腹部大動脈瘤手術で腹を切った落語家  こんなことがあった  その6

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  アテネオリンピックがあった年、ある落語家が腹部大動脈瘤の手術を受けた。

前編 売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。

隠居:おう、ようやく顔を出したか。はらあ切ったっておめえのカミサンから聞いたが、いってえどのくらい切ったんだい?

辛好:ミゾオチからせがれのすぐ上まで真っ直ぐに20センチくらいのもんでさあ。

隠居:で、詳しく聞いてなかったが、なんで腹なんぞ切る羽目に?何か不義理でもしたのかい。

お前さんみたいな売れねえ噺家にもご贔屓筋が何人かついてるみたいでな、看板が下りてるがどこか出稼ぎにでも出かけたのかとか、いつから高座に戻るのかとか聞いてくれるお客様もいたんだよ。

辛好:そいつはナンと嬉しい話じゃあござんせんか。ありがてぇこった。

実は少し昔、安芸の国の席亭で3年ほど高座に上がっていたんでやんすが、5年ほど前、席亭指定の施療院で春の健康診断を受けたんでさあ。指定目入の診断をこなしたあと、くすしの院長が「ちょうど息子が他院の修業を終えて戻ってきたんだが、超音波腹部検診のカラクリを入れてくれってねだられて“回向”のカラクリを買ったばかしなんじゃが、特別割引銭で見るがどうじゃ」って言うじゃあありませんか。

それまで「回向」なんぞやったことがないもんで、おもしれぇと思って「ようがす」って言ったら、若が喜んじゃって詳しく見てくれるってやりだしたが、途中からえらく真剣な顔になったんでさあ。

隠居:どうしてまた?

辛好:「腹部大動脈瘤がありますね、破裂するかも知れんけん、すぐにでもそっち方面に明るい「くすし」に見てもろおてください、紹介状も書きます」って言うじゃあござんせんか。あんまり真剣に言うので翌週市民病院の心臓血管外科で見てもらったら、この秋にでも手術をしたほうがいいが、するかどうかを決めるのはアンタだと言うン。

隠居:くすしに自分で決めろと言われても患者はちょっと迷うわな。

辛好:手術をするにもカミサンが近くにいねえと万事不都合だと思って、カミサンにこんな事になったが家の近くに心臓血管外科に強い病院がねえか調べてくれって連絡したら早速、 印多蜘蛛網であれこれ調べてくれて、家の近くの労災病院に心臓血管外科の「神の手」がおられるらしいと。

それで夏休みの1日にこの病院に行き、腹のCTを撮ってもらったら「本来約20ミリ径の大動脈が35ミリまで膨らんでいるなあ。形状がなだらかなので、まだ手術はしなくてもいいと思う。そやけど半年に一回はチエックに来てもらわんと」となってそれからずっと見てもらっていたんでさあ。

隠居:それで?

辛好:安芸の国から地元に戻って何回目かの検査で50ミリ程になって先生も次はそろそろ手術やなあと言われていたんだが、なんせこの大動脈瘤ってやつは自覚症状がまるでないン。

原因は動脈硬化らしいんだが自覚症状が全くないもんで、生活習慣を変えもせずこないだまで飲む吸う打つを懲りずにやってきたン。

隠居:そういやあ、お前の好きな司馬遼太郎さんも確か腹部大動脈が破裂して惜しい人を無くしたが司馬さんの奥さんの話でも動脈瘤をお持ちなのは本人も周囲も気づいてなかったそうだなあ。

確かに、司馬さんの写真で煙草をくゆらしてない写真は一枚もないなあ。

辛好:ホントに司馬さんは同時代にあんな人を持てたのは有難いことで、それだけにあんなに早く亡くなったのは心底勿体無いことでさあ。

司馬さんと同列に並べてもらう気は毛頭ねえが、病気としては同じに違いがねえ、ってことでいずれはと思う気持ちと、身体にメスが入る、しかも全身麻酔の手術ってえのは生身のカダラには一生どえれえストレスが残るって聞いているもんで正直出来たらやりたくないって気持ちでいたン。

ところが半年前くらいから夜、布団に入って天井を向くと、腹の一部が時々ぴくんぴくんと動くのを感じるようになってそろそろ年貢の納め時かなとは予想していたんでさあ・・。

それで7月中ごろに見てもらったらCTのフィルムを見たとたん、先生いわく「こら切りごろや、よう育てはったなあ」「どれくらいになってます」「60ミリくらいやねえ」 「風船膨らますとおんなじでな、瘤いうのんはある時から急に大きなるねん」

それまでに調べていたんで、径が55ミリを超えると破裂率が年間33%になり、いったん破裂すると死亡率50%を越えるって知ってたこともあり、その場でもう手術を観念して先生と相談して入院日も決めたン。

隠居:そうか、そんなもんを後生大事に育てて、この5年ほど好き勝手やってきたんじゃな。

辛好:そういう事なんでさあ。まあそれでも8月16日に入院して20日に手術、9月1日に退院てえことで順調な経過の方らしいのは有難いことで。

 ただ心臓から下りてきて両下肢へ伸びる「人」型の大動脈部分を人工血管と取り替えるのに、腹割いて腸を掻き分けて背骨のすぐ 前に位置する大動脈を一望に見えるように出して、3箇所でいったんクリップして血流を止めてってなことをしてるんで、長時間空気にさらされた大腸なんぞのハラワタが元の場所にうまく戻り、ストレスで反乱を起こして壊死しないようこっちの方の対処も大変ってことらしく、4日間点滴だけだったン。

それなのにじっと安静にしていたら腹の傷口が変に癒着したらいかんからと、15時間の集中治療室から病室へ戻ったらその時点から点滴液のハンガーを自分で押してトイレへ行けと 言われて・・・・。(思い出したのか殆ど涙声)

隠居:噺家が泣いてどうする。それにまだ下腹に力が入らないのか声がまともに出てねえなあ。

今日はもういいから茶をいっぺえ飲んで帰りな。入院のあれこれはまたこんだ聞かせてもらうから。

辛好:そんじゃあ、今日のところはお腹のお開きという噺まででお開きに。

しっかり傷がくっつくまで、しばらく大人しくしてまさあ。

ただ退屈だからこの歩いて来れる隠居部屋にはまたすぐ遊びにきますんで。

  

後編 売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。

隠居:おう又、来たな。おめえさん、こないだは、手術中自分で自分の腹切りの一部始見ていたようなことを話していたが、確か全身麻酔だったんだよな。

辛好:それはそうなんでやんすが、あの話は手術前の手術事前説明会と術後に病室で先生に聞いた話なんでさあ。

隠居:手術事前説明会ってえのは何のことだい?

辛好:アタシもなんせ初めての経験だったんだが、近頃の(因報務度懇宣度)「同意説明」っていう奴らしく、手術前の血液テスト、アレルギーテスト、自己採血2回、カテーテルでの血管造影撮影で手術対象箇所のレントゲンなんぞが済んだ後、医者方が手術設計をして、それを患者本人と親族・関係者に説明するって言うン。

外科部長は何人来てもらって、聞いてもらっていいですよなんてね。

隠居:じゃあ、自分がどんな手術をされるのかその場で事前に何でも聞けるンじゃね。

辛好:これまで5年付き合ってきた心臓血管外科のW部長と今回、辛好の主治医になったN先生の二人が出てきてW部長が黒板に図を書いて、手術内容とか時間とか説明してくれたン。

この病院で同じ手術を年間20例から30例やっており、成功率はほぼ99%だから安心して欲しいが、100%安全だとは言えませんなんてね。怖気がついて患者に止めますなんぞとと言われないようにソフトに丁寧に説明してくれたン。ただ、こっちがどれくらい切るんですかって聞くまでは、切り口なんぞのことを具体的に向こうから言わなかったのは笑っちゃった。

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