雑誌を作っていたころ(14)

前編: 雑誌を作っていたころ(13)
後編: 雑誌を作っていたころ(15)

野合連合編集部


 ある日、異動の話が来た。「ドリブ」の臨時増刊として出してみたら意外に好評だった「おとこの遊び専科」という風俗情報誌の副編集長をやれという。「ドリブ」はほとんど社員編集者で作っていたが、「おとこの遊び専科」は社員ひとりと編集プロダクションという制作体制だった。発刊ペースを上げるための要員として送り込まれることになったわけだ。

 慣れ親しんだクルマの世界やタイアップ広告の世界と離れるのは寂しかったが、宮仕えとはそんなものだ。イヤなら会社を辞めるしかない。むしろ、新しい世界で自分を大きくするほうが大事だと、気分を入れ替えた。それに、「ドリブ」ではヒラ編集部員だったが、今度は「副編」だ。この時代、雑誌の世界では妙に「副編」という肩書きに人気があった。「デスク」というのが古くて口うるさそうな印象なのに対して、「副編」はプレイング・マネージャーみたいな格好よさが感じられた。あくまでも「感じ」でしかないのだが。


「おとこの遊び専科」の編集長は、学研から出向でやってきて、「ドリブ」ではずっと日陰のポジションにいた葛西さん。元ナベプロでグループサウンズのマネージャーをやっていた人だ。彼は学研社内で「ドリブ」のような雑誌を企画していた。「シティパル」という名前だったと思うが、「ドリブ」ができたのでその企画はぽしゃった。そしてぼくらが学研に助っ人を要求したときに、彼がやってきたのだった。

 葛西さんは嵐山さんや筒井さんと歳が近く、はっきり言ってのけ者にされていた。そして「おとなの遊び専科」を作ることになったときに、編集長に就任した。

「おとこの遊び専科」というのは、簡単に言えば「エロ雑誌」である。テーマは風俗とアダルトビデオの情報だ。「ザ・ベストマガジン」の別冊である「おとなの特選街」が好調なので、真似して作れと学研の販売局が命じてきたため、急遽作り上げたものだ。

 そんな雑誌だから、スタッフ集めが大変だ。社員は葛西さんひとりで、タイトロープという編集プロダクションに仕事を丸投げして制作していた。しかし、この編プロは編集よりはヌード撮影が得意なところで、まともなライターは下境さんという人がひとりだけ。風俗ライターたちからかき集めてきた原稿を見たが、作文レベルから、ややマシなレベルまで、文字通り玉石混淆だった。こりゃ前途多難だわいと、思わず天を仰いだ。


 葛西さんはぼくに、「日陰者同士、力を合わせて『ドリブ』の連中を見返してやろう」と言った。ぼくは1も2もなく協力を約束した。これから当分の間、一緒に仕事をするのだから、仲が悪いよりは協力体制でいたほうがいいと思った。

 ぼくが編集部で最初にやったのは、週刊誌のようなアンカーシステムを導入することだった。アンカー経験のある週刊誌ライターを2人連れてきて、ひとり50ページずつを担当させ、寄せ集めの原稿を片端からリライトしてもらった。これでようやく記事のレベルがまともになった。

「微笑」のアンカーマンだった金久保茂樹さんは、今では小説家として活躍しているが、もともとはエッチ系のライターとして、「ドリブ」でも連載を持っていた人だった。なぜか編集長と反りが合わずに干されてしまい、心穏やかではない日々を送っていたところに、ぼくのオファーが舞い込み、「恨み節」から承諾してくれたという経緯だ。

 もうひとりの岡裕美さんは、「最後のトップ屋」という風貌の人だった。ぼくらの「復讐鬼」的雰囲気を面白がってくれて、金久保さんのライバルポジションについてくれた。


 同時にカメラマンにもアンチ「ドリブ」の人たちが次々と名乗りを上げる。みんな、実力、キャリアともに申し分のない人たちなのだが、知名度が低いということで、「ドリブ」から仕事が来なくなっていたのだ。「ギャラはいくらでもいい。いい仕事をさせてくれ」と頼もしい言葉が寄せられ、「おとこの遊び専科」編集部は、短期間のうちに「野武士集団」の様相を呈してきた。


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