不登校から偏差値65の大学に現役逆転合格したとある女の子のお話。

ああ、もっと気の利いたタイトルを思いつければ良かったな、と思いつつも仕方ない。これが私の「センス」である。

少しだけ自己紹介をしてみよう。
とある地方出身の現役女子大生。小さいときから「努力によって必ず成果は得られる。勉強だけは誰にも負けない」をモットーに、朝6時から勉強する気持ち悪い子どもでした。
大人になった今振り返っても、ちょっと「おえっ」ってなるもん。髪を乾かしながら、電車を待ちながら、味噌汁を飲みながら、暗記カードとにらめっこして模試で県内TOP10の座を射止める女子小学生or女子中学生、あなたの周りにもいますか?
それが悪かったとは思っていません。結果として、県内1位の偏差値を誇る公立高校に進学できました。確か偏差値72だったかな?
でもまあ、人生そんなにうまくできていないものでして、この後から転落人生が始まるのです。
おいおいまだ21歳だろ。笑 とも思うんですが、私の21年結構濃密だったぞ。意外とどんな人でも、人生20年も生きてみたら色々あるもんじゃないですか?
ここからは、高校入学後の私のお話です。
【高校入学で知った「現実」】
高校入試は、英語満点で合格しました。過去の栄光、キラリ。
入学直後の課題考査で数学99点を叩き出せたとこまでは順調だったんですけどね。そのあとが、まあ。笑
初めての定期考査、私、テスト範囲の問題集5回は解いて臨みました。
正直、自分が「天才」じゃないことは分かっていました。私の高校には、久留○付設高校やラ・○ール高校を滑り止めにしている子もいて、それに対し私は、とにかく必死に小学生から努力を重ねて来ただけの女の子だったのです。
でも逆に、努力だけでそこまでやって来た自負もありました。天才じゃなくても、偏差値72の学校に合格できた。天才じゃなくても、入試英語満点を叩き出す事ができた。
だから妙な勘違いをしたんですね。「報われない努力はない」と。
だからそのあとの転落がガツンと響いてしまったんですね。初めての定期テスト、私は平均点をとることができませんでした。
問題集を5回も解いて、万全の努力をして臨んだ高校初めてのテストでした。それであっけなく平均点すら取れなかった。しかし、私の周りで明らかに遊んでいた同級生たちは、余裕の表情で高得点を叩き出している。
ここで私は知ったんですね。「努力に勝る天才がこの世には存在する」と。
そのあと、少しは粘りました。自分なりに一生懸命頑張りました。
ちょっと特殊なエピソードを少し。
とにかく勉強させる学校でしたので、365日自習室が解放されていました。私は土日も制服を着て、そこに通い勉強し続けました。
毎日2時〜3時まで勉強するのは当たり前でした。常に睡眠不足でしたので、学校帰りに寝ながら歩いて電信柱にぶつかったことがあります。
登下校の時間は絶好の勉強時間でした。駅から学校までの道のり、教材を詰め込んで10kgくらいあるバッグを背負いつつも手には暗記カードを握りしめ、信号待ちで立ち止まる度に開きました。
自分がサボっていたとは思いません。それまで通りの努力をしたと思います。でも、結果はついてきませんでした。
私の成績は下降の一途。校内テストの偏差値は平気で40~30代まで下がり、周りの天才たちが「宿題してないけどテストいけるわ」と話しているのを聞きながら、徐々に心が死んでいきました。
それまで、「勉強ができる子」「努力して報われる子」が私のアイデンティティでしたので、落差に耐えきれなかったんですね。
【そして始まる不登校「大学、どうする?」】
高2になった頃には、たまにズル休みや遅刻をするようになっていました。
高1から高2になるときに退学の話も出ていたのですが、かろうじて私をその学校につなぎとめたのは部活の仲間でした。
放課後になれば、みんなに会える。それだけが原動力だったんですね。
問題は高3になってからでした。部活引退です。
高3になってからは、週に2日は休む生活でした。もちろん体調不良ではなく、とにかく「学校に行きたくない」「みんなと同じ教室で勉強したくない」「報われない努力をしたくない」と言うわがままです。
部活引退後、何も引き止めるものがなくなった私は、ついに教室に行かなくなりました。
週に2日休んで、3日は保健室登校。さあ、本格的な不登校ライフの始まり始まり〜。
保健室にいる間は、のんびりと自習をしていました。「頑張る気力」を極限まで失っていた私は、マイペースに適当に勉強しつつも、読書をしたり、昼寝をしたりして過ごしました。
教室の誰にも会わなくて良い。それが、心の安らぎでした。
このままで良いとは思っていませんでした。受験生だし。大学受験あるし。
でも正直、私にいける大学ってあるのかな?こんなに学校行ってないし。おかげで授業も遅れてるし。
ネットで専門学校や就職試験の情報をあさっては悶々とする日々。私がそうしている間にも、周りは部活を引退して受験勉強に本腰を入れ始める。
あー、無理だ。小学生や中学生のとき、「なこちゃんはきっと東大に行くわね」なんてちやほやしてきた周囲のいろんな顔が浮かぶ。見てみろ。真反対だぞ。
勉強が全てだと、偏差値の高い学校に行くことが将来の安定につながると、そう信じて育ってきた私にとって、当時の自分の状況は信じがたいものでした。
私、このままどうなるんだろう・・・?そんな不安がなんども胸をよぎりましたが、あの授業でついていけない、努力しているのにテストの成績が上がらない無力感や劣等感を思い出すと、どうしても教室には戻れませんでした。
無理だ無理だ。大学受験なんて無理だ。資格試験でも受けて就職しよう。
夏頃、私はそう思っていました。
【不登校でも大学は合格できる?】
転機と言うほどの転機でもありません。表面でうだうだとしつつ、私は結局心の底で、自分の可能性を完全に否定することができなかったのです。
それはきっと、それまでの人生を自分なりに一生懸命積み重ねてきたと思っていたからでしょう。
小学生の時から、将来を見据えて勉強に励み、周囲に褒められ、それでも満足せず、毎日コツコツコツコツと。
自分が本当は凡人で、周囲が言う「天才」ではないことに薄々気付きながらも、それでも「天才」と並ぶ場所に「努力」で行くために、とにかく努力を積み重ねて。
そうやって一生懸命積み重ねてきた自分の人生を、「あーもう無理だ。バイバイ」と投げやりにする気持ちが、真に心の全てを支配しきることはなかったのです。
当時、予備校に通っていました。学校は徹底的に「学校で十分!塾なんて行くな!」の方針でしたので、こそこそと通っていました。
そこの先生に言われました。「学校のやり方があなたに合わないだけ。あなたに合うやり方がある」
この言葉で、私は決意したんだと思います。大学に行こう、と。
それは、学歴が欲しいとかそう言うことではなくて、ここで「無理だ、バイバイ」と諦めの気持ちで自分の挑戦を終わらせるのではなく、「無理かもしれない」と思う高い壁にもう一度挑んで強い自分になりたいと言う思いでした。
しかし問題はありました。高3の夏の終わり、私は「不登校児」でした。
授業は遅れていたし、校内テストではその頃には偏差値30代が普通でした。
大学に行こう!と決めたものの、じゃあどこの大学に行こう?と迷い始めます。
私の成績でいける大学って?迷う私に予備校の先生は、思わぬ一言を放ったのです。
神戸大学に行こうか。
ん?お?コウベダイガク・・・?
お!?!?!?
関東の方は、あまりご存知ないかもしれませんね。ここで、神戸大学について少し解説。
神戸大学は関西では、京都大学、大阪大学と並び、「京阪神」と呼ばれる国立大学です。出身の著名人は、あのiPS細胞の山中教授などがいます。
当然、その偏差値も只者ではありませんでした。先生が私に提案した学部は、偏差値65。模試によっては、68を示すものもありました。
えっと、先生、わかってます?私、不登校児ですけど。笑
ただでさえ9~10科目対策しないといけない国立大学であることに加え、偏差値68だって?笑
先生は「わかってますよ」と涼しげ。うーん。大丈夫か?
でもこの後に私は、神戸大学を志望校にした意味を、理解することになるのでした。
【「受験は戦略だ。」不登校児の大奮闘】
それから私は大奮闘を開始します。
毎日朝4時まで勉強、6時に起きて登校。たまーに参加した学校の授業中は睡眠と、授業カリキュラムと全く違う「自分だけのカリキュラム」に沿った内職にあてて、全部無視!笑
当時私の学校には、「朝補習」「放課後補習」がありましたが、私は問答無用でこれらを全て無視しました。笑
「自分だけにあったやり方」でやれば、絶対に自分の可能性は開けると信じていたからです。
私の受験は実に戦略的でした。例えば「社会」。
当時私は、理系クラスだった関係で社会は「世界史」「日本史」「地理」からの選択しかできなかったのですが、正直自分に一番あっていたのは「倫政」でした。
昔から、哲学が好きだったんですね。
と、言うわけで、学校の社会の授業放棄!笑
独学で倫政を学び、センターに備えることになります。
もう一つ戦略的だったのは、「国語」。
神大は、国語の難易度がすこぶる高く、対して数学は良問が出されることで有名でした。
私が唯一得意としていたのは「国語」、そしてもっとも苦手としていたのは「数学」でした。
そう、科目の難易度が私にぴったりだったのです!これが、先生が私に神大を勧めた理由でした。
受験勉強は様々な工夫をして、「不登校」のブランクを必死で埋めました。
お風呂の中にまで暗記カードを持ち込んで、暗記。おかげで暗記カードはふやけてボロボロになりました。
大の苦手だった化学は替え歌を作ってとにかく暗記。そのころの私の頭の中には、どんなJpopも有機化学や無機化学の歌詞になって流れていました。
数学は徹底演習。間違えた問題に付箋を貼りまくって、完璧に一人で解けるようになるまでやり込みました。あのときの付箋消費量はきっと日本一だったに違いない。まぢで。
毎日毎日学校の後に予備校に通う日々。もちろん学校に行っている時はほとんど保健室で自習してますので、私にとっては、予備校がメインです。笑
なんでそんなに頑張れたのか。それはやはり、「変われる」自分に希望が持てたからでしょうか。
「無理だー報われない」「どうせ頑張っても通用しない」と、諦め嘆くだけだった自分から、自分の力で道を開こうとする自分に、変われると思えたからでしょうか。
今のやり方は自分に合っている。周りの天才と比較され心が折れることもない。そう思えたからでしょうか。
正直分かりません。ランナーズハイみたいな気分でした。
それでも、埋まらないものは埋まりませんでした。模試の成績が全て良かったわけではありません。
勝率は半々くらい。
不安定な状態で、センター試験を迎えました。
【「やっぱり無理だった」不登校児、ここで諦め?】
センター試験は寒い日でした。
普段教室に現れない私が平然とセンター試験会場に現れた様子は、同級生の皆んなには奇怪なものだったかもしれません。
得意の国語英語生物で点を稼ぎ、数学化学でギリギリのライン内におさめる。その戦略の元、私はセンター試験に挑んだのでした。
学校で授業を受けていた社会科目と別に倫政も受験したので、私は社会2科目、理科2科目、センター試験を受けることになりました。文字通り、朝から晩まで。長い戦いでした。
さてさて。ここまでやった結果どうだったのか?
結論からはっきり申し上げると、あまり芳しくない結果でした。最終的なセンター判定は、D。流石にその判定で二次試験に突入する勇気を持てず、私は志望校を下げると予備校の先生に言いに行きます。
しかしここで、先生は意外な一言を放ちました。
見てみろ。A判定との点差は10点じゃないか。君のこれまでの努力は、たった10点の点差すらひっくり返せないものだったのか?
ひっぱたかれたような衝撃でした。正直、「あ!」となりました。
いや、そんなはずないと、素直に思えました。私のこれまでの努力は、10点どころか100点ひっくり返せるものだったと。
「頑張る」という過程だけでは意味がない、という言葉はよく聞きます。概ね同意です。成果にこだわることは重要です。
しかし、「頑張る」という行為をした過去の自分は、間違いなく未来で成果を出そうとする自分を支えることができるのだと、私はこのとき実感を持って理解できました。
こうして芳しくなかったセンター結果を踏まえながらも、私は神大の二次試験対策に進むことになりました。
【鬼の難問を攻略せよ!】
二次試験対策で一番苦しんだのはやはり国語、中でも現代文でした。
国語は得意でしたが、神大の国語は時間の短さと記述の多さが天下一品です。
問題集をひたすら解き、思考回路を頭に叩き込み、演習演習。
その時の私には、もうここまできたら神大に行かなきゃ気が済まないと、そんな気持ちが芽生えていました。
絶対に、行ってやる。
その気持ちだけが原動力でした。
解けない問題は泣きながら何度も復習しました。相変わらず深夜の2時3時まで勉強し、起きてる時間をいかに勉強時間にあてるかばかりを考えていました。
現代文記述は予備校の先生に添削してもらい、自分に足りていない観点、思考回路を吸収することに全力を注ぎました。それでもなかなか、神大の時間制限の中で解ききることは難しく、「こんなに頑張っているのに」と悔し涙を飲んだことも一度や二度ではありません。
「頑張る人は報われる」世界は、かなり理想であると思います。頑張っても報われないことは現実世界にも多いです。それでも、頑張らなくてはスタートラインにすら立てない。
「こんなに頑張っているのに」と悔しがりながらも、今の自分の行為が完全に無駄ではないことを、私は確信していたんだと思います。
二次試験の得点は、ギリギリでした。過去の合格ラインを超えるか超えないか。
100%絶対に合格するとは言えない状態でした。それでも、目標を変えず、私は二次試験に突入したのでした。
【運命の受験日】
とてもよく覚えています。
田舎出身でしたので、そのときの私には神戸の地は非常に都会に見えました。
「神戸大学」といういかにもおしゃれな名前でしたので、一体どんなモダンでおしゃれな大学なんだろうかと期待しながら行ったのですが、行ってみると山に沿ってキャンパスが並ぶ山大学で、非常に衝撃を受けたのも良い思い出です。笑
試験は、驚くほど落ち着いて受けることができました。まるで普段の予備校での勉強の延長かのような。
だから、特別に「めちゃくちゃできた!」という訳ではなかったものの、「周りが例年以上にめちゃくちゃできた訳ではなければ、私は合格している」と確信し、神戸を去ったのでした。
【合格発表】
掲示板の前で紙が貼り出されるのを待つワクワク感、私も一度味わってみたいものです。
住んでいた場所は神戸から遠く、結局私は神戸大学の合格発表を、ネットで一人静かに確認することになったのでした。
それでもそれなりに緊張していました。後期の大学は出願済みで、「ああ、あっちの受験に行かないといけないかな」と鬱々しながら、ゆっくりとマウスを操作して合格発表のページを開きます。
深呼吸して、受験票の番号を探し始めました。16062、16063…
16022
あった。
あったぞ!
どうやら私は、自宅の二階のPCの前で、「あったー!」と叫んだようです。
一階にいた母や姉が「やったね!」と喜んでくれたのを覚えています。
【不登校児が学んだこと。「可能性は自分で開け」】
さて、こうして不登校から偏差値65の大学に逆転合格を果たした私なのですが、正直言って「良い大学に行くこと」に価値があるとは思っていません。
本当に価値があるのは、「無理かもしれない高い目標に勇気を持って挑む」経験であると思います。
おかげさまで、人生もっとチャレンジして生きていきたいと思えるようになった私は、高校時代に感じたこの国の教育課題を解決するために、大学になってエドテクの世界に足を踏み入れました。
また紆余曲折、挫折と復活を繰り返しながら、チャレンジに次ぐチャレンジの日々になるのですが。
現在私は、大学で論文を書きながらも、とある教育系のアプリリリースに携わっています。
またこのあたりのお話もいつかできたら良いな。
私の人生は、底から這い上がる経験によって鮮やかになると思っています。大学受験の経験は、私にその大事なことを教えてくれました。
コツコツ努力した小中の時期も、泣きながら学校に通った時期も、授業を受けずにぼーっとしていた時期も、一念発起して狂ったように勉強した時期も全て私の人生には必要なものでした。正確には、その全てから教訓を得て未来に生かすことで、私は自分で過去の時間を意味あるものに変えたと思っています。
自分の可能性を開くのに必要なことは、カリスマ講師や夢のような勉強法ではなく、他ならぬ自分です。
私の物語が、どこかの誰かの勇気になりますように。
読んでくださって、ありがとうございました。

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