雑誌を作っていたころ(18)

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「茶の湯紀行」


 ぼくが担当する「日本こころの旅」第4号は、3カ月後に発売が迫っていた。スタッフは組織できたものの、まだ企画は固まっていない。社長から「テーマは何にするつもりか」と聞かれても、しばらくはだんまりを通していた。

 もちろん腹づもりはあった。ぼくは「月刊太陽」と「別冊太陽」を、合わせて2年と少ししか経験していなかったけれど、暇なときにすべてのバックナンバーに目を通していたし、昔話として売れ行きが落ちたときにどんな企画で息を吹き返したかなどを聞いていた。それらのデータから、テーマは「茶道」以外にはないと思っていた。


 茶道は、日本を代表する伝統文化である。陶芸、いけばな、民芸、書道、建築などの周辺文化と密接にリンクし、茶道人口は「家元制度」というヒエラルキーで強固に組織されている。歴史的な茶室を軸に、茶道文化を旅の形で切り取ることは、十分にできると思われた。

 ただし、問題もある。最大勢力の裏千家、格式の高い表千家という二大勢力の協力を取り付けないと、取材も撮影もうまくいかない。それどころか、企画そのものが頓挫してしまう可能性もある。たとえば、カメラマンから写真を借りるにしても、「裏千家の承諾がないと貸せない」と言われてしまうのだ。


 幸い、ぼくは各勢力のキーマンを知っていた。正確に言うと「知っていた」のではなく、「盗み聞きしてメモってあった」のだが、とにかく誰に話を通せばうまくいくのかを理解していた。編集部で先輩たちが話していた会話の中で「裏千家はあの人が鍵だよな」「表千家の宗匠も、あの人には頭が上がらないらしいよ」といった情報をキャッチし、こっそりメモしていたのだ。

 そこで、企画を正式に披露する前に、その人たちに手紙を出しておいた。「平凡社時代は大変お世話になりました。ご存じの通り『月刊太陽』『別冊太陽』の主要スタッフは平凡社を離れ、現在は学習研究社の庇護の元で雑誌作りにいそしんでおります。ところで、このたび新雑誌を創刊し、とてもよい売れ行きで進展しております。そこで次号の企画を『茶の湯紀行』とし、日本の伝統文化を愛する人たちに、いま一度茶の湯の魅力を見つけ直してもらおうと考えました……」

 裏千家、表千家の両方から「協力する」との返事をもらい、ぼくは「茶の湯紀行」の企画を発表した。案の定、社長が「裏と表は大丈夫か?」と聞いてきたので、手紙の返事を見せた。ダメ社員だと思っていた男が、意外に手際のいい仕事をしているので、社長は目を白黒させていた。


 A4ムック144ページのうち、カラーは104ページ。それを4つに割って、「仙台・金沢・名古屋・彦根」「京都・宇治」「松江・萩・博多・熊本」「東京・横浜・鎌倉」とした。取材チームも4つ作り、同時に各地に飛んでもらう。どこを取材するかは、担当編集者が調べて案を練るように命じた。ぼくは「東京・横浜・鎌倉」を担当したが、あとの3人には「地元のキーマンをつかまえて、その人のコネで仕事をするように」と言った。机上の知識で雑誌を作ると、生きが悪くなるからだ。

 それからロケ以外の企画を仕込み始めた。まず紀行文の筆者だが、海野弘、奈良本辰也、百瀬明治、矢部誠一郎、古川薫、白石かずこの諸氏にお願いした。ぼくらは知名度が低いので、例によって手紙作戦である。「月刊太陽」元編集長の海野さん、飲み友だちの百瀬さん、面識のある奈良本先生を除いては初対面だ。幸い、全員快く承諾してくれた。


 巻頭対談は細川護貞氏と早乙女貢氏。「戦国武将と茶の心」というテーマで語り合ってもらうこととした。場所は細川邸に近い目白の椿山荘。細川さんの息子が首相になる前の話だ。なぜ細川さんを選んだかというと、この人は表千家宗匠の義父で、日本いけばな協会の会長だから。重要人物を出しておけば、いろいろと都合がいいのだ。それに、熊本県には圧倒的に顔が利く。なんたって「先のお殿様」なのだから。

 エッセイは岡本太郎、重兼芳子、木村昭平、草柳文恵の諸氏に依頼した。これでようやく、雑誌の形が見えてきた。



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