雑誌を作っていたころ(12)

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後編: 雑誌を作っていたころ(13)

「ドリブ」の成功


 月刊「ドリブ」は、創刊号こそ35万部がほぼ完売の勢いだったが、2号、3号と号を追うごとに実売率が下がっていった。原因は、嵐山編集長の「面白主義」がサブカル・マイナー路線だったことと、ぼくらが大衆向けの雑誌作りに慣れていなかったためだ。

 親会社の学研は実売率の低下に業を煮やし、ついに古岡オーナーじきじきの「お色気を入れなさい」という指示まで出てしまう。

 それを受けて馬場社長は「好きとか嫌いとかの問題じゃない。やるか辞めるかだ」と学研寄りの姿勢を取り始める。すっかり嫌気がさした嵐山編集長は退社を決意、デスクの筒井ガンコ堂さんに後事を託した。


 國學院出のバンカラだった嵐山さんと違い、筒井さんは京大出の秀才。円地文子さん、池波正太郎さんなどの大作家と懇意にしていて、とくに池波さんについてはブレーン的存在だった。

 当然、学研が要求する「お色気低俗路線」などに協調できるはずもなく、馬場社長とも対立。いつの間にか会社に出てこなくなった。

 編集長がいないのに、どうして雑誌が出し続けられたかというと、キャップの渡邊直樹さんが新宿某所で連日筒井さんとミーティングをしていて、必要な指示を得ていたからだ。さすがにそれも続かず、筒井さんも退社。編集長が立て続けに辞めるのでは格好悪いと、公式的には「病気のため、やむなく」辞めたことにさせられた。のちに郷里の佐賀に戻って「筒井ガンコ堂」というペンネームで文化人活動を始めた筒井さんは、この措置を恨んでいた。


 そういう流れだったから、三代目編集長は当然のごとく渡邉さんとなった。そして、読者年齢に近く、こだわりを持たない渡邉さんは、思い切って「どピンク」路線に舵を切る。ヌードページを大幅に増やし、素人ヌード(と読者に感じられる企画)に力を入れた。

 袋とじ企画もスタートし、凸版印刷の全面的な協力を得て、特殊インクのエッチな付録もつけた。

 なかでも大ヒットしたのは、「100人の女性があなたのお手紙待ってます!」という交際援助企画。編集部が町でかき集めてきた素人女性の顔写真と自筆のプロフィールを掲載し、編集部気付で手紙を送ると、それが相手に届くというもの。全国のネクラ男性たちから、毎日段ボール箱いっぱいの手紙が届いた。

「転送実費」として預かる切手は、人気の女性には一括で転送するために大量に余る。おかげで長年に渡って編集部が事務用の切手を買う必要はなかった。


 これら一連の「どピンク」路線が一方の柱なら、もうひとつの柱は「マネー」路線。企画会議で「嫁さんゲット特集とマネー企画が人気だ」という分析結果が出たのを受けて、ぼくが何気なく「だったら特集を『女特集』と『マネー特集』の二本立てにすればいいじゃないですか」と発言したところ、それが実現してしまったのだ。

 時代はバブルにさしかかる直前のマネーブーム初期。「中期国債ファンド」や「一時払い養老保険」をわかりやすく解説した記事が受け、「ドリブ」のマネー特集は完全に定着した。


 そうなると読者が確定してくる。「彼女がいない、だが結婚願望の強い、地方出身の二流サラリーマン」で、年齢は25歳から35歳。その結果、アルトマンやOMMGなどの結婚紹介業が広告を出稿するようになり、驚異的なリターン率から、カラー見開きハガキつきの広告スペースが奪い合いになった。

 部数は着実に右肩上がりとなり、実売で30万部を突破、広告売上げも2000万円の大台をクリアした。学研の古岡オーナーからは「会長賞」金一封と賞状が届けられた。

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雑誌を作っていたころ(13)

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