大学院卒業間際のニートがカリブ海で父親の電波を受け取った話
23時間。
日付を跨いだその先に、コバルトブルーの海とピンクの砂浜が現れる。
俺は生まれて初めて本当に一人でカリブの島に降り立った。島の名前はグランドケイマン。イギリス領、ケイマン諸島のメインとなる島だ。
大学院の論文発表でタコ殴りにされて、就職まで2週間。学生最後の自分の成長として行ったこともない場所で、一人で過ごしたいと思ったのがキッカケだった。
ケイマンを選んだのはまた別にワケがあるので、それは別の話としてかく。
日本から17時間かけて降りたケイマン諸島は夜の9時。
そこから、タクシー使ってホストファミリーの家に行く。ケイマンのタクシーはめちゃくちゃ高く(ケイマンはアメリカ版めちゃくちゃ高い沖縄ってイメージだとわかりやすいと思う)
素直に泣いた。
ホストファミリーとの挨拶そこそこ、長旅の疲れを癒しにベッドイン!ウトウトしていると、スマフォの着音が、、、、
父親からだった。
もしもし。元気してるか?
あ、無事着いたわ。
そうか、なら大丈夫や。
会話としては二言。
海外だから通話料バカにならんから、自重しろよ。そう思いながら、ウトウトしていた。
次に気がついたのは夜中の3時。スーツケース開いて、明日の予定を考えなきゃと思ったとき、ハタと気づいた。
父親は17年前に死んでいる。
もちろん着歴もないし、機内モードのままだったから、電話がかかるはずもない。
その時、俺は知らず知らずのうちに涙を流していた。
俺のパパは、37の時、ガンを患って死んだ。当時俺は7歳、小さいながらも全く動かないパパの体を、不思議に思っていたように思う。亡くなる前はとても怖いパパだった。かすかに覚えているのは、何かで怒らせて足を掴まれてソファに放り出されたりなんかした。
建設会社の会計をやっていた。アフリカ、ケニアのプロジェクトに参加して、人生初の海外旅行がナイロビとゆう人だった。
パパは小柄な方だったので、自分よりはるかに大きい黒人相手に給料を手渡しで渡すなんてことが仕事。数も体格も勝る相手に一人でお金を渡していく仕事
大きい大金の入ったアタッシュケースを抱えながら、強盗されないようにピリピリした雰囲気だったそうだ。
死ぬ前まで意識はハッキリしていて、それでも体は衰弱していく。授業参観の時に、点滴を打たれ、車椅子の上で病院の寝間着をきたパパがいたことをまだ覚えてる。
死ぬ間際に7歳の俺に、
ママと弟はお前に任せたぞ。
と言って、火葬場の棺の中に入って行った。
それから17年間、俺はずっと、パパの事を許せなかった。あの人がいたらどれだけいろいろ体験できたか。
あの人がいたら、今とは違ってどれだけしっかりした自分がいただろうか。
あの人は子供と妻を置いて、自分だけどこか遠くに行ってしまった。
父親としての責任を放棄した人とゆうフィルターを通して見ていた。
パパが死んでから17年間、ずっとそんな感じだった。
日本からケニアまで当時20時間。
日本からケイマンまで23時間。
届くはずのない電波と、「元気にしているか」と告げられた一言で、俺は悟った。
本当に苦しかったのはパパだったのだ。
自分の夢を叶えたくても、叶えることなく死んでしまった、父
自分の息子の成長を見届けたくても見届けることなく生涯を閉じてしまった、父
そして何よりも、世界で一番愛した恋人を残したくなくても、残してしまった、父
全てに対して諦めたくなくとも諦めなければいけなかった、父
多分、一番望まない結果だっただろう。7歳の息子に「ママと弟を頼んだぞ」なんて、一番言いたくなかった言葉だっただろう。
その瞬間からパパは父になった。
17年目にしてやっと理解した父親のキモチ。
日本からケニアまで当時20時間。
日本からケイマンまで23時間。
俺が日本で過ごしていたら知ることもなかった父親のキモチが、一人で知らない海外に行くことによって知った。
絶対に届くはずのない電波と音声は、とめどない涙となって、俺の目から溢れ落ちた。
若くして死ぬ。その恐ろしい本当の意味がわかった。
それと同時に、父が、俺の成長を認めて自分の遺志を伝えに来た、そんな気がした。
(カリブ海で得たこと、一日目終了)
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