車いすテニスに出会って感激して、このスポーツを報道したいと思っていたら念願が叶って、気付けば世間に追い抜かれてた話 第3章:地位確立?
アテネに行った効能
アテネパラリンピックに取材に行ったのはテニス関係のメディアの中では私だけだったので、帰国してから「写真を貸してほしい」「原稿を書いてほしい」という仕事がいくつか舞い込んだ。ギャラは微々たるものだったけれど、金銭的な面以上に、“車いすテニスの記事は私に”と思ってくれる人が増えたのがうれしかった。“地位確立”なんておこがましいのだけど、でも長年テニス記者としてやってきた大先輩たちの中で、車いすテニスに関しては少し優位になったな思えるようになったのは、やはり自分にとって大きな収穫だった。
その後も、テニス雑誌の編集部のいる間に、何度か車いすテニスの記事を書かせてもらえることができて、車いすテニスの記事がテニス雑誌に掲載されることが特別なことではなくなっていった。そして、K選手の活躍により、テニス業界の中で車いすテニスがますます広く認知されるようになっていく。
世界王者
アテネ以降、K選手はますます頭角を現すようになり、国内の第一人者だったS選手を超えるようになっていった。世界ランキングトップ10にも入った。いずれは世界1位になるかもしれないという期待はあったけれど、それにはまだ何年か掛かるだろうと思っていた。
アテネパラリンピックの翌年の5月に、世界の強豪も参加する国内の大きな大会で初優勝を果たし、そこから一気にランキングを上げていくK選手。そして、2006年10月についに日本人として初めての世界ランキング1位の座に就いた。その年末に、一度は1位の座を明け渡したのだが、翌2007年の1月にグランドスラムのタイトルを手にすることで、再び1位に。そこから不動の世界王者となっていく。
K選手は、世界1位というだけでなく、とにかく負けない世界王者だった。2007年シーズンは、四大大会(全豪、全仏、ウインブルドン、USオープン)を制覇しグランドスラムを達成、負けなしで2008年の北京パラリンピックを迎えることになる。
赤子を置いて北京へ
さて、そのころの私は、結婚を機に2006年3月にテニス雑誌のスタッフから外れてフリーのライターとして仕事をしていた。仕事のほとんどは、古巣のテニス雑誌の仕事だったけれど。世界ランキング1位になったときは、記念のインタビュー記事を掲載させてもらった。2007年、K選手が大活躍したシーズンには、K選手のプレーの連続写真の記事を2カ月に渡って掲載した。テニス雑誌に車いすテニスの連続写真の記事が載るのは、もちろん過去に例がない。私は車いすテニスに関しては、よく理解しているほうだと思っていたけれど、改めてK選手の動きを連続写真を見ると、その驚異的な運動能力に驚いた。K選手は、自分の写真を見ながら「自然にやっていることだから、説明するのは難しい」といいながら、丁寧に解説してくれた。あの企画は、我ながらよかったと自画自賛しているのだけど、その面白さはやっぱりマイナー過ぎて伝わらないのかなあ。
2007年の取材のときには、すでに私のお腹には第1子が宿っていた。出産予定日は2008年2月。そう、パラリンピックイヤーなのだった。そして、北京のパラリンピックも、どうしても取材に行きたいと思っていた。母には、前々から相談してあったのだけど、どこかで「本当に行く気なのかしら?」と本気にしていないようなところもあった。
年が明けて2008年2月、無事に元気な男の子を出産した。5月の連休のときに、実家に泊まりに行っていたときに、パラリンピックの取材仲間の友人が息子に会いに訪ねて来てくれた。そのときに、北京パラのアクレディテーションの申請時期がもう過ぎていることを教えてくれた。突如焦る私。事務局に相談したら、すぐに申請に来るならまだ間に合うと行ってもらい。慌てて申請しに行って、事なきを得たのだった。それを見た母は、「本当に行くつもりなんだな」と思ったのだと思う。
9月、いよいよパラリンピックが開幕した。私は息子を連れて実家に行き、6カ月の最愛の息子を1週間預けて、単身北京に飛んでしまったのだった。日中預けて、夜帰ってくるならともかく、日本にいないんだもんね。本当に、両親はよく我が子を見てくれたものだと思う。感謝感謝。
北京パラリンピックで、K選手は念願のシングルスでの金メダルを手にする。
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