いじめとひきこもりから映画監督に(2)

前編: いじめとひきこもりから映画監督に
後編: いじめとひきこもりから映画監督に(3)

大学を休学してから24時間インターネット漬けだった

私の大学の四年間はほとんどネットの世界に引きこもっていました。どうしてそんな風になったかと言うと、小さい頃から勉強ばっかりの自分が第一志望の東大に落ちたからでした。
「東大に落ちる=人生に失敗した」当時の私はそんな考えの持ち主でした。
私は幼稚園の頃から塾に通っておりました。家の両親は決して裕福とは言えない家庭環境から、両親共に有名な企業に勤めました。私が生まれたのは81年、日本の経済が一番潤っていた時代に幼少期を過ごしていたため、両親はきっと、学歴が最重要、有名企業に入るのが人生の幸せ、そう考えて幼稚園から塾に通わせていたのかも知れません。当時、押し入れで遊んでいると塾の成績表みたいなものが出てくるんですが、「全国で×××人中○○位」みたいな数字を5歳の時に見た記憶を鮮明に覚えております。

2歳からテレビっ子だった

なんて話をすると、2歳の記憶があるわけないとよく言われるのですが、二つ下の弟が生まれた際に、大好きだった祖母と手をつないで夜に病院に走っていた記憶を鮮明に覚えており、2歳付近から記憶が残っているんだなと感じています。
当時は、両親共に夜まで遅く働いていたため、私の記憶では幼稚園から帰ってきた後は、塾以外ほとんど祖母と一緒にいた記憶しかありません。
バブル世代ですので、あの当時は父も母も仕事で忙しかったんだと思います。そんな中、祖母は終始私に付き添って、いろいろなことを教えてくれました。
叔父が歯科医をしているため、祖母は合間叔父の手伝いをしているのですが、私は一人になるとよく「街かどテレビ」や「鶴ちゃんのプッツン5」「ひょうきん族」や「紅鯨団」を観ていました。幼稚園の頃から、片岡鶴太郎さんや西川のりおさんが大ファンだったのです。一番大好きだったのは、「風雲たけし城」。バラエティとアクションを融合させた緊張感にとても興奮していました。
そんな変わった幼稚園生だったため、周りの子たちとは全く馴染めず、いつも虐められていました。小さい頃から、妄想するのが大好きで、いろんなストーリーを考えてましたが、血気盛んな小さい同級生には変わった子に映っていたのかも知れません。

テレビの俳優だけが自分の救いだった

家に帰っても上記に書いた通り、厳しい家庭環境のため、母は勉強熱心、父はお酒が進むと気が荒くなり、深夜2時、3時まで正座をさせるような家庭でした。
一度、正座をさせられている時に、我慢ができず、大声で近所の人たちに大声で「助けて!」と叫んだことがありました。世間体を重んじる父からすれば、一番されたくないことだったのでしょう。とても酷い仕打ちをされ、母は勿論、父の味方であるので、幼少期から、父と母は怖くて向き合えない存在という気持ちが強く残っています。
そんな状況だったので、小学生の頃の自分の唯一の救いは、20時や21時から始まるテレビドラマでした。
「パパはニュースキャスター」に始まり、「男女七人夏物語」、「101回目のプロポーズ」「長男の嫁」「人間・失格」「王様のレストラン」など挙げだすと枚挙にいとまがありません。
学校から虐められて帰ってきて、癒してくれたのはテレビドラマの俳優の世界観でした。昔から憧れだった芸能に接する世界にこうして大人になって触れるなんて、ガリ勉で真面目だった私にはきっと想像も付かないことと思います。

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いじめとひきこもりから映画監督に(3)

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