘書に言った。

 「でもカルカッタに行ったら絶対に見なければいけない場所です。それに・・」

 秘書が真人の言葉を遮った。

 「ダメなものはダメです。」

 真人は黙った。秘書は立て続けに言った。

 「私たちはAOTSで知り合った友人です。だから行かない方がいい。日本インドの友好のために。確かに恥ずかしい部分ですよ。インドは貧しい。しかしこのまま貧しい状態ではない。将来きっとインドは経済的に日本を超えると思います。だから、友人として、インドの今の恥ずかしい部分を見て欲しくない。そういうことなのです。」

 暑さはもう耐えられない程の状態になった。秘書と真人は日陰に移動した。真人は思った。もうこれ以上何を言ってもダメだろう。むしろお互いが友人同士でいる方が、死の待つ家を見るより重要なことなのかもしれない。日本の恥部と言われている、浅草の山谷や横浜の寿町をあえて外国人に見せるだろうか?そんなことをして何になるのだろうか?真人は改めて感じ取った。秘書の言うことは間違いない。いつかインドが日本を経済で上まわるだろう、とは信じ難かったが、日本以上の大国だ。ここは礼を尽くすべきであろうと感じた。

 「クマールさん、わかりましたよ。お城に行きましょう。」

 秘書は真人の態度に笑って答えた。

 「わかっていただけましたか?ありがとう。じゃあ行きましょう。」

 2人は打ち解けたのか、その後の城壁やモスクの見学も楽しそうだった。

 

 夕方6時、車はホテル裏の中華料理屋に着いた。

 「今日はここで中華料理を食べましょう。」

 真人は久々の中華にありつける嬉しさでいっぱいだった。そういえば、初めてカルカッタに来た時も、例のスイス人シェフと最後の晩餐を交わしたのも、中華レストランだった。カルカッタは何げに中国人が多いのだろう。真人たちが中に入るとウエイターは全てインド人、中華をインド人が出すなんて信じられなかった。

 秘書は得意芸に言った。

 「ここの中華はカルカッタ1ですよ。」

 秘書の言葉を聞いて真人は言った。

 「インドの人はカレー以外食べないと思っていましたよ。」

 秘書は笑いながら言った。

 「ははは、でもやっぱりカレーですよ。中華は食べませんよ。この店はAOTSの職員が来た時も連れてきました。」

 なるほど、日本人なんてカレーばかり毎日食べていたら嫌気がさすだろう。とはいえ,カルカッタには日本料理は乏しい。デリーやボンベイに行けばあるだろうが。

 注文をしたらチャーハン、餃子、卵スープ、チンジャオロースなどが出てきた。真人は食べてみた。横浜中華街ほどではないが、味はなかなかいけるかもしれない。

 「クマールさん、ここの、横浜の中華より美味しい。あの上大岡の中華より。」

 秘書は笑って答えていた。

 「上大岡懐かしいですね。京浜なんとかの電車がありましたね。」

 ここへ来て横浜の話題になった。港の見える丘公園とか山下公園、中華街の話も出た。考えてみれば、横浜を離れて1ヶ月半以上経つのだなあ、と思った。

 「クマールさん、いつ日本に来られたのですか。」

 真人は聞いた。

 「今から5年前です。1982年かな。」

 「しかし日本語お上手ですね。」

 真人は言った。

 「そうですね。一生懸命勉強しました。だいぶ下手になりましたが、国が派遣するグループに入れました。」

 そうか、この人も国賓留学生なのか、と真人は思った。

 「クマールさん、インドは日本を抜くとさっきおっしゃいましたね。どうしてですか。」

 真人は、インドは経済で日本を抜けないと思っていた。

 「経済では今は負けています。でもそれはパキスタンと戦争をしているからです。インドの国民は頭が良くて、マスマティックスが得意です。将来インドはいつか日本を超えるでしょう。だから勉強しなければならない。日本人よりも、ですよ。パキスタンと戦争をやめれば絶対国は良くなります。」

 真人は秘書の考えに同調した。大学ではどの経済学教授も「向こう1世紀は日本とアメリカの時代が来る」と言っていたが実はそんな話は嘘ではないか、と思った。

 「あとね、中国。ここは最初に日本を超えると思います。」

 秘書はそう言った。中国とインドの時代が来ると読んでいるのだろう。

 「インドと中国ですか。AOTSでも彼らの優秀さはとび抜けています。」

 真人は美味しい中華に感動し、あす帰るプランを考えていた。

 「明日は、運転手だけがあなたのホテルに行きます。安心してください。」

 明日は久々のバンコクに行く日である。懐かしいバンコク。嫌な思い出もあったが無事インドを出られるだけでもいいではないか。

 秘書と別れ、真人は部屋に戻って荷造りした。日中40度を超えた部屋はもはやサウナとしか言えないくらい暑かった。その夜はシャワーを6回入った。暑くて眠れないのだ。仕方がないのでバスタブに水をいっぱいにいれてここで寝ることにした。ヤモリたちと一緒の水遊びだった。

 

 5月14日

 カルカッタ空港へ行く日だ。ここからまずバンコクに入る。泊まる所は例の以前に泊まったバーランプー市場近くのトラングにしよう。確かエアコン付きの部屋があるはずだ。いい加減カルカッタの猛烈な暑さにやられてしまったので、エアコンのある部屋が恋しくなった。

 AOTS時代の真人の部屋は、冷暖房完備だった。426号室という、角部屋で眺めも良く横浜の上大岡市内が見渡せる場所にあった。風呂も近く、また食堂に行けば食事が25%オフで食べられ、ビールも飲めた。学生バイトとしては最高のサービスを享受できた。しかし、今は気温40度以上、エアコンなし、水は水道で消毒剤を入れて飲む。毎日プールの水を飲んでいるかのようだ。部屋にはヤモリ君が張り付き、風呂上りはヤモリが真人の体に乗ってくる。なんでこんな馬鹿げた旅をしているのだろうか?早く日本へ帰り仕事を探さねば。ただこれ以上くたばった体を癒す場所を真人は自然と求めていたのだ。それがタイのプーケットであった。

 プーケット?東洋の真珠と言われるアジア最大のビーチリゾートだ。実はプーケットより当時はパタヤの方が有名だったが、AIDS騒ぎで非常に評判を落としていた。所謂「売春ツアーの拠点」として、バンコクのパッポン通りと双璧をなしていたのだ。元々はベトナム戦争時に米兵の休戦地として発展したパッポン通りであるが、だんだんとその王座の地位をプーケットに明け渡そうとしていた。もちろんプーケットも有名になれば、また代わりのリゾートが出来て没落していくだろう。だからタイに戻れば早めに行かなければ。真人は兎に角暑さから逃れたい一心で、心は既にタイランドだった。

 既に「ホテルブリス」にはお迎えの車が到着していた。ロイさん、クマールさんには申し訳ない。本当に感謝の意を表し、ホテルを出発した。

 カルカッタ市内をしばらく走るとすぐに原野が現れた。自動車はインド製のTATAと日本の自動車であるスズキの軽が走っていたが、圧倒的にTATAが多い。ガタガタの悪路に加え、車窓は本当に原生林のような場所に入り、何やら焦げ臭い匂いが漂った。恐らく野を焼いているのだろう。この光景を再び見ることはほとんどなかろう。一度死にかけたバス旅行を思い出した。では命が助かった分タイで豪遊でもしようか。

 2時間ほどでカルカッタ国際空港についた。インド航空に乗れればバンコクだ。無事飛んで欲しい、そう真人は祈った。

 出国、税関を通り過ぎ、搭乗口に行った。インド航空は14:30に出発だ。時差は1時間。既に真人はバンコク時間に時計を設定した。

 搭乗の許可が出た。バスで飛行機のあるところまで乗った。タラップを登り飛行機内に入るとサリーの女性アテンダントが迎えてくれた。インド・ネパールの旅が終わろうとしていたのだ。しばしインドの英語新聞を読みながら飛び立つのを待つのみだ。

 しかし、出発時間になっても飛行機はびくとも動かない。おかしい、と真人は思い、窓の外を見た。幸い窓側をアサインメントで抑えて置いたのがラッキーだった。

 なんと自分の飛ぼうとしている飛行機のエンジンカバーを外していた。エンジニアが修理しているのか、しかもその数10人は下らない。なんということだ。飛行機は飛ぶのだろうか?

 そのうちエンジンの修理作業員がどんどん増えていった。機内放送もない。真人はアテンダントを呼んではなしした。

 「飛行機はいつ飛ぶのか?」

 アテンダントはこう答えたのだ。

 「エンジンをリペア(修理)しています。少しお待ちください。」

 真人は驚いた。周りの乗客を見たが一切の同様が見られない。それどころか客はみんな騒ぎ大笑いまで聞こえる。外では727のエンジンを解体しているのだ??

 これがインドであろうか?果たして飛行機は飛ぶのであろうか?外の様子をつぶさに覗いていた。すると、一人の作業員が大げさに、「わからない。」のジェスチャーをしだしたのだ。

 真人は青ざめた。キャビンアテンダントをもう一度呼んだ。

 「飛行機は飛ぶのか?」

 サリーのアテンダントは答えた。

 「もうすぐリペアー(修理)は終わります。」

 本気に真人は怖くなった。機内では大笑いが聞こえ、外ではエンジンの分解が進んでいる。このまま飛べてもどこかで不時着するのではなかろうか。真人は要らぬ不安を抱えながら作業を見ていた。

 

 2時間後機内放送があった。「整備が終了したので飛びます。」あれは果たして整備だったのだろうか?どうしても謎が残った。あれがインド流としたら、あのカルカッタの地下鉄を手彫りしたのとほぼ一致するのではないか?まあいい、無事バンコクまで飛んでくれさえすればいいのだ。

 飛行機は飛び立ち、バンコクに向かい旅立った。しかしだ、なにか異常な低空飛行をしている。果て?国際線はもっと高いところを飛ぶのではなかろうか?どう見ても「低空」過ぎるのだ。カルカッタを離れ1時間、眼下に見えるのはバングラディシュのデルタ地帯だった。窓からヤシの木が見える、川が見える、え?ボートも人の家まで見える。これが果たして国際線だろうか?それとも別な理由があるのであろうか?

 飛行機は気流の影響でものすごく揺れた。いや、気流というのはもっと高いところを飛んでいる場合に言うもので、これは単なる「風」の影響ではないか?おしぼりタイムと機内食のサービスが始まった。真人はトレイをだそうとしたら、「バキッ」と音がして割れた。もう全てがぼろぼろだ。727、早くバンコクに着いてもらえないだろうか?

 2時間が経つと機内放送で「まもなく着陸態勢に入ります。」とのアナウンスが聞こえた。なんか早くないか。それでも飛行機がドン・ムアン空港に無事着陸してもらえることを祈った。

 タイの家々が見えて、飛行機は無事バンコク、ドンムアン空港にランディングした。ああ、良かった、なんとかインドを抜け出せた。真人は安堵に包まれた。

 飛行機はこの時ばかり珍しく、空港の移動通路に繋がれた。無事インド航空を降り、中に入った。何もかも懐かしいバンコク空港の姿が目に映った。

 空港を出ると、又しても南国特有の暑さを感じた。真人は市内に入る路線バスを探し、とにかくバンコクの市内を目指した。バンコク市内のどこでもいい。ルンピニ、スクムヴィット、シーロム、バーランプー、誘拐されたチャイナタウンは困るがまずはバーランプーがいいだろう。

 バスはノーエアコンであったが暑さはインドほどではなかった。車掌から見る風景、家々、人、特にサリーしか見てこなかった真人に、女性のミニスカートはとてもセクシーに見えた。「ああ、やっと日本に近づいたか。」ただ目的はプーケットだった。

 バスが王宮のあたりを走った。ここならどこへ降りても大丈夫だろう。比較的大きなホテル(シャングリラ)の近くで降り、そこからバーランプーへ行くバスを探した。バンコクバス路線マップを取り出し、バスを探した。

 「ところで今夜の夕食はどうしよう?」

 真人はまずトラングホテル周辺に行くことにした。夕方のラッシュアワーであったが、王宮からそう遠くはない。バスに乗ると15分もしないうちに、懐かしい市場街に到着したのだ。

 ホテルに入る前に何かを買おう、と思い屋台を歩いた。あるある、グリーンレッドカレー、アヒルの丸焼き、カオパッ(焼き飯)、うどん、トムヤムクンまである。あーバンコクに戻れた。嬉しい。その屋台街の中でも目を引いたのが、牡蠣のお好み焼きだった。屋台の兄ちゃんのてきぱきとした作業、牡蠣の焼いた匂いとお好み焼きの香ばしさ、全てが真人を魅了した。流石に現地タイ人も好きなのだろうか、行列は出来ていたが、なんとしても食べたい、その一心だった。

 牡蠣のお好み焼きとメコンウイスキーを買いトラングに行った。何もかも懐かしい。フロントに行くと、「あ、あのおじさん」とお会いした。

 英語が達者なおじさん、ニップンさんだ。真人がチャイナタウンの悲劇に見舞われ、宿を貸してくれたおじさんだ。あの時は50バーツの部屋で申し訳ないことをした。ニップンさんに、自分のことを覚えているか、真人は聞いた。

 「もちろん覚えているよ。」

その言葉を聞いて真人は嬉しくなった。真人はエアコンの部屋があるか、聞いてみた。

 「エアコン付きの部屋はありますか。」

 おじさんが答えた。

 「あるよ、220バーツワンナイト。」

 真人は嬉しくなった。

 「それにしてください!あとビールと氷をルームサービスで。」

 真人は宿帳を書くと鍵をもらい部屋へ向かった。どうも真人が泊まっていた部屋とは別にあるらしい。部屋に入ると、旧式ではあるはエアコンがあった!当たり前だが涼しい。真人は一回りもふたまわりもたくましくなってバンコクに戻ってきた。風呂の大きい鏡を見ると筋肉隆々の上褐色の肌、顔はインド人並に焼けていた。

 シャワーを浴びすぐにビールが運ばれた。先ほど屋台で買った牡蠣のお好み焼きを開けると、誠に美味しそうな香りが漂った。これにシンハビールで旅の疲れを癒そう。

 「バンコク万歳!!」真人は叫んだ。

 エアコンが回る涼しい部屋で1人宴会が始まった。

 シンハビールを飲み干し、さらに2瓶を追加注文した。

 「一番今が幸せかな。」真人は旅を振り返った。そもそも大きな旅の軌道修正は、この近くで起きた誘拐事件がきっかけだった。2度本当に死を覚悟する事態を経験し、食中毒もあった。なぜ今自分が無事にここで過ごせるのか不思議だった。しかもこれが初めての海外での旅、こんなにあれもこれも日本では体験できないことをしてしまって良いのだろうか?

 日本に戻ればどこへ行こうか、住む場所はどこでもいい。恐らく横浜のAOTSかもしくは仙台の実家だろう。でもAOTSに戻れば昔の彼女が働いている。気まずくないだろうか?仙台の実家に戻ればお仕置きだろう。どっちにしてもいいことはなさそうだ。札幌でも移住してしまおうかとも考えていた。

 それよりまずはプーケットだ。これを達成してからあれこれ考える事にしよう。翌日バーランプー市場の旅行会社に行ってみよう。

 メコンウイスキーのロックにしてから、前日のカルカッタの猛暑の疲れからついにうとうとしてしまった。

 

5月15日

 翌朝、部屋の清掃で起こされた。時間を見ると12時!!しかも体があちこち痛くて起きられなかった。お腹がすいたので下のレストランで焼き飯を食べに行った。バーランプーの旅行会社は行く気がしない。この日になって体の蓄積されていた疲れがドッと出た感じだった。

 この日は寝ていよう。エアコンもあるし誰も邪魔されない。そんな気分で5時まで寝て、その後日記を付けるなり過ごし、夜は屋台飯の買い出しとシンハビールを買って部屋にこもった。

 

5月16日

 やはり起きたのは11時すぎだった。ここへ来て休養が欲しくなったが、今日はバーランプーにある市場へ行き、プーケット行きのチケットを買いに行こうと心に決めた。

 真人はバーランプーへの裏道を知っている。少し怪しげなバンコクの民家の隙間を通り過ぎ、市場へ向かった。10分も歩けばバーランプー着である。市場に近づくとだんだんとドリアン(フルーツの一種)の甘い匂いが強くなってくる。

 バーランプーで旅行会社に入った。対応は全て英語である。

 魔裟斗はカウンターに腰掛けた。すると英語の堪能な女性が来た。

 「ご要件はなんでしょうか?」

 真人は聞いた。

 「プーケットまでバスで行きたいのですが。1人です。」

 女性が答えた。

 「大丈夫ですよ。ご用意できます。いつですか。」

 「2日以内」

 「わかりました。」

 真人はさすがバンコクの旅行会社だと思った。ネパールやインドなど比べ物にならないくらい早い。てきぱきしていて、言い訳などしない。

 「あさってなら夜出発のバスなら取れます。ツアーバスで120バーツ、12時間掛かりますけれどエアコン付きです。」

 真人はギョっとした。

 「12時間ですが。」

 そんなにかかるのか?12時間あの狭いバスの中でどうすればいいのか?しかし考えてもしょうがない。飛行機なら1時間くらいだろうが、もうお金は10万円を切っているのだ。

 「わかりました。予約してください。」

 「かしこまりました。」

 女性は奥に入るとバウチャー(予約券)の発券を行った。そして受け取り支払いを済ませるとエアコンがものすごく効いているデパートの中に入った。たしかカルカッタ行き前にここでカセットを大量に買った覚えがあった。

 中に入り、以前食べたシーフードあんかけ焼きそばを食べた。これが大好きで懐かしい味に思わず喜んだ。タイの辛い醤油を足した。

 カセットを数本買い、そばのカフェでコーヒーを飲んだ。全て懐かしかった。ああ、こんな思いができるなら日本に帰らなくてもいいだろう、とまで思った。

 カフェのお姉様たちがとても綺麗だ。タイ語日本語は全く通じないが、なにか気持ちが通じ合う気持ちだった。真人はこの場所から離れたくなかったが、時間が来れば宿に帰らないといけない。プーケットへの出発は明後日だ。まずは体調を整えてバスに乗らないといけない。

 真人は夕方までに帰った。このところ毎日レストランの食堂ばかりだ。20バーツ程度(120円)で安いし、ボリュームもある。あさってまでこの部屋に閉じこもろうか。そんな気持ちにもなった。やはり暑いタイではエアコンは必需だなと感じた。日本に帰ればどんな貧民生活が待っていることだろうか?それまで十分に鋭気を養って帰国できればいいだろう。

 いろいろ考えているうちに睡魔が襲ってきた。真人はそのまま睡眠に入っていった。

 

5月18日

 夕方ついにプーケット行きのバスに乗る時間が来た。まずは必要な荷物と現金をデポジットした。道中でやられては元も子もなくなるからだ。所持金は既に日本円で8万を割っていた。いくら物価の安いタイでも、8万はあっという間だろう。真人はニップンさんに3万円をデポジットして、出発することにした。

 真人は横浜のAOTSに手紙を送った。5月31日のエジプト航空を予約したのだ。「まさか一文無しになるわけはない。」と思いながらも、かつての仲間が助けてくれるかも知れない、そう思い手紙を送ったのだ。AOTSの工藤、板垣あたりが見てくれるかも知れない。その期待を胸に、最終目的地であるプーケットを目指すことにした。

 宿の前の道でトゥックトゥックを捕まえた。簡単なタイ語を話し、バス乗り場まで行ってもらうことになった。バスは夜行で7時タイのトンブリ地区というバンコクの隣町から出る。真人はタイ語で書いた地図を見せて、そこまで行ってもらうことにした。

 喧騒のバンコクからハイウェイに乗り3輪のトゥックトゥックは快走した。大きなチャオプラヤー川の橋を超えると向こう岸に王宮が見えた。荘厳たる風景だ。バスは川向こうのトンブリから出る。エアコンバスというのは嬉しかったのだが、いかんせん12時間はきつすぎる。確かカトマンドゥからポカラまでが7時間だから最も長距離を走るバスだ。真人はバンコクからプーケット市内までの距離を測った。850kmはある。つまり日本で言えば東京~広島に匹敵する。しかし、それは日本の話で、プーケットまではジャングルも走るし、場合によっては山賊も出るかもしれない危険地帯と聞いていた。そんな中で12時間とは、どこまで貧乏旅行は厳しいものだろうか?今度来るときは稼いでバンコクから飛行機を利用しよう、真人は誓った。

 バス乗り場近くで待っていると青いバスがやってきた。タイ語の下に「phuket」の行き先表示がある。直ぐに女性の車掌(?)は降りて、旅行者のバウチャーを確認する。真人の座席場所が案内された。なかなかいいバスである。いすゞ製の綺麗なバスだ。ネパールのインド国産TATAなんて比ではない。これなら12時間は耐えられるかもしれないと真人は思った。

 「みんな住民ばかりだ。」そう気がついたのもツーリストがいない。言葉が通じないのでどうにも確認できないが、見たところタイ人だらけだ。しかし確信できるのは間違いなくプーケットまでは運んでくれることだ。インドで体験したようなバスエンコがなければの話なのであるが。

 バスは動き出した。

 バンコク市内を30分走ったと思ったら、既に周りはジャングルだ。何処を走っているのかさっぱり見当がつかない。ただ一つ言えることは、タイの南部の街、ハジャイの方向に走っていることだけだ。周りは真っ暗だし寝るには早いし、車内は暗いので音楽を聴くくらいしかできない。バンコクで買ったスティーブウインウッドの「ハイヤーラブ」をおそらく5回は聞いたかと思う。そのうちに眠くなり、真人は寝入った。

 暫くしてだ。突然バスが停車をすると人が乗り込んできた。何をするかと思ったら現地の警察らしい。2人乗り込み、1人がVTRを撮りだした。確かこの辺は山賊が出没して事件が多いと聞いていた。VTRの撮影は、乗客の安全を図るためか、なにか犯人グループを見つけるためかわからなかった。ジャングルの薄暗い検問所にてバスは20分くらい停車したのだ。少しお腹がすいたので、屋台で買った焼き鳥を食べた。

 バスは動き出した。真人は時間を見た。まだ3時間も経っていなかった。とにかく名観光地「東洋の真珠」を見るため、あと9時間は我慢しなければならない。

 真人は寝入ろうとしても、約2時間ごとに1回起こされる。たまったものではない。12時に起こされ、2時過ぎに起こされた。そして3時。

 バスが止まった。ドアが開き、なんだか乗客がどんどん降りていく。真人も降りて見ると、そこはジャングルの中のドライブインだった。この光景どこかで見たことがある、と真人はあの映画のシーンを思い出した。映画「地獄の黙示録」で主演のチャーリー・シーンが米軍の酒保で食べ物飲み物を貰うシーンだ。

 真人は一列になり乗客と並んだ。すると目の前にあったのは、焼いた肉、野菜とお粥のセルフサービスであった。真人はこうした無料の夜食サービスを喜んだが、夜中何度も起こされるツアーに辟易としていた。なるほど、外国人はいない。地元しか乗らない理由がわかった。

 お粥をただ食べていると、前の親子がはしゃぎだした。どうも真人と遊んで欲しいらしい。日本から来た兄ちゃんとは思わなかったのだろうか、簡単なボール遊びをした。蒸し暑いジャングルの中であったが、無性に楽しかったのだろうか、何度も小さいボールを投げ返した。

 「お兄さんはどこの国から来たかわからないだろう。」

 真人はおどけた。なにか久々に日本を離れて自由に楽しめた一瞬だった。これからのプーケート旅行が楽しいものでありますように。真人は祈った。

 バスに乗ると、すぐに動き出した。時間は夜中の3時半くらいであった。あと6時間くらいであろうか、なんとか寝ようにも眠れない。近くですごい爆音のようないびきが聞こえた。乗客だろうが、さらに眠れなくなった。なぜかバスの中で終日映画をやっていたが、タイ語吹き替えなので全然わからないのだ。仕方がなく目を開けたまま横になっていた。これはエアコンバスでよかった、と真人は思った。ノンエアコンならストレスが最高潮にまで達していただろう。

 眠れない。あ~あ、眠れないと、「ひつじさん」を数えているうちに、流石にウトウトが始まり、いびきも小さくなり検問地帯もないため起こされる要因はなくなった。

 

 目の前が明るくなった。うん、ここはどこだ?真人は外を窓から見た。どうやら街のようだ。人が歩き、家々も見える。そして看板が見えたとき「phuket town」であることがわかった。真人は時計を見た。6時半ではないか?ということは12時間ピッタリ位の到着ではないのか、と思った。

 バスはタウンを抜けていくと、バスが大きな駐車場に入っていくのがわかった。そして

バス乗務員の女性が「着きました。」というタイ語の挨拶のあと「コープクンカッ(ありがとうございます)」と頭を下げた。まるで日本人のバスガイドのように。

 真人はバスを降り、ビーチ特有の浜風をいっぱいに浴びた。周囲を見渡した。すぐにバイクのお兄さんが英語で話しかけてきた。

 「どこへ行くんだい。」

 真人は答えた。

 「ビーチ、でもまだ予約していないんだ。」

 サングラスのお兄さんが答えた。

 「安いコテージなら案内できるよ。カタビーチ。」

 プーケットはパトンビーチが有名だが、静かで綺麗ならカタと聞いたことがあった。真人は聞いた。

 「1泊いくらだ。」

 「250バーツ(1500円)くらい。」

 それならいい、と思いそこを迷わず選んだ。

 真人はバイクの後ろに乗り、カタビーチ彼のおすすめする場所に向かった。道は舗装されず、ガタガタだったがバイク乗りは容赦なく悪路を猛スピードで走る。そして長い長い坂道を登り、頂点に達した時、目の前に視界が広がった。一面真っ青のビーチ、インド洋である。

 「わおー!」

 真人は興奮した。やった!ついにプーケットに来たのだ。ヒマラヤの麓まで行き、ジェットコースターに乗るかのごとく。真人はインド洋を一望できる場所にいる。

 バイクは下道を降り、コテージのフロントまでつけた。コテージはまるで茅葺き屋根の形をしており、表はしっかりとタイ風の趣をしていた。十分すぎるほどの宿だ。

 真人はバイクにお金を払い、フロントまで案内してもらった。チェックインと3日分の宿泊料を払い、コテージに案内してもらった。

 まだ出来たばかりだろうか、全部がタイの家風のアレンジを施し、中は異様に広かった。エアコンこそはなかったが浜風が心地よく、これなら夜は涼しいだろうと思った。流石にバスは疲れた。真人はそのコテージにある大きなベッドの上で寝てしまった。

 気がついたのが昼くらいだ。時計を見ると、12時10分だった。流石にお腹がすいたのだ。ホテルにあるレストランに行こう。真人は海側にあるレストランに入り、メニューを見た。焼き飯25バーツではないか。しかもシンハビールが10バーツ。バンコクより安いのではないかと真人は思った。これを注文してビールを飲んでいたら、後ろに人の気配があった。

 「日本人ですか」その男は答えた。

 「そうですが。」

 「やっぱそうかあ!」

 男ははしゃいだ。褐色に焼けた肌と全身の刺青、とても日本人に思えなかった。

 「座っていい。いや嬉しいな。日本人に会えたよ。ボブ、日本人だよ。」

 ボブという男がのそのそやってきた。大柄な優しそうな男だった。

 「俺ヒデっていうんだ。こいつはボブ。タイの穀物会社の御曹司。あんたは?」

 真人は自己紹介した。

 「真人だ。横浜から来たんだ。最近はインドにいたけれど。」

 「へぇー横浜かぁ。俺は東京。近いね。よろしく!」

 ヒデという男との短い交流が始まった。先に注文した食事を片付け、話を聞いた。ヒデは日本に飽き飽きして真人と同じ貧乏旅行に出たら、バンコクでボブという御曹司に会い、意気投合してプーケットに来たらしい。真人とはほぼ同年代で、無職も同じだった。

 「真人さん、食事したら海に入りませんか?」

 真人は言った。

 「いいねえ。じゃあ支度してくるから5分待っていて。」

 真人は思った。この2人から悪人の感じが思い浮かばないが、何かある。とりあえずお金はホテルのデポジットに預けよう。そして、水着は。短パンしかなかった。まあいいか。

 5分後に真人は食堂に現れた。3人はホテルから歩けるビーチに歩いて行った。

 ビーチまでの道のりは5分となかった。真人はインドからサンダルだったので、そのままビーチの白い砂を踏んでみた。

 なんてやわらかいのだろう。暑さは日本のどこの海岸も同じだが、砂が柔らかい、しかも透き通るような白さ、沖縄に行ったことすらない真人にとって信じられないくらいの美しさだった。ビールで少し酔ってはいたが暑さですぐに汗でアルコールは出てしまった。

 ヒデが大きな声を上げ、海辺に走り出した。

 「いま行くぞ!!」

 真人も水際目指して走りだした。

 全面光が目に飛び込み、青々とした海、そして限りなく白い砂浜。海は完全に透けて見える。太陽のギラギラはこの際気にならない。なんといっても淡水のプールより透明な色の海。それが東西果てしなく広がる。

 「インド洋は世界一きれいだよ。」

 ヒデが言った。確かに生まれて初めて海外の、しかも東洋の真珠と言われるプーケットの海を満喫している。ヒデ、ボブ、真人以外に海には誰もいない。確かに海と光以外は何もないのだ。ずっとむこうに船らしいものが1艘見えるだけだ。

 真人は潜ったり浮かんだりを繰り返した。今まで自分が旅してきたもの、苦痛と死を覚悟した自分はなんだったのだろう。そして今知り合った2人とこうして楽しめるのが一番の幸せだった。味わったことのないこの世の「楽園」だったのだろう。

 泳ぎ着かれたのだろう。3人とも岸に上がった。

 「こんな美しい海初めてだ。」

 真人が言うとヒデが答えた。

 「帰りたくねえ。日本なんて。」

 真人はなにかその一言で自分の中が変わろうとしていた。今までの不満が吹き出そうだったが、ヒデが答えた。

 「俺医者だったんだ。東京でな。毎日どこが悪いだの、なんとかしろとか、患者が頼ってくる。もし処方に失敗すれば訴えられる。もともとてめえが病気になるような生活しているくせによ。その他医師会、市、都、政治家、うるせいやつらだ。真人、そう思わねえか?日本は何もしなくても金取られるんだぞ。無職でもな。それに比べてここはすべてが自然、自由。なんの義務もない。このボブさまがすべての味方だ。彼はタイ一番の穀物会社の御曹司だ。なあ、ボブ?」

 ボブは頷いていた。いや、頷くだけだった。

 「真人もよければここでずっと住まないか?日本に帰ってもいいことがないぞ。」

 真人は答えた。

 「ヒデ、いいなあ。俺もそうしたい。けれど親が許さないんだ。大学の就職を放棄してここまで来ている。日本に変えれば大目玉かな。」

 ヒデがケタケタ笑いだした。

 「お前さ、そんなに世間並の生活がしたいの?医者の俺が全部投げ出したんだぞ。そんなに日本がいいの?そんなに横浜にけえりたいのか?ボブは一生使いきれないほどのお金を持っている。それにあやかろうじゃないか。」

 真人は考えていた。日本に帰っても就職活動がある。新卒のカードを放棄してしまった今、もうまともな生活は送れないかもしれない。それに比べてここ(プーケット)は天国だ。いつまでもいたい。横浜上大岡で傷ついた心を癒したい。

 「さあ、トムヤムクン(タイの料理)でも食いにいくか。」

 ヒデが立ち上がった。どうやらレストランに入るらしい。真人とボブもついてレストランに入った。

 ボブがタイ語で一通りの注文をした。何かすごい数の注文だった。

 「いいのかい。俺そんなにかねないぞ。」

 真人が心配そうに言うとまた、ヒデはケタケタ笑いだした。

 「全部ボブのおごりだよ。」

 真人は本当にヒデとボブに感謝した。

 ビールを飲んだ。すこぶるうまい。真人たちの横には給仕がついている。

 「真人、何飲む?」とヒデが言うので、

 「メコンいいかい?ロックで。」

 ヒデが言った。

 「いいよ。ボブ、作らせて。」とヒデはボブに指示をした。

 真人が話しだした。

 「君たちのもてなしは最高だ。ありがとう。一生忘れないよ。で、ヒデだけれどタイで何かをするのかい?」

 ヒデが答えた。

 「いや、まだ考えてない。これからゆっくり考える。1週間すればバンコクのアパートメントに戻るつもりさ。」

 真人は聞いた。

 「医者はどうするの?」

 するとヒデが荒立たしく話し出した。

 「嫌なんだよ!!医者のように患者の命をつなぐなんて偽善が嫌いだね!第一俺は日本が嫌なんだ。実はな、俺の親父は医者で俺も無理やりならされた。心臓だったけれど、俺のもとには末期の患者ばかり来る。手術しても生存の確率は半分以下の患者だ。もし、生きられなければなんて言われると思う?お前が殺したと。俺に何の権限があってそいつを殺す?散々文句たれながら家族はしっかり財産と生命保険の計算をしている。俺は一生恨まれなければならない。な、真人、誰が悪いんだ。そう、死んだ奴が悪いのさ。その癖親父はこういう。耐えろ。耐えるんだ。あしたのジョー(漫画)じゃねえんだ。」

 「わかった。すまん。この話はやめよう。」

 真人は自分の前に爽やかな優しい風が吹いたのを知った。そうだ、話題を変えよう。

 「タイはいいところだ。俺もいつまでもいたい。」

 ヒデが笑いながら言った。

 「それジョークか。」

 大きな鍋が運ばれた。中がエビでぎっしりだった。

 「トムヤムクンです。どうぞ。」

 真人は仰天した。今までもてなしを受けた中でも最大級の華やかさではなかったろうか?トムヤムクンはあちこちで食べたがこんな贅沢な鍋はないだろう。

 「冷めたらまずい。エビがなくなってもまずい。頂こう。」

 しかしヒデのもてなしもすごいものだ。小皿にきちんと同量分を分け配った。真人は味わう。うまい!うますぎる。

 「最高だろう。」

 ヒデは勝ち誇ったように言った。

 時間は8時を回ってきた。そして真人の酔いも回ってきた。

 3人は食事を終え音楽を聴けるラウンジに移動した。ここでしばしの休養が取れる。しかし酒が回ったのか、自分でも何を言っているかわからなくなってきた。

 「真人、もう寝たほうがいいじゃない。」

 ヒデが言った。様子を見てどうもボブが自分をコテージまで運んでいるかのように思えた。真人は鍵を開け入るとシャワーも浴びずにそのまま寝てしまった。静かな波音がささやくようなプーケットの夜だった。

 

 5月20日

 

目が覚めた。真人が時計を見ると、朝7時だった。朝食でも食べようか?その前にひと泳ぎしようか?真人は泳ぐことにした。

 ホテルの前のプライベートビーチ、朝7時を回ったのに太陽が照りつくような感じがした。そこで暖かい海の温水を楽しむかのごとく、真人は楽しんだ。

 30分泳いだだろうか?それから岸に上がり、レストランに入った。すると、例の2人がいる。

 「おはよう、真人。」

 ヒデが挨拶した。

 「おはよう。」

 真人が答えた。

 「今朝はまだご飯食べていないだろ?」

 ヒデがきくので真人は答えた。

 「ううん、まだ。」

 ヒデはニヤッとして言った。

 「じゃあ今朝はとびっきりすごいもの食わせてあげるよ。」

 ヒデがあまりににこやかに言うので、真人は聞いてみた。

 「何、すごい物って?」

 ヒデが答えた。

 「まあ、食べてから答えよう。」

 真人はますます理解できなくなった。

 「オムレツ食べるか?」

 ヒデが言うので、真人が頷くと、ボーイの方に目をやり、右手で親指と人差し指を鳴らした。

 しばらくして出てきたのは、普通のオムレツだった。なんだ、と真人は思ったが、とんでもない物をたべさせられるのでは、と思い恐る恐る口に入れた。

 「普通だよね。」

 ヒデがケタケタ笑う。

 「普通だな。」

 真人は一口、また一口とオムレツを食べた。5分もしなう一にオムレツは食べ終えた。

 「まあ、一服でもしないか。」

 ヒデが真人にタバコを勧めた。ちょうど切らしていたのでありがたくいただく事にした。30分位経過してからか、真人はなんかしらの異常に気がついた、海の色が違う。聞こえる音が違う。2重にも3重にも重ねて聞こえる。

 「何だ、これはどうして?」

 目の前が渦巻きのように回っている。そして海の色が青からオレンジ色に変化し、聴いている音楽がなにか立体音になってくる。これは・・・

 「きのこだよ。そこらじゅうに生えているんだ。なあボブ、今から探しに行こう。」

 「ちょっと待ってくれ。」

 真人はヒデに聞いた。

 「さっきのタバコは?」

 ヒデが笑いながら答えた。

 「やったことがないの?草だよ。草。」

 真人は必死に聞き返した。

 「確か、タイでは禁止。捕まったら厳罰。だろ?」

 ヒデがふふふ~んと言いながら答えた。

 「ここは島、警察なんか機能していないよ。なあボブ、捕まった奴いたか?」

 ボブが首を横に振った。」

 「そんなもんで,真人さん、人生は楽しまなくちゃ損だよ。」

 けらけらと笑うヒデを見ていると、まるで自分の今までの人生が間違っていたかのように思えてきた。彼は医師でこの道を進んで辞めてしまっている。そしてより人間的な生き方を選び、プーケットで人生を満喫している。自分のように大学を満足に出ても仕事にありつけず、これからどういう人生を歩んだらよいのか、その「自分見つけの旅」だったのであるが、まさかこういう展開になろうとは。

 完全に頭と視覚、聴覚が行かれたのか、真人はじっとレストランにとどまるしかなかった。しかし向こう遠くの方から日本語が飛んできた。

 「海で泳ごうよ、真人。」

 真人はまだ呆然としながらビーチへ向かった。ヒデとボブは水を掛け合ってはしゃいでいる。それに真人も加わろうとしているのだが、正気を失っていていまいち楽しめない。ここがどこだか、自分が誰かもわからない。

 「つまんねえ。真人、ボブ、バイクを借りに行くぞ。」

 ヒデが岸部にあがり2人に言った。

 真人とヒデ、ボブの3人はホテルのフロントに声をかけに行った。2台バイクを借りたいというのだ。裏に連れて行かれ、小屋の中を確認した。

 あった。バイクだ。しかもホンダのカブである。

 「誰が運転するんだ。」真人はヒデに聞いた。

 「真人は俺の後ろ、ボブはもう一台借りる。

 真人は横浜でスクーターに乗っていたがギアのあるカブは運転できない。ヒデが運転するならまあいいか。

 ヒデはバイクのエンジンをかけ、ボブも運転して走りだした。

 やはり日本車だ。出だし走りはいいが、何せ舗装もされていないプーケットの道だ。無事耐えられるだろうか。

 バイクは凸凹の道をうまく走り抜けた。タイ人の群集の中でも突っ切るように抜けていった。まだ正気を取り戻していない。街がバイクに抜き去られて行くような感覚だ。一体どこへいくのだろう?

 「この岬で夕焼けを見る。きれいだぞ。」

 時間は6時を回っている。なんか時間の進むのが早い。レストランで何時間ラリっていたのだろうか?

 岬の角に3人は立った。ほとんど崖の頂上だ。高さは目分量ではわからないが、新宿の高層ビルくらいあったろうか?

 「ここ綺麗なんだよ。」

 微かにヒデの語りが聞こえる。しかし正気ではなくなってしまった真人は、崖の上でウロウロし始めた。何を考えただろう。遠くのものすごい鮮やかなオレンジ色の光線に包まれて行くような気がした。何か崖から飛び降りたい、そんな気さえした。

 様子を見たヒデが真人を押さえつけた。

 「やばい、ボブ手を貸して。真人バッドトリップだ。」

 真人はそう聞こえたのがわかった。もうふらついてどうにもできない状態だった。

 真人は崖から道路脇に連れて行かれ、ミネラルウォーターを飲まされた。しばらく休んだあと、バイクに乗せられホテルに戻った。

 また夕食だったが、真人はどうしても手を付ける気が起きない。3人は何も会話をしっていない。その時だった。

 真人は突然胸を締め付けられるような苦しみに喘いだ。ヒデは医者だったので心臓マッサージを施した。どうも心不全っぽいような状態になっていた。

 ボブとヒデは真人を部屋に運んだ。呼吸は荒く、いつ心臓が止まってもおかしくない。心臓がおかしい。真人は唾を飲み込みながら必死に耐えた。ヒデは責任を感じたのか、医者を呼んで薬をもらうように言ったが、真人は拒否した。大丈夫、大丈夫だから1人にしてくれ、お願いだから。

 さすがのヒデたちも真人の懇願に部屋を離れるしかなかった。2人は部屋を離れるちまた発作が始まった。心臓がバクバクいい、呼吸が荒い。このまま死んでしまうのではないかと真人は本当に思った。

 悶え出してから2時間たった。まるで何事もなかったように真人はベッドの上にいた。例の効果が切れたのだろうか?するとお腹が妙に空いてきた。

 真人はレストランに行くとウエイターに聞いた。

 「なにか食べ物はあるか?」

 ウエイターは答えた。

 「何もないが、フライドライスなら出来る。」

 「じゃあそれを部屋に運んでくれ。」

 時間は夜9時を回っていた。真人に何が起きたのだろうか?同じ行動を共にした2人があんなに元気なのに、なぜ自分だけ同じような症状が起きたのであろうか。

 真人はフライドライスを食べ、シャワーを浴びるとそのまま寝入ってしまった。

 

5月21日

 

 バンコクへ戻る日が来た。真人はレイトチェックアウト(遅めのアウト)を申し出た。半日分払えば、バス出発の7時に間に合うよう部屋でくつろげる。

 朝ごはんを食べにレストランへ行くと、そこにはボブがいた。

 「おはよう。あれ、ヒデは?」

 そういえばヒデの姿が見えない。ボブが答えた。

 「さっきバンコクに戻った。」

 そうかぁ。昨日で彼と会うのも最後だろうなあ。それにしても、あのきのこはなんだったのだろう。そう思いながら朝食を注文した。

 ボブが言った。

 「君はいつバンコクに戻るんだい。」

 真人は答えた。

 「今夜、7時のバスでバンコクに戻ります。ここは6時に出るかな。」

 ボブが言った。

 「お互いいい仲間でいよう。」

 そうして、真人とボブは住所を交換した。いつか世話になるかもわからない。しかし、例のきのこの正体がわからない限り、まだ彼らを信用する気持ちにはならなかった。一命をとりとめた真人だったが、崖から飛び降りそうになったり、心臓が爆発しそうな動悸のため死にそうになったことを後悔した。これで死にかけたのは3回目ではないだろうか?バンコクに来た早々にホールドアップされたこと、インドの砂漠で車が動かなくなった事、そしてプーケット。

 今日も日差しが強い。海は平和だが、周囲には誰もいない。せめてバスの出発時間の7時までプーケット島を十分楽しんでいこう。

 昼前に燦々と日差しが降りるビーチで水泳を楽しんだ。そして睡眠をとり、夕方またもビーチに入った。このプーケット、まさしく「東洋の真珠」にふさわしいが、数年先には開発され、ハワイのワイキキみたいになってしまうとヒデは言っていた。本当にこうした「真珠」に会えるのは、今回が最初で最後になってしまうのだろうか?

 ボブが「ヒデの置き土産」だと雑誌を持ってきた。週刊「プレイボーイ」だった。中を見ると国鉄の民営化に反対、とか政治家の悪口、芸能人のスキャンダルなどが掲載されていた。また女性のヌード写真もあった。女性のヌードなんて2ヶ月も見ていないからさすがに興奮した。22歳の若造である。精力旺盛で178cmの長身、顔も坊ちゃん顔だが悪くない。あのバンコクへ来た当時、吉村さんとバンコクのパッポン通りに行った。女性何百人と囲まれた。でももうそういうのはいいだろう。学生時代2人の彼女がいた。その別れざまを体験し、「女はもう面倒だ」という意識に変わっていたのだろう。

 夕方6時に最後の水泳をした。ああ、本当に最後の楽園となった。真人はシャワーを浴び、部屋で片付けをしてチェックアウトを行った。レストランにはあのボーイ以外は誰もいない。本当に素敵な楽園だった。

 日が落ちる間際にバイクタクシーでプーケットタウンに向かった。そしてあの12時間バスに乗った。行程は行きと同じ、しかし帰り便は思いのほか眠れた。9時にお粥の食事をとり、一路バンコクへ向かった。

 明け方7時頃だろうか、トンブリのバスターミナルに入った。トゥックトゥックでとラングホテルに入った。

 「デポジットはありますか?」

 真人はフロントに聞いた。フロントは引換券を見ながら財布を出した。

 お金は入っていた。真人は安堵した。

 「これで日本へ帰れる。」

 そう思い部屋に入るとばったり寝込んでしまった。目が覚めたのは夕方3時だった。

 

5月24日

 その日は真人のお別れ会だった。実は前日にAOTS横浜研修センター卒業生に連絡を取った。するといすゞ研修生グループから即OKが来たのだ。代表はプラパンとサティの2名だった。これは壮大なパーティになるぞ、と真人は読んでいた。

 真人は5月31日に日本へ戻る。おそらくであるが彼らと会うのはこの日が最後であろうと読んでいた。

 5時に来ると言っていた彼らだが、6時を過ぎても来ない。イライラが始まったがタイの時間のルーズさは目を瞑るしかない。

 6時になると「トントン」とドアを叩く音がした。「はいはい」と真人がドアを開けようとすると「ドンドン!」の音に変わった。

 冗談ではないか、と真人は思った。

 やはりプラパンだった。AOTSの頃随分と遊んだ。上大岡だけではなく、一緒に山下公園、中華街と歩いたものだ。それがバンコクで再会したのだ。

 サティさんも来ていた。プラパンとは研修コースは違うものの、同じタイ人である、他にもいすゞ研修生でもお世話をした連中がぞろぞろ入ってくる。

 「汚い部屋よねえ。だめ!」

 プラパンが言う。おどけた態度だった。

 「しょうがないじゃないか。俺にしては十分なんだよ。」

 真人は少し怒った。するとプラパンが言った。

 「吉村さんと同じホテル(インペリアルホテル)に泊まらないと。」

 真人はプラパンの言動に少しおどけた。

 「無理だっぺ。お金がない。」

 部屋に10人くらいはいただろうか。

 「そろそろ出発しようか。」

 するとプラパンが腰を落とし、「どうぞ先生」とやった。それがたまらなくおかしく見えた。

 全員タクシーとトゥックトゥックに別れ出発した。

 

 着いたのはバンコク郊外、シーフードセンターだった。エビ、ロブスター、熱帯魚が生簀に入れられており、とても大きな規模であった。10人はまとまって座ると、サティさんが「何を飲みますか。」と聞いた。

 「シンハビール、冷えたのを。」

 そう言うとプラパンが横から口出しをした。

 「あらあら、シンハ飲むなんてまるでタイ人だねえ。」

 プラパンが言うと真人はすぐに言った。

 「からかわないで~長いんだよ。タイの生活。」

 サティが聞いた。

 「プーケットはどうでした?」

 真人が答えた。

 「よかったですよ。ただひとつ食べさせられたものを別として。」

 「それはなんですか。」サテイが聞いた。

 「なんか牛の糞の横に生えるというきのこ。」

 サティが立ち上がって叫んだ。

 「それ食べちゃいけないです!!毒キノコですよ。肝臓やられます。」

 真人はびっくりした。

 「そんなやばいものなの?」

 サテイが答えた。

 「すごい危ないです。周りが全部変わるでしょ?あれは食べではいけないし。タイの法律にも違反ですよ。逮捕されます。」

 「ひえぇ~。」

 真人は驚いた。そんな危険なものを食べさせられたのか、と思った。しかしこの旅ネパールでも危険なものを服用させられた。アーユルベーダーとか言いながらも、自分の想像していたものと余りにもかけ離れていた感じがした。

 飲み物が配られた。全員で今回の旅の終了を祝う声と、別れを惜しむ声が飛び交い、お別れ会の幕が上がった。真人は早々に質問攻めにあった。

 「一番印象的な場所は?」

 「危険な思いをしたか?」

 「楽しかったことは?」

 「誰と知り合った?」

 「風景が綺麗なところは?」

 だいたい、体験手続けたとおりであったのでスラスラと答えられた。

 プラパンが言った。

 「トムヤムクンだよ。食べな、いま真人さんは違うな。」

 「トムヤムねこがいいんじゃない。」

 真人が叫んだ。

 「縁起でもない事を言うなー。」

 そう言いながら食事が進んでいくと、あるものがテーブルに運ばれた。

 サテイが言った。

 「これは日本にはないでしょ?」

 真人はあんかけで煮られた魚をしげしげと見た。

 「何の魚ですか?」

 サテイが答えた。

 「オオサンショウウオですよ。そしてその卵。」

 真人は仰天した。

 「これが?!日本で言えば天然記念物ですよ。」

 サテイが言った。

 「そうですね。日本ではね。でもタイではOKなんですよ。」

 真人にとってオオサンショウウオは初の体験だった。今後共この肉を頂くことはないだろう、と思った。

 美味しいシーフードにご満悦となった真人は、タバコを吸いながらプラパンに今からどうするのか聞いてみた。

 「プラパンさん、これからどうするの?」

 プラパンが逆に聞いてきた。

 「どうしたいの?」

 真人が聞いた。

 「なにがあるの?」

 プラパンが反応した。

 「なんでもあるよ。」

 そこへサティが意見を出した。

 「マッサージパーラーがあるよ。」

 真人は嫌な予感がした。600バーツ(3600円)で一晩女と過ごせる、その場所ではないのか?だったら棄権しよう。

 「プラパン、俺は嫌だ。」

 プラパンが言った。

 「大丈夫。見るだけ。見て良くなかったらお金払わないで帰る。」

 真人は同意した。恐る恐るであったが。全員移動となり、シーフードセンターを一行は離れた。そして、目的地へ向かった。

 そう遠くない場所に車を付け、全員が下車するとプラパンが「あれだ。」と向かい側のビルを指さした。

 「マッサージ、パーラー?」

 真人が聞いた。

 「入るの見るのただ。大丈夫、行こう。」

 真人はプラパンに引っ張られ中に入った。そして真人の視界に入ってきたのは、ショーケースなのだが、その中にいる女性の数だった。おそらく300~400は下らないだろう。なんという規模だ。皆白いドレスを来て、全く動かない。バンコクが売春世界一と聞いたことがあるがこれほどまですごいとは。

 「さあさ、選んで。」

 プラパンが言う。真人は手を振って、「ノージェスチャー」をした。

 「なんだ、つまらない。」

 プラパンががっかりした。

 「俺無理だよ。第一お金がない。日本で生活するお金も持っていないとね。次回ねまた。」

 日本からのゲストが何もしないのではどうにならない。全員諦めた感があった。

 真人が何もしないので、目的を失った10人はホテルまで送迎し、別れることになった。真人は後悔したのだろうか?いや、そういう気分になれなかった。巷ではAIDSの問題が取り沙汰されていたのだが、今何もする気が起きなかった。まだ安田理恵に対しての未練があったからであろうか?

 全員が帰り、真人は1人でメコンウィスキーを飲んで過ごした。

 

5月30日

 いよいよ日本へ帰る日が来た。真人はまずバーランプーのロビンソン百貨店で服を買い物して、最後ばかりはいいものを食べようと思っていた。

 昼過ぎホテルを出発した。表通りを越え、目の前のタバコ屋で煙草を買っていると、背後から人影を感じた。真人はさっと後ろを向くと、「やあ」の声でわかった。

 ヒデだった。プーケットで知り合った友達だった。

 「何だ。真人この近くに住んでいるの?」ヒデが聞いた。

 「うん。」意外な顧客の登場で真人もたじろいだ。

 「ちょっと車の中で話ししない?」

 真人は、ヒデだからまあいいかと思いタクシーに乗り込んだ。ん?あのチャイナタウン騒動を思い出したが、まあこちらは何も問題はなかろうと、乗り込んだ。

 車内にはボブの姿もあった。

 ヒデが話し出した。

 「なんだすごい偶然。ちょっと近くでカフェしないか?」

 真人は答えた。

 「いや、今晩の飛行機で日本へ戻るんだ。」

 ヒデは怪訝な顔をした。

 「そうかあ。あす東京に帰るのかあ。残念。今度バンコクへ来たら電話してくれ。折角の機会だったが、また会えるさ。」

 真人はヒデの名刺を受け取った。どうもボブの穀物会社の専務になっていたらしい。真人は名刺をもらい、車を降り、頭を下げた。

 ヒデと別れ、ロビンソン百貨店へ行った。ここで新しい服とジーンズを買った。更に靴も。何せ何千キロとアジアを横断してきたので、着るTシャツやズボンはぼろぼろになっていた。真人はどこから見てもヒッピーにしか見えなかった。

 美味しいタイスキを食べ、あのお姉さんのいるカフェでゆっくりしていた。いつも明るくにこやかに応対してくれるカフェの店員には本当に感謝したかった。

 夕方5時、バスに水を溜め一生懸命2ヶ月半の垢をこすった。そして風呂から上がり、さっき買った青の服とTシャツ、ズボンをはいた。インド人と間違えるほどの褐色の肌、細身の筋肉隆々とした姿を鏡で見て、一段と人間として成長した自分を感じた。

 「約2ヶ月かな?色々危ない場面があったがありがとうね。」

 真人はメコンウイスキーの封を切った。グラスに注ぎ、飲み干した。最初のバンコクの誘拐事件、インドでの悪路での車両故障、ネパールでの食中毒、プーケットでのきのこ中毒と崖から転落思想になったことを思い浮かべた。

 自然と2つの瞳から涙がこぼれ始めた。そして大粒の涙に変わり、ついには嗚咽をあげた。辛かった。そして寂しかったが自分の判断で難局を乗り越えたのだ。

 「ありがとう。皆さん。ありがとう。僕の友達。」

 真人は泣き出した。なんだかわからないが古く言えばAOTS上大岡での出来事から端を発している。結婚を約束した彼女が、宗教団体たるマインドコントロールセミナーに没頭して真人の友人たちを勧誘し、別れたこと。職員は真人に批判的な態度で接し、完全に孤立したこと。就職ができず留年を希望したが成績優秀のため、大学から留年拒否されたこと。大学卒業式で全員が、就職が決まっていたが、真人1人だけ無職を覚悟しスーツを着ず参加したこと。そして成田へ向かい、ついに今日を迎えたのだ。

 涙は止まらなかった。そして傍に居て真人の話を来てくれる人もいない。テレビも何もない部屋で音楽だけが真人の楽しみだった。

 一度外に出た。南国の空気が全身を覆う。この世界もまもなく終焉しようとしている。日本に戻れば実質一文無しの生活が始まる。横浜に戻ってもAOTSにいることはできない。とすると、仙台までの汽車賃はどうすればよいのだろうか。そう考えながらもエアコンの効いた部屋に戻った。

 

 真人は仮眠することにした。タクシーを呼んでおいた。3時に来るらしい。

 

 4時間は寝たようだった。午前2時、みんな寝静まっている時間だ。風呂に入り、着替えてタクシーが来るのを真人はじっと待った。やがて車は来た。ホテルの鍵を返し、真人は静かにトラングホテルをあとにした。

 

 タクシーが来た。次バンコクに来られるのはいつだろうか?なるべくバンコクに頻繁に来られる仕事を日本で探そう、そう思った。タクシーは車の少ない道をどんどん通りすぎ、空港の道路まで出た。行きはあれ程市内が遠く感じたが、気が付けばホテルから1時間少々だった。ドンムアンに着くと、エジプト航空のチェックインカウンターを探した。

 直ぐに見つかった。チェックインを終え出国手続きをした。そして飛行機は定刻通りバンコクを出発したのだった。

 

 途中マニラ経由であった。マニラは革命が起きマルコス政権が倒れ民主化に進んでいた。そのため、4回も荷物検査があった。飛行機が出たのは定刻の1時間遅れだった。真人の乗ったエジプト機が成田に着くのは午後1時だった。

 

 飛行機が房総沖で旋回を始めた。飛行機の窓から太平洋が見える。真人は極度の緊張状態になった。久々の日本であるとともに、無事着陸できて友人ら、両親にも会えるのであろうか?

 機内放送では「着陸態勢」の通話が。飛行機はゆっくりゆっくり降りてきた。そしてJALの飛行機が見えだしたところ、「どん」という音とともに成田空港に着陸した。

 

 1987年5月13日、午後2時13分であった。

 通路を通り入国のスタンプを押してもらった真人は、即座に出口へ出た。預ける荷物がなかったからである。久々の日本、そして久々の日本語を聞いた。すぐに公衆電話の場所に向かい、AOTSに電話をした。

 「はい、横浜研修センターです。」

電話に出たのは板垣だった。

 「まちゃ(真人)か。無事で良かったね。今成田?工藤が成田に行っているよ。」

真人は周りを見回した。そして、工藤が出口付近にいるのに気がついた。

 「工藤、わざわざ成田まできてくれたのか?」

真人が言うと、工藤は少し恥ずかしそうに言った。

 「先輩ご無事で・・・なんども危ない目に遭ったと聞いていたので、来てしまいました。ああ、良かった。」

 「感謝するよ。」真人も喜びで一杯だった。

 「では横浜に帰りましょう。」

 工藤の言葉に真人は感無量だった。

 「いや、まず日本の飯が食べたい。あと両替したい。全財産は100ドルくらいしかないからな。ごめんな、奢れないぞ。」

 工藤は「大丈夫です。」といい、2人は南ウイングの出口を出て、成田空港のレストラン街へ向かった。

 

 

 2018年8月1日

あれから何年が経過しただろう。87年の旅から少なくとも30年は経過していた。そして上海で書き始めた「見張り台からずっと」は結局暫く書置き状態となり。2018年に改めて執筆を続行始めた。本来なら上海の話とダブルに構成すべきだったが、紛らわしいのでやめた。

AOTS(海外技術者研修協会)は、2012年当時の民主党政権の下で事業仕分けをされ、別海外研修法人と統合されHIDAとなった。あの時以降何人かのAOTS職員とは交流したものの、真人が2010年上海に行ったため、既に音信は途絶えてしまった後だった。HIDAになった以降の足取りは掴めていない。また横浜研修センターは1989年に閉館、そののち金沢区のシーサイドライン沿いに300名収容の大センターとして1990年に開館したが、のちの民主党の事業仕分けに遭い、2012年統合を契機にホテル業者に売却された。

 残念ながら当時を語る人物とも関係が全て切れた。現在ただひとりとも交流していない。何故だろうか?タイへ数回個人旅行をして、吉村氏と1994年バンコクで食事をした以外誰とも交流はしなかった。この旅行が辛く、虚しく、悲しさを忘却するために実行されたものであったからだ。

 実は真人はこの物語が、2011年3月11日以前で作成を止めていたのについ最近までしらなかった。昔のHD(ハードディスク)を開いたら偶然にも、上海時代の文書の中から出てきたのだ。全く記憶にもなんにも残っていない物語を数少ない資料とともにリニューアルを試みた。もちろん当時撮影した写真やネガは宮城県の実家に保管しておいたため、津波とともに太平洋沖にもっていかれてしまった。

 冒頭の2011年3月11日以前、上海で残りのストーリーを執筆する予定にしていたらしい。しかし、あの予期もしない未曾有の災害で、全てを忘れていたようだった。中国語の学習の合間に執筆を敢行する予定だったが、HSK(中国語試験)、音楽活動、就職活動、卒業の繁忙にあってこの物語作成を忘却していた。

 あのアジア旅行以降、日本はバブル、金融ビッグバン、派遣法規制緩和、リーマンショック、民主党への政権交代、東日本大震災と原発事故、アベノミクスと大局的に経済は変遷を遂げてきた。しかしながら、日本の経済のピークは真人が帰国した87年辺りであり、その後バブルが崩壊し、経済レベルは徐々に下落の一途を辿った。98年頃に山一證券など金融が次々と崩壊し、先行きの見えない舵取りを日本国は取る。そして現在に至るまで、一度たりとも経済の繁栄を謳歌することはなかった。

 反して中国は08年の北京五輪、10年の上海万博が続きGDPも日本を抜き2位。文字通りアメリカとの2強経済体制となった。そして2025年付近になると、インドのGDPが日本を抜くと予測されている。1987年真人が旅立った時のように、日本絶対優位の経済体制はとうに終わりを告げ、少子高齢化の暗黒に入りつつある。

 

 真人はどうしているか?2018年1月に脳梗塞を発症し1ヶ月近く入院した。現在では快方に向かうが仕事は失った。日本語教師になるため現在では教員実習420hをこなしている。

 

時代は変化した。2020年東京五輪が華々しく開幕するが、イマイチ国内の経済は芳しくないと言われている。シャープが経営危機に陥入、台湾のホンハイの傘下にはいった。東芝も上場を取り消されるほど原子力ビジネスが低調で、危機を迎えている。また日立もイギリスの原発事業が停止の危険に見舞われている。いずれにしても現在五輪以外の明るいテーマはこの国にはない。高齢者が増え続ける今、外国人労働者を如何にいれ日本国という社会の屋台骨にしていくかが激しい議論となっている。

 真人は訪れたインド、ネパール、タイ、フィリピンの中では、タイを除く3カ国は未だ日本への人材輸出国の役割を担っている。1987年当時気楽に行けなかったベトナムや、カンボジアが最大の人材輸出国になりつつある。ただし人材といっても、建築、介護、農業、漁業、製造がメインで、真人がAOTS時代に受け入れていたその国のトップクラスの人材は来なくなった。

 

 

 真人は日本語教師を目指す傍らAIの学習を始めた。今後日本はAI導入により人口減少時代を乗り越えられると読んだ。AIといっても、一般的に人々が想像している「進化したロボット」だけではない。人間の生活、つまり朝起きて夜眠るまでの間に人間に代わって作業をしてもらえる「人的な分身」が導入される。ご飯を作り、掃除をしてくれ、子供をあやし、場合によってはお客さんの接待、電話による対応まで全てを賄えるオールマイティな装置のことだ。

 では人間は何をすれば良いのかである。人間はAIを指導し教育をする係りだ。またAIを作動して絵画や音楽を自由に創作でき、また小説や物語を描くことになる。旅をしてもいい。AIに逐次報告すれば旅行記を作成してくれるなり、3Dアルバムを作りインターンネットを通して販売される。人は面倒な旅行に時間を割かずして、海外に行くことが可能なのだ。ということは1987年の真人の旅行記も3D再現を行ってくれるだろう。

 全く夢のような話である。昔真人が読んだフランスのSF作家、ジュールベルヌのような世界は現実に起きえる。月旅行や80日間世界一周は当時夢の夢とされていた。もっと深い世界でAIによる現実の世界が再現されようとしているのだ。

 真人は朝8時に起き、インターネットを見ながら脳みそを少しずつ目覚めさせる。インターネットは、現実に存在するツィッターやフェイスブックなどのSNSである。これが既に汎用の域になれえればあと10数年もすれば、3Dの旅行体験が出来る時代が来る。新聞では中国の経済がどうであるとか、インド経済成長の事が書かれているがどうも日本のことについては悪い記事ばかりなのだ。

 通り摩殺人、政治家の汚職、子供のいじめ自殺、あおり運転、そして生活保護者への対処など、何を見ても良いことが書いてある記事がない。どうしてだろう?ここまで日本人が未来の社会を信用できなくなってしまったのか?ではAIはどうだ。巷の本屋に行くとあるある、AIの本が。しかしよく見てみると、AIが人間の仕事を奪うとか、失業者を拡大するとか、軍事サイボーグに使用されるとか、こんなペシミスティックな話題だらけでなぜもっと明るい記事かかけないのだろうか、不思議に思った。ここまで日本人が世界でも自分に自信を持てない国民に成り下がってしまったのかと思うと、本当に嘆かわしい。本当に日本人はペシミスト(悲観主義者)だらけだ。

 真人は思った。あの1987年の旅行や2011年の災害等時間軸をいじることができるようになったらどんなに素敵なことだろうか?亡くなった父親にも最後いいたいことが言える。就職活動も確実な会社を選ぶことができるし、何せあの旅行でお会いできた人たちがまた真人の傍に来てくれるかも知れない。

 真人はAI論文に目を通しすぎたか、いささか疲れ眠くなってきた。そのうちに段々と意識失い、狭い書斎のデスクの上で寝込んでしまった。

 

見張り台からずっと     ボブ・ディラン

"There must be some way out of here"
said the joker to the thief
"There's too much confusion",
I can't get no relief
Businessmen, they drink my wine,
plowmen dig my earth
None of them along the line
know what any of it is worth.

"No reason to get excited",
the thief he kindly spoke
"There are many here among us
who feel that life is but a joke
But you and I, we've been through that,
and this is not our fate
So let us not talk falsely now,
the hour is getting late".

All along the watchtower,
princes kept the view
While all the women came and went,
barefoot servants, too.

Outside in the distance a wildcat did growl
Two riders were approaching,
the wind began to howl.

【和訳】
「ここから抜け出す道があるだろう」
道化師が泥棒にそう言った
「ここはあまりにもぐちゃぐちゃしている」
もう救いようのないほどなんだ
金稼ぎたちが俺様のワインを飲んでいるし
農夫の奴らは俺の土地を耕す
ワインや土地の価値について
そいつらのなかの誰もが知らねえんだ

「そんな興奮するなって」
泥棒が やさしく言った

「俺たちの周りにも沢山いるじゃないか
人生が冗談のようなものだって思っている野郎どもが。
でもお前や俺はもうわかっているのさ
そして俺たちの運命はこんなものじゃない
だから自分に正直になって話そうではないか
もうだいぶ遅い時間になってしまったが」

見張塔から見下ろして
王子が景色をずっと眺めていた
女達や裸足の召使い達が
行ったり来たりしているのを

遠くの外では
野生の猫の怒りのうなり声が聞こえてきた
二人が馬に乗って近づいてくる
風もうなり声をあげ始めた

 

僕らの人生は見張り台の監視の下で送られている。見張り台の上にいるのは王子か?王様か?神様か?自分の作り上げた生活、地位、リズムなどは全て見張り台に監視されている。自分の送る人生や価値観などは、自分で決められず、宇宙神によって定義付けられていることがわかってきた。そう国家の存亡、国民の危機、社会経済の動向もそうである。社会に対する文句、改善提案、要請などは全てわかっている。そうだ、全ての事象は神が決めてきたことなのだ。そして大帝国は諸行無常であるかのように没落する。そしてその行方をある「見張り台」からずっと神によって監視され続けているのだ。

 

 

真人は未来の夢を見ていた。居心地がいいのかいびきをかいていた。

いつの間には2044年に時代は飛んでいた。

 

 

2044年1月1日

 

この日は真人の何回目の正月になるだろうか?真人は80歳になっていた。しかしAI治療が進み、高血圧はミクロAIによって治り、薬は服用していない。がん細胞も死滅できるほど医療が進歩してきた。また遺伝子治療により黒髪が復活し、皮膚再生が可能になり、シワも綺麗になった。年齢以外どこから見ても40歳いっていない風貌だ。若返っていた証拠だ。

 真人は家に設置された天井に設置された3Dスクリーンに向かって叫んだ。

 「1987年の画像が見たい。1987年3月28日を出してくれ」すると機械は真人の音声を感知してスクリーン上に真人の要求する画像を3Dで表現した。

 出てきたのは、60年前近い横浜・上大岡の映像だった。真人は息を呑み込んだ。

 「これは、あの汐見台の画像ではないか?」

 真人は懐かしくしげしげと天井を見上げた。あの、3月28日、AOTS横浜研修センターで別れを告げ出発をする真人の姿がありありと描かれているのだ。しか3D動画で当日の動きが全てありありと描き出されている。

 真人はAI技術の進化を実感した。脳の記憶細胞を個人ごとにAI頭脳へテレパシー方式で送る技術が出来たのだ。人間の持つ過去の記憶、残像、会話などが、たとえおぼろげであってもAI脳が解析してくれ、その状況当時の映像を作り出すことが出来た。元はといえば警察の犯罪検挙のために、人間の目撃記憶を立体的に再現する目的で開発されたのであるが、既に個人の家庭でも使用が可能になった。すなわち写真など2次元ではなく、3次元の姿が実現できる。もちろん興味のない過去の映像は消去しても良い。

 真人は汐見台3丁目にあったセンターをしげしげと眺めた。

 「ああ、こここんなところに郵便ポストがあったのか。あれ、テニスコートもあるぞ。練習しているのは児島さん夫婦か。」

 なんと便利な科学技術であろうか?昔のアルバムがなくても、これなら写真や文字など2次元の世界に頼らなくても楽しめる。

 真人はお腹がすいた。80歳に到達していたとは言え、食欲は旺盛だ。すぐにAIに言葉を発する。

 「ネパールのインドカレーが食べたい。とびきりうまいものにしてくれ。」

 すると、天井からなにか誰かが話している言葉が聞き取れた。

 「材料を得るのに時間がかかります。肉はタンパク質から合成しますか?」

 真人は答えた。

 「ああ、それでもいいよ。」

 真人は映像を眺めていた。あれ?この赤い電車はなんだ?また天井に向かっていう。

 「なんだ?あの赤い長方形の長い物体は?」

 天井から声が聞こえてくる。

 「京浜急行本線です。」

 あ、と真人は思った。今や電車はすべて自動化され、運転手も車掌もいなかったのだ。

 つまり、自動車も電車もバスも全て無人化になっている。だからわからなかったのか?昔の京浜急行だ。多分そうだろう。22歳だった頃だから、68年前の画像ではないか?

 そのうち天井からまた声が聞こえてきた。

 「できましたよ。カレーです。お部屋に運びますか?」

 真人は言った。

 「いや、ここで食べると運動不足になるから食堂に行こうかな。」

 そういうと真人は空中遊泳装置を解除して重力モードに変換した。

 

 実は、真人は今地球にはいない。地球では2027年に世界戦争が起き、イスラム圏はほぼ全滅し、中国、インド、米国の管理化になった。世は原油を使わない社会に移行した為、新たなイスラム勢力が戦争を仕掛けた。また地表温度が日本の東京でマイナス20度にまで下がる事から、政府は宇宙での生活が出来るよう、人類はステーションマンションを作った。マンションのエネルギーは全て宇宙光から補っている。食事も小さい100坪ほどのプランテーションの中で野菜、肉を作ることができる。そんな場所に真人たちは住んでいるのである。

 もう地球のどこへも旅行しないだろう。だから、昔を記憶の再現によりリアルタイムを楽しみ、また人の記憶で他の世界を楽しむことが出来るようになったのである。

 

 真人はカレーを食べながら妻との団欒を楽しんだ。

 「今度は、お前の中国での記憶を再現してくれよ。」

 真人が言った。

 「いいわ。」

 すると、天井には彼女の住んでいた中国の風景が映し出された。いつの時代だろう??皆人民服を着て自転車に乗っている。

 「ここは上海か?」

 真人は聞くと彼女は頷いた。

 

 「1990年代の上海。私が初めて行った頃の上海かな。」

 真人の妻は上海に20年近く住んでいた。そこで真人たちは出会い結婚した。2013年のことである。天井には古い上海の映像が3Dでくっきり映し出されていた。

 ああ、上海。もう行くこともない昔の団欒があった場所だ。今や地球に戻っても中国政府の管理地区になっているため、容易には入れない。ここで2年勉強して2年働いたのか?真人はそう遠くない過去を思い出し、瞳を潤ませた。

 地球を離れて1年が経つ。誰がこんな世の中にしたのか?自分でもよく解釈はできない。しかし時代は確実に変わっているのだ。

 「ねこは?ねこ。」

 真人は妻に行った。

 「そこで寝ているよ。ダメ触っちゃ。やっと寝だしたのに。」

 そばに黒い猫が一匹熟睡していた。

 猫もAIが出産や健康ケアをしてくれるので、僕らは何もすることはない。そう世界が変わったのだ。昔あった、馬鹿げた「政治家の汚職」「いじめ、ひきこもり」「自殺」「ブラック企業」などの言葉は既に死語となっていた。つまり、AI革命が始まる前の一つの現象に過ぎなかった。真人は現役の時に、随分そうしたハラスメントを経験した。そのハラスメントの主原因は当時の教育にあった。生徒を無理矢理にペーパーテストで縛り上げ、たまたま成績が良かった者を張り出し、賞賛した。しかし成績が優秀でないものはどうなるだろう?学校教育は政府の命令で一切のペーパーテストを廃止し、代わりにAIと対話をしてお互いが評価を決めるという、画期的方式に代わっていた。

 「そういえばバンドメンバーはどうしたの?」妻が言った。

 「あいつらか?ベースはマシーンでいいじゃん、太鼓もマシーン、ボーカルが1人欲しいなあ。一人いるけれどね。今101歳。」

 「まあ、101歳で現役なんて素敵。」

 真人が応答した。

 「まあ外観は50歳くらいにしか見えないからな、ニュースキン細胞で完全に生まれ変わっちまったのさ。」

 真人は笑いだした。いずれにしても、現役は100歳が当たり前の世になってきた。

 「プランテーションの方はどうなのよ?」

 妻が聞いた。

 「プランテーションか?今佐藤さんが入ってやっている。来週キャベツとトマトができる。合成肉はあと半日かかる。」

 「合成肉は豚テイスト?牛テイスト?」

 「うーん、豚テイストかな。」

 肉も人口だった。タンパク質細胞から肉の成分を作り出し、合成機にかけるとほぼ動物の肉と同じ肉塊ができる。

 「猫にも食べさせよう。」

 真人は立ち上がり、合成肉を食べさせた。猫は喜んで食べ尽くした。

 考えて見ればおかしいものだ。こうした技術は真人の生まれる60年代からあった。しかし当時は公害問題などで一般民衆が嫌悪したのだ。そういえば遺伝子組み換え食品もあった。今は組み替えなくても遺伝子操作でどうにでも食事は作れる。従って畑や田んぼはもはや必要なくなった。コメを田んぼで作らなくなって、5年は経過しただろうか?

 

 宇宙空間の中で真人は考えた。来週から火星に引っ越そうか?政府が援助してくれる。地球はもう気候が変わり戻れない。夏は表層が50度、冬はマイナス20度。今の東京は真人が数十年前に行ったインドと同じだ。帰りたくもないし第一帰国すればコストがかかる。宇宙マンションにいたほうがはるかに楽なのだ。土地代も固定資産税も一切かからない。かつての思い出だけをこの場所で見られるなら、もうどこでも住むのはいいかな?と感じ始めた。しかしどうしても夢にも出てくる。灼熱のバンコクとカルカッタ、ヒマラヤネパール、そしてエメラルド色のプーケット。昔を懐かしむように真人はたまにあの時の光景を、動画を見ながら思い出す。かつて苦労して生死をかけて旅をした場所だ。

 「工藤に連絡したいなあ。」あのAOTSの後輩である、工藤と無性に話がしたくなった。

 「A1098の工藤に連絡をとってくれないか?」

真人は天井のパネルに叫んだ。すると、AIは次のように答えた。

 「工藤さんは病気を患い、名古屋市の病院にいます。ガンが転移を始め除去治療のため集中治療室にいます。ですから今は、連絡は取れません。どうしますか。」

 真人は大きくため息をついた。時間は11時を回っていた。太陽の軌道から見てもうそんな時間なのだろう。少しはしゃぎすぎた。そして天井に言った。

 「今日はいいわ。そろそろ寝ようか。」

 

 真人はアイタッチで照明を消した、部屋の窓があるがそこから望めるのは火星、土星、木星、そして地表が黄土色に変化した地球だった。

 

 

 

 

                                 完

 


著者の阿部 真人さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。