うつ病と戦いながら仕事と看病を続けていた忘れたくても忘れられないあの日のこと
母が食べられるものを選び、夕飯を一緒に食べることが日課になっていた。
いつものように病院に行ったら兄もお見舞いにきていた。
私は夕飯のセッティングをして
今日は用事があるから一緒にご飯食べられないの。
もう、帰るからね。

じゃあ、誰が、かーちゃんと一緒にご飯食べてくれるの?
「ごめんね。今日だけ我慢してくれれば、もっと一緒にいれるから、寂しい思いはさせないから。」と後ろ髪をひかれながら心の中でつぶやいていた。


お母さん、バイバイ!
母は兄に気をとられてて、後ろ姿のまま手をふった。
またね!!
バイバイ!!
母はやっと振り向いて

またね!
この時、振り向かせて良かった。
家に帰り友達と電話をした。
仕事を続けながら看病してたんだけど、病院に泊まり込まなくちゃなんなくなった。
私、睡眠薬とか飲んでるから仕事を続けながら泊まり込んで仕事はできないんだ。
介護休職をとろうと思うんだけど、いいのかな?
あまいかな?

何言ってるの? みんな普通にとっているよ。
介護休職は、「介護休職をとります。」と言えばいいだけで誰も阻止することはできないから。
「妊娠しました。産休、育休をとります。」と言ったら、「それは認められない。中絶しなさい。」と言わないものね。

とらなっかったら一生後悔するよ。
大丈夫だから。
明日、「介護休職をとります。」って言いなね。
貴方の母娘関係は色々あったのに、よく看病する気になったね。信じられないよ。
えらいよ。本当にえらいよ。
そうして私は介護休職をとろうと決心を固めた。
次の日、朝一番に管理職のアポイントをとった。
その様子を見た一緒に仕事をすると、うつ病になるという評判の二人は、私が介護休暇をとろうとしていることを察して攻撃してきた。


迷惑がかかるのは同僚なんだから。



私は、もう何を言われてもいいと思った。
もともとそういう人達だし、介護休職は認められるもので却下できるものではないから手続きを踏むことだけを考えていた。
管理職と話す約束もしたから、あとは認められるだけだから、それまで待とうと思っていた。
管理職との約束の時間がきた。

私はなんなんだろう?と思いながら話し合いの席についた。

仕事が早く終わった時とか調整して早く帰るなどの範囲でやりくりしてください。
却下?
私は呆然とした。他にも言われたと思うが主旨はそれだけだった。
管理職と二人で話すこともないのはおかしい。
組織として世間よりは介護休職や産休育休はとりやすいし、法律で却下できない。
人がいないというのも言い訳に過ぎずに、どうにでもなることを沢山見てきた。
評判の二人は介護休職が認められなかったことに、すごく納得していた。
私は全身を引き裂かれたような気がした。
職場を出て、すぐ前日に相談した友達に電話をした。
あのね、介護休職とれない。ダメだって!!

ありえない! ありえない!
そんな管理職おかしいよ。
わからない。
私は、介護休職をとることができないという信じられない現実にぶち当たり混乱していた。
仕事をしながら母を看ることは無理。
退職しようか?
私はどうなってもいい。生きていくのだから仕事なんてどうにでもなる。
母はただ死んでいくだけ、もうどうにもできない。
しっかりと看取りたい。
今晩、退職の決心をしよう。
今日は母のところに行きたくない。
疲れた、本当に疲れた。
もう嫌だ。
そのまま家に帰ってしまおうか?
でもなぁ。待ってるんだよなぁ。
私が母の立場だったら、やっばり来て欲しいよなぁ。
昨日は一緒にご飯を食べなかったし。
辛くても母のところに笑顔で行こう。
そしていつものように病院行きのバスに乗り込んだ。
携帯電話が鳴った。

俺も向かってるけど30分はかかる。
お前、いまどこ?
15分くらいで着くと思う。

病院に着き急いで母の病室に飛び込んだ。
モニターをはずされた母が横たわっていた。
看護師が五人位で黙々と病室の掃除をしている。
一人の看護師と目が合った。
何も言ってくれない。
その様子から、私は悪いタイミングで病室に入ってしまったんだと感じた。
何が起こっているんだろう・・・。
モニターがはずされてるから死んでいる。
モニターがはずされてるから死んでいる。
何度も何度も自分に言い聞かせた。
間に合わなかった。
しかし、誰も何も答えてくれない。
しばらく呆然と立ち尽くしていると

お話を聞いてください。
そして病室から廊下に出て兄に電話をした。
母は亡くなりました。
義父に連絡してね。

そして主治医からの説明を聞いた。

それから二時間後にナースコールがあり、僕が駆けつけた時には、もう心肺停止をしておりました。
死因は大量喀血による窒息死と思われます。
本当に珍しいタイプの患者さんです。
年に数人くらいしかいない患者さんです。
母は、苦しくなかったんでしょうか?
苦しんだとしたら、どれくらいの時間でしょうか?

苦しんだとしても三十秒くらいです。
何度も急変を繰り返すと思ってました。

お力になれずに残念です。
僕は、このあと不在になってしまうので、お会いできないご家族の方にも、よろしくお伝えください。
母は肺がんの専門医である先生に主治医になっていただけたことを喜んでおりました。
先生、本当にありがとうございました。
何度も急変を繰り返すか、二度目で逝くか・・・。
母は楽に逝った。
放射線治療に生きる望みをかけていたが、放射線治療によってどんどん弱っていた。
闘病で苦しまなくて良かった。
死を待つ苦しみが短くて良かった。
これで良かったんだ。
一緒にいれた時間は、ほんのわずかだったけど、これで良かった。
私は現実を無理やり受けとめた。
母をしっかりと最期まで見送らなければ。
そして義父、兄を支えようと心に決めた。
母がひとりでいる病室に戻り、ベットに横たわる母の体をなでながら、
「お母さん、お疲れさま。頑張ったね。楽に逝けて良かったね。ありがとう。」
と声をかけた。
身も心も張り裂けそうな一日だった。
でもこれで戦いは終わった。私は少し安堵していた。
しかし、この日の出来事が私の壮絶なうつ病寝たきり生活◯年の、きっかけになるとは思いもしなかった。
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