元極道の下で働いてた16歳が、後に日中英精通の国際IT起業家になった話(台湾編)

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(これは前篇の続き)

基隆は台北の東に位置している、15年立っても殆ど変わらない寂れた港町。一年中雨が降るため、「雨の港」とも呼ばれている基隆は僕が生まれた街であり、日本へ行く前の13年間過ごした場所でもある。基隆の近くにある九份という街があるが、「魔女の宅急便」のモデルにもなっていると言われているこの場所に、「時雨」という進学校がある。僕はここで一年間、泊まり込みの中学校生活を送った。
  

何故僕が日本へ行ったかという事をよく聞かれるが、当然ながら、そんな事は13歳の少年が決められる筈もなかった。母親が僕を妊娠した時に離婚し、産んだ後まもなく日本へ留学したため、彼女の両親が僕の面倒を見ていた。つまり、じいちゃんばあちゃん子だったわけだ、僕は。

うちは貧乏だったから、母親は日本で留学しながら仕事をして、台湾にいるじいちゃんとばあちゃんにお金を送っていた。経済的に母親は年に一回や二回程度しか帰って来れなかったので、僕は母親に会うのはいつも楽しみにしていた。そんな事を繰り返していた生活の中に、一人の日本人男性が母親と一緒に台湾へ帰ってきたのが、僕が13になる歳だった。何も知らされていない僕は13歳なりに抵抗したが、2週間後には日本に降り立つことになった。その後のストーリーは皆さんの想像通りだ。

さて、台湾へ移住する前の3ヶ月間は自力で中国語勉強を始めたとはいえ、殆ど役に立たなかった。何故なら、日本で売られている教材は中国向けの簡体語であり、発音記号などもピンインだった。しかし台湾は中国の文化大革命の影響を受けていない、昔からの中国文字を使用しているため、それ向けの教材はほとんど日本に存在しなかった。僕に出来る事は中国語に慣れるためのリスニングくらいだった。
     「心」がない「愛」が簡体字、日本と同じ「愛」は繁体字

2006年の4月末に台湾へ戻り、仕事が見つかるまでの数週間は親戚のおじさんの家に泊まらせてもらったが、まともの会話が出来なかった。子供の頃は毎日のように会っていた人とコミュニケーションが取れない事を何故か気持ち悪く感じた。とにかく「変な感じ」としか言い様がない状況だった。彼らにしてみれば、僕は「逆輸入」してきた親戚だったのかもしれない。
元々台湾国籍だったので、就労ビザがなくても仕事が出来る状態にあったが、中国語が話せない台湾人を雇う台湾企業はなかったし、日本以上に学歴重視の社会なので、スキル無しの中卒である僕が台湾で面接の機会をもらうのも困難だった。(台湾では、26.9%の大学卒業生が大学院に入るという、深刻な学歴インフレが起きている)生まれて初めて学歴の重要さを身体で理解したのもこの時だったと思う。

最終的には人材紹介会社に登録して、数社の日系企業にアプローチをした。運良く採用が決まり、5月15日から勤務する事になったため、5月10日には台北の内湖区へ引っ越しをした。
                 內湖の夜景

台湾での初仕事に期待して、出勤した僕だが、当日に転職を決めた。理由は8割の職員がオフィス内でタバコを吸っていたからだ。わがままといえばわがままだが、頑固な僕は人材紹介会社にもう一社内湖にある会社を紹介してもらった。5月末に現職を辞め、6月3日からHMIを製造販売しているProface Taiwanでマーケティング部のリーダーとして勤務し始めた。(旧日本デジタルの子会社。今はSchneider Electroの傘下に収められている)

当時に給料は39999台湾元だった。(どうしても4万元は出さたくなかったらしい)日本円に換算すればおよそ12万円という金額。28歳の僕が稼ぐお金は16歳の僕の半分だと思うと自分でも何だかおかしく、笑いたくなるが、中国語の勉強が出来る最高の環境にいて、勉強しながらお金をもらえると考えれば、それはそれで笑いが止まらないほど嬉しかった事でもあった。

Proface TaiwanはGoogleでも、IDEOでもないので、仕事内容に関して特筆すべき部分はないが、日本ではまず見られないだろうという台湾人独特の仕事習慣に驚いた。朝食は会社で仕事しながら食べる。電話に出る時は社名を言わずに、直接「もしもし」(中国語では喂)と出る。携帯はミュートにしない。机に置きっぱなしにした際に、携帯が鳴りっぱなしになることもしばしば。スカイプやメッセンジャーをしながら仕事をする。顧客とのコミュニケーションツールというのが理由だが、多くの時間は友人とのチャットを楽しむのが普通だった。これらの事に対して、大企業に慣れている日本人(僕)が受け入れられる事など考えられなかったので、注意しては部下と衝突することもあった。(カルチャー・ショックとはこういう事)

実は、Danielという名前もこの際に付けた。いや、付けられたというべきなのかもしれない。人事からメールアドレスを登録するから、英語の名前は何だと聞かれた。日本人だったら、Yamamoto Taroとかで登録出来たと思うが、本名が中国語なだけにそれは出来なかった。何故なら日本語の子音+母音という発音方法と違い、中国語の発音は母音+母音に近い部分がある。つまり、日本語はローマ字で簡単に英語表記できても、中国語にそれを求めるのはかなり難しい。「趙雲」という三國志に出てくる人物の中国語の発音を英語表記するとZhao Yunになり、台湾人がこれを見ても誰だかがはっきり判らないのである。

どうしても英語の名前を考えろということで、ブルース・ウィリスから取り、Bluesでいいとお願いしたが、それは名前じゃないと言われ、「仕事はただでさえブルーなのに、そんなものを名前にするな」とも揶揄された。どうやらブルース・ウィリスはBluesではなく、Bruceのようだ。英語が判らない癖に、何となくBruceがいやだと思った僕は、一時期前に流行った映画「ブリジット・ジョーンズの日記」に登場するプレイボーイのDaniel CleaverからDanielを選んだ。


「そんな下らない理由で名前つけるのか?」と思われるかもしれないが、台湾人の英語名は香港人と違い、ニックネームに過ぎない。それに訳の分からない理由で英語名を付けたのは僕だけではない。小学校や中学校の先生から「君何となくメロディみたいだから、英語名はMelodyで」と一方的に付けられた人も少なくない。
社内の人間、または親会社であるSchneiderの人間と会話して気づいた事があった。殆どの同僚に趣味がない事だった。日本で勤務していた時の同僚の趣味は異種を極めた。DJ、バンド、演技、サーフィン、マラソン、声優、アニヲタ、ピアノ、マンガ、ワインなどがあったが、台湾では英語、日本語、株、投資、資格取得にプライベートの時間を使う人がほとんどで、趣味というか、やりたい事と言えるものは旅行、カラオケ、美味しい料理を食べるくらいだった。そのお陰で、僕の上手いとは決して言えないようなピアノ演奏でも、忘年会では大人気だった。


Proface Taiwanを離れた後の半年間は日本語の家庭教師をしつつ、翻訳や通訳の仕事を請け負いつつ生計を立てていた。日本語を使わないと、中国語を日本で忘れて来たような事を恐れ、日本語を日常生活に取り組んでいた。この仕事が半年間しか続かなかったのは、孤独だったからだ。友達のプライベート時間は僕の仕事時間、彼らの休暇日は僕の出勤日、そして翻訳のような仕事は基本的に独立作業のため、一人ぽっちに耐えられず、仕事探しを始めた。

この時点の僕の中国語はネイティブまでいかないが、上級レベルまではあったから、仕事探しも以前より楽になった。合計で三社にアプローチをした所、全て面接依頼が来た。しかし、彼らが面接したかったのは中卒の僕ではなく、大卒のDaniel Changだった。どういう事かというと、104というのは台湾のリクルートのような会社で、人事部門が人材をサーチする際に「大卒必須」を条件にするのが普通のため、それに引っ掛けるには大卒になる必要があった。29歳にもなって、7年かけて大卒になる気はさらさらなかった俺は、「日本社会大学社会科」に10年かけて卒業したと学歴に乗せた。

傲慢で常識はずれだと理解した上での行動だったが、そうした理由は、僕は面接さえできれば採用してもらえる自信があったのと、そうしなければ到底就職出来ないというプレッシャーもあった。とはいえ、目的は面接チャンスの獲得なので、面接時にはちゃんと本当の事を話していた。結果、うち二社は事実が判っても採用に繋がった。企業はそれぞれGeILとAVerMediaだった。GeILは2回の面接で採用決定に繋がったが、AVerMediaのポジションは日本支社の責任者だったので、5回目の面接を最後に、社長と董事長まで登場した。しかし、僕は出来ればもう少し長く台湾に居たかったし、本当に行きたい企業は台北101の52階にあるHRnet Oneというヘッドハンティング会社だった。

                 台北101

HRnet Oneはシンガポールの企業で、東京にもオフィスを構えている国際企業である。面接官も初っ端から英語で話を始めたが、1分足らずで中国語に切り換わった。僕が英語を理解できないし、話せないからだ。しかし、妙な事に、僕の学歴と英語のレベルを理解しても二度目の面接に呼ばれ、そして三回目、四回目へと繋がった。最終的にはAPを仕切っているDirectorが台湾に来た際に五回目の面接を行なった。「これはAVerMediaと同じパターンだ」、そう思った僕はきっと採用してもらるだろうと考えた。

しかし、現実は違った。結果は不採用、理由は「学歴と英語レベル」だった。そんな理不尽な理由に僕は納得出来なかった。「そんなのは一次面接で判っていた事ではないか?」と問いかけても、まともな返事をもらえなかった僕はぶつかようのない怒りを覚えた。この会社をすっぱり諦めたと同時に、怒りを「この借りは必ず返す、覚えていやがれ!」というモチベーションに変えた。二年後にはTOEIC 800点 取得する事を目標にしたポストイットをHRnet Oneの名刺とテープで止め、家の壁に貼り付けた。


中国語の上達速度は目に見えるものがあったし、台湾在住という時点でさほど心配はしていなかった。しかし、学校で教わった英語は「This is a pen」くらいしか記憶に無い僕が果たして目標達成出来るかどうか、自分でも自信がなかったが、2009年末に目標を達成した。しかし、TOEIC高得点でも、英会話が苦手という人が結構いる。僕はそうはなりたくなかったから、2007年から2009年の二年間はTOEICの勉強せず、文法を除けば、スピーキングとリスニングに全ての時間を費やした。

ここに簡単な英語による挨拶スピーチをビデオで残しておきたい(適当に取ったものですが、その辺は多めに見て下さい)。自慢などのためではなく、30歳から始めても、英語は上達出来るという事をもっと多くの人達が知ってもらい、英語を勉強するきっかけやモチベーションになってくれれば嬉しいと思う。興味がある方は、文章の終わりに方法を書き残しました。

                         https://www.youtube.com/watch?v=8zuWk8Mr5Xk

長くなってしまったが、中国語と英語が流暢に話せるようになったのは今回のストーリーで既に触れた。MBA取得は2010年にカラオケで出会ったある女の子がきっかけに。起業は2012年の6月に起きた遭難の経験から始まった。そしてシリコンバレーとニューヨークでの話なども次回に紹介したいと思う。
Blog: danielzenidea.blogspot.tw
Twitter:DanielZenChang
英語上達に近道などありませんが、良い勉強方法はあります。自分のストーリーが主旨ではありますが、前回の終わりに英語が上達した理由を書くと約束しましたので、手短に紹介します。自分が考えられる上達に繋がった要素は4つです。それは「文法」「シャドーイング」「独り言」「録音」。
「文法」の説明は不要だと思います。骨組である基本がしっかりしなければ、意味が無いですからね。僕は運良く相性の良い先生と出会いました。30時間のレッスンで文法たるものを7割から8割理解できたからです。それは中国語による授業が解りやすかったのかもしれません。
「シャドーイング」は口と舌の筋肉を英語に慣れさせると共に、イントネーションやアクセントを取得出来ます。好きなPodcastやTV Showを見ながらシャドーイング。通勤中にシャドーイング。歩きながらシャドーイング。PodcastやTV Showは日常会話が主に使われるコメディなどが良いです。CSI、Houseなどはアメリカ人でも判らない専門用語が多く登場するので、やめたほうがいいと思います。
「独り言」は自分の考えを瞬時に言葉にして表現する事です。別に相手がいなくてもいい。ネイティブだろうが何だろうが、訂正してくれなければいないのと一緒だし、語学交換でない限り、普通は訂正してくれません。リスニングに慣れてきた後は、自己表現に時間を費やします。
「録音」はどんな先生よりも凄い先生です。自分のシャドーイングや独り言を録音して聞けば、どこがだめだったかはっきり判ります。間違いが判れば訂正することもしやすくなります。しかし、これをしっかり実行する人は実に少ない。「自分は下手」という現実から目をそらさず、直視することで進歩出来ますので、是非チャレンジしてみて下さい。
頑張ってください!Never Give Upデス。

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