世の中の癌と呼ばれて 第5回~児童自立支援施設での半年 前編~
そのたび声を出さず起き上がり、殴り倒す。
僕のいた寮は特に素行不良の児童が収容されていた。
みんな、影では先輩や他の児童の悪口を言うが、それを行動する児童はいなかった。
みんな、上手に生きているんだなと思う事もあった。
それでも、目の前でいじめや命令をされる児童を見ると、放っておくことはできなかった。
まじめなんだと思う。根はまじめだから、きっと不器用にしか生きれない自分なんだと思う。
毎日中学生を殴り、負けた事は無かった。
そのたび、反省になる
この頃から特に心理学の本を読む事が増えた。
心理の先生がいて、面接をする時間がある。
心の変動や、主に虐待を受けた子供にのこる、
心的外傷後ストレス障害(通称PTSD)のケアをするためだ。
ここで、心理の先生からの質問は答えることなく、心理について質問をした。
そして、おすすめの本を借りた。
ユング何かを読んだ日には、その深い精神世界にはまり込んでいく事となった。
そして、心理学に興味を持ち始めた。
それまではただ単に外見の言葉や、言動を判断していたのが、心理的な動作、言動、仕草、歩き方、目線、そういった一瞬の変化を見逃さず、人間観察が趣味になった。
小学5年生のすることでないといえばそれまでだが、
そのときに僕はあることを知ってしまった。
言葉と数字
年齢、身長、ボキャブラリー、そんなものでコミュニケーションをしていては、争いも絶えないわけだと、このとき僕は実感してしまった。
さらに本を読むようになった。
本に書いてある事から、作者の深層心理を読み解くのが面白かった。
もちろん、答えなどは無い。
それでも、そうする事でしか、言葉と数字の中毒性からは抜け出す事が無いと思っていたからだ。
それでも、喧嘩は絶えなかった。
だからある決意をした
だから、先生や、児童に聞いた。
「ここで一番強い奴はだれ?」かを。
中学生をまとめ、一番影響力のある奴を倒せば、全ては丸く収まると信じていた。
それが、一番の間違いだとも知らずに。
数日してから、一番強いといわれている奴を知る事ができた。
他の寮の中学3年生だった。
寮同士での行き来は基本的にはできない。
となれば、場所はひとつ、授業と授業との短い休憩時間
学校校舎しかないと思った。
その日は進学受験に向けてのテストを受けている中学3年生は、いつもよりも静かだった。
廊下を走り、教師の陰口を叩き、腕相撲をし、喧嘩で使える技やプロレス技を自慢しあっている普段の騒がしさも無かった。
2時間目が終わり5分の休憩時間になり、行動を起こした。
3年生のクラスに行くと、警戒もせずのんびりしているそいつがいた。
いきなりの事で、相手はひどく驚いていたみたいだが、すぐに胸ぐらをつかまれ、殴られた。
ののしられた。さすがに他の中学生がこわがるだけあった。
それでも自分は強い、負ける気はしなかった。
だから勝った。
お互いに鼻血が流れ、目も腫れ、身体の節々が痛かった。
でも、教師が駆けつけ、周りの中学生が、僕一人の責任にし、両成敗にはならなかった。
先生は僕の身を心配し、反省期間を長く設け、相手に代わりに謝り、そして僕は細心の注意を払えと忠告された。
相手の中学生は、地元でも札付きの悪で、鑑別所から送致されたこと。
親がヤクザであり、彼の兄はその組で舎弟をしていること。
施設内の先生の間でも非常に問題児で、頭を抱えているとのこと。
つまり、僕がどんな仕返しに遭うのかが分からないほどに、心配していたのだ。
でも僕は、そんなことは気にしなかった。
と言うより、そんな相手を外にいたときには探せ出せなくて、今やっと見つけたと言う興奮で、先生の心配の言葉など心にも耳にも止まることはなかった。
そして、2週間半の反省期間が終わり、再び登校する事になった日、異変はすぐに分かった。
それまで、中学生の威圧から解放してくれたと感謝してくれて友達になった児童が、無視してくる。
中学生から、僕の事を徹底無視するように言われたわけで、その日から僕は孤立を余儀なくされた。
だから、僕は関わらないようにした。
少なくとも良かったのは、他の児童には何かいじめや威圧はかかっていない事だった。
それで僕は安心した。
どの道、家にいたときにはいつも孤独だった。
学校に行っても無視やいじめはあったし、一人でいる事のほうが楽である事も知っていた。
でもそのときは孤独を好むよりも、自分と仲良くしたほかの児童が巻き込まれるのを防ぎたかっただけ。
無視されるだけではなく、たとえば教科書に落書きをされたり、上履きを隠されたり、鉛筆を折られたりした。
先生に見つかると怒られる。
そういうことをするのは、中学生ではなかった。
命令された児童がしていた。
そういう光景も目にした。
中学生に言われそういうことをしているときは、当人は笑っているが、僕と目が合うと寂しそうな顔をしていた。
所詮、不良と言っても、そんな程度の弱いことしかできないのだと思った。
僕の矛先は変わらなかった。
命令されて従う雑魚ではなく、それを気付いても見てみぬ振りをする先生でもなく、中学生だった。
結局、毎回喧嘩をしては、勝つが、反省になる日々。
とうとう僕は、鑑別所に送致が決まった。
喧嘩に素行不良性が大きな理由だった。
初めての鑑別所は薄暗く感じた。
そして児童自立支援施設と大きく違うのは、窓に鉄格子があることだった。
そして先生ではなく「教官」と呼ばれる留置所の警察と似た格好をしている人がいる事だ。
ここでは主に審判をする為に留置される場所だと言う事を教えてもらった。
小学5年生の自分がそのときの最年少と言う事だ。
留置所に入っている人はさまざまな理由を抱えていた。
暴走族、ヤクザの舎弟、名の知れているような愚連隊のメンバー、ギャング気取りの、つまり雑魚の集団だ。
鬼剃りと呼ばれる、深いそりこみを入れている奴もいたし、刺青が入っている奴もいた。
鑑別所は基本的に中学生~20歳未満のいわゆる未成年者を収容し、審判と呼ばれる裁判のような事を行い、少年院送致、保護観察、児童自立支援施設へ戻すかを審査するところである。
素行不良なケースによっては、小学生でも入檻する場合があり、主に刑事事件や民事事件等の場合が多い。
基本的には2週間収容されるのだが、状況や審判での証拠や余罪の発覚などにより最長1ヶ月までは収容が可能である。
もし余罪や別件での事情聴取などが求められる場合には、警察署に引き渡されることとなるが、僕の場合には余罪はなく、証拠そのものは施設の先生が用意していた分厚い書類により、確認ができた。
基本的には審判に向けて、自分の審判を担当する裁判官や監察官と呼ばれる人が来て、面会と言う名目の事情聴取を行う。
また、審判や証拠に依存がある場合、国選弁護士と言うのを呼ぶ事ができる。
是はいわば特権で、犯罪者や収容される少年あるいは少女はたいていの場合頼む。
自らを弁護してもらい、少しでも罪名や処遇を軽くしてもらおうと思っているのだ。
僕は頼まなかった。
当時だと小学生では少年院にはいけなかったが、少年院に行く事もまったく怖くは無かった。
中途半端に弱いものいじめを正当化する不良なら、相手するだけ無駄だろうと思っていたからだ。
それなら、もっと筋金入りの奴らが集まるところに身を置きたかった。
だから、監察官には、少年院送致を希望したが、それは不可能だと言われ、そして驚かれた。
たいていの奴はそれを拒む。
鑑別所や留置所に入ったとたん、宗教に目覚め、毎朝、そして就寝に手を合わせて祈ると言う。
確かにそんな奴を見た事はある。
要は、少しでも更正している振りを見せようという魂胆だ。
しかし、監察官や裁判官にとってはそんな事お見通し。
本当に反省し更正するやつは、力もなく、ご飯も食べれなくなり、外にいたときの面影は一切ないと言うことも、教えてもらった。
鑑別所でも似たような生活だった、鉄格子が窓にあることを除いては。
あとは、鑑別所では、基本的に居室は一人部屋だ。
これは、地元が一緒の人や組関係の人で共謀して悪さをしないように、と言うよりも、鑑別に入る人はまず人とのコミュニケーションを言葉で行う事が不可能に近いゆえ、暴力でしか対処できない。
つまり、けが人や最悪死人を出さない為の工夫でもある。
僕の場合にはすぐに審査も終わり、少し早めの審判となった。と言っても、最短2週間つまり14日間とし12日目に審判を行ったので、大して変わらない。
審判当日は、朝早くから移動のバンに乗り込み、家庭裁判所に向かう。全国に数箇所しかないわけで、さまざまな地方から審判を受けにさまざまな犯罪や非行を行った少年少女がやってくる。
味気ない部屋に通されると、そこまでかけられていた手錠をはずされ、鉄格子の折の中にあるイスに座らされる。
基本的には手錠ははずされる事はないが、他の少年などがいない場合、争いや喧嘩になることはなく、いわば情けではずしてくれる。基本的にはずす事はいけないのだ。
数時間待っただろうか。
自分の番が回ってきた。名前を呼ばれ、教官に連れてかれ審判質に入室する。
主に行う事は、自分の罪名あるいは鑑別所に送致された原因を自分の口で伝えることから始まる。
氏名、年齢をいえれば伝える。
しかし、そんな情報は既に書類として裁判官の手元に分厚く用意されている。
そして、次に始まるのは、事実確認である。あるいは事件確認である。
何月何日に何をしたとか、誰を殴ったとか、傷害罪に値する可能性があるとか、30分ほど長ったらしく説明され、そして「間違いありませんか?」と言われる事に対し、「はい」と答えるだけである。
そして最後には、何か異存がないか、不満はないか?などを聞かれ、特になければ、「ありません」と答え、最終的に審判が下される。
僕の場合、児童自立支援施設のとある先生の弁護が影にあり元いた児童自立支援施設に戻る事となった。
そのとある先生との出会いが、英語と外国へと興味をさらに持たせてくれたのである。
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