母親の事が嫌いだったけれど、自分が親になって知ったたくさんのことと、これから親になるあなたへ

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「絶対あんな親になんかなるもんか」

10代の時、毎日泣きながら部屋でそう思っていた。絶対に、お母さんみたいな親にはならないって。

認めて欲しかった。頑張ってるねって、偉いねって言って欲しかった。

それだけでよかった

お母さんと、3歳の私

厳しい母親だった。親戚や近所の人たちは皆そう言う。私は一人っ子で、生まれてすぐの事故もあってか母は懸命に私を育ててくれた。

食べ物は制限され、時間は決められ、容赦なく怒られ、叩かれて外に放り出されるなんて日常茶飯事で、怒られないようにしても、やっぱり怒られて

だけど、その日常には愛があった。

その時お母さんはまだ専業主婦で、お父さんは海外貿易船のクルーだった為、1年のうち1ヶ月間しか家には帰ってこられなかった。
お母さんはとても真面目な人で、私を身ごもった時から育児書を読みあさり、最良の教育方針を打ち出して、すべてそれを実行していた。
日々の食事制限も、厳しさも、すべて私のためだった。


近所の幼稚園ではなく、週に2回しかない、ちょっと変わった教育方針の幼稚園へ通い、
右脳の発達にいいからと、気がついたらバイオリンを始めていて、
耳を鍛えるために「聴音」という教室にも通い、
幼児教育とか、早期教育と名のつくものはひと通り経験していた。


だけど、毎日お母さんのこぐ自転車の後ろに乗って、春のあたたかい日差しや、夏のセミの鳴き声や、秋の木の葉の色づき、冬の寒さを感じる日々は本当に毎日キラキラと美しくて
お母さんは毎日綺麗なお弁当を作って、レンゲの咲く畑の中や、つくしの野原や、木陰や、どんぐり拾いの山に連れて行ってくれた。

バイオリンのレッスンでどれだけ怒られても、叩かれても、お母さんが大好きだった。私の世界で頼れるものはお母さんしかいなかった。

けれど、その日々は突然終わってしまう。

お母さんと、6歳の私

私の父は私が小学生になった年に船会社を辞め、パソコンスクールを起業した。

当時はまだめずらしいDOS-Vだけのパソコンスクールで、退職金を殆ど使って、教室と、数台のパソコンを準備したところからスタートした。

それまで専業主婦だった母は、父の仕事を支えるためと、常々読んでいた育児書に「6歳までは大切に育てなさい、6歳になったら手を放しなさい」と書いてあったので、フルタイムで働きに出ることになった。
「猪突猛進」を地で行く母には育児書に書いてあることが全てだった。そういうところは今でも変わっていない。

今までずっと、お母さんと一緒だったのに

これから一人で小学校に行って、帰ってきたら自分で鍵を開けて、お母さんが帰ってくる19時までずっと一人で待っていなくてはいけなくなった。

だけど、「お母さんも頑張るから、あなたも頑張りなさい。一年生になったんだからできるでしょ?」って言われたから、がんばろう。お母さんの為にがんばろうって思っていた。

毎日帰って、言いつけられたお風呂掃除と、お米を洗って炊いておく事をしたら、お母さんが帰ってくるまではずっとテレビを見てる。

お母さんが帰ってきたら、すごい勢いでお父さんと私のご飯の支度をしてくれるから、その間は話しかけてはいけない。

ご飯を食べたら、すぐにお風呂に入って、次の日の支度をして21時には寝なくてはいけない。

元々営業の才能があった母は、入社してすぐに高い営業成績をたたき出し、リーダーのポジションについていた。競争が好きで、一つのことに夢中になったら、もうそれ意外は目にはいらない人だった。

お母さんと学校のことを話す時間は、全くなかった。お母さんも仕事が楽しくて、私の学校は「うまくいっているんだろう」ということで特に何も聞かなかった。

今ならわかるよ。今ならわかるけど

その時の私にはわからなかった。

どうして毎日イライラしているのか
どうして私の話を聞いてくれないのか
どうして私の友だちの名前を覚えてくれないのか

でも、日曜日はいつもお父さんとお母さんと車で旅行に連れて行ってくれていた。日曜日の夜はちょっと贅沢な料亭でご飯を食べるのが習慣になっていた。

それくらい稼いでいたんだって、そして、そうしないとストレスが発散できなかったんだって。ずっと後になって教えてくれた。

小学生の間はずっとこんな具合で、私は中学生になった

お母さんと、13歳の私

年を追うごとにお母さんの帰りは遅くなっていった。22時を過ぎることもザラで、どうしても夕食まで我慢できなかった私は、次の日の朝食の食パンを1枚食べてしまって、お母さんにものすごく怒られた。

そういう時は冷凍庫にある冷凍食品を温めて食べなさい、冷蔵庫にある食材や朝食のパンはなくなってるとお父さんの食事に困るから、さわらないで頂戴

生活の中心は父親だった。私は自分で作ることの許可も出ないまま、バカの一つ覚えみたいにその言葉に従った。
怒ったお母さんは怖い。忙しい時だと特に、どのタイミングで怒り出すかわからなかった。

今ならわかるよ、忙しくて疲れてるとイライラするもんね。

家の中は父親中心に周り、母は父の恋人で、私の存在はまるでいないもののようだった。父親に嫌なことを言われても、いつも悪いのは私の態度だと言われ続けた

週末の旅行も、車の中では父と母だけがずっと話していて、私は会話に入れてもらえなかった。

次第に、週末は一人で過ごすようになっていった。

お母さんと、反抗期の私

思春期というものになって、人間関係が色々と面倒になって、学校でのトラブルを家庭で話すこともなくて、私も家でイライラすることが多くなった。

反抗期ってやつだ。

父親が気持ち悪いと思った。
母親はおかしいと思った。

友だちの家のお母さんはこんなんじゃない、どうしてこの家の中で私は「厄介者」の様に扱われているんだろう。私は「子ども」じゃないのかな、「居候」なのかな。そう思うと止まらなかった。

両親との喧嘩が増えた。

父親には殴られ、叩きだされ、母には罵られるそんな毎日だった。

ある日、鍋の準備を手伝いなさいと言われた。日曜日の小旅行から帰りが遅くなり、どんな事情であっても17時30分から夕食を食べたい父に合わせるプレッシャーからか、母はいつもよりもイライラしていた。
母は、私に茎についたままの状態のワカメを切りなさいと言った。

ワカメ。レベル高い。しかも茎についたほぼとれたての状態だ。

ワカメなんて水で戻すタイプのしかもちろん知らない。台所で勝手に料理したら怒られる環境だったのに、いきなりワカメ。ハードル高いなー

切った。どのように切ったのか自分でも覚えていないけど、多分。潔かったと思う。

で、突然の平手打ち

母「なんでワカメの切り方もわからないの!!!!

私「…わからん、ワカメの切り方って一体どこで習うの?」

母「知ってて当たり前でしょうが!!

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