9歳で小児ワイセツの被害者になった私が結婚3回を通して婚活メンターになったワケ
私は9歳の時に家の前の公園で知らない男性からワイセツ行為を受けました。
9歳の私はあまりの恐怖と自分自身に対する嫌悪感を口にすることができず、ついに35歳で不妊治療でウツになるまで誰にも言うことはありませんでした。
しかし35歳でこの事を他人に話すようになってから、これは私の身に起こっている事に多大な影響を及ぼしていることがわかりました。
そしてこの件からの私の大きな学びの一つが、一つの事を理解するのに30年も40年もかかる事もある、ということでした。
私の人生で大きな障壁は自分が女性であるにも関わらず、女性である事に怒りと恐怖を持ってしまった事です。
何と言っても自分の中にその強い葛藤があることが全ての苦しみに繋がりました。
自分が女性で生まれてきた事、自分が女性であるが故に受けた傷、そしてそれらを結婚という男女関係において許さざるおえない状況になりました。
でもそのお陰で私は私が傷つく経験をする前以上に自由になれたのです。
私を傷つけたのは男性ですが、また私を心から自由にしてくれたのも男性でした。
◼️私の幼少期
私は小さな植木屋の長女として生まれました。
そもそも心理学やスピリチュアルな世界に興味を持ったのは、9歳の時に見知らぬ男性からワイセツ行為を受けた経験がキッカケです。
その日は家の前の公園で、私含め近所の子供5〜6人で、缶蹴りやかくれんぼに夢中で遊んでいました。
その頃の私は男性がどういうニーズがあり、どんな生き物なのかなど全く知る由もありませんでしたし、その公園に近所では見かけたこともない浮浪者風の男性が一人いたことに気がついてはいましたが、誰も気に止めることはありませんでした。
当時その公園は森のように木が鬱蒼と茂っていました。
鬼ごっこで子供達が一目散に隠れようと、公園中に散らばった瞬間です。
私も公園の奥に隠れようとした瞬間、男に腕を掴まれて、そのまま木の茂みに引きずり込まれました。
あまりにも突然で想像もしなほどの強い力に、私は一体何が起きたのかわからず、その時強烈に感じたのは「殺される」という恐怖でした。
次に視界に入ってきたのは木の葉で覆い尽くされた空で、それと同時に口の中に生暖かい男の舌が入ってきました。
その時感じたのは酷い気持ちの悪さと自分の身が穢されるようなおぞましさでした。
そして次の瞬間、私はその男を振り払って、一目散に逃げ去りました。
それはたった一度、一瞬の出来事なのに、その酷い気分の悪さと恐怖が常に私を苦しめました。
その当時、私は両親と信頼関係が非常に薄く、その事を誰にも話せず35歳になるまで「無かったこと」として記憶の中から抹消しました。
しかし当時の私にはあまりにも苦しい体験だったので、「何故私はそういう経験をしなくてはならなかったのか」その答えが欲しくて必死にあらゆる本を読んでいました。
その行き着いた先が心理学やスピリチュアルな世界でした。
しかしある時点でこの出来事は自分が引き寄せた事なのだ、とハッキリと自覚します。
8歳の時に「死にたい」「死にたい」「死にたい」と1冊のノートに鉛筆でびっしり、綴った記憶があります。
後から自分でもそのノートがおぞましくて、誰にも見つからないようにこっそり庭で焼いて捨てました。
そして私自身の記憶からも消えてしまったのでした。
私の中では9歳のあの事から、何故私が「殺される」と思うような経験をしなくてはならなかったのか?がずっと心の何処かで引っ掛かっていました。
そして大人になったある日何かのキッカケで、「死にたい」「死にたい」「死にたい」とノートに書き綴った記憶が蘇り、私が公園の茂みに引きずり込まれて「殺される」と思うような現実になったのは自分自身が引き寄せた事と自覚しました。
記憶の点と点が結ばれた時、つまりあれは私が引き寄せた出来事だったとハッキリ自覚した時は人間の意識の恐ろしさにおののきました。
では「死にたい」「死にたい」と延々書き綴ってしまった私はどんな家庭に育ったのでしょうか。
◼️私が育った環境
私の生まれた実家は周り近所がほぼ植木屋を営んでいるというような環境で、見渡す限り木で覆われた自然が豊かな地域でした。
私の生家は母が祖父から引き継いで経営している、従業員が数名の小さな植木屋です。
ウチに働きに来る人といえば大体が誰かの紹介でした。
親に連れられて「どこにも雇ってもらえる場所がないからここで雇ってもらえないか」と頭を下げさせられて来る、素行の悪い10代の少年ばかりでした。
「人の太腿にナイフを刺して少年院入ってました」
「どっかの会社の金庫盗んで捕まったことがあります」
そんなような会話をよく聞きました。
母が若い従業員のことで「お客さんの家の庭先でそんな話を自慢げにしだすから、ヒヤヒヤする」とよく言っていた事を思い出します。
父は彼らがお金が無いといえばご飯を食べさせ、通勤手段が無いといえばバイクを買ってやっていました。
ほぼ親代わりみたいなことをしていたと思います。
しかしそんな彼らは、ある日突然いなくなる。
そんな事がしょっちゅうで、父はよく仕事の事でキレていたし、暴力も奮ってました。
父が従業員を殴る鈍い音や物を壊す激しい音を聞くのは、子供の私には耐えがたい事でした。
暴力で人を制圧する父が非人道的に思えました。
そんな人が自分の父親だなんて最悪だ、父のやっている事は誰にも言えないし、恥ずかしいことでもあると思ってました。
ずっと父に対する批判が消えませんでした。
母は母で常に明日の現場の事、得意先への集金のこと、姑のこと・・・私たち子供の事は(弟がいます)全く頭の中から消えてしまっているかのように見えました。
子供時代の私の目に映る両親は本当に大変で、非常に苦労していました。
世の中には他にも色んな仕事があるのに、こんな仕事を何故続けるのか両親を理解できませんでしたし、私がいつも自分の存在感を感じられず寂しい気持ちでいっぱいなのに、それすら気がついてくれない両親に反発を感じていた私はずっと植木屋が嫌いでした。
しかし母はよく「社会貢献のつもりでやってる」と言っていました。
「ウチみたいな植木屋があってもいい。そしたら他で受け入れてもらえないような人が働く場所がある。そうしたら犯罪者が減る」というような内容をよく言っていました。
そう言いつつも両親は、従業員の彼等が私たち子供に危害を加えないか常に注意を払ってるようなところもあり、家の中には緊迫したムードと怒り、暴力で蔓延してました。
私はとにかく自分の家が嫌いだったし、暴力的な父も嫌いだったし、いつも寂しくて傷ついてる私に気がつけない母も嫌いでした。
◼️私の10代
そんな状況だったので、私は自分の身に起こった事を両親に言えずにいました。
この事を話したら、むしろ「忌まわしい子」として捨てられるのではないかという恐怖に怯えていました。
でもこのままでは「男性からまたやられる」、そう思った私は長かった髪を切って、スカートを履く事をやめ、剣道部に入りました。
女性である事を隠す事で、自分自身に力をつける事で、自分の身を守ろうとしたのです。
誰も私を守ってくれないから、自分で自分を守るしかない、そう思っていた記憶があります。
気がつくと10代の頃の私は周りから、「少年」と呼ばれていました。
高校生の時には校内で開催された美男子・美少女コンテストでなんと美男子部門で1位を獲得してしまいました。
今の私なら理解できるのですが、常に女性であることに恐怖と怒りを感じていた私は、自分が女性ではない、つまり男性と間違われることで安心感を感じていたのです。
しかし10代の私は過去の記憶を抑圧し全くなかった事としていたので、自分が何故そのような振る舞いをしているのか、何故少年と勘違いされるのが嬉しかったのかなど、全く理解していませんでした。
◼️私の20代
そんな私は何故か20歳という壁が非常に大きく感じていました。
何か自分の中で一つの節目のような感覚がありました。
20歳になり、短大生になり、その後は化粧品メーカーの美容部員になりました。
何か自分を抑制していたものから解放された感じがしていて、メイクをし女性らしい服装をするようになると非常にモテました。
自分でも不思議なくらいでした。
合コンに行くと必ず誰かからアプローチがあるので、よく一緒に合コン行く友人からは「もうあんたなんて連れていかない」と言われたこともありました。
「2番目の彼氏でもいいから」そんなことを言ってくる男性もいました。
そんな私は気がつくと常に三角関係になっていました。
私の場合、本命の彼氏の他にお付き合いする男性が必ずいるのです。つまり浮気している状態が私にとっての通常でした。
最初の頃は自分がモテているんだ、という傲慢さで随分図に乗っていたように思います。
しかしそれとは裏腹に誰に愛されようと、愛されている感じを全く感じられなくて、常に不安で仕方ありませんでした。
そしてその頃は自分の中に不特定多数の男性に対して復讐心があることに気がついていませんでした。
私が男性から傷つけられたように、男性も私から傷つけられればいい、無意識にそう思っていたような気がします。
潜在意識では男性を傷つける事を目的としていた私ですから、何人と付き合おうと、どんなに素敵な人と付き合おうと、男女関係において愛を体験する事など不可能なのです。
常に愛を欲していながら常に相手を傷つける、それが私の男女関係のパターンになってしまったのです。
◼️初めての結婚
そんな私が28歳で1回目の結婚をしました。
地方で地元の名士で、2歳年上の彼は誠実な好青年(A)で、両親は諸手を挙げて大喜びでした。
結婚式はオーダーのウエディングドレスに、披露宴も700万もかけてもらい、相当派手にしてもらいました。
その当時も私は結婚相手の他にお付き合いしている男性がいました。
その彼は9歳年上のドラッグストアの店長でバツイチの男性でした。
ゴルフで日に焼けた肌と引き締まった身体で、とてもユーモアのある人だったので周りの女性から人気がありました。
その彼と一緒にいると本当に楽しかったです。
何が、という訳ではなかったのですが、一緒に買い物に行ったり食事を作ったり、そんな些細なことが本当に楽しかった記憶があります。
でも私の中の「しあわせ」は素敵な一軒家に可愛い子供、裕福な家庭というイメージだったので、9歳年上の彼は私の結婚相手の範疇にありませんでした。
私は結婚と同時に地方に移り住み、オーダーで建築してもらった家に住み始めました。
私は以前通っていたお料理教室の先生に憧れていて、先生の教室と同じようにビルトインの食洗機にオーブン付きのキッチン、20畳あるリビングの素敵な家でした。
地方に移り住んでから1週間くらいたった、ある日ふと窓の外を眺めるとはっきり自分の声が聞こえました。
「私しあわせじゃない」
その声が聞こえた時、自分で自分が恐ろしくなりました。
「私しあわせじゃない」
そんなことがあっていいのだろうか。
「そんな事あるわけないじゃないか。」
そんな声も聞こえてきます。
周りの誰もがこの結婚に賛成し、喜んでいる、両親は一番に大喜びだったじゃないか。
「でも私しあわせじゃない」
その声をはっきり聞いてから、私の中で何かが壊れた気がしました。
私が信じていたしあわせの基準、お金・地位・名誉・・・それらが私を永遠に守り、私をしあわせにしてくれると信じていました。しかしそんなものは私が心の底から求めていたものではなかったのです。
その時ハッキリと自覚したのは、私が今まで懸命に求めてきたしあわせは親や世の中から教えられた価値観であって、私個人の価値観とは全く違ったものでした。
でもその時私は私として生きてきたことがないので、私の価値観、私のしあわせが何を指すのかわかりませんでした。
私は自分が自分のことを理解せずに大きな決断を下してしまった事に恐怖を感じました。
もう後戻りはできない事、これからどうやって生きて行けばいいのかわからなくなってしまった事、全てを誰にも言えずにいた私は気がつくと半年後にはパニック障害になっていました。
9歳の時も28歳の時も同じで、私は私の感じている事、体験していることに自信を持てず、それらは全て無かった事として切り離す事で解決したと思い込もうとしていました。
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