いならい子7 自分が1番辛かったこと
前話:
いらない子6 少し小休憩します
※パート7からご覧の方は是非、パート1からご覧ください。
精神的に沈んでいるときに、自分が辛かったことってなんだろうと考えてみた。
母親からの暴力は痛かったけど、身体に傷は付いたけど心の傷にはならなかった。
母親にあげた母の日のプレゼントの財布をハサミで切り刻まれたこと、これは辛かった。
私が町で偶然出会った祖父に話しかけようとして空気のように無視された、これも辛かった。
祖母から「私の内孫はお前の母親に殴られた。」と責められたとき、私も虐待を受けているのになんで?と思った。辛かった。
おばからはたった一度だけ「あなたに遺産をあげるから住所を教えなさい!」と連絡があった。どこから私の電話番号を入手したのだろう。
辛いというよりも怖かった。
母親が死に、母親の入院先から数十万円の請求がきたとき、助けを求めて祖父が入院していた富山市民病院に電話を掛けたら、私からの連絡は一切拒否になっていた、とても辛かった。私は何をした?なんと言って病院に面会謝絶と言っているの?
母親の入院先から「あなたは祖父から散々お世話になっておいて、なんで母親の医療費すら拒否するの?」と言われて、とても罪悪感を持った。
どこに行ってもすぐ解雇されてしまった当時、私は頼るすべを祖父母しか知らなかった。
家族のことを外に相談することは、親不孝、悪と思っていた。
そして、私は壊れた。これまでの辛かった出来事を書いて祖母宛に送った1通の手紙、これを私が頭のおかしい人間のように周囲に言いふらされた。
元警察官の祖父は何でも隠すのがうまい。感情だってコントロールできる。
なんで私は自分がここまで壊れていることに、蔑ろにされていることに気付かなかったんだろう。
心をコントロールされていたと今ならわかる。
母親に金槌で殴られ、市民病院に運ばれた日、その時は私のことが心配でついてきてくれたと思っていた。
児童相談所に相談したときも祖父はいた。
母親が市役所に包丁を持っていき、警察の逮捕をもみ消したとき、祖父は私に感謝しろと言った。怒った私に祖父は親不孝と言う顔をした。
そういえば、母親から「私と違って、お前は誰からも愛されていない。」と笑われたことがあった。
その時に気づくべきだったんだ。
祖父母の少しばかりの援助と父親が保証人になってくれたお金、そして私のアルバイト代で、私はなんとか夜間大学に行けた。
きっと児童養護施設に入所していたら大学も、高校すら行けなかったかもしれない。
でも代わりに失ったものはなんだろう?
私は母親ではなく、祖父母や富山県を許すことができない。でもこの憎しみは彼らには響かない。私の心の中だけに残っていて、私を体内から蝕んでいく。
もし祖父が元警察官でなければ、富山に産まれていなければ、母親がそういう人間だったとしても私は助かっていたのかもしれない。
今回、富山市民病院にて新型コロナ感染でクラスターが発生したこと、大変だったと思います。入院されている他の患者さんや、医療関係者の方には早く元の日常に戻ってほしいと思います。
記者会見での担当の方の涙も観ました。
でも、私は、きっと、あの担当者の方の何十倍何百倍の苦しみを味わい、その度に涙が出て、感情が壊れてしまった。
自分たちのためには涙を流せても、虐待を受けている子どもには冷たくあしらえるスタッフたち。私はそういう印象を受けました。
児童虐待は身体だけではなく、心に深い傷を負わせます。その傷は私のように何年経っても癒えることがありません。
すでに大人になった被虐待体験者の中には声もだせず、社会に馴染めず、自ら命を落とすもの、もしくは人を殺める者がいます。
しかし、心の傷は自分がコントロールできるものではないのかもしれません。
でも私は自分の命も人の命も犠牲にしたくありませんし、誰も過去の犠牲者になってはいけません。
自分が蔑ろにされた命だからこそ、命の大切さや、言葉や行動で人を傷つける怖さに気づきました。
自分を含め、大人になり、自分が虐待を受けていたと気づいた人たちが、過去の傷を癒し、日常を取り戻せるように祈っています。
またいつか、続きを書きます。
今は幸せに暮らしています。でも時々ふっと思い出します。
その時に心の中を吐き出せる場として、使わせてください。
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