大事な事はみんな高速電脳で学んだ
はじめに
1997年、まだ秋葉原が自作PCの街として栄えていた、そんな頃のお話。
僕は当時大学2年生で、典型的なモラトリアム学生として日々ポンチ―言うような4人中国語勉強会に明け暮れていた。起きたいときに起き、眠くなったら近くの友達宅に転がり込む模範的な高田馬場学生だった。
その頃はまだベンチャーとか起業といった会話はほんの一部の学生の間のみの話。SFCの設立に刺激された早稲田でなんとか対抗するべく(?)Zaiya.comの設立が正式になされたものこの数年後のことだ。
当時アクセス向上委員会でご活躍されてた橋本大也さんや、今も昔も先端にいる松山太河さんがZaiyaの第一回シンポジウムでスピーチしていたのが確か2000年のことだったけど、草の根活動としてはその数年前から胎動していた、そんな時代。
その頃の僕はといえば大学のPC(WEB)系サークルに所属していながらも、起業やベンチャーといった大志を抱くでもなくPCゲームを作って細々と売ってみたり、雀荘の合間にnethack(ゲームのほうね)をダラダラしたり、はじめてのインターネット接続に「ヤッフーってなんすか?」と先輩に明るく質問してみたり。今にして思えばあの頃の時間を売ってくれ、と切実に思うほどノンキな学生生活を謳歌していた。
僕の所属していたサークルは当時珍しく学外に部室を借りており、学校から徒歩3分くらいのところに廃業した雀荘を借り上げ部室にし、いつもそこに溜まっていた。
サークルの初代幹事長は卒業後渋谷ビットバレーでベンチャーを起業していたのだが、そこから毎月家賃を一部補助していただいていた。それで足りない分は自分達のバイト代でまかなうという運営で部室は維持されていた。
つまり、いくばくかのお金はサークルメンバーで分担する必要があり、それは僕もバイトをしなければならない事を意味していた。
高速電脳の創業
入学以来バイトなど、必要な時にペリカンの引越しで日雇いバイト位しかしていなかった僕は、2回生になった身として色々なシーンで小遣いが入り用になり、そろそろ定常的なバイトを探す必要があった。
そんな1996年の夏の昼下がり、突然その店は現れた。
大学の校門から部室までの道のりのど真ん中という、まさに神の配剤と思える立地にその店、「高速電脳」はオープンした。
先に簡単に説明しておくと、高速電脳は当時流行り(?)だったPC自作ショップの一つで、後に秋葉原に移転し一部マニアから絶大な支持を得たPCパーツ屋の草分け的存在だ。
まだオープン前からなんとなく店に入り浸るようになった僕が、さして募集もしていなかったくせにここのバイトになるまでにそれほどの時間はかからなかった。
このストーリーの主人公ともいえる高速電脳の社長、hakoさんこと箱守さんとはここで出会った。彼は別の事業からPCパーツショップをあらたに創業した40台中盤のオジサンで、すこし後退した前髪と、うらはらに長く伸ばして縛った白髪まじりの後ろ髪、丸いメガネとくわえタバコにエプロンがトレードマークのどことなく愛嬌のある人だった。
僕がここでバイトを始めた頃、高速電脳の月の売上は50万に満たなかった。
その後結局、僕は卒業近くまで2年少々ここで働くことになるのだが、辞めるころには月商は4000万程度まで上っていた記憶があるから、なかなかに成長を果たしたと思う。
僕が卒業して就職してから店は秋葉原に移転し、僕も忙しい中で少しづつ店とは疎遠になっていた。
あれから20年経つが今になっても思う、大事な事はみんな高速電脳、いやhakoさんに学んだ、と。
バイト店長
高速電脳のバイトは驚くほどテキトーだった。
なにしろ、出勤と退出は大学ノートに自分で書き、月の給料も自分で計算してhakoさんに提出する。彼は時給がいくらだったかさえ覚えていないので、言われた額をそのまま渡すだけ。
hakoさんは事務や仕入れで店を不在にしていることも多く、僕が一人で店番をしている時間も多かったがなにしろこちらも学生。授業の時は「授業中につき一時閉店。××時より再開」の札をかけて店を閉める始末だ。
かたや唯一のバイト要員である僕は、小売りどころか接客バイトさえやったことがない。自作PCについてもほとんど経験のない、つまりバイトとしては最低ランクに位置する人物だったのだから、そもそも僕を採用した時点で「テキトー」としか言いようが無い。
高速電脳は8畳程度の小さなお店で、1Fが店舗で2Fが事務所兼倉庫という本当にこじんまりした店だった。
電気街や繁華街にあるならいざしらず、西早稲田のはずれにあるこんな店まで客が来るはずもなく、オープンしてから半年以上、1日の客など平均2〜3人だった。
だからこそhakoさんも気軽に店番などをまかせてくれたのだろうが、最初冗談のようにhakoさんが言っていた「俺は事務だから、長友くんは店長ね」は徐々に現実味を帯び、実際に数ヶ月後にはほとんど店の事は任される(正確には放置される)状態になった。素人バイト店長の誕生である。
高速電脳での学び
あらかじめ断っておくが、hakoさんは経営に長けていたわけでも、成長戦略や戦術を描いたり実行する事に長けていたわけでもない。こう書くと失礼だが。
だから学んだ事は全て「今にして思えば」ということになる。
なぜ立地も悪く、知名度も無く、当然資金力も無いイチ店舗が、マニアに愛される店に成長したのか?
そのエッセンスは下記の通りだ。
1)通販への特化とオンリーワン商品
なにしろ店舗に人が来ないのだから通信販売が商売の中心だった。とはいえ、今みたいにECが発達しているわけでもSEOなんて言葉があったわけでも無く、さりとて有料広告が出せるようなお金も無い。
そこで、ここでしか売っていない商品、特徴的な商品を扱うことにした。資金の関係から商品ライナップも多数は展開できないから、一点突破だ。
hakoさんがおつきあいのあった問屋さんから仕入れたソレは、当時としては巨大なCPU冷却ファンだった。
自作PCの醍醐味の一つ、オーバークロックは熱対策が重要となる。そこで、当時としては異例にデカいヒートシンク+冷却ファンを重点的に取り扱った。商品名は「風神」だ。
とはいえ、いくら特徴的な商品を扱ってもお客さんに認知されないことには売上もあがらない。
今ほど情報流通が滑らかでなかった当時、PC系雑誌の元ネタ情報源の一つはメーカーや問屋、その営業であった。
「すごい冷却ファンがあるらしい」と聞きつけたメディアの編集やライターがメーカーに問い合わせ、取扱店を聞くと「高速電脳さんで」と答える。編集・ライターが取材に来て、そこで取材を受けメディアに取り上げられる→注文がはいる、とこういったサイクルだ。
一番最初のヒット商品、風神をhakoさんと二人で夜なべして段ボールに詰め続け、ヤマトの伝票を書き続けた記憶は今でも鮮明に残っている。
この頃1日の来客数2名程度の店は、多いときは1日に30個ほどの風神を出荷していた。
当時CPUの売価は15,000円〜25,000円程度だったが、粗利は1割〜2割、しかも1週間単位で値段が下がる賞味期限つきだ。
その点、風神は確か税別3,000円だったが、利益率は5割近く、またマザーボードの規格が変わらない限り利用できるので長寿商品となった。
この風神はその後世代を変えながらも定番商品となり、これ以降、高速電脳の稼ぎ頭は「冷却ファン」や「特注PCケース」など、特徴的な商品に集約されることになる。
2)徹底したカスタマー主義
hakoさんが2Fの事務所から1Fの店舗に降りてこなかった理由はもう1つある。それは通販の注文メールにつきっきりで返信していたからだ。
注文がはいるとhakoさんは全て手書きでメールを返信していた。それも、注文を受けてからすぐに。
Amazonが翌日に配達してくれる今では珍しくも無いが、当時のPC屋では「送料や時差で稼ぐ」ことは一つの常套手段であった。
有名大手販売店であっても、「納期 1週間〜2週間」「送料も(なぜか)1,000円〜」などがまかりとおっていた。
CPUやメモリーなど、回転が速い商品は1週間〜2週間もあれば1割価格が下がることも珍しくない。店は在庫があっても注文を1週間ほど「寝かせ」、時差を活かして安く仕入れ、それを出荷することで利益率をあげられる。送料も同様だ。750円で届くものも、送料を1,000円とることで利益を250円上乗せできる。
高速電脳はそういった稼ぎ方は一切しなかった。
注文が入ればすぐにメールを返信し、問い合わせには一つ一つ丁寧に答え、基本的には即日出荷、遅くとも翌日出荷を守っていた。
いつしか高速電脳は「即納の店」というイメージをもたれるようになり、リピート率はどんどんあがっていった。
特に木曜・金曜には注文が多かった。近くに電気街が無いお客さんが、週末に自作PCいじりを楽しむためだ。
後にhakoさんとこの話をした時に彼が言ったのは、戦略でもポリシーでもなく「だって、ワクワクして注文したんだろうから早く届いてほしいじゃん」だった。
3)新鮮な情報鮮度と遊び心
もちろん、いつも注文があふれているわけではない。高速電脳は基本的には暇な時間も多い店だった。
hakoさんと二人でアホみたいな実験や、しょうもない商品など仕入れたりなどすることも多かった。
というかヒマな時間はたいてい何かいじって遊んでいた。
異常なまでのオーバークロック、CPUの熱でお湯をわかすなどPCに関係あることから、電撃蚊取り機を仕入れることまで内容は様々だ。(電撃蚊取り機は、ラケット状のプラスチックに電線がはりめぐらせてあり、スイッチをいれると電気が流れて蚊を打ち落とすアイテムだ。その後様々なところでみかけるようになったが、僕の記憶の限りでは日本一早く取り扱ったのでは無いかと思う)
ブログなど無い時代だったが、それらは次々と高速電脳HPにアップされていった。すこしづつ定着していた常連さんはそれをおもしろがり「同じ商品をください」と注文したり、時には遠方からお店に遊びに来てくれるようになった。
遊びに来たお客さんとは談笑し、一緒にいろいろお店の商品でテストや実験をしてみたりもした。
その内、この常連の中にPC系雑誌の編集者も加わるようになり、いくつかの雑誌では高速電脳は連載コーナーをもつようになっていた。高速電脳のファンは、すこしづつ増えていった。
※ちなみにhakoさんは気分屋でもあったので、過剰な接客サービスはせず忙しかったり面倒だったりすると、ほどほどに相手をしたあと「後はまかせた」とばかりに2Fの事務所にあがっていく事も多かった。このあたりからも、特に商売を意識しての行動では無かったことがうかがえる。
4)すべての関係者に優しい
hakoさんは基本的に人に優しい人だった。過度にではなく、持ちつもたれつを体現しているのに近い。
問屋・メーカーの営業がくれば雑談をし、夏の暑い日には冷たい缶コーヒーを渡し「しばらく涼んでいきなよ」と勧めた。本当は必要ない商品も、営業が困っていたら、「しょうがないなあ」といいながら、わずかではあったが発注した。
ヤマトの集荷の兄ちゃんには商品が運びだしやすい形に積んでおいた。価格が安くても遅配率や事故率が高い他の運送会社は全て辞め、ヤマトに集中することでちゃんと真っ当に仕事する人を優遇した。(代わりに、仕事をしない担当はすぐに変更していた)
雑誌の編集・ライターには常に新しいネタを提供するよう、今で言う人柱を買って出た。
競合ショップの店員とも仲良くなり、在庫が足りないときは融通しあったりした。
バイトが失敗しても怒らなかった。僕も配送品のなかにうっかりガムテープを同梱してしまったり、非道い時にはカッターが入ったのに気づかず送ったこともあった。そんな時も「おいおい、気をつけてくれよ〜」とたしなめられる程度だった。でも、困り顔のhakoさんを見て、バイトはみな怒られる以上に同じ過ちを犯さぬよう反省した。
お客さんには当然フレンドリーだった。今のECのように在庫管理がリアルタイムで無かった当時、ネットからの注文があった時には店頭で商品が売れてしまう事も少なくない。
そんな時は即納するために別の小売店に買いに行かされることもしばしばあった。
もちろん、小売り価格で仕入れるので赤字だ。
結果、問屋の営業は率先して良い情報や良い商品をまわしてくれるようになった。商売のみならず、頼んでもいないのに休み返上で店の棚卸しを手伝いにきてくれたこともあった。
ヤマトは担当の裁量ギリギリまで送料を割り引いてくれた。
編集・ライターは何度も取材、記事化をしれてくれた。(彼らはhakoさんのキャラに何度もフォーカスしようとしたが、本人は照れて紙面にでることはほとんどなかった。)
競合ショップはいつしか仲間になり、お客さんは常連化し、北海道や九州からも遊びにきてくれるようになった。お客さんの在籍する会社の、備品購入先を大手から切り替えてくれる人もいた。
脱サラしてPCパーツ屋を目指す人には、お店で無給でバイトする代わりにノウハウや仕入れ人脈を惜しみなく伝授した。
高速電脳はあらゆる関係者に優しい店だった。
高速電脳の秋葉原移転
この頃までに、すこしづつバイト要員も増えた。
卒業に向けてすこしづつ忙しくなった僕の代わりにサークルの後輩や友人が代わる代わる店にはいるようになり、商品も増えて店も手狭になってきた。
月商は数千万にのぼり(とはいえ1割〜2割利益商売なのでそんなに大儲けしていたわけではないが)、順調だった1999年、僕は大学を卒業してリクルートに就職をした。
就職活動中、hakoさんは高速電脳に就職を勧めるわけでもなく「行くとこなかったら拾ってやるよ」とニヤッと笑ったきりだったが、僕自身、このまま小売業に没頭する生き方もアリだと本気で思っていた。
西早稲田の小さなショップと大企業のリクルートを比較するのだからリクルートには大変に失礼な話だが、それくらいの影響を僕はこの店から受けていた。
結局、僕はそのまま就職したのだが、その年にお店の移転構想がもちあがり翌2000年、晴れて高速電脳は秋葉原に移転を果たした。
とはいえ、中央通りからもはずれた当時のヤマギワ生活館そば、中華料理屋の2階という「らしい」場所だった。
場所は変わってもお店の性質はかわることなく、お店は繁盛していたが、僕は忙しい日常の中ですこしづつ高速電脳から離れていった。
就職してからは時々お店に顔を出しても、忙しそうにしているhakoさんを見て僕も話しかけるのを遠慮し、時々差し入れをもっていく程度だったので高速電脳の状況についても段々疎くなっていった。
hakoさんという人は残念ながらお酒が飲めない人で、僕は彼と酒席をともにしたのは1〜2回程度しかない。
だから彼の私生活やお店のビジョン、将来についてなど語り合ったようなことは無く、あくまで店のレジ横に座りながら雑談するのが日常であり、僕の知っているhakoさんと高速電脳の全てだった。
そして2008年、終わりは突然やってきた。
高速電脳の終焉
2008年1月31日、高速電脳は突然閉店した。
まさに突然の閉店で、表に張り紙を残して店のシャッターはその後開くことはなかった。約2億円の負債をかかえての閉店、つまりは倒産したのだ。
突然の悲報にネットや雑誌の一部ではとまどう声も流れた。
「げ! マジで!?」――高速電脳の閉店に周辺ショップも絶句
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0801/31/news100.html
高速電脳の閉店で各ショップが考えること (1/4)
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0802/04/news031.html
2chでは追悼スレッドが3日にわたり立ちあがり、ヘビーユーザーたちがそれぞれ思い出を語り合った。
今、高速電脳を検索してみても悪く書いたニュースやブログはほとんど見当たらない。
カスタマーには迷惑をかけぬよう前日まで出荷を行い、以降の注文はとっていなかったらしい。入金したまま貸し倒れたカスタマーはいないはずで、いかにもhakoさんの人柄があらわれるエピソードだ。
何が倒産の原因かはわからない。それなりにうまくいっていると思っていたし、周囲の反応も同じだった。
ただ2008年のこの頃、自作PCブームはとっくに下火になっていたし、次々と倒れゆく秋葉原PCショップのニュースの中でマーケットの縮小は誰の目にも明らかだった。
秋葉原自体が「萌えの街」に転換しつつある中で、高速電脳の倒産は自作PCブームが放った最後の残光だったのかもしれない。
僕はあれ以来、hakoさんとは会っていない。
人づてにちょっとした近況を1年ほど前に聞いたが、それとて真偽はわからない内容だった。
中段からの繰り返しになるが、hakoさんという人は決して商才にあふれた人でも、経営センスがあった人でも無いんだと思う。実際店は倒産してしまったわけだし、どんなに過程がよくても最後いろいろな人に迷惑をかけながら夜逃げ同然に閉店した事は残念の一言だ。
ただ、僕がリクルートで様々な事業・サービスに関わったり、今自分自身で小さいながらも商売をしている中では高速電脳で学んだ、hakoさんから学んだ事が脈々と生きていると思う。
高速電脳での学びは、それぞれCRMだとかブルーオーシャンだとか格好いい用語でラベリングすればいくらでもできるのかもしれないが、アレはもっと泥臭くて人情味あふれる何かだった。
同じ高速電脳でバイトした友人・後輩たちはそれぞれ様々なところで活躍している。
大手IT企業に就職したものもいれば、コンサル企業に勤める後輩、雑誌の編集長、漫画家になった友人もいる。
きっと、彼らの中にもhakoさんの血が流れてるんじゃないかなあ、と思う。
hakoさんが今どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかもわからないが、是非壮健であって、またいつか同窓会などやってみたいと願ってやまない。
まあ彼はウーロン茶で、お気に入りのショートホープを吸い続けるだけだろうけど。
備忘がてら、僕と高速電脳にまつわるストーリーを書いてみたが、ひさしぶりに大量のテキストを書いた。
誰に見せるためのつもりでも無いが、乱文失礼。
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