「頭を使う」って何だろう?
「最近、頭を使っていないな」
社会人になって5年目の今は、仕事を進めていく上で「頭を使っているはず」の生活をしています。それなのに、「頭を使ってないな」と思うことが増えました。このモヤモヤは僕一人が抱えていた訳ではなくて、学生時代に「一緒に頭を使った」友人も同じ悩みを抱えていました。
僕らの共通認識は、「頭を使うことは楽しい」ということです。それもハマると抜け出せないレベルにです。それ故に、頭が使えない今の状況に不満を抱いていました。
それなりの企業に勤めていて、頭を使う職種にいるはずの二人が、なぜ二人とも「頭を使っていない」と感じるのでしょうか。その問いに答えるためには、「そもそも、頭を使うって何なのか」という問いを考える必要があります。この問いについて、僕が頭の使い方をどうやって学んだのかということを元に考えていこうと思います。
法律という「おもちゃ」
学生時代の師匠にあたる先生に、「法律は最高のおもちゃ」だと言われたことがあります。一般的には取っ付きにくいと思われている学問のようですが、「頭を使った遊び」をするにはもってこいの学問だと思っています。そんな先生のもと、僕は法律という「おもちゃ」を使って頭の使い方を学びました。このおもちゃの優れている点は、以下の4つだと思っています。
・ルールが決まっていること。
「法律」という絶対的なルールが存在するため、考えるためのベースが整備されています。頭を使って考えるときに、拠り所があるというのはすごく助かることなのです。
・他の人が頭を使って考えた結果をすぐに手に入れられること。
学者が頭を使った結果である「専門書」だけでなく、最高峰の実務家が頭を絞りに絞った結果である「判例」という最高の教材、さらには、世界中の人たちの知恵の結晶である「法律」があります。それらを読み解くことで、他の人がどのようにして「頭を使って考えてきたか」を学ぶことが出来ます。
・すべてのことが題材になること。
生きていく中で起こりうる全てのことを、法律学では題材にすることが出来ます。これは他の学問では無い特徴だと思います。「ミニスカートは違法か」、なんてことを題材にできたりします。
・難しい専門知識がいらないこと。
意外に思うかもしれませんが、法律学には専門知識はほとんどいらなかったりします。詳しくは後述しますが、事実、僕も、大学時代の友人も先生も、たいした専門知識も無いまま色んな議論をしていましたが、すごく楽しい時間でした。
そんな法律というおもちゃで遊びながら、頭の使い方を考えてみたいなと思います。
法律で遊んでみる
法律で遊ぶと言われても、多分イメージがわかないと思います。なので、僕と友人が法律で遊んでいる姿をみて、イメージを膨らませてもらえればと思います。
まずは考えるためのテーマを決めます。これはほんとに何でもいいです。身近なものや、ホットな話題を選ぶと話しやすいかなと思います。とはいえ、最初のうちは、「○○という行為は罪になるのか」という問いがおすすめです。ここでも、そんな例を取り上げようと思います。
今回のテーマ:「カラオケボックスの電源を使ってケータイの充電をすることは罪になるのか」
まず初っ端は、こんな感じの話が出ると思います。
じゃあ、法律には何て書いているんだろう。法律で遊んでいる中で困ったときは、六法を引きます。条文を読みます。日本におけるルールのすべてがそこに書いてあるからです。
本筋からずれそうなので、財物の定義がどうとか、光は対象になるのか、なんて問いはいったん置いておきます。ここで伝えたかったことは、法律の条文に書かれている一つ一つの言葉に深い意味があって、それぞれに対して「なぜ?」と考えることそのものが「頭を回す」という第一歩ということです。ちょっと無理矢理話を進めます。
うーん。日本の刑法でいう「盗む」って何なんでしょう。
いったん、この二人の議論の中では、「常識的な範囲の使用であれば、カラオケボックス内のケータイの充電もOKである」という結論が出ました。その上で、台数を増やした場合にもOKなのかという「罪の線引き」を個数という切り口から行おうとしています。これ以上の部分は割愛するとして、そもそもこの結論って合っているのでしょうか?
答えの無いに「答えを見つける」こと
合っているかどうか、実際のところ答えはありません。強いて言えば、二人が考えたロジック自体は特に問題ないので、論理的に正しい結論であると言えます。でもこれだけだと自己満足で終わってしまうので、「専門家が書いた本」や「実際に起こった事件の判例」などと照らし合わせてみます。ざっと見たところ、ぴったり合致するような判例は見つかりませんでした。そんな場合は、似たような判例等を探し(例えば、駅の清掃用コンセントで携帯を充電した例は窃盗として検察官送致という例はあったようです。軽微すぎて不起訴処分なので、裁判まではなってませんが。)それと比べたときにどうだ、なんて話をしたりします。要は、自分たちの頭で考えたことを検証していきます。
ここでも、答えは無いわけです。でも、湧き出てくる様々な疑問を自分たちの頭を使って解決していくという、まさに「頭を使う」を実践しているのです。上の例を見ていただけばわかると思うのですが、「頭を使う」ためには特に難しい知識はいらないんですよね。法律で遊ぶだけなら、条文が読める程度の日本語能力があれば必要十分です。難しい専門書を読み込むなんてこともいりません。テーマについて様々な切り口から問いを立て、条文という拠り所を駆使して、「自分の頭で考えて答えを見つけること」。これが僕の考える、「頭を使う」という行為です。
切り口としての一般教養
上記の例の最後で、「ケータイ10000台だとどうなの?」という個数の角度から問いを切り出していました。これは、「1台の場合と10000台の場合だと、そこにかかる使う電気量は大きく変わる」なんていう理科的な知識があったからこそできる切り口です。
よく出てくる切り口の例でいえば、「その法律が出来た時代背景って何なの?」というものがあります。上記の例で言えば「電気は財物」なんてものを、わざわざ「法律に規定しなければいけない何か」が起こったからこそ、そのような条文が生まれたのです。ということは、「その法律が出来た当時の日本ってどんな感じだったのか?」なんてことをイメージできると、条文が生まれた背景がより鮮明に見えてきます。また、その時代背景と現在を比較して、「そもそもその法律は必要なのか?」なんていう問いをたてることも出来たりします。
他の切り口の例だと、「外国だとどんな風に考えられているんだろう?」とか、「そんな行為って物理的に可能なの?」とかです。これらって、歴史や外国語、数学や理科、なんてことを知っているからこそ出てくる「切り口」だと思います。今まで学んできた所謂「一般教養」が、ここで活きてきます。様々な切り口を得るために、僕らは今まで勉強してきたのです。
問いを「色んな切り口から問い直してみる」ということは、すなわち「問いを深める」ということです。一つのテーマに対しての問いを深めていくことで、より本質的な議論に近づいていきます。また、問いを深めるという行為そのものも「頭を使う」行為です。
一緒に遊んでみる
ここまで書いてきたことは、一人でも出来ること(頭の中で、主張と反論をひたすらに繰り返していく)なのですが、誰かと一緒に行った方が何倍も楽しいと経験上感じています。他の人ならではの問題に対しての切り口(ここに、人それぞれの人間性が出てきます)があったり、自分の考えたことを違う観点から検証してくれる相手になってくれたりします。
誰かと一緒に頭を使う行為、これを僕は「対話」だと思っています。そして、「対話」というものは学問の基本であり、「対話」こそが学問そのものだとも思います。だから僕らには、一緒に遊ぶ仲間が必要で、常にそれを求めていたりします。
理想を言えば、自分たちを導いてくれる「先生」にあたる人がいるとなおよいかなと思います。一緒に考えてくれて頭を貸してくれるだけでなく、議論が発散したときに止めてくれたり、論理の破綻を第三者的立場から見極めてくれるからです。学生さんであれば教授にお願いするのは手だと思いますし、社会人であれば身近にいる頭のいい人に頼むのも手かなと思います。
ここまで書いてきたことで、頭の使い方の基本は伝えられたかなと思っています。後は実践してみて、楽しさに目覚める人が増えてくれたらいいなと思っています。
おわりに
頭を使った遊びというのは、ほぼ無限に続いていきます。ほぼと書いたのは、最初に定めたテーマについて終わりが見える瞬間があるからです。僕が思う一番楽しい瞬間は、そこです。あえて言葉にするならば、「テーマに対して、自分なりの論理の一本道が通った瞬間」です。スッキリするというか、先生から借りた言葉で言えば「複雑明快」に物事がすーっと解決していきます。ここにたどり着くまでは、死に物狂いで頭を回す必要がありますが、何にも代え難い瞬間だと感じています。
とはいえ、社会で働いていく中では、そのレベルまで頭を回さなくても、そもそも答えがあることが多かったり、仕事という限られたお金と時間の中で行う行為においては、そのレベルまで頭を回すことが不可能という現実があります(コストに見合う成果はなく、自己満足の世界だからです)。そんなことを考えると、「頭を使うという行為は、時間やお金を抜きにした世界でこそ、真に楽しめるもの」なのだと思います。それゆえに、「最近、頭を使ってないな」なんてことを感じてしまうのだと思います。もし、この文章を読んでくれている学生さんがいるのであれば、大いに頭を使って遊ぶことに時間を使ってみてください。これこそ、学生の醍醐味だと思います。
頭を回すことが減った理由がもう一つあるとすれば、一緒に頭を使って遊んでくれる人が、身近にいなくなったということでしょうか。就職を境に土地的に離れてしまい、学生時代の仲間と一緒に頭を使って遊ぶ機会は減ってしまいました。
そんな僕がこんなエントリを書いたのにはちょっとした理由があります。それは、一緒に頭を使って遊べる相手を増やしたかったからです。一緒に遊べる相手を増やして、楽しい時間を増やしたい。そのために、僕が思う「頭の使い方」を僕なりの言葉で表現してみました。
「一緒に頭を使って遊びませんか?」
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