超貧乏な人間が、そこからどうやって抜け出すか?

次話: 俺が化学をどう学んできたのか?その1

俺は、広島の貧乏な家に生まれた双子のガキだった(俺、兄貴)。

貧乏だったので、おもちゃとかを買ってもらえず、他の子供たちが羨ましいと感じたことが何度もあったものだ。

羨ましいと感じたもの。

・学校で斡旋していた肝油ドロップ(1回も買ってもらったことない)

・学校に売りにきていた科学と学習(1回も買ってもらったことない)

・祭りの時のりんご飴(1回も買ってもらったことない)

・小学の時に流行った超合金のロボット(1回も買ってもらったことない)

・自転車


俺が買ってもらえたのは、せいぜい祭りのひよこ、スーパーカー消しゴムなどガチャガチャくらいのレベルだった。

給食袋を持って帰るたびに、母親が「はあ〜。また来たの?」というので、給食袋が大嫌いだった。金額は2〜3000円くらいだったと記憶している。

近所でボールを持っている子がいたので、ボールで遊ぶときはその子と一緒、家で遊ぶ時はガチャガチャで当てたキン肉マン消しゴムやスーパーカー消しゴムで遊んでいた。

唯一の心の救いは母親が「勉強に関するものだけは、何をしても買ったげるからね。」って言ってくれていたことだ(ま、実際は必要最低限だったが)。 

ただ、修学旅行は必ず行かせてもらえるはずだという安心感があった。

 俺は母親が大好きな甘えん坊だったのが、たまに両親が大げんかする時があり、それが嫌で嫌で仕方なかった。

小学1年生の時に、「一番嬉しいこと、悲しいことを書きなさい。」という宿題が出た時に、「悲しいことはパパとママがケンカすることです。」と正直に書いたのだが、参観日でそれが教室に貼られてしまい、母親から「恥ずかしかった。」と言われて、俺も悲しかったのを覚えている。

 幼稚園のとき1回、小学のときは2回転校したので、友達コミュニティーに入るのがちょっと大変で完全に慣れた頃にまた転校、という生活だった。

 引越しの理由は親の転勤とかではなく、夜逃げだったんだろうと今では思う。

 父親はいい仕事をしておらず、血だらけになって帰ってきたり、警察に捕まったりすることがたまにあった。

 車にはいつも木刀が積んであり、細い道で対向車が下がらなかったときなどは、木刀を持って外に飛び出して行っていた。

 そんな俺にターニングポイントがやってくるのだった。

 

 

 小学4年生の時だ。

 両親が喧嘩した時に、父親が家に火を放った。

部屋の中が一瞬で火の海になったのを見て、まるでテレビを見ているようだと思った。

 もちろん、警察も来て大騒ぎになった。

 その次の日、母親が出て行って、俺らは3人暮らしとなった。

 そのうち、家も追い出されて学校に行けなくなってしまい、森で暮らすようにようなった。

 親父が乗っていたバンが、俺らの家だった。

 川の水を飲んだり、公園の水を汲んでおいたり、あとは大きい食パンを買ってきてそれを少しずつ分けて食っていた。

 ある日、俺らが住んでいた森でカブトムシの幼虫を見つけ、それを街に売り行くようになった。

 売ったお金でいいものが食えるようになった。

 カブトムシのシーズンが終わると、深夜に養殖のアサリを盗む生活へと変わった。

 盗んだアサリは、スーパーの前で売る時と、田舎の家を一軒一軒回って売る場合があったが、俺らがいるとよく売れた。

 アジアの物乞いを見ているとよくわかるが、貧乏な大人から買うよりも子供から買ってやりたいと思うのが人情というものだろう。

 そして小学5年生(ずっと学校に行ってなかったのだが)のどこか途中だったと思うが、大人が何人かやってきて親父と話すことがあった。

 しばらくしてから俺らは、親父と別れることになった。

 今思えば、児童相談所とかそういうところの人なんじゃないかと思うのだが、とにかく親父は説得されたんだと思う。

 俺らは山口県の祖父母のところに預けられることになった。

 


ここからがまた面白くない生活だった。

そして俺は山口の祖父母に預けられた。

 祖父は俺と45歳差で若い上に、自己中の塊だったので俺は苦しめられることになる。

 とにかくワンマンだった。

 なんらかの発達障害だったのだろうと今になって思う。

「勉強するくらいなら家の手伝いしろ!」

「夜遅くは電気代がもったいないから早く電気消せ!」

俺の手伝いは毎日の庭掃きと廊下掃除、あとは細々としたルーチン、神棚の水交換や新聞とりなどがあった。

庭掃きなどは、近所の友達とかに見られるのが恥ずかしかった。

  

ものすごい癇癪(かんしゃく)もちで、すぐに罵倒してくる。

 そして暴力も振るうこともあった。

 俺は祖父が大嫌いだった。

 早く死なないかなあといつも思っていた。

 たまに、機嫌がいいときは小遣いもくれるのだが、普通の家庭に育ちたいと何度も思った。

 他人の心を考えないことなどよくあった。

 とにかく勉強とかいうような環境ではなかった。

 

たまに、教える先生の学歴をひたすら気にする人に出会うが、それは視野の狭い人だと俺は思っている。

 フィリピンのスラムの子に、他のやつもやってるんだからお前も頑張れって簡単に言えるか?

 スラムの子には子守もあるし、家の手伝いなど他にもやらないといけないことがいっぱいあるのだ。

 勉強だけをやれる環境にある温室で生まれたそいつらは、「パンがなかったらブリオッシュを食べたらいいじゃない。」って、言うかもしれないけど、世の中の全員がアントワネットではないのだよ。

 俺は塾なんかいけるはずもないし、夜は電気が禁止なので勉強できない。

 まあ、勉強なんか興味なかったからそこはどうでもいいんだけど。

 そして高校進学の際、俺は密かに決めていたことがあった。

 それは夜間高校に行くことだ。

 

とにかく俺は家を出たかった。

 くそジジイと暮らしたくなかったので、俺は進路の決定ギリギリまで自分の志望校を明かさなかった。

 もしも夜間高校に行って家を出ることを早々と宣言してしまうと、ジジイからの当たりがまた強くなってしまうからだ。

 志望校提出期限の前日、俺はおばあちゃんに夜間高校に行くことを告げた。

 祖母はびっくりして近所に住んでいた叔母に連絡をいれた。

 

説得してくる。

 「おじいちゃんも少しずつ優しくなってきてるから.....」

 「夜間に行っても仕事はないし....」

 「あと3年したら家を出たらいい.....」

 所詮、中学3年生の決心だ。

俺は説得に折れて近所の工業高校に行くことにした。

 女の子がいる学科じゃないと行きたくなかったので、化学科を選択した。

 親戚の言うように、祖父はもはや激しくなかった。

 いや、孫と暮らす生活になれたのかもしれない。

 あるいは俺らの方が強くなってしまったのかもしれない。

 

 家の手伝いは相変わらずだったが、普通に勉強する時間が確保ができた。

 環境にハンディさえなければできるのだよ。俺は。

 1年から3年までトップだった。

 そして地元の一部上場化学企業に就職した。

 

 「よし。世の中に追いついた。」

 そう思ったね。

 高卒で大企業の三交代の工場勤務。

 何度も一番いいと祖父や周りのみんなから言われてきた職場に俺は入った。

 三交代をすれば定時に終わる。

 趣味を持てる。給料は手当がつくので多い。

 家も買えるかもしれない。

 自分の生活を充実させることができる。

 今まで人の言いなりでしか生きることができなかった俺は、給料を手にすることによって自由権を確保することができるようになったのだ。

 

ところがだ。

 なんと三交代の職場に配属されなかった。

 辞令をもらうときに、「技術研究所を命ずる。」こう言われ、「あ?」「技術研究所?」

 そんなものがあったのかい、この会社には?

 俺ら高卒の新入社員研修のときには工場の話しかなかったから、勝手に俺は行きたい工場や、仕事内容を想像していた。

 まさか研究所って、なんや?それは?

 科学要塞研究所でグレートマジンガーでも作っとんたんかいワレ?

 研究所とかいう謎の場所に配属されて、俺は追い込まれてしまうのであった。

まあ、そういうわけで色々ありながら、高卒で会社に入った。

だが、俺はいきなり落ちこぼれることになる。

俺以外の社員はみんな大学院卒、俺だけ高卒。

先輩の話に全くついていけなかったのだ。

そりゃあそうだ。

そして俺は完全に自信をなくした。

「会社を辞めよう。もうだめだ。」

駅の近くに女子高生たちが集まるオシャレスポット「ロッテリア」が誕生した頃だった。

女の子に囲まれて「ロッテリア」で働きたい。

そう思うようになった。

会社の上司に「昼休みに相談があるのですが。」そう言って自分の悩みを告白した。

上司は俺にこう言った。

「うん。わかった。頑張れ。まだ時間があるからテニスしてきていい?」

俺の人生をかけた相談は、上司から見れば、昼休みにテニスをしたいという気持ちよりちっぽけなものだった。

自分のちっぽけさがつらすぎた。

高校までは他人に人生を握られていて、やっと抜け出したときには、テニスよりちっぽけな人生。

俺はなんなのだろう?

なんのために生まれてきたんだろうか?


そんな俺の中の唯一つの誇りは工業高校で1番をとって、先生たちが俺を認め続けてくれたことだった。


「委託学生制度」

俺の会社にはそういう制度があった。

会社が指定する大学に合格すれば、授業料と生活費を全て会社が負担してくれるというものだった。

これに手を上げるしかない。

もはや、俺は俺の人生を俺の力で拓いていく以外の選択肢はない。

でないと馬鹿にされ続けてしまう。

俺はクソの輪廻から脱出する。

こんなことを繰り返すわけにはいかない。

先祖から続いているこの最低ラインから、抜け出さなくてはいけない。


死ぬほど苦しかった。

勉強中に苦しくて苦しくて何度も何度も泣いた。

一生分の根性を使ったと思う。

「負けてたまるか。」

何万回唱えたかわからない。


そして俺は大学に合格した。

これで、本当に日本の平均よりも少し前進しただろうか。

こうなったらもはやハンディなどないのだよ。

俺にはね。

普通になったら、もう負けない。

そして俺は自由を手にいれる。

大学1年生のときに結婚。

世帯主で市営住宅に住みながら通学。

大学院1年生で娘ができて3人家族になった。

学校の成績はオールA。

 

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(あっ、これハノイ大学入学用にとった成績証明書)

 大学院の時の成績証明書だが、全部上位20%以内に入っている。

卒業後会社に戻ったものの、金持ちになりたい衝動がすごくなり、会社を辞めた。

 ありがたいことに、引き止めがすごくて26連続で毎晩毎晩、違う上司や先輩から飲みに連れて行かれた。

毎日毎日「みかみ、考え直そうぜ。」って色々な人から声をかけてもらえて、本当に感謝しかなかったけど、俺は挑戦がしたかった。

結局、すぐには辞められず、その1年後に退職が認められた。


そして俺は貧乏から完全に抜け出した。

俺の子供は、貧乏を感じずに大きくなったと思う。

貧乏からは今の日本だったら、きっと抜け出せると思う。

ただし、それは普通のやつが思ってるよりは大変なことだと思う。


だから俺は、ずっと貧しい国々や、いろいろなことに寄付を続けてきた。


これ読んだ貧乏なやつがいたら言ってやる。

お前でも絶対にできるから、ずっとやり続けることだ。

それこそが財産なのだから。

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俺が化学をどう学んできたのか?その1

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