幸せになることを諦めていた俺が30歳になって大切な人を見つけようと思えるようになった話②
15年間、ずっと自分を恨んで、憎んで、呪って、どこか殺してやろうと思って生きてきた。
-躁鬱再発、自分への殺意-
16年前、俺が14歳の時に母親が躁鬱病を再発しました。
母と同じ面をした別の何かがいる。
普段穏やかでどちらかという大人しすぎるくらいなのに、
異常にハイテンションで、
早朝から連絡なしで親戚の家に行ってしまったり、
犬の鎖を外してしまったり、
四六時中電話かけっぱなしで電話代の請求がやばくなったり、、
見た目は同じなのに別の何かで、
いつもの家に異物がいるようで、
とにかく家族全員が落ち着かなかった。
泣き叫ぶ俺と妹の姿を見て母に怒鳴る父。
あんなに父親のことを罵倒する母も、
犬が死んだ時にしか見たことがなかった父の涙も、
祖母の涙も病気が再発してから初めて見ました。
再発してからは、
家だと手がつけられないので、
遊びに行くふりをして無理矢理精神病棟に入院させる。
そんな期間が3〜4年ありました。
前までは幸せで穏やかな家庭だったのに、
妹は髪の毛が抜けてイジメられ、
掃除をしなくなるので、
手入れされてた庭の花もどんどん枯れ、
重い家庭の空気にどんどんなっていきました。
入退院を繰り返さなくて済むようになってからも、
家族の中には当時のトラウマが感覚に刻まれてるので、
母の状態が不安定になる度に家族心中穏やかではなくなる。
俺の家族は、たぶん俺含め全員我慢しがちなので、
自分がいっぱいいっぱいになった時に俺に連絡がくる。
俺もそのことを察してました。
また入院騒ぎにならないか、
心配したり泣いたりしないか。
家族の誰の間にも割って入れて、
仲を保てるのが俺しかいないから、
俺が毅然とケロッと振舞えてないと、
家族が総倒れになってしまう気がするから、
俺が動揺してる様は、
家族ごとだから家族にしか共有できないものだけど、
家族にこそ見せれないものでした。
だから、
少し1人で泣いてから、
「大丈夫でしょ」
と俺はまったく平気であるかのように装って家族と電話する。
一番症状が激しかった、
中学、高校の時のあの1人でもがいた受験の期間さえ乗り切れば、
脱出できるものだと思っていたのに、
大学に入ってからも、社会人になってからも、
母に最初の兆候が見え隠れするたびに、
一生拭えない影が自分に纏わり付いてるのを感じる。
そんな期間が約15年続きました。
一生続くんだろうなと思った。
長いというより永かった。
「もし15年前に母の脳を一部壊して逃げ去ったやつがいたとして、
そいつのせいで家族が涙を流すことになったなら、
必ず見つけ出してどんな手段を使ってでもぶち殺す。」
、、、でも、犯人は俺でした。
俺が中学に行かなくなったのを機に再発した。
俺も妹も母が躁鬱持ちだという事実を知りませんでした。
元々俺が生まれる前から発症していたから、
直接の原因は俺ではない、、ということは頭では分かっていた、、
ような気がします。
でもどうやら、
感情はそうは言ってくれて
なかったっぽい。
「てめえは必ず殺す。ただし自分が撒いた種を回収するまで死ぬな。
一生かけても治せるかどうか分からねえけどな。
犯人なんだから苦しみ続けろ。
そして幸せにならず独りのまま死ね。」
そんな感情が言葉にならないまま15歳の頃からずっと渦巻いていたということを、
20代後半になってからようやく気づきました。
他にさまざまな理由はあるけど、
だから恋愛にあれだけ抵抗を示してたんだと。楽しめなかったんだと。
理解することがようやくできました。
「もしそんな状態に俺の家族を陥れた犯人が、
恋人をつくって幸せそうに過ごしてたら、ふざけんなと猛烈に殺意が湧く。」
↓
「だけど犯人は俺という意識がある」
↓
「だから、自分が恋愛をしようとすると
異常に殺意が湧く。」
この流れが起きてたことを
理解するのに、
かなりの月日を要しました。
この怒りを、
やり切れなさを、
こじつけてでも、
自分にぶつけることでしか、
俺は前に進むことができませんでした。
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