4度の手術を経て。人はどん底から強くなる。 〜甲子園の軌跡〜

「え、ほんとに甲子園?」

試合終了後の私は、甲子園への切符を掴んだ実感が湧かなかった。 


高校球児の誰もが夢見る、甲子園。

正直、私は今でもわからない。なぜ甲子園に行けたのか。


これは私の12年間の野球人生の話でそこから学べたことである。



無邪気な少年時代


私は、3歳から父の影響で野球を始めた。もちろん当時は野球というよりはボール遊びの感覚でやっていた。

幼稚園から帰れば母に「キャッチボールしよ!」と毎日のように野球で遊ぶ無邪気な少年だった私。次第に、母も私の相手をするのが大変になり始め、小学1年生の時にリトルリーグに入団し、野球人生が始まった。


しかし、入団してまもなく私は、練習に行きたくなくなった。周りの友達は上手いし、何よりコーチが怖かったからである。ミスをして怒られ、泣き虫だった私はすぐに泣き、「泣くならグランドから出ろ」と練習のたびに言われていた。

そんな中、チームメイトの励ましもありなんとか続け、小学校6年間で北関東大会優勝、関東大会優勝、全国大会ベスト4という成績を収めることができた。


小学6年生の夏休み、中学に進学すれば部活動が始まり、土日はクラブチームで野球をやる予定であったため最後の夏休みになるだろうと、父から好きなところに連れて行ってやると言われた。

私は「甲子園に行きたい」とお願いをした。

その当時の感動は今でも忘れない。スタンドからではあったが白球をがむしゃらに追う高校球児の姿が輝いて見えた。そして、父に「次来るときはスタンドじゃなくグラウンドに立つね」と言い甲子園を後にした。


中学に上がり、平日は陸上部で走り、土日祝日はシニアリーグで野球をするという休みない毎日を送っていた。小学生の頃にそれなりの成績を収めていたため、シニアリーグでは、早くからAチームに入ることができ試合にも出れるようになった。

だが、この時から膝が少しずつ痛み始める。痛みを理由に練習を休めばメンバーから外される。痛みを隠しながらも秋の大会まで乗り切ることができた。




予期せぬ事態


シーズンが終わり、強化練習が始まる。そんなある日の練習の後、車に乗って家に到着し降りようとすると膝伸びない。伸ばそうとすると激痛が走った。これはただの痛みではないと親に初めて打ち明け、病院へ向かった。


診断の結果は、右大腿骨骨腫瘍。

膝の関節部分に腫瘍ができていたのだ。

まだ中学1年生だった私はなにがなんだかわからなかった。成長期だったというのもあり、今後関節部分にできた腫瘍は次第に大きくなるだろうと言われ、手術をすることになった。手術への恐怖。術後からの復帰できるかの不安。

なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのかとも思った。


また1からのスタート。

まずは体づくりからやり始めた。落ちた体重を元に戻した。だが、手術後のリハビリは想像以上のものだった。歩くことすらままならない。傷口に激痛が走った。それでも我慢し、前を向き続け、半年かけて復帰することができた。

しかし、なかなか結果は出ずに1年が過ぎた。


3年生に中学最後というのもありモチベーションも上がって矢先、またもや出来事が起こる。

プレー中に足首を軽く捻っただけなのに一向に痛みが取れない。病院に行きレントゲンを撮った。

有痛性外径骨。一種のスポーツ障害である。


痛みのはやくとるなら手術しかない

と言われ、一気にどん底まで落とされた。

「中学最後の大会は出たいから痛み止めでお願いします。」

痛みが取れないまま試合に出場しもちろん思うような成績は出せずあっけなく中学野球は終わってしまった。


中学野球を引退し、高校でも野球をするつもりでいたため手術することを決断した。人生2回目の手術である。足首にボルトを入れ、1ヶ月間車椅子生活。そここら2ヶ月間松葉杖で生活を送った。

リハビリを終え少しずつ体を作り始めたが、ボルトを抜く手術もしないといけなかったため満足には動けなかった。

高校に進学の前にボルトを抜く手術を行い、絶対に高校では甲子園に行くという目標を掲げ再び歩き出した。 




出遅れの高校野球


どこからも声がかからなかった私は、中学の監督さんの繋がりで茨城の高校へ進学をした。

手術もあり体力も落ちていた私は、スタートの時点で同期との大きな差を感じた。まだ慣れていない寮生活。まずは自分のことをやるだけで精一杯。1年生はよくわからない理不尽な禁止ルールがたくさんあった。そんな中、時間を作り自主練習を欠かさず行った。当時、付き合ってた彼女ともすれ違ってしまい別れ、野球だけの生活になった。


春、夏とスタンドで応援していたが、1年生の秋からレギュラーを勝ち取ることができた。だか、チームは私立校ながら地区大会敗退という屈辱を浴びた。先輩方を中心にまた1からリスタートしようと掲げてた矢先、再びどん底に落とされる。

中学生の時に膝にできた腫瘍が再発したのだ。今回手術すれば4度目。こんなにも落とされるのかと思い、野球を辞めようかとも思った。しかし、手術をすることを決断した私は、前を向き続けた。手術が終わった翌日に、1人で廊下で歩くリハビリをしたりして、先生に怒られることもあった。何がなんでもこの試練を超える。私は、復帰まで半年かかると言われたところをわずか3ヶ月で復帰し、なんとかシーズンに間に合った。


新たな出会い


新学期から監督さんが代わり、自分自身もまた一回り成長し、春を迎えた。

新たな監督の紹介で言った監督さんの言葉を今でも覚えている。

「私は、甲子園の行き方を知っています。必ず皆さんを甲子園に連れて行きます。」と。

私は、初めてその監督に出会い、これまでお世話になってきた指導中でも1番のオーラを感じた。この人について行ってみよう。私は監督を信じた。


そんな中で迎えた春の大会。背中には背番号「9」が戻ってきた。新たな監督のもとでチームも改革され、春の大会、県ベスト16まで勝ち上がることができた。このまま夏、甲子園も夢じゃない!とチームの指揮も上がっていた。

だが、そんなに甘くはなかった。シード高ながら初戦敗退。先輩たちの夏を私は呆気なく終わらせてしまった。グラウンドで先輩たちと同じ涙は流せないと思いベンチ裏で泣いた。もうこんな思いはしたくない。先輩方の想いを背負っていくと。寮に戻りその日の夜、すぐさま室内練習場で練習した。


先輩方が引退し、新チームがスタート。1年生からレギュラーで出ていた私は、自分がチームを引っ張りなければという気持ちになっていた。だか、いざ先輩方が抜けると自分の実力の無さに気づく。どうやってチームをまとめればいいのか分からない。練習中どうしてもかける言葉が甘くなる。グラウンドに立つ私は、キャプテンの姿とは程遠かった。このままでは甲子園に行けない。新たな改革をしなければと。悩みに悩んだ。

そんな中で挑んだ秋の大会では県大会1回戦敗退。

チームを大きく変えなければと私は、チームメイトのM君と何度も話し合った。そして、伝統であった理不尽なルールを変えよう。練習後は選手間で必ずグラウンドですぐにミーティング。自主練習の時間の確保。様々な改革を行った。監督さんも、メンタルトレーニングやエアロビクス。様々な改革を行なっていただいた。少しずつチームは変わりだす。今になって振り返り、1番の転換点はやはり冬合宿である。


二度と行きたくない。


私は、新たな監督さんが行う冬合宿はとんでもないという噂を聞いていた。2学期終了し、そこからバスで移動し冬合宿が始まった。その日の夜から度肝を抜かれた。夜9時にミーティングを開き、コーチから

「今から近くの道の駅に下ろすから歩いて帰ってこい」と。

意味がわからなかった。え?となるチームメイト。言われるがままに、夜間歩破スタート。22時から翌日、5時。睡魔と疲れと闘いながらチームみんなで乗り切った。こんな状態から冬合宿が始まった。朝は4時半起床。朝、午前、午後、夜の4部練習。これまでの野球人生の中で1番しんどい合宿となった。監督さんは

「茨城でこんなに練習しているチームはない。」

この言葉で私たち選手の中から自信が湧き始めた。


こんな気持ちで迎えた春の大会。

結果は県大会1回戦負け。これで夏のシードはもらえない。悩みに悩んだ。どうすれば勝てるのか。何がチームに足りないのか。キャプテンとしてどうするべきか。チームメイトにかける言葉を失った。時には喧嘩などの衝突もあった。何度もミーティングを開き目標を再確認した。

「甲子園」どれだけ遠い存在なのか。多分あの時はみんながそう思っていただろう。


もう開き直り、失うものはもうない。私立のプライドとかあるかもしれないけれど、最後は野球を楽しもう。そんな気持ちで夏の大会に挑んだ。

1回戦、5回終了で7-02安打に抑えられていたのもあり、正直負けると言うより呆気なかったなってグラウンドで思っていた。そんな中、まさかの大逆転勝利。最終的に、全7試合中5試合が逆転勝利という形で甲子園が決まった。


誰が予想していたことだろう。私たちが甲子園に行けることなんて。

どん底からの大逆転。私の野球人生はまさにそれを物語っている。


窮地に追い込められ、それを必死に耐え、しがみつき乗り越える。

私は手術やチームの敗戦を経験して何度も諦めた。しかしそこでしがみつき努力し、時には開き直ることもあったが闘った。

私はそれで「甲子園」という夢を叶えたのだ。



2020年夏、新型コロナウイルスの影響で様々ことが中止となった。甲子園もその1つである。

何のために高校野球をやってきたのだろう。私が今の高校生だったら絶対に納得いかないだろう。自分がどうなっているかが想像できない。だからこそ同情はしない。しょうがないよ。お前はよくやったよ。そんな言葉はかけられない。どれだけの高校球児が高校生活3年間をかけて甲子園を目指したか。私にはその気持ちは到底理解することができない。 


しかし、これだけは言いたい。


将来、この世代の人は、強い人間になるだろう。こんなにも悔しい思いした人はきっといない。だからこそ腐らないで欲しい。その気持ちを今後の将来に生かして欲しい。

必ず、成功すると私は思う。




だからこそ私も負けない。今後、社会にでて仕事し、与えられた環境がどんな場所であろうと挫けず、努力をし必ず結果をだす。


これを読んでくれた人が少しでも前向きになり、夢や目標へ向かう一歩になってくれれば私は嬉しい。





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