いじめとひきこもりから映画監督に(3)

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進学校でのいじめ体験

中学校から進んだ学校は進学校でした。東大か医学部が当たり前のような風潮の中で、本当は演劇がやりたったのですが、周りの視線が怖かった自分はそんなことを周りの子に伝えられず、やはり中高でも虐められ続けました。

Yシャツがグチャグチャ、ロッカーがボコボコ

進学校だったため、あからさまな暴力は即退学に繋がるため、周りのいじめっ子たちもいろいろと工夫して、自分を虐めていました。
私の学校では、級長(学級委員長)が一番前に出て、毎日体操を先導するのが日課だったのですが、体育の授業から帰ってくるとYシャツが踏みつけられていて、一番前に立つと背中は足跡だらけ。教室に帰ってくると、ロッカーはボコボコで中の物が取り出せないなんてことが毎日続き、それ以外にも思い出すだけで悲しくなるようないじめの日々でした。
ある日、勇気を出して担任に虐められていることを伝えたところ、
当時の担任
大人になれば良い想い出になる。辛いのは今だけ
そんな対応でした。それ以降、学校に行くのが怖く、それでも級長をやっていた責任感から休まず、学校には通っていました。
その頃発売されたのが「Windows95」、中2の時でした。好奇心が人一倍旺盛な性格なので、父親に嘆願して、自分でローンを組んで7年計画で富士通のFM-Vを購入しました。ただ、自分がやりたかったのはインターネットだったのですが、厳格で保守的な父親がそんな新しいことを許してくれるはずもなく、理想としたパソコンの使い方が全くできずに、大学生までローンを支払っておりました。

人が怖い中で受けた大学受験

そんな環境にずっといたためか、いつしか人間不信となり、同級生が怖い、すれ違う人が怖いという症状に見舞われました。
第一志望の東大もすれ違う人が怖い、隣の受験生の鉛筆が怖い、自分の筆圧の音を文句言われるのが怖い……、そんな精神状態で受験したため、力を十分発揮できず、東大は落ちてしまいました。
当時は、とてもプライドが高かったため、進学することになった早稲田に対しての希望も見いだせずに、四月を迎えました。
当時の私は身体がボロボロ、顔が膿だらけ、体中が一日中痛く、人が怖い、そんな状態でした。

生きていても意味なんてないんじゃないかな……

と思ったのが18歳の春でした。そして、直後、お茶の水の病院に入院することになったのです。
その頃になるとさすがに両親も、「自由にしなさい」と話すようになったのですが、東大だけを目指していた自分がその目標を達成できず、後は好きにしなさいと言われても、何をどうすれば良いのか? 両親に対しては不信感と懐疑心しか生まれませんでした。もう明日死のうかな、そんな風に思っていた時に、ふと中学生の時にやりたかったインターネットの世界を思い出したのです。
「そうだ、自由にしていいいなら、インターネットをしていれば良い」
大学には幸いなことにパソコンルームが充実していたため、2000年の当時にしては整った環境でネットを楽しむことができました。

24時間チャット漬けの生活の始まり

そうして、家にいるときは朝までチャット、テストや健康診断など止むなく学校に行かなければならない時は、すぐにパソコンルームにこもって20時までチャットそんなほぼ24時間チャット漬けの生活が始まったのでした。
当時、遊んでいたチャットはPostPetをあしらった「Terry's Wander Chat」(WanderはきっとWonderなのでしょうけど、原題のまま)
このチャットでの出会いが自分の人生を大きく変えることになったのです。

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