デザイナー修行物語その1:「デザイナーです」って言うと「カッコイイ!」って言われるんですが、実は徹夜当たり前の体育会系の職業でした。(大学時代〜就職)
今でこそ、「ブラック企業」なんていう言葉が有名になり、
「ワークライフバランス」なんていうものが、
声高に叫ばれるような時代になりました。
私がデザイナーとして修行してきたのは、そのひとつ前の時代。
90年代終わりから、2000年代始めの「叩き上げ」「体育会系」「仕事は教えられるものじゃなく盗むもの」なんていうのが全盛だった時代です。
働くものの権利?
・・・えっ、それなんですか?
会社が法律の関係で17時には消灯?
・・・えっ、会社って24時間やってますよね?
ボスが仕事中にパソコンの前で酒?
・・・え、毎日のことですよね?昼からですね!
仕事終わらないから会社に泊まる?
・・・あ、すでに3日目です。女子ですが頭はトイレの洗面所で洗います。会議室でダンボールにくるまって寝ます、結構あったかいんですよ。あ、発泡スチロールのがあったかいかな?
・・・そんな時代です。
90年代ってどんな年?
90年代の終わりに、東京の美大を卒業しました。
音楽が大好きだった私は、CDのジャケットデザイナーになりたいと思っていました。その頃はまだiTunesとか音楽配信とかが存在せず、音楽といえばCDという、CD全盛期でした。まだMDの人もいたかもしれません。
大学2年くらいでようやく「インターネット」という言葉がチラホラ聞かれるようになり、とはいえ一家に一台パソコンがあるという時代が来るのは、それから数年後になります。まだMacが一台50万くらいしていました。ネットはもちろんダイヤルアップです。
大学在学中に、飯田橋にあるデザイン事務所で週一回バイトをしていました。
進研ゼミの紙面を作っていたのですが、事務所にパソコンは一台しかなく、まだ「パソコンを使ってデザインをする」という時代ではありませんでした。「写植」という方法で文字を切り貼りして紙面を作るのが「デザイナー」でした。
私はこれからはパソコンの時代だと思い、大学でもパソコンの授業を取り、親に土下座して買って貰ったMacで、家でイラレやフォトショップを独学で勉強していました(まだ授業でAdobeソフトを習うということはありませんでした)。
時代は、ここから急激に"パソコン、ネット"という波に飲み込まれていきます。今10代、20代の方は、物心ついた頃にはもうネットがあり、スマホがあり、というかんじだと思いますが、私はネットというものが発生し始めて、急激に10年で世界が変わってしまうのを目の当たりにしました。
子供の頃は、調べ物をするなら図書館に行っていました。
高校時代、ハリウッド俳優のインタビューは雑誌で読んでいました。
10年で世界はこんなに近くなるのか、技術というものはこんなに進歩するのかという、驚きの連続でした。だって海外の人と家で話せるなんて!
時代が変わるときというのは面白いものです。例えば、昔の人は「電話」という技術で、遠くに住んでいる人と話が出来るようになるなんて、思ってもみなかったでしょう。鉄の塊が空を飛ぶ日が来るとは、夢にも思わず生きていたと思います。
私がネットが出現したときに感じた気持ちは、まさにそんなかんじでした。
技術がどんどん進歩していく過程で、次々に新しい発想が生まれ、新しい仕事が生まれ、まるで激流のようでした。そんな時代を体験出来て、面白かったです。
その怒涛の10年の始まりの頃、私は大学を卒業し、就職したのです。
広告ゼミ
音楽のCDを作りたい、という気持ちでいましたが、
私が卒業したのは「広告ゼミ」でした。宣伝広告の課です。
とはいえ、ゼミの先生はの〜んびりしたかんじの方で、宣伝広告を習った記憶はまったくありません。いつもの先生の課題は、毎週これ。
・・・でした。
課題がシュール過ぎて、先生が面倒くさいから適当に言ってるだけなのか、それとも生徒自身に考えさせるという意味で最高にいい課題なのか、さっぱりわかりませんでした。
とにかく、私は広告ゼミに所属しながら、広告には正直興味がありませんでした。
興味がなくなるきっかけとなったのが、
ベネトンの広告を手がけていたオリビエーロ・トスカーニの書いた本です。
なんか読後、膝から崩れ落ちる感がありまして・・・
「広告」というのが、どういうものか自分の中で明らかになるにつれ、自分には出来ない、と思ってしまいました。誤解を恐れずに言えば、他人を騙し、欺き、コントロールしてものを買わせるということを職業にする、ということが私にはどうしても楽しいこととは思えなかったのです(広告マンの皆さん、すみません。個人的な意見です)。
それより、自分の大好きなカルチャー、音楽や雑誌や本のデザインをしたい、と思っていました。
なので、普通はゼミと関係するところを目指すのでしょうけど、私は全く別分野へ就職活動することにしました。
(余談ですが、この広告ゼミからは優秀な人材が出ていて、最近解散を発表した某ラップグループSOのボーカルDさんとか、某服飾デザイナーとか、K社でゲームのキャラデザインしてるデザイナーなどが輩出されています。あ、誰も"広告"デザインの道に進んでないですね。笑)
就職活動
とはいえ、一応広告会社は滑り止め(すみません)で受けていて、
割りと大手の2社で最終面接まで進んでいました。
もし音楽系に行けなくて広告系に行くならここがいい、と思っていた2社ではありました。理由は作ってる作品がロックで、試験が面白かったからです。
(ちなみに試験は「赤いものを思いつく限り"鉛筆で"描きなさい」とか、複雑立体物が触れないように透明の立方体の中に入っていて、それと「同じものを作りなさい」と紙が一枚ぺらっと置いてあるとか、そういうかんじです。面白いでしょう?)
しかし、私が行きたいところは他にありました。D社です。
D社からは、勇んで出した履歴書にこんな返事が来ました。
そう、音楽系のデザインをしている会社は、実はほとんど即戦力を求めているので、新卒を取らない傾向にありました。
私は一筋縄ではいかないことを悟り、それならばと、根回しをすることにしました。
父の知り合いの方が某レコード会社のデザイナーさんで、先輩訪問のような形でお話を聞かせて頂く機会があったので、さりげなくD社の名前を出してみると、偶然この方のいる部署がD社のクライアントだったのです。
この優しい先輩が「一言聞いてみてあげるよ」と言ってくれたので、それに乗じて更に社長あてに嘆願書を書きました。先輩のことは書きませんでしたが「御社が新卒を取らないのはわかっておりますが、私はパソコンも使えますし、必ずや戦力にうんちゃらかんちゃら」と、直訴しました。
そして社長から直々に電話を頂き、面接を受けることが出来て、大学卒業まではバイトで通い、卒業後晴れて正社員として入ることが出来ました。
チャンスは何としてでも掴む。
一回断られたくらいでひるまない。
私がこの根回し作戦から学んだことです。
働き始めました。
まずは、先輩やボスに言われたことは何でもしました。
自分の作業がひとつ終わったら、先輩方とボスひとりひとりに「何かやることありますか?」と聞いて回りました。どんなことでも手伝いました。もちろん朝は会社と先輩方のデスクの掃除、先輩のマグカップ洗い、コーヒー淹れ、備品の注文、何百枚のスキャン、なんでも!
私はこの会社では良い先輩方に恵まれました。
仕事のときは厳しく、休み時間は楽しく、優しかった。
本当に、一人前になるまでみっちりしごいてくれました。
基本的に徹夜は当たり前だったのですが、会社には「いい寝る場所ランク」がありました。1位はソファで最下位はダンボールです。
下っ端の私は基本ダンボール(あるいは発泡スチロールとの組み合わせ)で寝ていましたが、たまにソファを譲ってくれて感激したことを覚えています。
・・・環境の慣れって、恐ろしいですね。
一度、仕事が立て込んで、3日続けて泊まり、自分的に限界を迎えていたときがありました。そんなとき、私の担当のかっこいい姉さん先輩が、
と言い、中庭へ呼び出されました。(私は当時ちびっこと呼ばれていました)
わたしとしては、連続3日泊まりで働いていて、相当がんばっていたので、もしかして褒めてもらえるのかな、なんて思っていました。相当いい働きをしたと思っていたのです。
すると先輩はメンソールの細い煙草を取り出し、こう言いました。
絶句しました・・・。
先輩は、メンソールをふかしながら、まだ私の働いている時間が短いこと、効率も悪いこと、本当はもっとたくさん仕事をして欲しいという話をしていました。
私はショックでその後何を言われたか、よく覚えてませんでした。
「限界を超えろ」という言葉は、響きはいいですが、本当に限界のときに言われると相当辛いということがよくわかりました。
3年で7回の部署異動
さて、このD社では、あるかっこいい雑誌を作っていました。
D社に就職を決めた理由のひとつであり、憧れの雑誌でした。
いつか、その部署で雑誌のデザインもやってみたい。
社長には最初からそう伝えてありました。
その雑誌Pの編集長とも何度も話して、快く私をスタッフに加えてくれるという話しになっていました。
入社から1年は最初に書いたように「デザイン部」で修行、帰れない日々をひたすらがんばっていました。そして1年経ったある日、社長に呼び出されたのです!
天にものぼる気持ちでした。ついに憧れの!!!雑誌Pのデザイナーに!
その週はウキウキで、デザイン部の先輩方にも別れを告げ、
編集部に歓迎会までしてもらって、とうとう部署異動を果たしました!
そして、とうとう雑誌Pでの初日を迎えます。
・・・ん?初日からなんだろうと社長室へ行くと、
社長が信じられないことを口にしました。
信じられますか皆さんこの専制政治。
社長、歓迎会来てくれたんですよ?その翌日?っていうか12時間後?
ナチです、もう完全にナチです。
そんな大人の専制政治の前に為す術もなく、なぜか私は企画室2所属のデザイナーに・・・(この会社には企画室が3つとデザイン部があり、各企画室はクライアントが違うため、デザイナーを専属で置くことが出来た)。
その後、なんと私だけ、3年間で7回の部署異動をさせられました。
ちなみに普通、デザイナーはずっとデザイン部所属です。
そして結局、もう二度と雑誌Pで働くという機会は訪れませんでした。
恐らく、今思うと、私の性格上異動させやすかったんだと思います。
どこに行っても、だいたい誰とでもうまくやっていける。
素直によく働く。不平不満言わない。明るい。
私は、この出来事をポジティブに捉えることに成功しました。
このとき、様々な種類の人間と、様々な種類の仕事を出来たことが、今の自分を作るのに、とても役立っていると思うからです。
・交渉がうまくなった
・人見知りしなくなった
・物怖じしなくなった
・仕事の幅が増えた
・充実したポートフォリオが作れ、転職に役立った
一見、災難に見えることでも、実は自分のためになっていることがある。
全てのことには理由があるのだと悟ったのもこの頃のことです。
次のステップへ
D社は、部署異動もたくさんありましたし、長時間労働でした。
でも、3年勤めて、私にとっては居心地のいい会社になりつつありました。
お給料もとても良かったです。有給もちゃんと取れました。
仕事にもすっかり慣れてきました。
でも居心地が良くなればなるほど、私の中で警告音が聞こえてきたのです。
"ぬるま湯に浸かったままで、いいのか?"
D社はもう、刺激的な場所ではなくなっていました。
それに、商業デザインばかりやることに、正直疲れていました。
アートと商業デザインの狭間で、揺れていました。理想と現実の狭間で、まだ若かった私は、答えを探してもがいていたのです。
"これが、自分の本当にやりたいことなのか?"
それに私は、働き始めた時から、「20代で独立する」ということを念頭に置いていました。先輩方には鼻で笑われました。その頃、女性のデザイナーで独立するというのはとても珍しいことで、それで食べていけるはずがないと考えられていました。
でも私は、20代で独立する、と決めていたので、そのためには、D社のポートフォリオだけでは足りないと思っていました。もう1社、それも雑誌や書籍のデザインをやらせてくれるところでもう一度修行したい、と思っていました。
D社でやっていたのは、音楽周りの仕事のみ、それでは独立出来ないと思いました。それに、実はD社ではやりたかったCDのデザインというのは出来なかったのです。雑誌Pをやれなかったことも影響して、自分の大好きな本のデザイン、活字のデザインをやりたいと強く思い始めていました。
一般の方はピンとこないかもしれませんが、デザイナーと言っても業界は細かく分かれています。例えば、書籍のデザイナー、雑誌のデザイナー、広告デザイナー、WEBデザイナー。全部別分野です。
そのように分野が細分化しているので、D社のポートフォリオでエディトリアルデザインの会社に入れるか、多少不安はありました。
でも、きっと出来ると思っていました。
でもその前に、25歳を目前に、「海外に住んで生活したい」という忘れかけていた夢が、むくむくと姿を現しました。次に入った会社を最後の会社勤めとし、独立を目指すということは、海外に住むならこのタイミングしかない、と思いました。
そして、私はD社に辞表を出し、ロンドンへ飛び立ちました。
ロンドンでの生活は、「人生の寄り道、ロンドン留学物語」にて、
またの機会に書こうと思います。
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