あの日お母さんからおばあちゃんを奪った海なんか大嫌いだ
私のおばあちゃんは海で死んだ
1歳半で海に落ちた私を助けて死んだ
だから海なんて大嫌いだ
おばあちゃんを返して、おばあちゃんを大好きだったお母さんに、おばあちゃんを返して
母ー厚子
母は昭和28年に高知県の貧乏な漁師町に3姉妹の真ん中として産まれた
そこは本当に貧乏なところで、西原理恵子先生の「ぼくんち」を読んだことがある人はあそこだと思ってもらってもいい。
戦後、カラーテレビが発売されるなど高度経済成長の波が日本中をめぐる中でも、その村はひっそりと貧しくて、今もそんなに変わっていない。トタン屋根ばかりが並ぶ「コレが家?」というようなモノが固まって海風をしのいでいるような、小さな、小さな集落だった。
家の目の前が海で、父親は造船所で一山当てようとしたが失敗して、ほそぼそと漁師をして生計を立てていたそうだ。
そんなところで母は育った。
美しく自由奔放な姉、可愛らしく甘え上手な妹に挟まれ、自分には何もない。可愛くもない、美しくもない、だから親からもかまってもらえない。
「いつもそう思って、本ばかり読んでいたわ。電気は今みたいな蛍光灯なんてなくて、発熱等の裸電球、目を凝らして読んでいたらいつの間にか額に深い縦皺が入って、メガネでますますモテなくなったの。だからもう、勉強するしかないなって思った。あと、高校の数学の先生が素敵で、質問するために勉強したなぁ」
三姉妹の真ん中らしい、ちょっとひねた乙女
高校に行くまでのお金しか出してあげられないと中学校に入ってすぐに、母はそう言われ、教師になる夢を諦め、早いうちから安定した収入を得られる看護学校に奨学金制度を利用して入ることになった。
「看護学校は和歌山にあって、本当に寂しかったわ。今までお父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、おねえちゃんと、妹がいたのに、入って2週間位は毎日泣きながら家に電話してた。でも10円でちょっとしか話せないから、もっと寂しくなって」
「そしたらお母さんが来てくれたの。和歌山に来るために沢山節約してくれて、おねえちゃんも、妹もいない、まるで一人っ子みたいで、その時食べたオムライスの味が、今も忘れられない」
何かある度にこの話をしてくれる母の顔を、私はまっすぐ見ることが出来ない。
祖母ー美和子
いつも働き者で、料理と裁縫がとても上手で、器用で、美人で
母におばあちゃんの事を聞くといつもこう教えてくれる。
元々は貿易で財を成した裕福な家庭の出で、器量も良くて町では評判のお嬢さんだったらしい。
しかしイケメンで酒飲みで口ばっかりの祖父と恋に落ち、この貧乏な田舎町に来て子どもを3人産み、毎日内職などで生計を立てていた。曾祖母も優しい人ではなく、本当に苦労していたそうだ。
「結婚相手は慎重に選ばんといかんよ」
祖母は繰り返しそう母たちに言っていたそうだ。
私ー奈美
父は世界中を回る大型貿易船のクルーで、1年に1回しか日本には戻ってこれないけれど、いつでも身近にあるものでということで海の「波」から「奈美」と名付けられた。
よく動く、活発な子だったらしい。ハイハイが早く、歩行器が好きで、ドリフト走行していた。
父は海外渡航で一年中不在にしているので、夏になると母は自分の実家に私を連れて生活していた。
そして、1歳の夏
転落事故

おばあちゃん家の前は船着場だった。狭い道路を挟んですぐに水深2mほどの船着場がある。
朝の忙しい時間だったらしい
母は家で朝食の片付けをしていて、おばあちゃんはゴミを捨てに表に出ていた。
多分玄関が開いていたのだろう、私は玄関の段差を降り、道路をわたり、何の躊躇もなしに海に突っ込んだ。
それを、ゴミ出しから戻ってきていたおばあちゃんは見てしまった
「奈美!!」そう叫んでおばあちゃんは走って、海に飛び込んだ。水深2m、別に時化ているわけでもない、夏の、穏やかな朝の海だ
だけど、おばあちゃんは泳げなかった、町の育ちで海で泳いだことなんて殆ど無い、今の人達からは考えられないかもしれないけれど、身長も140センチしかない、小柄な大正生まれだ。
必死に私を海面に持ち上げ
おばあちゃんは沈んでいった
しばらくして、騒ぎを聞きつけて近所のお兄さんが私を助け、おばあちゃんを引き上げてくれた
私は対して水も飲まずに、すぐに意識を取り戻したけれど、おばあちゃんは呼吸困難による心肺停止で、帰らぬ人となってしまった。
曾祖母の介護が終わり、子どもたちも全員お嫁に行き、孫が生まれ、やっと自分の人生として一息つける51歳になったばかりだった。
母は28の時にこういう形で自分の大好きな母親を失ってしまった。やっと、やっとこれから恩返しができる、たくさん旅行に連れて行ったり、美味しいものを食べさせてあげたりできる。また、和歌山のあのオムライスも食べに行って、思い出話をしたり
そんなものが、すべて一瞬でなくなってしまった。
自分の娘の為に、自分の娘のせいで、なにより、娘から目を離した自分のせいで
それから
おじいちゃんは1人で暮らすことになった、私は夏休みになる度に高知に行き、助けてくれたお兄さんのお家にご挨拶に行き、おばあちゃんの墓前に手を合わせた。
自分のせいでおばあちゃんが死んでしまったというのは、しばらく知らなかった。父も母も詳しく話してはくれず、名前もしらない親戚のおばちゃんが、十七回忌の時にべらべらと教えてくれたのを覚えている。
残念ながら霊的感覚が全くなく、今までおばあちゃんの声だとか、存在だとかを感じたことは一度もない。だけどここぞというときの運が良くて、何度となくピンチを切り抜けてこれたのは、おばあちゃんのおかげだろうなと思っている。
私も子どもを産んで、母と沢山話をするようになった。「あの時美和子さんはこうだった」「こういう時は美和子さんはこうしていた」母がおばあちゃんから教えてもらった事を、少しずつ私にも教えてくれている。
もう来ることもないあの海へ
「おじいさんがどうもボケたみたいだから」そう連絡があり、今から4年くらい前に祖父を引き取りにあの集落へ行った。何度来ても何も変わらない村と、海があった。

「おじいちゃんを引き取って、この家を壊そう。もう、誰も住むことのない家だから」そんな話を母と二人で春の海を見ながら話していて、おばあちゃんの思い出話をいつものようにしてくれた。
「ごめんね」
その謝罪は母に対してなのか、おばあちゃんに対してなのか、自分自身の自己満足か、自分でもよくわからなかったけど。
「ありがとう」
そう言うべきなのかもしれないわね。と、母はつぶやいた
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