高卒サービス業出身の人間がWEB系プログラマで独立するまで 【幼少期~学生期(1)】
自己主張の苦手な内向きな子どもだった
白い漆喰の壁にありえない数の穴を開けまくること以外は、
特に手の掛からない子どもだったようです。
今でも覚えていますが、外食したときにお水欲しくて、でも知らない人(店員さん)に話しかけづらくて。。。。2歳年下の妹を唆して、言ってもらってました。
とにかく、人と話すのが苦手?だったと思います。
父は、現場関連の曾孫受け会社を祖父から引き継ぎ経営していました。
当時、漠然とではありますがこの会社を継ぎたいという認識はありました。
まぁ、それも叶わなかった訳ですが・・・。おいおい語ります。
興味
ファミコン⇒プレイステーションまで、ストライク世代でして、
小学校の卒業文集には、【ゲームを作る人になりたい】と書いていました。
機械?は好きだったと思います。それもバラしてうんぬんと言った特殊なものではなく
単に配線の接続方法が分かる程度のそんな平凡な興味です。
今思い出したのですが、当時会社に導入されていたワープロ(たぶんPCじゃなかったと思います)を興味本意で文章打ったりしてました。
学生期の転機
中学生ぐらいまでは、特に特筆すべき内容はないと思います。
勉強も中の中。友人もそれなりにいたと思いますし、特に不自由もなかったです。
逆に言うと、何にも興味を持っていなかったと思いますし、特に将来について考えていた訳ではありません。
小学生の中盤で、父が憧れの城を手に入れたり、別事業に手を出したりしていたので、
記憶の限りでは結構バブリーな時代だったと思います。
別事業は、結構大きな物を販売・搬入していた会社だったので、中学生ぐらいからは長期の休みに入ったらずっと手伝っていました。
一応、『バイトしないか?』と父に言われての事でしたので、認識としてはバイトでした。
良く覚えているのが、中学三年の春休み、2週間近くを費やして、仕事を手伝ったのですが、最終日になっても何も頂けない。。。。
結果、催促してもらった給料(小遣い)が、1万円だったのは子どもながらに「少なくね?」とか思ったのも今じゃ良い思い出です。
思い返すと、その時期ぐらいからちょっとおかしな事がよくありました。
家の周りにしらない車が止まっていないか?とか気にして裏口から家に入ったり、父があまり家に帰ってこないような事も続きました。
まぁ、経営が芳しくなかったという事です。
何かおかしいぞ?
そんなこんなで、いよいよ中学3年ぐらいには家の留守番電話にやたら連絡ください系の連絡が入る様になり家にも知らない方々がちょくちょくいらっしゃるようになりました。
ですが当時の自分は、あまりその環境を注視することもなく、高校受験の時期に進みました。
都会では、有名な私学へ進む事が一つの目標のような場所もあるでしょうが、
自分の地域は、優秀な公立高校が多く、
私学に行くのは公立受験に失敗した人が行くと言う風潮がありました。
保護者会ではっきりと、目指している高校には届かないと言われていたにも関わらず、
挑戦して失敗。。。。私学へ行かなくてはならなくなり、結構これが大変でした。
針のむしろ
再三、私学であれば進学せずに働けと言われていたのに公立受験に失敗。
結果発覚後、父からのお説教。
最終的には、
『どうしても私学に行きたければ、土下座しろ』
と言われまして、土下座して泣いて頼みました。
多かれ少なかれよくありました。
さらに入学が決まった時に親戚の叔父から言われたのは、
『従業員の給料も遅れ遅れなのになんで息子が私学なんかにいけるんだよ?』
とはっきり言われてしまったので、かなり申し訳なく思い、「すみませんでした」と
謝罪したりもしました。
それと同時にうっすら感じていた状況のやばさがはっきりと認識できました。
早く自立して働きたいと言う気持ちが大きくなってきました。
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