『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』
アルベルト・アインシュタインがこんなことを言っていたらしい。
『当たり前』と思っていることが『常識』。
『当たり前』だから疑問を抱くこともないし、そもそも気にも留めていないことだってある。
よく「常識を疑え」なんて言うけど、気にも留めていないことを疑うのは簡単じゃない。
でも自分の常識とは異なる常識と出会った時に、自分の中の常識がフッと姿を現す時がある。
16才の時にひとりで中国に行ったのが、ボクの初海外旅行だ。
高校2年生の時に、学校で「ひとりで中国に行ってくる」と冗談で言ったら本当に行かないといけない雰囲気になってしまい、特に海外に興味があったわけでも、特に中国に興味があったわけでもないのに行く羽目になってしまった自業自得の海外デビューであった。
そんな舐めた気持ちでやってきた16才の常識を破壊するには、中国は十分過ぎるパワーを持った国であった。
例えば・・・
地下鉄の車内で座っていたら、前で吊革につかまって立っていたおっさんがカー!ペッ!とボクの足と足の間に痰を吐いた。
ホテルの赤い絨毯の上を颯爽と歩くお姉さんが、カー!ペッ!と絨毯に痰を吐いた。
「ところかまわず痰を吐くのは行儀の悪いこと」だという、いわば常識的なマナーを刷り込まれて育ってきたボクは、中国で開眼する。
痰っていうのは、いつでもどこでも吐きたいときに吐いていいんだ!!
目から鱗である。
人民たちにすっかり感化されて、ボクも痰を吐いて吐きまくってやることにした。
ノドに痰が絡みやすい体質ではないが、ボクなりに頑張ってノド中の痰をカー!カー!かき集めてペッ!と吐いてやった。
それなのに・・・
あんなに頑張って痰を吐いたのに・・・
いざ吐いたら、捕まってめちゃくちゃ怒られた。
毛主席記念堂(毛沢東の遺体が安置されているとこ)で痰を吐いたから、というのが捕まった理由だが、ボクにしたら全く納得がいかない。
人民たちのマネをして痰を吐いただけなのに、ボクだけ罰金なんて不公平だっ!!
常識の殻を打ち破るのも大変だと、カネを払って学習しただけであった。
中国では、トイレの個室でドアを閉めずに大便をする人民たちにも衝撃を受けた。
少なくともボクがそれまでの16年間で積み上げてきた常識で考えると、公衆トイレでドアを閉めずに用を足すという選択肢はなかった。
常識どうこう以前に、恥とは一体何なのだ?とすら思えてくる。
「彼らはトイレのドアを開け放ったままにすることで遠大な宇宙の広がりを表し、その中で青白い尻を剥き出しにすることで宇宙空間に浮かぶ母なる惑星・地球を表現しようとしているのだろうか?」
と、勝手にかっこいい理由を考えてみたりしたが、当の本人たちは特に深い理由もなくドアを閉めていないようである。
そもそも開け閉めしてあげることが『ドア』の存在意義だというのに、あえて閉めてあげないというドアに対する非情さ。
田舎に行くとドア自体が姿を消し、トイレにおけるドアはその存在そのものを否定されるのだ。
写真のトイレは仕切りがあるが、仕切りすらないトイレもある。
山東省のとある田舎町でトイレに入っていくと、尻を剥き出しにしたおっさんと目が合ってしまった。
し、しまった・・・動揺してしまい、つい力んでいる最中のおっさんに挨拶をしてしまった。
お取り込み中のところをうっかり挨拶してしまったボクも悪いが、逆にグイグイと会話する気満々で返されると引いちゃう。
ボクの常識で言えば、『尻を出して排泄行為中の知らないおっさんがすげぇ話し掛けてくる』というシチュエーションは即警察に通報しても許されるレベルの話だと思うが、中国でボクの常識など通用しそうにもなく、ただ逃げ出すしかなかった。
初めての海外だったので、一瞬だけ「海外ではドアを閉めずに大便するのが常識なのかな?」と思ってしまったが、中国以外ではエチオピアの田舎で見かけたくらいなので世界的に見てもボクの方が常識人だったようだ。
常識とは、その社会に属する多数の人が共有する価値観でもある。
ということは、社会が違えば「何をもって美とするか?」という価値感も違ってくることがある。
タジクは、タジキスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンに住むペルシャ系民族だ。
彼らの常識では、女性のまゆ毛は太くて濃く、なおかつ両まゆがつながっていることが『美しさ』だ。
顔だちも含めて元々が濃い人たちなのだが、まゆ毛がつながるくらいともなるとさすがのタジクでも、日本の携帯電話会社のように簡単には「つながりやすさ」をアピールできない。
だから、まゆ毛を描いてつながりやすさNo.1にするか、まゆ毛タトゥーを入れる。
何でまゆ毛をつなげると美人なの?などという質問はナンセンスだ。
前提に疑問を抱かないのが常識なのだから、タジクに聞いたところで「それが常識だから」で終わってしまう。
ちなみに当時は長髪だったボクは、まゆ毛ガールたちに指を指されて笑われたものだ。
彼らの常識では、男で長髪の輩など変態か同性愛者なのだ。
両津勘吉みたいなまゆ毛をした女性たちに、肩まである髪の長さだけで笑われるというのもなんだか腑に落ちないが、常識が違うとはこういうことなのだ。
ムルシは、エチオピア南西部のスーダン国境近くはオモ渓谷に住んでいる。
女性は下唇部分をカットして皿をはめているのだが、はめている皿が大きければ大きいほどモテるというのがムルシの常識だ。
モテ基準が『下唇の伸縮性』にあるとは、それまでのボクの常識にはなかった斬新さがある。
ボクもこのグローバル時代を生き抜いていくために、既存の常識に捉われず様々な価値観に変幻自在に適応できるところを見せつけてやらねば。
やれ、尻が大きいだの、胸が大きいだの、そんな基準は時代遅れなのだ。
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