雑誌を作っていたころ(19)

前編: 雑誌を作っていたころ(18)
後編: 雑誌を作っていたころ(20)

2つの表紙を持つ雑誌


 とにかく「茶の湯紀行」の取材はスタートした。ぼくは京都に行き、祇園ホテルに陣取って、この号とこれから先を固めるために、毎日いろいろな人に会いに行った。

「別冊太陽」のころにさんざんお世話になった祇園ホテルだが、じつはこの歳になるまで京都のほかの宿を知らない。修学旅行で泊まったのはもちろん別の宿なのだが、記憶がない。なぜこのホテルがいいのかと言えば、とにかく祇園や木屋町に至近であること。べろべろに酔っぱらっても、這って帰れるロケーションであることは、とてもありがたい。

 京都では連日、歴史家の百瀬明治氏に会い、飲んだくれながらいろいろなアイデアを練った。京都における文壇バーである「蘭」に毎日顔を出し、ママからもいろいろな知恵を授けてもらった。とにかく、京都の文化人は人脈。ぼくの武器と言えば「元平凡社」しかないのだから、それを頼りにつながりを広げるしかない。


 ホテルには毎日、取材班から電話がかかってきた。市役所の観光課から文句を言われたとか、取れたと思ったアポが取れてなかったとか、カメラマンとケンカしたとか。そのたびに、「とにかく本を出すために善処しなさい」と励ました。編集部という組織は、官僚社会ではない。編集長と言っても、たいした権限はないのだ。それぞれの編集者やカメラマン、デザイナーやイラストレーターが最大限の仕事をするようにお膳立てをする。そのための存在でしかない。

 あんまり取材チームからの文句が多いので、ぼくは一計を案じた。

「今回の取材写真の中で、最高傑作を表紙にする。その取材チームはみんなの前で表彰する」

 というアイデアである。たちまち文句はやみ、各地の編集者とカメラマンのコンビは、早朝から日没までいい写真を求めて走り回ることになった。


 ぼくも京都から戻り、横浜・鎌倉の取材でかけずり回る。詩人の白石かずこ氏と横浜・三渓園を取材し、道中ずっとアレン・ギンズバーグの話を聞かされた。おもしろいおばさんだった。

 すべての取材が終了し、現像が上がると(念のために言っておくが、もちろんこの時代はデジカメではない)、ぼくは長原のひさご寿司に電話して、2階の座敷を予約した。「別冊太陽」恒例の、「ラフレイアウト」を再現するためである。「別冊太陽」は、1冊分の取材が終わると、雑誌部長の馬場さんを6階の座敷に招き、デザイナーとともにカラーページの編成をするのが恒例だった。馬場さんは青人社の社長になってから、すっかり経営に翻弄されていたので、昔に戻ってもらおうと思ったのだ。

 デザイナーの池田枝郎氏と編集スタッフ、そして馬場さんが座敷に陣取り、懐かしい「ラフレイアウト」が始まった。

 ラフレイアウトは順調に進み、いよいよ表紙を選定する場面となった。ぼくは清水さんが撮影した名古屋城猿面茶席が一番だと思ったが、社長は「茶の湯の本は茶碗が表紙でなければならない」と譲らない。一応、根津美術館の重文「雨漏堅手茶碗」を候補に選び、学研販売局と相談することとした。

 これにてカラーページの編集作業はデザイナーの手に移り、すべてのカラーページの材料を手に、池田さんは帰路についた。普通のグラフィック誌では、テーマごとに少しずつデザイン入れをするものだが、ぼくらは「別冊太陽」の流儀で作ることにしていた。そのほうが全体を見渡しながらデザインの作業できるからだ。なにより本にデザインの「流れ」を作ることができる。昨今のグラフィック誌は企画ごとに別のデザイナーが担当していることが多いので、この「流れ」ができていない。

 100ページ以上の写真や見出し原稿を一度に渡されるので、デザイナーの受けるプレッシャーは大きいが、それをこなせる人に頼んでいるので安心だった。


 さて、学研販売局の返事は、「そりゃ茶碗のほうが強いでしょう」というものだった。社長は得意顔だったが、そうなるとみんなに公約した「一番いい写真を表紙に使う」という約束が果たせなくなってしまう。

 悩んだあげくに、ぼくはカバーと表紙のデザインをまったく別のものとすることにした。カバーの表紙は「売るためのもの」で、カバーを外した本表紙は「保存するためのもの」。これなら表紙に好きな写真が使える。ついでに、カバー裏に2色印刷でイラストマップを入れることにした。

 こうして、カバー表紙は「雨漏堅手茶碗」、本表紙は「名古屋城猿面茶席」となり、ぼくはスタッフへの公約を果たすことができた。だが、今ならそんなことをしたら、製作部から大目玉を食らってしまう。カバーと本表紙の図柄は同一とするのが常識で、しかもたいてい本表紙は1色刷り。それなのに別の4色デザインとし、さらにカバー裏にも2色印刷の図柄があるのだから、印刷コストは当然高くなる。おまけにこの本は広告とのかねあいでカバーの折り返しが深く、手折りでないとかけられない。まったく優雅な時代の産物だったのだ。


 できあがった「茶の湯紀行」は、幸いにも上々の売れ行きを見せた。編集部には読者からの電話が鳴り響き、「予約購読したい」「ほかにはどんな号があるのか」などの質問に忙殺されることとなった。うれしい悲鳴とは、まさにこのことだ。しかし、次号の企画をめぐって、社長と学研販売局が対立してしまう。せっかくの新編集部に、早くも暗雲がたれ込め始めた。




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雑誌を作っていたころ(20)

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