8年間のバンド生活を辞めた今でもメッセージを届けたい理由
僕は高校3年の時、進路に悩んでいました。
昔から憧れていた"お笑い芸人"になる為に芸人養成所に入るか、食べる事が好きで知らない間に得意になった料理を極める為に"調理師"の学校に行くのか、はたまた小学校の時から諦めきれない夢の"漫画家"になる為にデザインの学校に行くのか。
勉強が嫌いな僕にとって大学という選択肢だけはありませんでした。
悩んでいる内に願書の提出の日になり、親には全く相談も報告もせずに音楽の専門学校に進学。
楽器は先輩から2000円で譲ってもらった初心者用のエレキベースを1本持っているだけ。
チューニング(音合わせ)の仕方もわからないし、楽譜も読めない。
それでも音楽の専門学校を選択した理由は1つ、"家が近い"というだけでした。
適当な理由で決めた進学が僕の人生そのものを変え、今の自分に出会えたんじゃないかなと思っています。
そんな僕が今こうして話を書いている理由を書きたいと思います。
少し長くなりますが、お付き合いよろしくお願い致します。
バカな自分の考え方を打破してくれたのが音楽でした
高校時代、友達は少なかったし趣味もなく、学校から帰ってきてはバイトに行くだけの毎日を過ごしていました。
ゲームにもマンガにも興味はなく、家ではテレビを見るぐらい。
ネガティブでネクラな僕はそんな毎日が全く楽しくなく、生きてるのが苦しいと思うことが多かった。
住んでいたのはマンションの11階、
『ここから飛び降りたらこの苦しみから解放されるのか』と考えながら何度もベランダの柵に足をかけていました。
今考えたら浅はかな考えだったと反省しています。けれど、そんな時があったからこそ今は毎日大事に生きることができていると思っています。
飛び降りる度胸もない僕でしたが、くだらないと思っていた毎日の中でも唯一楽しみにしていたことがありました。
それは"音楽"を聴く事。
テレビの音楽番組で紹介されているようなJ-POPしか聴いていなかったのですが、最新チャートをしっかりチェックしては毎週のようにレンタルCDショップでCDを借りていました。
誰に自慢するわけでもなければ良さを分かち合う友達もいない。もちろん歌えるようになってもカラオケに行く友達もいない。それでも一人でMDに録音された曲たちを聴くのが日課でした。
耳に入ってくる誰かの声で寂しさをごまかしていました。
ある日、いつも通りに最新CDを選びレンタルして家で袋を開けてみると、中に入っていたのは借りた覚えのないインディーズの青春パンクバンドのCDでした。
恐らく店員さんが間違えた袋を渡してきたんだと思います。
自分が選んだCDは1枚も入ってなくてガッカリしたのですが、せっかくなので聴いてみようと思いCDデッキに入れ再生。それが僕にとって人生が変わった瞬間でした。
スピーカーから流れ出したのは歪んだ爆音で全く未来を見ずに足下しか照らそうとしない毎日を過ごしていた僕をぶん殴ってきました。
当時、インディーズの青春パンクバンドブームの真っ只中でした。
ストレートに『生きろ』と呼びかけては人間のダサい部分をさらけだし、丸裸でぶつかってきて『甘ったれたこと言ってんじゃねーよ』と怒ってくれたり、肩組んで励ましてくれるような曲に初めて聴いた瞬間から歌詞に感銘を受け、生きる勇気をもらいました。
こんなに辛いと思ってるのは自分だけじゃないんだと。
それからはあのぶん殴られるような衝撃が忘れられず、休日になるとCDショップに行って新しいバンドに出会う為に毎回3枚ぐらい買っていました。
いつの間にか死にたいと考えることが自分の中から無くなっていました。
大袈裟ではなく当時の僕が1日先を生きたいと思えたのは"もっとかっこいいバンドに出会いたい"と思える楽しみができたからです。
憧れだけで入学した音楽の専門学校
自分に衝撃を与えてくれたあのかっこいいバンドみたいになりたい。
そう思うことはあったが楽器はしたこともないし、歌も上手くない。
ただ"家が近い"ってことが後押しとなって進学を希望した音楽の専門学校。
入学前のクラス分けテスト(実力別でクラスを決める為の技能判定テスト)で絶望をしました。
「はい、なんか曲弾いて」
名前を言った後、担当の先生からすぐに返された一言でした。
そりゃそうだ。音楽の技能テストですから。
しかし僕はベースを持っていただけで、1曲も弾いたことがない。
家に置いてあればモテると雑誌に書いてあったから。ただそれだけ。
気づけば前日に唯一覚えていた『ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ』の音階を恐る恐る1音ずつ弾いた。
オクターブの『ド』はわからなくて弾かなかった覚えはある。
案の定振り分けられたクラスは4クラス中1番下でした。
無茶な進学をした僕が悪いのはわかっている。
そんなこともあろうと、演奏がダメだった時の為に演奏と音響や照明スタッフなどの裏方の授業を半分ずつで専攻していたので、クラスが決まった瞬間に早々と演奏を諦めてスタッフとして就職ができたらと考えていました。
自分に甘い性格の僕は入学と同時に念には念をと作っておいた逃げ道に進もうとしていました。
しかし、それが功を奏したのか入学して1ヶ月もしない内にスタッフ系の授業の時に仲良くなった友達とバンドを組むことになりました。
偶然にもボーカルとギターとドラムをしている友達の4人で仲良くなったのです。
僕以外の3人は高校時代から楽器もバンドもしていて経験者だったので、とりあえず決めたコピー曲も軽々こなし練習スタジオでもあっさりと曲を作っていく一方、僕は初心者だということを悟られないように必死に追いつくのが精一杯でした。
いつの間にか学内の授業やイベントでライブをするようになり、ようやくバンドというものに馴染んできた6月。
ベースを初めて2ヶ月目に僕はキャパ1500人近くの"なんばHatch"という大きなホールの舞台に立っていました。
ガチガチに緊張していたので演奏中のことはなにも覚えてないですが、黒夢の清春さんがゲストで来ていて各バンドにアドバイスをするという学校一の大イベントで1年代表バンドとして演奏しました。
その時清春さんにいただいた一言は今でも忘れません。
「君たち4人、髪型一緒だね。」
これから僕のバンド人生が始まりました。
やっぱりバンドをしていこう
ベースを弾いた事もない初心者のくせに"なんばHatch"でライブしたMr.Childrenのようなバンドとは違って、管楽器の入ったバンドで東京スカパラダイスオーケストラといきものがかりを足して2で割ったようなPOPなバンドもしていました。
それもクラスメイトと話が盛り上がったノリで出来上がってしまったバンドなんですが。
いつからか管楽器の入ったバンドの方に時間を割く事が多くなり、ベース初心者の僕を1500人の前で演奏させてくれた学年1期待されたバンドから脱退しました。
もったいないかななんて思って悩んだりもしましたが、自分の好きな音楽を信じて決めたことだったので悔いはありませんでした。
ノリで結成し、ただ楽しいだけで続けたバンドは在学中の2年間でたくさんのライブをしたり日本全国いろんな地域にツアーに行くまでになり、結成3年目ではインディーズレーベルに所属することになり全国リリースをしたり、レーベルのおかげでTHE BLUE HEARTSのカバートリビュートアルバムでPUFFYや矢井田瞳さんと一緒に名前を連ねることができたり。
ありがたいことに日本のいろんなところに応援してくれる人たちが出来て、ホームページやSNSを通じて応援メッセージをいただいたりライブに来てくださいと要請をいただくようにもなりました。
そうゆうひとつひとつの声がすごい嬉しくて。
気づけば高校時代に憧れていたあのCDの向こう側に近づいていて、就職なんて全く考えもせずにいつまでもバンドができたらなと思っていました。
ヒーローになりたくて
日本のいろんなところで応援してくださる人からいただきメッセージにいつも元気をもらっていました。
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