水曜日の先生

 日本国内の日本語教育機関では、毎日行われるクラスを2~3人の教師で担当するチームティーチングが行われることが多い。チームティーチングにおいては、月・水・金をA先生が、火・木をB先生がというように担当曜日と担当者を一学期間、固定して、クラスが運営される。これを学生は、曜日により異なる先生が来るというように認識している。

 さて、これまでのクラス担当経験の中で学生が学期の終盤になっても、私の名前を覚えてくれず、

「水曜日の先生」

などと呼ばれてしまうということが結構あった。(もちろん、対面では単に「先生」と呼ばれる。学生と授業外で話す際に、私と同じクラスを担当する他の先生を区別する必要が出てきた場合にこのような発言が現れる。)私と同じような経験をしている日本語教師も結構いるようである。

 私は、以前、この「水曜日の先生」という発言を

「先生の名前も覚えないなんて、全くしょうがないなあ」

とどちらかといえば、学生を非難するような気持ちを抱きつつ、一種の笑い話として語っていた。しかし、その後、この現象には、意外に複雑な背景があるのではないかと考えるようになった。

 私を「水曜日の先生」と呼ぶ学生にとって、私は「古屋憲章」という固有の名前を持つ固有の存在ではなく、毎週「水曜日」に現れる「先生」という代替可能な存在である。ややおおげさに言うならば、彼/彼女らにとって、私は血の通った人間ではなく、クラスを構成する部品のようなモノであったのではないだろうか。

 また、「水曜日の先生」という発言が出てくるようなクラスにおいては、教師だけではなく、クラスメイトに関しても、同じような現象が見られた。学期終盤においても、母語の異なるクラスメイトの名前を覚えていない。そのため、どうしても呼ばなければならない場合は、「一番前に座っている○○人」などとしか呼びようがない。(ちなみに母語を同じくするクラスメイトに関しては、授業外でも交流する機会が多いためか、このような現象はまれである。)これもやはり、クラスメイトを固有の名前を持つ固有の存在としてではなく、あの場所にいる○○から来た人として認識しているがゆえに現れる発言だったのではないか。

 ところが、同じようにチームティーチングで行われるクラスであっても、活動型のような学生が自分の経験や考えを述べたり、私が自分の経験や考えを述べたりする機会が多いクラスにおいては、まず間違いなく「水曜日の先生」と呼ばれることはなく、

「古屋先生」

と呼ばれた。クラスメイトに関しても同様である。これは、人は、ことばによりお互いの経験や考えに触れることではじめて相手を固有の名前を持つ固有の存在として認識できるということを傍証している。

 そのようなことがわかってから、私はどのようなクラスにおいても、(場合によっては、スケジュールを無視しても 笑)経験や考えを述べる機会をできるだけ設けるようになった。といっても、それほど大したことをするわけではない。何かのきっかけを捉え、

「で、あなたはどんなことをしたの/
どう思ったの」

と問いかけたり、自身が何をし、何を考えてきたかを話したりするというだけのことである。しかし、これを心がけるだけで、少なくとも私は、学生たちが固有の名前を持つ固有の存在であることを実感できるし、私自身が固有の名前を持つ固有の存在であると実感できる。

 私はどんなときも、代替可能な部品としてではなく、固有の名前を持つ人間として存在していたい。ともにいる人たちにも、固有の名前を持つ人間として、存在していて欲しい。ことばによりお互いの経験や考えに触れることのできない場所、すなわち、人間をモノのようにする場所にいるのは、まっぴらごめんである。だから、私は、今後もどこにいても、相手のことを問いかけ、自分のことを語るはずである。

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