Vol.1 おすし【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

次話: Vol.2 デュアルライフ【二十歳まで生きれないと言われた兄とわたしの物語】

兄の好物だった、おすし 。何度一緒に食べることができただろう。毎年5月31日、わたしは決まっておすしを食べている。


                   *


発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。母は一息ついてソファに横になった。わたしはパイプ椅子に腰掛け、ぼんやりと兄を眺めている。いくら危篤と言われてもまるで実感がない。悲しくてその現実を受け入れられないのではない。きっとこの一時も笑い話のひとつになる日が来ると信じて疑わなかった。なまぬるい病院の個室に注ぐ柔らかな初夏の日差しが、平和な日常を思い出させてくれる。外はこんなに爽やかなのに...。


ベッドに仰向けで寝ているはずの兄は、目を瞑ったまま徐に天井に手を伸ばし、空気を摘もうとしている。そうかと思うと、その手を口に運んでもぐもぐと口を動かした。ひとつ、またひとつ。


「お母さん、見て!何か食べているみたい...。ほら、また!」


「ほんとだわ。お寿司...? お兄ちゃん大好きだからね。」


彼は幻のお寿司を満足そうに味わっている。好物の帆立に、次はいくらの軍艦巻きだろうか。幸せな幻覚。母とわたしは顔を見合わせてくすくすと笑った。


泊まり込みの看病が始まってから一週間、疲れと緊張が高まっていた私たちを、兄はいつもと変わらず笑顔にしてくれた。



彼は3歳の時に病に侵された。1年後に茨城でわたしが生まれた時には、祖母が付き添って東京の病院で暮らし始めていた。それから24年間、何度入退院を繰り返してきたのだろう。人懐こい笑顔とお茶目なキャラクターで院内の人気者でもあった彼は、入院というより「病院で暮らす」という言葉の方が合っている。新入りの患者が困っていれば代わりにナースコールを押し、仕事に慣れない新米ナースを励ますのも彼の役目だ。


「お兄は何の病気なの?」何度も繰り返してきた問い。幼い頃は、原因不明の病としか聞かされていなかった。これまで3つの病院を渡り歩き、数えきれない医師達が関わってきた。これだけ医療が進んだ今でさえ、誰も彼を助けられないことを悔しくも受け入れるしかなかった。


しかし、大人になって改めて母に聞いた事実は少し違うものだった。

「赤ちゃんの時は健康そのものだったの。ある時、麻疹が流行ってね、お兄ちゃんも近くの小児科で受診したの。その時の処置がまずかったのかな...。強い薬で発疹を止めてしまって。それから口内炎で口の中も食道もひどく荒れちゃって。その後も外に出れなかったウイルスがずっと身体の中で悪さを続けているみたい。癌と言われたこともあったけれど、結局本当の病名は分からない。」


“それって医療ミスじゃないか!”と見たこともない医者へ怒りを募らせることもあったが、20年も前の出来事であっては暖簾に腕押し。「近くの小児科」と言うだけで、実際にその名前を聞くこともなかった。家の近くには人気の小児科はあったけれど、そこのことだったのか、母の実家近くの小児科だったのか、特定するのは少し怖いようにも感じられた。両親がその小児科を訴えることはなかった。裁判云々にパワーを割くよりも、兄を救うことに必死だったのだろう。無論、討論さえ嫌いな平和主義の父が、医者を訴えることなどしなかったのかもしれない。


それから母の人生は兄一色に変わった。わたしの家族は兄中心にまわっている。


                    *


3歳で発病後、毎年彼の身体には解明できない症状が次々に現れた。それでも5歳くらいまでは、ハラハラする母を尻目に一緒に走ってはしゃいでいた記憶がある。それから思うように歩けなくなり、車椅子になり、しまいには股関節が変形してしまった。ひとつ、またひとつと身体中本来の機能に代わる人工物が彼の一部となっていく。胸には毎日点滴を刺すポートが埋め込まれていて、ほんの一部だけターミネーターみたいだ。おへそから出た太い管は緑色の胃液を外のパックに排出している。いつかの手術で喉にも穴を開けた。ゼコゼコ音が聞こえれば、その穴から細い吸引器の先を入れて痰を吸引する。


次々に現れる症状に立ち向かう本人と病院の先生達。それは終わりの無いいたちごっこにも思えた。頭、目、耳が唯一手を施していないパーツかもしれない。そんな連続は完成系とは言えないが、彼の肉体は数えきれない医療技術の賜物だ。


そして、彼の心はいつでも生きることに前向きだった。痛みに耐えて顔をしかめる姿は幾度となく見てきた。けれど、彼のトレードマークは口を大きく開けたくしゃくしゃの笑顔だ。「つらい」という言葉も彼の口から聞いたことは一度もない。


体調が良く家で生活している時は、彼の全てのパーツを毎日母がメンテナンスしていた。分解し、綺麗にして、付け替える。時には血が滲み出ても、母にしてみればお手の物。ベテラン看護師顔負けの冷静さだ。わたしも小学生になると、新米ナース並に点滴の交換や痰の吸引など、少しずつ手伝えることが増えてきた。


そんな環境で育ったせいで、血を出してわんわん泣いている子どもを見ても、多少通院が必要な友人がいても「大丈夫?」と心配しつつ、心のどこかで “死にはしない” と冷めた自分がいる。



兄にとって一番の脅威は、痰が固まって喉の呼吸口を塞いでしまうこと。少しでも乾燥すれば、加湿器を喉に当て痰を吸引する。痰が固まってくると喉からはピューピュー音が聞こえる。スポッと大きな塊が取れると、彼は満足そうに親指を立ててサインを出した。どんなに気をつけていても、酸素が届かず青ざめた経験は幾度となく襲ってきた。母が長時間外出する時は、わたしや姉が代わりに吸引係を引き受ける。塊が取れた時は「こんなに大きかったよ!」とわたしでも出来ると言わんばかりに自慢するのだけれど、どうしてもの時は仕方なく母にSOSを出すのだった。


「(深呼吸して一気に吐き出す)フンっ!!...ダメだ。詰まってる...。」


加湿器と吸引器のダブル攻撃で塊と奮闘する。兄と集中して呼吸を合わせ、何度も勢い良く息を吐く。ついさっきまで一緒にテレビを見て笑っていたのに、彼はいつも生と死が隣り合わせだ。


「お母さん、あとどのくらいで帰ってこれる?お兄が詰まった。どうしても取れないの。」

わたしがやっても母がやっても変わりないはずなのに、兄もわたしも母が帰ってきただけで全てが解決したような気になった。

「ただいまー!なーに弱気になってるの?! 大丈夫だから、ほら、ゆっくり息を吸って、吐いて。もう一回。」


たとえ外出中でも病院内でも、少しでも呼吸口が詰まったとなれば一大事。医療技術の傑作が鼻くそみたいな塊で命を落としてしまってはいたたまれない。



栄養は口から摂取できず、人生のほとんどを点滴のみで生き続けている。点滴をしていない時間以外、彼は常に点滴の管と繋がっていた。歩ける時でも、管によって守備範囲が限られていることで「あれ取ってみて、これ取ってみて」と用事を頼まれた。彼なりに気を遣って「取って」と言い切れなかったようだが、「取って"みて"」という言い方がわたしをイライラさせることも度々あった。


点滴は幼いわたしには、人間が一生液体だけで生きる実験の様にも見えた。もちろん、彼はもう20年以上もそれを証明し続けている。小学校低学年頃までは、赤ん坊のミルクを作るように、毎日決められた時間に栄養の粉と人肌程に温めたお湯を混ぜ、専用の点滴パックに流し込んでいた。作った液体は白濁色で、茹でたじゃがいもみたいな香りがしてまずくはなさそうだった。小学校中学年頃になると、製薬会社が変わったのか、点滴はだいぶスタイリッシュになった。無色透明、無味かどうかはわからないが無臭の液体。点滴パックの封を開け、注射器で少しだけ液体を取り出す。ガラスの小瓶に入った白い薬をその液体で溶かし、注射器で全てパックに戻し、彼の食事が完成する。


必要な栄養は点滴で補えたが、彼の「食欲」は舌でしか満たせなかった。

「ねぇお兄、そのまま間違ったフリして飲み込んで見たら?」

「そしたら喉の穴から出てくるかも笑」

どんなに茶化してみても唾さえ飲み込まず、一口ひとくち味わって楽しんでは、専用のポットへ器用に吐き出す。こんな方法で一緒に食事を楽しむことができた。家族の誰よりも食いしん坊な彼は、祖母の好物である海老天を中身だけ食べてしまうことも度々あった。


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