会社の2代目になるまでのちゃらんぽらんな日々とそのツケ

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父親の会社に入るなんてそんなつもりは、全然なかった。
私の父は一流貿易船舶会社で航海士をしていたが、86年に船内でAppleⅡに出会い、パソコンの面白さにハマり、その3年後に退職して当時はまだ珍しかったパソコンスクールを立ちあげた。
先見の明アリアリである。自慢の父である。

父親が「社長」という響きは子供ごころながらにちょっと自慢で、友達に「社長令嬢」と言われるのもまんざらではなかった。
母親は別で保険の営業をしており、もともと商才のある人だったので父親の年収は軽く超えていた、年収2000万くらいは行っていたらしい。
そんな恵まれた環境で、一人っ子で何不自由なく自分の事だけを考えていればよかった。

ワガママ勝手な学生時代

父も母も忙しかったので、ほとんど家には帰ってこなくて(帰っては来ていたと思うけれど、たいてい私が寝た後)朝、起きて少し言葉を交わしたら二人共仕事に行く。そんな生活だった。
もちろんそんな環境で立派に育てるはずもなく、私は毎日のように自由気ままに時間を潰すために母が購入してくれたスーパーファミコンに興じていた。多分出ていたゲームはほとんど遊んだと思う。
一人っ子で友達付き合いも下手だったので、外で誰かと遊んだりというのは数えるくらいしかしていない。

ゲームの新作が出ると、母の声色を真似て学校に電話して、当たり前のように学校は休んだ。2週間休んで学校に行って、またつぎ2週間休んで…という感じ。

一応、押さえるところは押さえておいたので、県で3番目にあたるそこそこの高校に入学でき、高校でも特に変わらず同じような生活を送っていたけれど、高校2年の時にとうとう授業についていけなくなり、成績が落ちてきた。
なんとなく漠然と、父親の背中を追ってシステムエンジニアとか、コンピュータ関係の学部を希望していて、それ系の大学を考えていた私に、担任の先生は「いや、どうかんがえても理系はオマエに向いていない」と教えてくれた。

さてどうしようか

そんな時、大好きな友人が美術系の大学を受験すると言った。
それは、楽そうだし楽しそうだ。

母に相談したところ、二つ返事でOKが出た。

そんなわけで美術の予備校に通い、自分が受かりやすそうな推薦を探し、京都にある芸術系大学に無事に合格

ここで私の勝手気ままな人生が一回終わる。

一回目の挫折(軽度)

なんとなくでやって来た自分と、本気で取り組んできた周りとの能力の差をどうしても埋められなくて、今まで自分のやりたいように楽なように生きてきた自分はその時の努力の方法もよくわからずに、結局2年でその大学を辞めた。

父と母はあまり止めなかった
すべての決定を自分でしてきた私の決断に間違いなどないと言ってくれた。なんて理解のいい無関心な両親だ。未だに感謝しているけれど、母は未だに
「あの時本気で中退を止めていればよかった。『また変な娘がわけわからん事言い出した…めんどくさ』って思わなければよかった」
ってこの前教えてくれた。お母さん意外とひどいな。

さて次に、その時の彼氏が東京に行くという理由で東京の大学に行くことにした

同様に自分が受かりやすそうなコースを探し、無事に合格。そして1年で退学。これに関しては完全に自分が悪いのでもう詳しくは書かないけどただの登校拒否。

この時は深く考えずに「あー、もう無理だからやめよー」って思って辞めたけれども、これが30近くなってくると履歴書に中退2回と書かなくてはいけないプレッシャーはものすごい。履歴書書く度に「ダメ人間」と認識しないといけない

「継続は力なり」どんなに大変な状況でもある程度成果がでるまではやめない方がいいと言うのは本当だなと身を持って知る。

みんなの読んで良かった!