日本語教師は職業か

1 / 3 ページ

1.「日本語教師は職業か」という問い

 日本語教師は職業ではない。生き方だ。

 私の恩師である細川英雄(注1)先生のことばである。日本語教師とは、生計を維持するために従事する仕事ではなく、ことばにより他者と関わりながら生きていくという構えであるというような意味であろう。けだし、名言である。

 さて、このことばには、「一般的には、日本語教師は生計を維持するために従事する仕事だと思われているけど、実は・・・」という含意がある。が、果たして、日本語教師は、一般に思われているように生計を維持するために従事する仕事として成立しているのだろうか。ぶっちゃけ、日本語教師で食えているやつはいるのか。細川先生の名言に比べ、ぐっと卑近な話になりそうだが、以下、「日本語教師は職業か」に関し、論じてみたい。

 この文章を書くにあたり、どのような書き方をしようかと考えた。いろいろ考えた結果、データに基づいて、客観的な事実を述べるのではなく、あくまで私がこれまでに日本語教師として経験したこと、そして、経験から考えたことを主観的に書いていくことにした。

2.私が日本語教師になるまで

 初めに私が日本語教師を志すに至った経緯を書く。

 1994年、大学4年生のとき、私は就職活動を全くしなかった。しなければならないということはわかっていたが、自分が働くということがどういうことなのかがよくわからなかった。その当時、私は次のようなことを考えていた。

例えば、製鉄会社に入って鉄を作る仕事をするというのはわかる。しかし、実際には、製鉄会社に入ったからといって、鉄を作るわけではないだろう。何かの会社に入って、何かをする。その何かがよくわからない。

もちろんこんなことは、私が単に怠惰だっただけで、よく調べようとすれば、わかったことなのかもしれない。しかし、当時の私には、自分が会社員となって働くということが具体的にイメージできなかった。結局、就職活動らしきことを何もしないまま、大学4年の夏休みを迎え、その後、やや現実逃避気味にインドに行き、帰ってきたら、新卒の求人はほぼ終了していた。

 大学卒業後の1995年9月、これもやや現実逃避気味に中国の上海に留学した。私は中国語をほとんど知らない状態で留学した。留学当初知っていた中国語といえば、冗談のようだが、「ニーハオ」と「シエシエ」だけだった。そんな状態だったので、中国語の授業が始まった頃は、先生が言っていることが全くわからなかった。先生はそんな私を心配して、何度も何度も「わかりますか」ときいてくれたが、私にはその「わかりますか」もわからず、ただ空しく微笑むよりほかなかった。

先生
古屋,你听得懂吗?
・・・(微笑)

 先生方は皆とてもいい方だったが、わかっていない私に配慮して授業を展開することはほとんどなかった。今にして思えば、当時、外国人に対する中国語教育の歴史がまだ浅く、方法なども確立していなかったため、配慮しようにもできなかったのだろう。文法などは、普通に文法用語(例えば、副詞とか連体修飾とか)を使って(もちろん中国語で)説明するので、皆目わからなかった。私が授業を理解する手がかりは、とりあえず教科書しかなかったので、教科書に出ている単語は覚えるようにした。文法的にわからないところがあれば、日本の辞書と文法書で理解した。また、発音は教えてもらってもどうにもわからなかったので、同じ日本人留学生で中国語の専門学校を出ている人に習った。そして、授業中は、わからなくても、とにかく先生の話を集中して聞くようにした。そして、先生がよく言うことば(例えば、「何ページを開いてください」とか「読んでください」などの指示、「だから~」「しかし~」などの接続詞等)をカタカナでメモしておき、そのことばを授業後、先生に漢字で書いてもらい、辞書で調べて意味を確認するということを繰り返した。

 そんなことをしているうちに、3か月ぐらいすると、先生が言っていることが大体わかるようになってきた。また、流暢ではなかったが、とりあえず自分が言いたいことは、何となく表現できるようになった。私はそのようにして中国語を習得していったので、先生に中国語を習ったという感じはあまりない。私にとって教室は、中国語を使って何らかの活動が行われていればそれでよく、正直に言って、授業の内容はどうでもよかった。2年間、中国語の授業を受けていて、今でもよく覚えているのは、ある先生が話してくれた文革時代の苦労話で、文法のことなど全く覚えていない。私はとにかく先生が、そしてクラスメイトが話していることをわかりたかった。だから、じっと人の話を聞いていた。人の話がわかるようになったら、今度はそれに対して、自分でも話したいと思うようになった。このように私にとって中国語を学ぶことは、非常に個人的な作業であり、個人的な経験だった。

 1997年6月に留学を終え、その後約4か月にわたり、アジア諸国を旅行した。全て列車かバスで、中国、モンゴル、パキスタン、インド、イラン、トルコ、ギリシアと巡った。最後は、ギリシアのアテネから香港に飛び、いったん上海に戻った後、1997年11月に船で大阪港に帰着した。西へ西へと移動しながら、自分の中では「この旅行は、東、つまり、日本という現実に帰還するための過程だ」と思っていた。だから、異国を巡りながらも、心の中では日本に帰ったら何をするかをずっと考えていた。そうして、日本語教師を目指すという決意を徐々に固めていった。日本語教師を目指そうと思うようになったきっかけは、留学中に留学先の大学で日本語の授業を見たことだった。が、やはり自分が曲がりなりにも外国語を習得したという経験がその決意に大きく影響していたように思う。

3.私の日本語教師経験

3-1 日本語学校の日本語教師

 帰国後、私は1998年4月から約1年間、日本語教師養成講座を受講した。そして、1999年4月に東京都内にある某日本語学校に非常勤講師として採用された。当時は、日本語学校に留学する学生数が低迷していた時期の最後のほうであったため、日本語教師の求人があまりなかった。少ない求人に片っ端から応募したものの、養成講座を終えたばかりの未経験者であったため、なかなか採用されなかった。だから、採用されただけでうれしかった。

 コマ給は、1コマ(45分)1,500円だった。(どこの日本語学校でも、1コマ1,500~2,000円ぐらいであった。おそらくこれは現在でもあまり変わらない。)一人の教師が同じクラスを1日4コマ担当するため、感覚的には、1回授業を担当すると、6,000円もらえるという感じだった。授業を行っているのは3時間だが、教材コピー等の授業前の準備、採点等の授業後の処理、そして、自宅での授業準備と授業時間以外にもかなりの時間を費やしていた。

 非常勤講師を始めた当初は、あまり授業を担当させてもらえず、週2回(8コマ)の担当だった。私は、当時、蒲田の家賃2万3千円のアパートに住んでいた。また、もともとあまりお金を使うほうではなかった。が、それでも生活費に事欠いたため、授業のない日に日雇いをすることで何とかしのいでいた。その後、担当コマ数は、少しずつ増えていった。それでも、日雇いはやめられなかった。

 その年の12月に理事長から「専任にならないか」と誘われた。私は、専任になりさえすれば、一人前の生活ができると思っていたので、二つ返事で誘いに応じた。あとでわかったことだが、私が専任に誘われた背景には、学校の事情があった。その学校は、仲介手数料を払って、韓国の留学エージェントに学生を斡旋してもらっていた。そのため、在籍生のほとんどが韓国人学生だった。ところが、その年、仲介手数料が高騰した。そのため、仲介手数料が払えなくなり、留学エージェントから学生を紹介してもらうのが困難になった。そこで、次年度から中国で学生募集を行うことになった。中国への留学経験があった私は、中国要員として、専任に誘われたのであった。

 2000年1月から専任になった。月給は額面で22万円、手取りで16万5千円ぐらい、ボーナスはなしだった。(というか、これまでボーナスというものをもらったことがない[笑]。)確かに非常勤講師のときに比べ、収入は安定し、日雇いをする必要もなくなった。だが、相変わらず蒲田のアパートに住んでいた。一人前の生活とは、言い難かった。

 専任になった私は、中国人学生関係の事務を任されるようになった。具体的には、ビザ申請に関わる書類の作成や手続きと在学生の管理である。在学生の管理とは、要するにオーバーステイを出さないようにするということである。東京入管には何度となく、足を運んだ。警察にもときどき行った。学校に来なくなった学生のうちを訪ね、登校、あるいは帰国を促したり、いなくなってしまった学生を捜索したりした。時には、捜索している学生がいるという情報を得て、アパートの前で張り込みをしたりもした。

 気がつくと、私はほとんど授業を担当しなくなっていた。今にして思えば、私の給料は、日本語教師としての私に支払われていたわけではなく、対中国人学生担当者としての、より端的に言えば、中小企業の社員としての私に支払われていた。私は日本語教師としての自分を見失いかけていた。

 私は、日本語教師としての自分を見失いつつも、日々の業務をこなしていた。その結果、入管関係の書類の作り方や申請の通し方には習熟していった。

 専任になって3年目になった頃、中国からの学生募集がより一層厳しくなってきた。これまで提携していた留学エージェントから斡旋される学生が少なくなり、このままでは学校の経営が危ういという状況に陥った。そこで、学校の理事(経営者)が北京や大連の留学エージェントを回り、学生を集めることになった。当然のように私も理事に同行し、中国に行くことになった。

 昼間の仕事は、まだ耐えられた。私が耐え難かったのは、夜である。夜は、ほぼ必ず留学エージェントの人と一緒におねえさんがたくさんいるようなお店に行った。(理事の趣味だったのか、あるいは中国でビジネスする上では必要不可欠であったのかはよくわからない。)私はお酒が全く飲めないこともあり、そういう場が非常に苦手であった。また、適切に気遣いをすることもできなかった。私は心底疲れ果て、あらためて自分は何をしているのか、そして、これを続けることにどんな意味があるのかと考え始めた。

これは、日本語教師として生計が立てられるようになるためのステップなのだろうか。このステップを重ねたその先に、日本語教師として生計が立てられるような未来が訪れるのだろうか。

どう考えてもそうではないような気がした。どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるかはよくわからなかった。しかし、とにかくここにいてもどこにも進めないと思った。

 私は日本語学校を辞めることにした。かなり引き留められたが、最終的には辞めることができた。結局、全部で3年3か月勤めたが、最後まで給料が上がることはなかった。勤務最終日に理事から現金で10万円をもらった。もちろん、お金をもらったこと自体はうれしかった。だが、その10万円に給与明細はついていなかった。つまりそれは給料ではなく、「お小遣い」であった。

 さて、話は少しさかのぼる。日本語学校を辞めることを決めた私は、辞めるための理由を探した。もちろん真の理由は、「ここにいてもどこにも進めない」と思ったからだったが、何か説明しやすい表向きの理由が欲しかった。当時は、日本語教育を研究する大学院がぼつぼつでき始めた頃だった。私が勤務していた日本語学校にもそれらの大学院の案内が届いていた。それを見て私は「これを理由にしよう」と決めた。そして、「大学院に進学したいので、辞めます」と理事に伝えた。

 私が大学院に進学することにしたのは、あくまで辞めるための口実であった。しかし、実のところ、もう一つぼんやりとした期待があった。それは、「修士を取ったら、もしかして食えるようになるのでは」という期待であった。単なる期待であって、何の根拠もなかったが。

3-2 大学の日本語教師

 2003年の9月に、私は大学院に進学した。修士課程に在籍して、1年もすると、だんだん「修士を取ったからといって、食えるようにはならない」ということがわかってきた。修士を取得すれば、とりあえず大学で日本語クラスを担当する道は開かれる。しかし、日本語クラスを担当する人のほとんどは、非常勤であり、それだけで生計を立てるのは、難しい。それならば、大学の専任を目指せばいいのか。(修士を取得しただけで、大学の専任職に就けることはほぼない。また、Ph.D+相当な研究業績があっても、なることが難しい狭き門であるが、それはさておき)大学の専任になれば、確かに生計は立てられるであろう。しかし、その給料は、大学教員としての研究・教育成果や様々な事務仕事、あるいは、営業活動等に対し、支払われるのである。日本語教師としての能力なり、成果なりに対し、対価が払われるわけではない。どうすれば、日本語教師を職業にできるのか。私はまたわからなくなってしまった。

 私は、2005年9月に大学院の修士課程を修了した。しかし、当然ながら、修了したからと言って、食えるようになったわけではない。

みんなの読んで良かった!