東日本大震災から10年。あの日私たちはどうすればよかったのか。By福島県出身 ことねぇ
『院長、削るのをやめてください!揺れが大きいです!院長!』
カリエス2。
レジン充填。白い保険の詰め物、光を当てて固める治療を、私と院長先生は、していたのだ。
歯科衛生士の私と。
当時の院長先生は、歳が近い。
細かい揺れが続いていていて、次に大きな揺れが起きた。
パニックになった、院長先生と患者さんは治療の手をとめて、外へ飛び出していく。患者さんは口をあけたまま、エプロンをつけたまま。
慌てて、私が止めるのも聞かずに。
外に出ると【伊藤園】の看板が、メトロノームの振り子のように揺れていた。ゴジラかエヴァンゲリオンでも歩いているのかと、思う振動。
この世の終わりが来たのか、もう死ぬのか。地球が怒り狂っているのか、とさえ思った。
診療室へ戻り、揺れが収まってきたら
テレビをつけると
そこに、波に、津波に飲まれる長い長い道路が見えた。
国道六号線。
に、みえる、けど、え?まさか、え?
この景色は見覚えが、ある。
『福島県だ、東電が爆発した』
ふ く し ま、けん?これは、南相馬市じゃないの?これは常磐線じゃないの?これは、これは!!!母校。高校の付近なんじゃない!え!まって。映画じゃないの?これ、津波が押し寄せて、いま車を飲み込んだ。
走っていく、車が、次々に、津波に飲み込まれた・・・これ、人が、ひとが乗って・・・
相当、顔色が悪かったのか、院長先生はテレビを消した。
見るな、と。俺が代わりにみるから、館花は、休め。
電車も止まる。知り合いに連絡をとれ。
あの日、私たちは、どうすれば、よかったのだろうか。誰を責めれば良かったのだろうか。
自然災害を甘く見ていた、としかいえない。【リスク】を甘くみていた、のだ。
【絶対に起きない】と言えない以上、ありとあらゆることを想定して、防波堤も望むべきだった。
あの日、高校時代
私を【ことね!嫌だ嫌だって口癖だろーけど、とりあえずやってみようって言ってみ?なんでも楽しんでご覧よ。人生、楽しんだもん勝ちだよ!】そういって眩しいほど、豪快に笑う。
セーラームーンのジュピター、木野まことに似ていた。
綺麗なのに、男らしくて、侍のようなまっすぐな性格で。
彼氏もなかなか出来なかったけど
彼氏が出来て、結婚が決まった時は乙女のように頬を赤らめていて、照れていた。
生後まもない赤ちゃんと、津波警報で逃げている最中、自分のお父さんと通話をして【旦那のお母さんが自宅にいるかも】と引き返した。なんども、そのお父さんは、止めたのに。
その先輩のお父さんは、うちの実家の従業員で、私の父親と交流があるので、父親か、聞いたのだ。
【浜辺を探した。・・・ひっくり返った軽自動車に、いた。赤ちゃんは・・・そこから100メートル離れたところに、いた】
いた、とは??
もう、聞かなくても、わかるけどさ。
私は、電話を聴きながら、泣き崩れた。
先輩、先輩に、もう、逢えない。話せない。笑って【ことね!大丈夫か?!しっかりしろよ!】ってもう言われることは、ない。
あの日、私の友達は、親戚を半分以上、亡くしたひともいる。家がトンネルのように貫通して、半壊したひともいる。
それでも【生きていた】泣きながら生きていることを、喜んだ。
風評被害が起きて、私の大好きなふるさとは、まるで【毒をつくっている】ような酷いことをいわれた。米も農作物も。それは、わかるよ。
放射能は、見えないからね。
だけどさ、それを言った貴方、自分のふるさとに同じことが起きても、言えるの?
帰れないふるさと。
元通りにならないふるさと。
バラバラに散った友達。
死んでしまった大好きなひとたち。
戻らない、からこそ
【二度と起きないようにすること】
自然災害は、避けられない。
でも【被害を最小限に抑える】ことは、出来るはずです。
いまのコロナもそう。
これ以上、大好きな人を失うことのないように。黙祷。
東日本大震災を、忘れない
私は、あの日を決して、忘れない
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?
著者の館花 琴音さんにメッセージを送る
メッセージを送る
著者の方だけが読めます