ランドセルをぼろぼろに破いた話

新品から使いはじめた僕のランドセルは、小学校1年の6月頃にはボロボロになってしまった。ペロンと回してフタをする部分の端っこが、外側の黒い革のカバー・中身の白い緩衝材・さらにその中の堅い何か…全部破かれ、ずたずたになってしまった。


僕が破いたからである。爪でコツコツと破き続けた。ホームルーム(僕の地域では「朝の会」「帰りの会」と呼んでいた)の時間は、ひたすらランドセルの端っこを爪でねじり上げ、破く時間だった。理由なんてない。


客観的に説明できる理由は特に無いけれど、強いて言えば、自分の周りに何か不穏な空気が流れているように感じていたからだ。その不安感のようなものが、妙な行動をさせていた気がする。入学したその日に学校の机の上でおしりを出して踊る(先生に「そんなにおしりが好きなら」とトイレにしばらく閉じ込められた)など、問題児な行動は枚挙にいとまがない。


当時の自分の考えていたことや実感は記憶にほとんど残っていないけれど、40歳も近くなってきた現在の僕が子供の頃の僕を頭のなかに思い描くと、たいてい孤児みたいな感じになる。


…ランドセルは、どうして破かれなければいけなかったんだろう?


色々考えてもやっぱり明確な理由は思い浮かばないけれど、もしかすると、すっかり大人になって家庭も持った僕が日々感じている小さなしあわせは、当時の僕が今の僕の分まで辛さや悲しさを飲み込んでくれたからかもしれない、と考えることがある。


あの理不尽で暴力的で、誰にとっても悲しい出来事と、今の僕に訪れるしあわせな出来事は、ちょうど対になっているように思う。ありがたいご縁から紡ぎだされていく、温かくて笑顔があふれだす出来事が僕の身を撫でていく暮らしは、ランドセルを破き続ける暮らしの真逆にある。同じ人間の人生とは思えない、矛盾してる。


この文章の結論はこうだ。僕の人生にはたくさんの矛盾があって、しかもその矛盾を無理やり「当時の僕のおかげで今の僕がある」なんていう風に理解しようとすること自体の非論理性が、きっと僕の正体だと思う、ということ。僕の根っこには論理性は無くて、ただ矛盾したことを吐き続け、矛盾を体現しつづける魂しかない。


孤児みたいな当時の僕も、ボロボロのランドセルも、心からいとおしい。これを矛盾と言わずに、何と呼ぼうか。


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