雑誌を作っていたころ(04)

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野武士集団


 平凡社雑誌部は、千代田区四番町の自社ビル5階の半分を占めていた。皇居側から月刊太陽、太陽シリーズ、別冊太陽愛蔵版、太陽コレクション、別冊太陽、月刊アニマという配列だ。

 組織としては、月刊太陽が単独で雑誌1課、残りの雑誌群が雑誌2課に所属している。前者がお行儀のよいお坊ちゃんお嬢さん集団であるのに対して、後者はまるで野武士の群れだった。本当に公私ともにすごい人たちがいた。


 たとえば太陽シリーズ編集長の松本さん。彼はインドネシアの影絵芝居「ワヤン」の、日本における第一人者で、インドネシア政府から勲章をもらったほどの著名人だ。編集部の机のほかに、地下の図書室にも机を持っていて(強引かつ自主的に)、インドネシア関係の資料を、そこに集めていた。

 5階にいないときはたいていそこで、他社から依頼された原稿を書く生活。これでサラリーマンとは、とんでもないと世間は思うだろうが、当時の平凡社では不思議でもなんでもなかった。自分の責任さえ果たしていれば、ほかのことは一切干渉しないという社風だったのだ。


 太陽コレクションの編集長・西巻さんは、元「美術手帖」の編集長。美術のことなら生き字引で、かつ編集の鬼だ。昔は嵐山さんの直属上司で、嵐山さんが結婚式を挙げたとき、式の最中に本人を電話口まで呼び出したという。編集上の疑問点を放置できなかったのだそうだ。

 ぼくが一人で夜中に仕事をしているとき、体をこわして入院していた西巻さんが、病院を抜け出して会社にやってきた。トイレに行こうと薄暗いエレベーターホールに出たら、白っぽい装束にざんばらの白髪、手には杖という西巻さんがいた。全身の毛が逆立った。

「俺の編集部はどうした?」というのが西巻さんの第一声。

 ぼくはまだこの人と顔を合わせたことがなかったので、頭のおかしい爺さんが乱入してきたのかと思い、「どちらにお越しですか?」と聞いた。

 すると「無礼者! お前は誰だ!」と一喝。

「たたた、太陽の、ししし、新入社員です」

 と答えると、「俺は『コレクション』の西巻だ! 覚えておけ!」とボディブローのようなお言葉。ぼくの想像上の尻尾は、股の間で小さくなってしまった。


 月刊アニマは、当時日本で唯一の動物雑誌だった。編集部のスタッフはみなアウトローのような風貌で、アウトドア命の面々だ。

 よく編集部の床にレンガを積み上げてバーベキューをしては、総務課からお小言を頂戴していた。パンチカーペットの床が、黒こげになるからだ。

 社員アートディレクターの遠藤さんは、以前「国民百科事典」の見出し文字をすべてデザインし、オリジナルの写植文字盤を作った人。つまりタイポグラフィーまで自前でやりとげてしまったわけだ。書体のネーミングは、自分の名前をとって「エンチック」。

 この人、あるとき編集部にあった剥製のカモシカの脚をもちだし、トレンチコートの袖に隠して市ヶ谷駅に出かけていった。何をするのかとついていったら、カモシカのひづめに千円札をはさみ、駅の窓口にそれを突きだして「新宿1枚」と低〜い作り声。

 ドサッと音がして、覗いてみると、駅員が椅子から転げ落ちていた。


 そういうすごいキャラクターに囲まれて、稼ぎ頭の別冊太陽がまともなはずがない。

 編集長の高橋さんは、屈強なシェルパを思わせる、見るからに体力の固まりのような人。午前中はいっさい口をきかず、出社するなり持参の牛乳2本を飲み干し、あとは新聞をむさぼり読む。うっかり声をかけたりすると、超不機嫌な声を返される。それが午後になると普通になり、夜、アルコールが入ると上機嫌になる。

 先輩編集者の○○(自主規制します)さんは、出張取材で必ず風俗店に行くという風俗マニアだ。それも安ければ安いほど嬉しいという、病気は大丈夫かいなと心配な方向性の持ち主だ。京都の「ちょんの間」でお楽しみの最中、編集長に電話しなければならないことを思い出し、お姉さんに「悪いけど、ちょっとどいてくれる?」と言って怒られたと笑っていた。

 専属デザイナーの三村淳さんは、開高健氏の『オーパ!』の装丁者で、一晩に50ページは軽くレイアウトデザインを仕上げてしまうという「線の魔術師」。この人はPV544という大昔のボルボを愛車にしていたが、そのクルマはスクラップ寸前の2台を1台に合体させ、大金をかけてレストアしたという代物だった。持病の痛風で片足が使えなくなっても、横浜の自宅から市ヶ谷までクルマでやってきたのだが、どうやって1本足でアクセル、ブレーキ、クラッチを踏み分けたのだろうか。


 こういう人たちがひしめいていたのが、ぼくの二番目の職場である。

 高鳴る胸の鼓動は一瞬にして鳴りをひそめ、ふくらんだ期待はあっという間に不安に取って代わった。


今は別の会社のものになった旧平凡社ビル。昔は黒く塗られていた。


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雑誌を作っていたころ(05)

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