元極道の下で働いてた16歳が、後に日中英精通の国際IT起業家になった話(起業編)
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(これは台湾編の続きです)
「日本社会大学社会科」というトリックによって、学歴重視の台湾就職市場でもサバイバル出来た僕は、順調にしょっちゅう出張が出来る仕事についた。日本市場の開拓という職務だったため、出張先は日本のみだったが、それでも良かった。何故なら、一定時間内に台湾を出なければ、兵隊に行かなければいかないからだ。
台湾スペシャルフォースのユニフォーム
台湾男性は兵役が義務付けされている。通常は大学や大学院卒業後に徴収されるのだが、僕は13歳から日本で15年過ごしていたため、日本華僑という名目により、異なる兵役条件が付けられていた。それは台湾において、連続滞在が120日を超えると、徴兵されるという30過ぎの男にとって悪夢のような規定だったので、台湾を頻繁に出られるための仕事についた方が、都合がいいのである。
給料も台湾の平均以上にもらっていたため、生活は安定していた。恋にも落ち、当時の彼女とも一緒に新台北市で小さなお家を購入した。英語の勉強は毎日していたが、その他のプライベートの生活はかなり充実していた。サルサやボールルームダンスを習ったり、ヨガ教室に通ったり、ロードバイクで郊外行ったりという甘ったるい生活を送っていた。そんなある日、友人の紹介で、僕の人生を変える女性に知り合った。
僕は浮気していたわけでもなく、「不倫は文化だ」を支持してたわけでもない(ちなみに、台湾は通姦罪があるため、不倫は違法)。彼女と電話で経歴や学歴について語った際に、僕が中卒だという事知った。彼女は驚いたと共に、2年で学歴を大学院卒にしたくないかと持ちかけてきた。
普通は9年かかる学歴を2年で?いかにも胡散臭い話に僕は半信半疑だった。色んな質問をぶつけた後にも、ネット上でも出来る限り関連情報や該当の大学について調べた。結果、詐欺ではなく、実際に存在している「進学」コースだった。カラクリはこうだ。台湾にある教育代行機構がまずフィリピンにある金出せば誰でも入れる大学に申請(高卒でなくても良い)、そして半年間で卒業に必要な学科全てをオンラインで取得。その卒業内定を持ってアメリカのアラバマ州にあるUniversity of North Alabama(UNA)のEMBAコースに申請するという流れ。
しかし、UNAの入学条件は割りと厳しかった。職務履歴6年以上、管理職経験2年以上、TOEFLスコアが100以上、そして面接に受かって、初めて入学出来る。半分の授業はUNAが選んだ台湾大学教授が担当するが、残りの半分はUNA教授がアメリカから台湾に来るという変わったシステムだった。必要な費用は合計で2万アメリカドル。なんとも魅力的な話だったので、住宅ローンを払い続けていた僕にそんなお金はなかったけど、教育ローンを組んで申込をした。
半信半疑で始めたが、実際UNAの授業内容は結構良かったと僕は思う。「中卒の人間にとって、どんな授業内容でもいいだろう?」と言われればそれまでだが、仕事に使われる営業、マーケ、マネジメントを勉強してきたし、僕を雇う企業もバカじゃないから、それなりの知識とノウハウはあったつもり。それにアメリカの教授と直接質問出来るってのもよかったし、授業後の食事などにも誘ってくれた。起業についても色々アドバイスをもらった。
そうだ、起業の話をしなくては。
自ら起業するきっかけは大まかに二つあると僕は考える。お金のためか理想(夢)のため。しかし、僕のきっかけはいずれでもなく、ある遭難のお陰で起業に繋がった。それは2012年6月23日に、知人と一緒に山登りをした日だった。
当日の天気は台風が去った二日後だったので、郊外にいくには最高の晴天だった。台北の郊外にある満月圓という場所から登山道に入っていくのだが、ちゃんとした道がない代わりに、森林、蝶々、毛虫と川に流れる音が大自然の心地よさをもたらした。この光景に思わず僕は「これこそが冒険だ!」と叫んだ。
川を渡ったりすることもあったので、靴が濡れないためにスリッパに履き替えて、蛭に襲われながらもみんなと一緒に自然の恵みを楽しんでいた。
登山経験が皆無の僕はてっきり食べれる場所があると思ってたので、何の食料も準備しなかったが、経験がある友人がポテトや生ブロッコリーのサラダをご馳走してくれた。少ししかお腹の足しにならなかったが、エネルギーを求めている僕の身体にとって、とびっきりに美味しい食べ物だった。その後、僕が「誰かが遭難する前に、記念写真を取るべきだ」という悪い冗談を言い、グループ写真を取った。
この時に知ったのだが、実はリーダーである女の子もここに来たことがなかったらしい。しかし彼女曰く、必要な情報や写真を全てカメラに保存しているし、登山経験は幾度もあるから、心配しなくていいと言ってくれたが、30分足らずでカメラを水に落としてしまい、中身が見れなくなったという事態が起こった。それが直接の原因かどうかは判らないが、道無き道を歩いていた僕たちを待ち受けていたのは更なる困難だった。
二日前の台風がかなり強力なものだったので、土がかなり緩く、足元がぐらつくだけならまだしも、落石まであった。もはやロッククライミングも出来ず、ウッドクライミングになっていた。続ける事を躊躇なくするメンバーも居たが、僕が「俺達はディスカバリーチャンネルみたいなことをやってるぜ!Oh yeah!」と無意味に叫んだ事で登山は続行した。
さすがにもうスリッパでは登れなくなった。ドロドロの土が僕の足とスリッパの間に入り込み、踏ん張りができなくなっていたため、残った飲み水で足を洗い、スニーカーに履き替えた。途中に大きな木が道を遮るように横たわっていたので、素人の俺には難しかったが、前にいる知人の昇るルートと方法を観察し、真似すれば大丈夫だと思い、その木を乗り越えようとした瞬間に、僕はその大木と一緒に下の川まで落ちてしまった。
高さは10メートル以上あったと思うが、幸い打撲と切り傷のみで、骨折はしなかった。とはいえ、さすがに昇る気力がなかったので、最後尾の人に18時前後に僕と連絡取れなかったら、救助隊を呼んでくれと依頼して、一人で元の道を辿った。この外人さんも「Good Luck, Daniel!」と軽く答えた後に、離れた。山の中で一人になるのは危険だと判っていながらも、当時の心境は「もうあんな道無き道を登らなくてもいいんだ」と安堵していた。
15分後、僕は既に自分がどこにいるのかが判らなくてしまった。もはやディスカバリーチャンネルなどの冗談をしていられなかった。運が悪ければ、「ディスカバリー」されるのは自分の死体かもしれないからだ。冷静に状況を再度判断してみた時に、事態の厳重さに改めて気づいた。
1. ケガして動けなくなれば、ジ・エンド。
2. 水も食料もない。スタミナも残り少ない。(飲み水を足洗いに使った)
3. 慎重になるための時間が残っていない。(午後3時半)
4. 電波がない山奥にいる上、全く方向が判らない。
道が判らない僕は川に沿って下っていったのだが、時間が立つにつれ、森林に差し込んでくる太陽の光と共に、僕の体力と自信も徐々に減っていった。何度も携帯の電源を入れ、電波の有りかを確認したが、無情にも「No Signal」としか表示されなかった。僕に唯一出来る事は歩き続ける事だった。
時間は午後5時になり、友人と離れて2時間近く立つ頃に、僕の手足が震え始め、心拍数も早くなっていた。恐らく燃焼するためのカロリーが残り少ないため、血糖値が下がっていたと思われる。朝に聞こえていた鳥や虫の鳴き声、川が流れる音、緑に囲まれた環境がもたらすのはもはや興奮などではなく、不安と恐怖でしかなかった。そんな時、暗くなりつつ空に一瞬光が走った。雷だった。そして降り始めた雨はポツポツ滴る水滴ではなく、水をひっくり返したような大雨だった。
雨が降っている時の川は危険だということくらい、幼稚園生でも判る。しかし、川の両壁面を探し続けるも、登れるような場所などなかった。仕方なく適当な場所に身を固め、空になった水のボトルを取り出して、雨水を集めつつ、川の様子を見ていた。
祈るように携帯を取り出したが、電波は相変わらず圏外だった。身を固めている場所に落石がなければ、雨が止むまで乗りきれるかもしれない。しかし木の間から覗ける空を見なくても、夜はすぐに訪れる事くらいは判っていた。頭の中に過去の出来事と未来の想像がフィルムの早送りのように浮かび上がった。そして当時上映されていた127時間という遭難映画も脳内を横切った。夜になると救助作業もしにくいし、山の中に何が起きるかが全く予想できなかったため、5分程度の休憩を経て、大雨の中でも出来るだけ前に進むと決断した。
何度川の中で転び、身体をぶつけたかは覚えていないし、崖から落ちたケガが痛む事を気にするほどの精神状態になかった。2時間以上水の中に浸かっていた僕は川から離れるとしか頭になかったからだ。昇る坂(崖)から落ちてしまってもいい、方向なんて判っていないのだから、間違ってもいいと何度もチャレンジしたが、それでも歩けるような道は見つからなかった。最後に見つけたのは「歩ける道」とは呼べないが、取り敢えず立っていられる道だった。
植物が足元に充満しているこの道を前向いて歩けず、俯きで探索しながら進んだ。雨音、鳥の鳴き声と自分の呼吸の音以外に聞こえてきたのは友達の名前と、彼らとの会話だった。今朝起きた時にこのような事に遭遇すると誰か想像したか?こんな所でこのような形で終わる人生なんて嫌過ぎる。「やりたい事が沢山ある、会いたい人が沢山いる、今日が人生最後の一日にしたくない!」という考えが脳裏をぐるぐる回っていたが、体力の限界と共に、頭もぼんやりし始めた。
とうとう夜が目の前に来ているその時、ある声が聞こえてきた。
「Daniel!」
幻聴が聞こえてきたかと思った。
「What are you doing here?」
二度目の幻聴は僕は恍惚状態から呼び覚ました。顔を上げて、目を前に向けた。そこに手を振りながら、立っていたのは友達だった。
自分でも信じられない光景に「これは夢じゃないよね?」と一人ひとりに聞いた。「いや、夢じゃないよ」と答えてくれたのでは、人生の中で一番嬉しい「否定」だった。
この魔法のような「否定」によって、体中の疲れ、孤独、絶望が一気にふっ飛び、世界がこれほど明るいものなのかと自分でも驚いた。鳥や虫の鳴き声は再び美しいものに戻り、雨音と激流が作り出す音もまた、無事に仲間と再会した事を祝うかのような拍手にしか聞こえなかった。僕は「これこそが冒険だ!!」と叫ばずには居られなかった。
しかし、本当に運が良かった。彼らと星印の場所で会えなければ、僕は確実により山奥の方へ進んだ。何故なら、僕は川から離れようと必死だったから、仲間達がちょっとでも早く歩いていれば、僕は違う方向へ進んだ。そう思うと本当に恐怖と感謝が交わった複雑な気持ちで一杯になる。皆から離れた時間、歩く速度、歩く方向、あの坂で休憩した時間、最後に見つけたあの獣道。これらの事がぴったり合わなければ、こうして文章を書くことが出来なかったかもしれない。
下山して、バス停についたのはもう夜の8時過ぎだった。バスはもうなかったし、こんな山奥に来てくれるタクシーも少なかった。仲間全員がずぶ濡れの上、お腹が吸いていた。バス停の近くにあった売店は閉まっていたが、経営しているおじさんが二階に住んでいて、僕らの様子を見るとすぐにお店を開いてくれた。食べたカップラーメンは最高に美味かったし、この売店の事は一生忘れないだろう。(売店の場所:台北県三峽區有木里第七鄰)
まだかすかに残っている傷を見る度に、この出来事を思い出す。映画「生きてこそ」ほどドラマチックな遭難ではないが、思い返す度に心臓の鼓動が早まると共に、自分が生きている事に感謝する気持ちで一杯。そして、「生きる」というのが一番大事なのであれば、他に失うものはないと思ったのもこの出来事からだった。
そうだ、起業の話をしなくては。
この経験が僕の起業のきっかけ(長すぎて申し訳ない)。困難な環境にいる人間の方が、色んな面で競争力が高いと僕は信じて疑わなくなった。何故なら、こういう人間は日々厳しい状況に面臨し、沢山の問題を解決しなければならないからだ。自己成長における筋トレだと思えば判りやすいと思います。僕は今迄自分がぬるま湯に浸かっていたと改めて感じ、「自分をもっと厳しい環境に」という上司に信じてもらえない理由で退職し、2012年の8月末に起業した。
起業当時は日本市場に進出したい台湾企業を支援し、マーケティング関連のコンサルタントから始めた。全てゼロからの経験は面白かった。社名、ロゴ、社印、会社登録、会計事務所などの事務系作業もそうだが、クライアント探しのためのCold Call、展示会場でのアプローチ、その場でのエレベーターピッチなども、自分の事業だからこその新鮮味があった。
親しい友人のお陰で、Foxconn(鴻海)の創業者郭台銘さんにも2度お会い出来て、4時間ほどのインタビューに参加させてもらった。どういう訳か、インタビュー後に友人に郭台銘さんが直接電話して、僕にコンタクトをしたいと連絡があった。友人は典型的な日本人ではないが、プライバシーを重視する方だったので、郭さんに僕の電話番号を伝えなかった。その後も郭さんの秘書から友人に連絡があったようだが、僕が出張したりして、上手く時間が合わず、結局郭台銘さんが何のために連絡しようとしたのかが判らないままとなった。
そんなチャンスを逃すなんて勿体無いとよく言われる。全くその通りだ。郭台銘さんこそが様々な困難を乗り越えてきた素晴らしい起業家だと僕は思う。直々に連絡が来たということは、郭台銘さんの身の回りで仕事が出来る可能性があったのではないかと僕の友人は考える。何故なら、当時は鴻海がシャープを買収するという話で盛り上がっていたため、日本市場の戦略上、日本語と中国語が堪能で、エレクトロニクス業界で経験がある人間を探していた。
(友人は大槻智洋さんという方で、日経エレクトロニクスの特約記者であり、台湾でコンサルティング会社を立ち上げている。郭台銘さんに対し4度独占インタビューをしている唯一の日本人として、シャープ買収の件で、フジテレビのプライムタイムにも出演した事がある方。)
郭台銘さんの近くで仕事が出来たら、学べるものが沢山あったに違いない。しかし、それを逃したからこそ、コンサルティングではなく、本当に愛して止まない自分の夢を見つける事が出来た。それを実現するために家まで売っぱらった。全く経験がなかった業界で勉強しつつ、様々なプログラマー、デザイナー、投資家、起業家と会い、スタートアップの聖地であるシリコンバレーにも行ってきた。アメリカでの旅も含めて、IT Startupから得た経験を次回にシェアさせて頂きたいと思います。
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