安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 Vol.35 「活動休止」

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豊と僕が出会ったのは8月…太陽があふれるようにまぶしい季節だった。


それだからかもしれない…僕は、暗く寒い冬が好きではない。


豊は、浮かない気持ちを抱いていたけれど、それももう半年続いているので、いい加減 慣れてきて、決してそれを受け入れてはいないものの、まるでそれが当たり前で、いちいち愚痴に変わることもない日常になっていた。


あの日も、豊の状態を映し出すような曇った12月の寒い日だった。


JR三ノ宮駅のガードをくぐって北に出ると、複雑な交差点の西側に少し開けたタイル敷のスペースがあり、夜になると将来を夢見るミュージシャンたちの路上ライブ会場となっていた。


ライブを終えた豊と礼央は、コートに身を包んで夜の都会に繰り出した人々に紛れて、JR三ノ宮駅の路上ライブ会場へと漂ってきた。


特に誰かを見ようと思ったわけではない。


ただ、行きがかっただけだったのだが、その場所があまりに盛り上がっていたので、思わず見てしまったというのが正しい表現だろう。


誰だろう?


豊と礼央は、足を止めて、少し背伸びをするように人垣の向こうを覗き込んだ。


大勢に囲まれたその中心で、2人の知り合いのミュージシャン何組かが、熱を帯びた声を冷たく暗い夜空に向かって放っていた。


彼らの姿が一生懸命で、その前のめりにも思える姿勢を、観客たちはこぶしを振って応援している、そんな光景だった。


豊と礼央は、同時に何も言葉が出なくなった。


僕は、背負われた豊の背中から、それまで彼を覆っていた分厚くぼやけたモヤモヤがすーっと抜けていくのを感じていた。


知りたくなかった真実を目の当たりにして、茫然とする…そんな状態だった。


豊は、礼央の顔を見ることができなかった。


礼央も、豊を見ることができなかった。


2人は、お互いの顔を見ないまま、「じゃ…」と小さく手を挙げて分かれた。


駅のホームには冷たい風が吹いて、つま先がしびれるようだった。


ようやく来た電車は、夜も遅いというのに満員で、豊はドアすれすれのところで、僕を抱えて立っていた。


都会のネオンが途切れると、外はただ暗く、ドアのガラスには豊自身の顔が映っていた。


豊の頭に、ついさっき見た光景が何度も何度も再生された。


ああいうことなんや…


もうそれ以上に何も出てこなかった。


電車を降りて家に着くまで、その呟きが、沼の底から湧き出てくるあぶくのように、心の中にポコポコと浮かび続けた。


ああいうことなんや…

 



兄の通夜で流れてきた長渕剛の「巡恋歌」。


同じ家で過ごす時間は、一般の家族のように長くはなかったが、失った兄の存在は、豊に大きな喪失感を与えた。

追悼の意味を込めて流されたあの曲がなかったら、今の豊はいなかったかもしれない。

人の心というのは、わずかな偶然に救われるものだ。

豊は自分のことをこう分析している。

あまりこまめに人に対応できないし、そこに居るだけで人を惹きつけることもできない。

少しばかり努力をしてみても、天性のものにはかなわない。

でも、もしも、自分の生み出す曲がそんな風に 誰かの感性を思い出させられるなら…

もしも、自分の声が、その人の背中にほんのりとした温もりを伝えられるなら…

豊は、音楽を選ぶ場面で、いつもその原点に立ち戻ってきた。


そして、自分の歌を届けられる可能性のある機会を片っ端から捕まえようとしてきた。


実力があっても、努力を惜しまなくても、その種を育み、実らせられる環境に恵まれなければ、どこにも届かない。


その時々に降りかかる事態としては、常に順風満帆だったわけではないが、ここまで来られたのは、全体から見れば、運がよかったのだろう。


そのことに、有頂天になって、いつの間にか追いかける身が追われる身になってしまっていた。


自分のしたいこと、自分の幸せのために頑張るのは、当たり前のことだ。


それは誰のためでもなく、生きていれば、万人が自身で責任を持たなければならない。


だから、頑張っていることに、人が評価や承認をくれることはとても嬉しいことではあるが、求めるものでも、必要とするものでもない。


まして、それがあることに満足して、自分の望む在り方を生きられないことは本末転倒になってしまう。

 



翌日、豊は礼央と会うと、挨拶もそこそこに、切り出した。


「昨日、思ったよな…」


礼央は、うなづいた。


「辞めるか…」


そう言ったのは、礼央の方だった。


「このまま、考えなしにやっていったら、これが頂点やろ。もう、これ以上はないわ。」


豊の言葉に、礼央は「そやな」と答えた。


それだけで、豊も礼央も、お互いが同じことを考えていると深くわかっていた。


頑張ることが悪いことではない。


ただ、それだけで、在り方のない自分たちの姿が、あの時、はっきり見えてしまったのだ。


気づかなければよかったのかもしれない。


気づかなければ、辞めることはなかったのかもしれない。


でも、もう2人の中に、後戻りする選択はなかった。

 



その日のライブを終えて、豊と礼央は、いつもライブ帰りに寄る2人の行きつけのバーのテーブルで、スマホから「2ndLEG活動休止」の情報を発信した。


Enterキーをクリックして、2人はビールのボトルをチンと軽くぶつけた。


ベビトーレたちの声が、その音をかき消していった。

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