戦後南米ボリビアに渡った私の祖父母達の話

南米ボリビア,その第2の都市であるサンタクルスから車で約2〜3時間,そこに私の故郷である「日本人移住地‘サンファン’」がある.
今でも日本人が約800人ほど住んでいるこの村に,私の祖父母を含む1世たちが移住したのは今から約60年も昔のことである.


第二次世界対戦後,経済難食糧難に喘いでいた日本政府が打ち出した移民政策
それに乗っかって新天地を求めた1世たち約1600人(1954~1992年,1次〜53次移民までの合計).



「さあ行かう一家をあげて南米へ」
初期の一世達が船に乗る前に聞かされていたのは,行ってしまえばそこには豊かな土地仕事,そして住居もあるというのような話だったそうだ.


しかし,船で数ヶ月,陸に上がってから鉄道や歩きで数週間,たどり着いた先にあったのはただのアマゾン川支流の回りに生い茂るジャングルのみ
ボリビア政府からの案内人が発したのは,
このあたりがあなた方の土地です,頑張ってください」
というような何の具体性も無い言葉ばかり.



...確かに(ジャングルばかりの)土地はあった.
しかし,他は?



嘆いていても始まらない.
そこから,一世たちの壮絶な数十年が始まった.



全ては,木を切り倒すところから.
食料,水の確保もままならないまま,生きていくための土地を開拓し,同時進行で住居の建設,道の確保をしていく.



熱帯雨林特有のスコールによる大雨.
せっかく作った獣道のような道路もぬかるんで作業が進まない.



動物,そして虫.
畑を耕しても,サルが荒らす.


日本では見られないようなサイズのアリ,蚊を始めとする虫達にさされた跡が絶えることを知らない.



圧倒的な物資不足.それによる病害.
時には移住者同士の殺人もあったとか.




幾多の困難を乗り越え,サンファン村(Colonia Japonesa San Juan (de Yapacani))は,

今では 'サンファン市' としてボリビア政府に認められるまでの発展を遂げた.



私たち三世の世代はもうほぼ完成した村の中で生き,その本当の過酷さを体験したものはほとんどいない
だが,一歩村の外に踏み出し,開拓前の姿を垣間見れば,1世たちがどれほど過酷な道を歩んできたかは想像に難くない.




そんな中,私の祖母は,入植後しばらくしてから一世たちが有志で建てた学校の初代先生陣の一人だったそうだ.
今でもたまにボリビアに帰って1世や2世の世代の人に名前を告げると「oo先生のお孫さんか」と言われることがある.
自分たちが生きていくのに必死な中,人を育てる,ということも忘れなかった一世たちの功績は大きいと感じる.



時が経ち,入植前(戦時中は)満州国の鉱山でダイナマイトを扱い,村では友人と共に農業に携わった祖父は数年前に他界した.

寿命とはいえ,激動の時代を生き,素晴らしい村,その精神を残してくれた先人たちが亡くなっていくのは,本当にせつないものがある.



そんな祖父母達から開拓者精神を受け継いだ者として,一世達に恥じない生き方をしていきたい,と切に思う.





南米はボリビア,日本人移住地サンファン.

そこには,日本が高度経済成長,そしてバブルと沸く中,遠い地球の裏側で懸命に生きた一世たちの生きた証,その「全て」が確かに残っている...



公民館隣接の移民資料館にて


アルゼンチナ丸出航前


やっと米が作れた...

今のサンファン村の入り口


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かなりざっくり書いてしまいましたので,

サンファンについてもう少し情報の欲しい方は以下参照で.

http://www.fenaboja.com/SanJuan/sanjuan.htm

(サンファン日本ボリビア協会ホームページ)

あと,ちょいちょい旅行で訪れてくださる方のブログも落ちていますので,

ぜひ「サンファン ボリビア」等で検索を.

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尚,12歳までのほとんどの期間をこの村で過ごし,3歳で抱いた大きな夢を追い,中学校進学を機に日本に来て,大学進学後現在はアメリカに交換留学中の私自身のことについては,また別のお話.

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