イヤでも身につく”使える英語力“ 3. 仕事と英語(1) 誰でも得られる英語の果実 3.1.2 研究所での英語による業務報告書
高槻研究所での仕事と社内の国内留学試験準備を平行した入社5年後の昭和45年(1970年)に私は社内の国内留学選抜試験に合格、選抜されて京都工芸繊維大学で勉強することを許されました。
配属先が研究所から人事部になりました。その時点からはそれまでの会社業務から離れ会社生活とはほとんど関係の無い状態でしたが、給料はそのまま支給されるという好条件の大学生でしたので優雅?で有意義な学生生活を送ることができました。再び研究所に戻った時に研究室の室長の交代があり、先述したように研究月報は英語で提出するように研究員は指示されました。
国内留学中も自学自習で英語の勉強は継続し、英検受験、海外専門誌のチェックなどは行っていましたし、ラジオとテレビによる英会話番組で自習勉強をしていました。外国人がいれば積極的に話しかけるなどして英語力のブラッシュアップは常に図っていました。
おかげで、研究所に帰任後は研究月報を英語で書くことには特に違和感はありませんでしたし、内心では“しめた!”とも思いました。当時の研究所には国内の有名大学卒業者がたくさん働いていましたが、英語力で抜きん出ているような人はほとんどおらず、同じようなレベルでしたから、自分の存在感を示せるかもしれないと思ったからです。
月報は毎月の研究内容の概要報告書ですから、タイトル、見出しなどの書き方は新聞のスタイルにすればよく、内容も詳細に長文を書き並べる必要はないのです。
時には英語が苦手な大卒同僚からもチェックを依頼されることもあり、コツコツと勉強を重ねてきて本当によかった、とつくづく思いました。英語による果実を得た気分でした。
もちろん、海外文献を原文で読む必要性は国内留学前よりははるかに増しており、最新情報を広く海外から得ることはずっと続いていた訳です。
繊維産業が活況を呈したのは戦後、1945年の第二次世界大戦終了後の数年を経て、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日-休戦)時をピークにして私が入社した昭和40年頃(1965年)まででした。この活況時に大きく強くなった東洋紡という会社にはその後の10年間ほどはまだまだ会社の体力があり良い時代が続いていたように思います。
しかし、日本からの安くて品質の良い繊維製品の輸入でアメリカは国内繊維産業が大きな打撃を受けた、として開始された日米繊維交渉(1955年から1972年)、日本側の輸出自主規制(1957年から5年間)、2度にわたるオイルショック、労働集約型の繊維産業の国内空洞化などで日本国内の繊維産業を取り巻く環境は急速に悪化してゆきました。
その結果、繊維の雄と言われ、政府も潰さないと世間では言われていた東洋紡も合併による経営効率化(1966年)、従業員の希望退職(1976年)などを実施せざるを得なくなっていました。
高槻市(大阪府)と堅田市(滋賀県)に2つの研究所、約2000人の研究員をかかえる研究所も1976年の整理統合方針の対象外ではあり得ませんでした。
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