29歳、フランスで女社長になりました。前編
憧れのパリジェンヌなんて幻想
1984年7月14日、ちょうど195年前にフランス革命が起きた日にこの世に生を受けた私は、現在フランスで暮らしていて、巷の皆が憧れるというパリジェンヌ生活を送っています。
パリジェンヌ生活と言っても、シャネルの服を身にまとって、ワインを片手にオペラ座で優雅にバレエ鑑賞、バラの花束と共に現れたロマンティック・フレンチボーイと夜のパリの街に消えてゆく・・・なんていうオシャレなモノではありません!
毎朝満員メトロに乗って、10時から20時まで仕事をし、家に返って独り身の簡単な食事を取り、次の日の仕事のことを考えながら寝るだけ。(フランスではみんな仕事は18時には終えて帰っちゃいます。)休日は友人たちと一緒に出かけたりして、それなりにパリライフを楽しむ時間はかろうじてあります。
Metro, boulot, dodo (読み:メトロ、ブロ、ドド)というフランス人たちが何の変化もない日々の生活を嘆く時の表現があります。意味は「地下鉄、仕事、寝る」。東京にいた時となんら変わりないです。ちなみに、地下鉄に乗ってるパリの人たちの表情は、東京の電車に乗っている人たちのそれと大して変わらないです。完全に疲れきってます。
カップルで溢れる休日のセーヌ河沿い。カップルはみんなイチャイチャ。ロマンティックに恋しちゃってますね。
あるフローリストとの出会いからすべてがはじまった
フランスに来る前は、日本で結婚式場専属のフローリストとして約2年間働いていました。
大学卒業後は新卒で入社した東京の会社でSEとして働いていたのですが、なんかもういろいろと嫌になり地元に戻ることにしました。
そうだカナダ行こう!
気づいたらカナダにいました。ただ単に語学学校に通うだけというのは味気ない気がして、現地のフラワーアレンジメントの学校にも通うことにしました。
それが花の世界との出会いでした。
楽しい!なんて楽しいんだ!
とにかく語学学校そっちのけでフラワーアレンジメントに没頭していきました。
短期ではあったけど留学期間も無事に終了し、日本に帰国。「さて、働いて稼がねば」と意気込んでた時、求人雑誌に「フローリスト募集!未経験可」という文字を発見。ためらうことなく履歴書を送って、倍率15倍というそこそこのハードルを見事クリアし採用。
それから毎日がハードでした。
学校で学んだフラワーアレンジメントとは勝手が違います。プロフェッショナルなものを提供しなければならないので、テクニックもプロとして向上させていかなければなりません。厳しく指導してもらいながら、できない自分が情けなく悔し涙を流しながら必死に食らいついていきました。
フローリストというと「まぁなんて素敵なご職業!」と、皆さんに言われますが、重い資材を運んだり、ナイフで手をズバーっと切って流血したり、花が咲きすぎちゃうという理由から、冬はあまり暖房の効かせられないアトリエで鼻水垂らしながらアレンジを作ったり等、正直キツいお仕事というのが現実です。そしてひとたび結婚式シーズンが到来すると、この世の物とは思えぬ激務でした。馬車馬の様に働きました。
それはそれは大変でしたが、続けて来れたのにはきちんと理由があります。
アトリエのメンバーと一丸となって仕上げたアレンジメントを見た新郎・新婦の喜ぶ顔を見れる、それが何よりも嬉しかったのです。彼らの笑顔はどんなにつらく大変だったことをも忘れさせてくれました。
日々の仕事を続けていくうちに、いつの日からかパリでパリスタイルのフラワーアレンジメントを学びたいと思うようになりました。
日本人フローリストたちにとって、パリでフラワーアレンジメントを学ぶということはある種のステータスでもあります。
すぐにワーキングホリデービザの手配を始め、取得と同時に2012年の初頭にパリに渡りました。
フランス人の友人のつてを頼り、住む部屋も決まったところで「雇ってくれる花屋さんを探そう!」と思いましたが、肝心のフランス語といえば、大学の第二外国語で勉強したくらいで、とてもフランス人と会話が成立するようなレベルにはありませんでした。
唯一知っていた言葉は
ボンジュール(こんにちは)
コマンタレヴー?(お元気ですか?)
ヴレヴクシェアヴェックモア スソワー?(今夜うちで○○○しないか?)
2ヶ月間、語学学校に通い日常会話の基本を叩き込んで、いざ花屋探し!通訳役を買って出てくれた友人のスクーターの後ろに乗せてもらい、パリ中の花屋を駆け巡りました。
10件程回ってあっけなく全滅。世の中そんなに甘くない。当時のフランスの失業率は10%(なんと日本の2倍以上!)。夢だけ背負ってやってきた日本人が簡単に職を見つけれる訳がありません。
「あぁ、このまま働けずに、ワーホリを終えるのか・・・」
と、意気消沈気味にエッフェル塔の周りでランニングをしてたところに友人から一本の電話が。
早速面接の約束を取り付けてもらって、通訳代わりの友人と一緒にその花屋の店主に会いに行きました。
こうしてその花屋の店主セリーヌと働くことになったのです。これが本当に彼女の言う「運命のいたずら」だったなんて、当時は知る由もありませんでした。
夢に見てた憧れの地パリでのフローリストとしての日々は、時に厳しく、時にユルく、とても有意義なものでした。
つづく。
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