雑誌を作っていたころ(13)
自動車・グッズ担当記者
快進撃を続ける月刊「ドリブ」で、ぼくは自動車担当、グッズ担当、タイアップ担当、ヌード担当をやっていた。その理由は、ほかに適任者がいなかったからだ。編集部はほとんど元「月刊太陽」の人たちで編成されていたが、自動車免許を持っている人が半分しかおらず、しかもぼく以外の全員がペーパードライバーだった。それでは試乗会で新車を乗り回すわけにはいかない。ぼくは当時、アウトビアンキA112アバルトという小さなイタリア車に乗っていて、一応、ダブルクラッチやヒール&トゥのまねごとはできた。それで半ば自然に自動車担当になった。
グッズ担当も似たような理由で、先輩編集者たちは飲んだり食べたりは大好きだが、「モノ」にはあまり興味がない。そういう人が最新の文具や家電製品のリリースを見て記事を書くのは、楽しくないだろう。というわけで、これもぼくが担当することになった。
タイアップ担当というのは、広告を集めてくる学研広告局の人たちと一緒に広告代理店やクライアントと話し合い、記事と広告の中間的な存在である広告タイアップ記事を作る立場だ。普通の記事はデスクや編集長のチェックを受けるだけでいいが、タイアップ記事はそのほかに広告部員、代理店の担当者、クライアントの担当者のチェックを受ける。いろいろな立場の人が見るのだから、当然、直しが多くなる。しかも、編集長の指示とクライアントの指示が正反対になることもある。つまり、面倒な仕事なのだ。
あの時代の編集者は、たいていジャーナリスティックな企画が好きで、その正反対であるタイアップ記事は人気がなかった。だから、編集部最年少のぼくが引き受けるしかなかった。
ヌード担当になったのも最年少だからで、要するに「一番性欲の盛んなやつに担当させよう」ということだ。しかし実際にやってみると、あんまり「役得」はなくて、苦労ばかりさせられた気がする。
話をクルマに戻そう。月刊誌のクルマ担当というのは、じつはかなりの激務である。もしかすると自動車専門誌の記者よりもしんどいかもしれない。というのは、おもな新車の発表会や試乗会に必ず顔を出し、それ以外に自分の担当している新車レポートの記事を作るために、広報車を借り出して撮影に行かなければならない。モーターショー直前には、各メーカーから次々と新型車が発表されるので、スケジュールはかなりタイトになる。それをひとりでやらなければならないのだ。
自動車専門誌の記者なら、何人かで手分けしてこなせばいいのだが、たったひとりの自動車担当記者となると、全部自分で行くしかない。試乗会はたいてい箱根か河口湖あたりで開催されるが、すごいときには午前中が河口湖で、午後は箱根などということになる。別のメーカーの発表会が、だぶってしまうのだ。各メーカーの広報も、お互いに連絡し合ってかち合わないようにしているのだが、予定が詰まってくると同一日程になることもある。一番すごい時には、3社の試乗会をかけ持ちしたことがある。
試乗会で忙しい上にタイアップ企画が2、3本集中するような月は、もう何をやっているのかわからなくなる。そんな時、特集担当者から「撮影に広報車を使いたいから、借りてきてよ」などと言われると、もう発狂寸前だ。借りてきたら、返さなくてはならないのだが、みんなはそこまで気が回らない。約束した時間までにガソリンを満タンにして、洗車して、たいてい辺鄙なところにある広報車の貸出場所に戻すのだが、神経がボロボロになる。
さらに、「ドリブ」の特集だから、お上品な写真ではない。女の子のおっぱいがポロリなんてカットは日常茶飯事だ。しかしメーカーにそれが知れたら一大事。絶対にメーカーと車種がわからないようなアングルしか撮らないように、カメラマンの横についてチェックする必要がある。
ぼくは平均的な同年代の男性よりはクルマ好きだったが、マニアというほどではなく、専門知識もそれほどなかった。そこで自動車分野における顧問のような人を探した。といっても、自動車評論家は星の数ほどいるから、誰が適任かはよくわからない。兄弟会社の立風書房に電話して、自動車専門誌の「ル・ボラン」編集部に意見を求めることにした。電話に出たのは副編集長氏で、こちらの状況をよく聞いてくれた後で、園部裕(そのべゆたか)というベテランの評論家を紹介してくれた。
じつはぼくは前から、園部さんを知っていた。ぼくは毎週日曜日にテレビ神奈川の「新車情報」という番組を欠かさず見ていたのだが、キャスターの三本和彦氏の友人として、園部裕、鈴木五郎という評論家がよく登場していたのだ。べらんめえの三本氏、理論派で毒舌の鈴木五郎氏に対して、園部さんは温厚でユーザーサイドに立った意見をよく発していた。軽自動車や小型大衆車の味方であることも好感が持てた。
すぐに園部さんに電話をして、打ち合わせのアポを取った。事務所にお邪魔して、「ドリブ」の媒体説明と、どんな自動車の記事を望んでいるか、そしてできれば連載を執筆してもらいたいこと、自動車メーカーにぼくを紹介してほしいことなどをお願いした。
それまで黙ってぼくの話を聞いていた園部さんは、腕組みをほどくとこう言った。
「あなた、本当に学研の人?」
「ええと、外様です。つい1年前まで平凡社にいた人間が学研傘下で作った会社の人間です」
「なるほど、わかった。学研の人にしては匂いが違うと思ったから」
園部さんはとても顔の広い人で、学研グループとも深い付き合いがあった。だからぼくの態度から毛色が違うと感じたようだった。
ともあれ、園部さんのおかげでぼくは各社の広報部に紹介してもらい、自動車担当記者らしいことができるようになった。
園部さんとのお付き合いは、それから25年、青人社が倒産した後まで続いた。ぼくのクルマ関係の編集者生活は、この人とともにあったといっても過言ではない。園部さんはもう故人だが、恩人のひとりである。
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