元極道の下で働いてた16歳が、後に日中英精通の国際IT起業家になった話

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後編: 元極道の下で働いてた16歳が、後に日中英精通の国際IT起業家になった話(台湾編)

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思い返せば、過去の経験は何一つ無駄になっていないと感じる。


それは自分が凄いことをやってきたわけでも何もない。10歳からゲームにはまり、三箇所の中学へ行き、2つの中学校卒業証明書を持ち、16歳で高校中退というよく判らないが、基本的に社会のはみ出し者という十代を送った。

高校は3ヶ月で中退。理由は単純に行きたくなかったから。中学校時代はイジメられたこともあって、卒業後は仕事を始めたかったが、親の要求で仕方なく高校へ行った。どんな高校でもいいという条件で、定時制の学校へ入った。この高校のレベルはどうかというと、入試の際に、テスト用紙に名前を書き、机で寝ていれば受かるという「入試テスト必要なくねぇ?」という低さであった。(記憶が正しければ、入校目安の偏差値は24。)

クラスには18歳、20歳、45歳、76歳の同級生がいた。授業の内容は中学校時代で既に学んだものばかりだった。体育の授業で走ったりするのだが、先生が76歳の同級生に「❍❍さん、無理しなくていいですよ」とドキドキしながら面倒を見ていた。(まあ、授業中に逝って欲しくないからだと思うんだけど。)

当時高円寺から立石の交通は今ほど便利ではなかったし、家も学校も駅から離れていたため、通学時間は往復で3時間を要した。下校後、同級生と話ししたり、ゲーセンにちょっとでも寄れば、家に着く時間は夜12時前という環境でかなり疲れる毎日だった。大変だったのは学校ではなく、毎日8時から16時は近所のスーパーの精肉部で働くというの仕事だった。そして、そこのチーフは見た目からしてヤクザそのもの。

パンチパーマに口ひげ、金のネックレスにサングラスのようなメガネ、いかつい顔と体型、街を歩いていると色んな人に挨拶されるという、ヤクザだと思わない人間はいないだろうというほどのヤクザぶりだった。16歳という怖もの知らずの若さ故、こんな質問をした事がある。「XXさんって人殺した事ありますか?」。返事はYESだった事にかなりショック受けた事を今でも覚えている。なぜなら、敬語もまともに使えない僕はしばしばため口を聞いていたからだ。(若さって怖いね)

周りの先輩から礼儀知らずということで怒鳴られる事があっても、このチーフからはなかった(殴られた事はあるが、それは別の事情)。それ所か、惜しみなく精肉に関する全ての知識や技術を教えてくれた。そのために残業したり、他の店のチーフを紹介してくれたり、年末年始は共に徹夜で働いた事もあった。それだけではない、自分がまだ3ヶ月しか働いていない時期に、一人暮らしをするための手配まで手伝ってくれた。翌年の4月には正社員として雇用されたのもこのチーフのお陰だ。この人が居なければ、16歳から独立するという事は到底出来なかったのだと染み染み思う。

独立する事になったのは「僕は世界を変える!」などといった大志があったわけでも、尾崎豊の「15の夜」のように家出を計画する仲間がいるわけでもなかった。ただ単に、高校がつまらないので、3ヶ月で中退すると親に言った時、「学校へ行かないなら、お前に住ませる場所はない」と言われ、その日の夜にスポーツバッグ一つで家を出ただけの話。言わば、若気の至りってやつだ。

さて、このチーフの元で働いていた時、ポジティブな事ばかりではなかった。競馬、ギャンブル、タバコも酒もキャバクラもその「代償」として教わる事になった。ジャンケンで勝った人間に1000円渡すとか、トランプで大きな数字を引いた人間が勝つとか、そんな下らない事で一ヶ月20万無くなった事もあった。ギャンブルに向いていない僕はきっぱりやめ、チーフから貶される事もあったが、基本的に強要される事はなかった。

この元ヤクザのチーフから教わった一番役に立ったのは仕事に使う「技術」ではなく、勿論遊びでもなく、物事に対する「態度」だった。

「承諾した事は必ず果たす」
「努力する人間が勝つ」
「物事に筋を通す」

これらの「態度」は彼の人生哲学とも言えるので、このチーフ関して、少し触れておきたい。彼が人を殺めたのは極道になる前で、十代の話らしい。詳しい内容を話さなかったし、僕も聞いたりはしなかった。極道時代の話や足を洗った理由についても僕は知らない。ヤンキーではなかったし、家出した事を除けば普通の16歳だったから、その辺りの話に興味がなかった。ただ、彼がお肉のニュー・クイックで修行した時の話をよく聞かされた。

今はどうか判らないが、二十数年前の肉屋さんは職人気質の人がほとんどだったという。技術など教えてくれる筈もなく、学びたければ自分で盗めという環境だったようだ。カタギになった後のチーフはゼロからその道を歩んだ。上下関係が絶対だったという環境だったため、怒鳴られたり、パシリに使われたりする事が日常茶飯事だったし、一番早く職場に着き、一番最後に離れるという日々を過ごしたらしい。

それは彼が親しんでいた極道の世界と近い部分があったし、人の感情などを敏感に感じ取る事が得意だったため、入社間もなく、先輩達に可愛がられ始めたようだ。ただ、一人の先輩がどうしても彼の事が気に入らないようで、頻繁に無理難題を彼に押し付けたらしい。それでもチーフは先輩の指示に従い、ベストを尽くし、歯向かった事がなかったというが、例外が一度だけあった。

いつもように職場で世間話をしていた際に、何らかのきっかけでその先輩が不愉快になり、チーフの目の前で地面に痰を吐き、「拭け」と命じた。チーフは両者の鼻が触れ合うほどに歩み寄り、「それだけは出来ませんね」と喧嘩腰で吐き捨てるように言い放った。当然ながら、すぐに周りから止められた。それ以後もその先輩の無理難題が無くなる事はなかったが、チーフの堪忍袋の緒が切れるような事は起きなかったらしい。

そんなチーフは誰よりも努力していたし、周りに気遣いが行き届いている彼は先輩達からも愛されていた。そのため出世も早かった。当時のニュー・クイックにおいては、記録破りの速度で昇り続けたという。彼がニュー・クイックを辞めた理由について、僕はもう覚えてない。理由は何であれ、彼がやめなければ、僕が16歳の時に彼に会えなかったわけだから、神にその出来事に関して感謝しよう。

チーフは「教えない。学びたければ盗め」という職人気質の環境は一個人を守るための術に過ぎず、部門/組織全体の向上に対しては寧ろ「悪」だと考えた。だからこそ、「やる気があるんなら、僕が知っているノウハウを全て教え、お前を一年でそこらの職人と同じレベルにしてやる」と言ってくれ、それに対して僕も俺なりに一生懸命習い、4ヶ月間、一日も休むこと無く勤務した事もあった。(半年が目標だったが、酷い風邪で身体が動けなかった)そのお陰で一年で鶏、豚、牛、和牛に関する知識及び技術を一通り身に付けた。

このチーフの教えからか、僕は努力すると決めた時の勢いは誰にも負けない人間になったし、物事に筋を通す事を常に考え、簡単に承諾する事はなくなった。ただ、一旦承諾すれば、必ず実行する。そのため、承諾して実行できない奴に対しては失望をするが、日本でそんな経験は稀だった。「出来るか?」と聞いて帰ってくるのは大抵「頑張ります」という承諾にならない返事ばかりだからだ(笑)。まあ、それはアメリカでも同じだが。(I'll do my best)

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