自分の名前が嫌いな子どもと、歴史も名付けも繰り返すのだという、当り前の話。

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私は人間である。名前はもうある。その名を、尚子、という。断じて「ショウコ」ではない。「なおこ」だ。せめてひらがなで認識してもらうのも望ましい。

2010年代これを書いている今、生まれてくる子ども達の名前は、私個人の見解を言わせて貰えれば、もう少し「画数が多く」て「子のつく名前」は少ない。そしてその傾向は、20数年前からだんだん強まりを見せているように感じる。

今現在では、俗にいう「キラキラネーム」で自分の名前を憎む子だっているのだろう。画数が多過ぎるだとか、読みがあんまりに奇抜だ、とか。私の大学時代の後輩にも、その類いの子は幾人かいた。たまに酒など酌み交わしながら、涙目のそういう人の話を聞いた。成る程よくわからないうちに混乱の様相を呈してくる、ということに、厭な思いをするかもしれない。そしてそれは概ねその通りだった、という。しかしだ。私だって、一緒になっておいおい泣く。きっとその理由は、後輩には判らなかったろう。

大切なことは幼稚園の砂場で学ぶ、という。

三つ子の魂百まで、といったことだろう。少なくとも発達の過程として、この辺りから記憶や、砕けた言い方をすれば思い出を獲得する、といる言葉だろうな、と思う。どちらも言い回しの妙や、伝えたいことの細部は異なれども。

ともあれ、幼稚園の砂場やら、三つの時点でもう、名前というものに嫌悪の端っこを見出すことは、あるんじゃあないか。そりゃあ、まだひらがなでなまえをかくにせよ、ないしなまえを書く練習なりをするわけだけど、「家族以外の人、友達に名前を呼ばれる」場、に初めて立たされるのだ。

そんなわけで、キラキラネーム、と呼ばれる人らは、ひょっとしたらこの時点で受難が始まった、という方も、いるのだろうと思う。


さて、キラキラネームをつけられたり、それに呆れたりする世代が、原点回帰、とか、古風だとかいう理由で、「ナントカ子」という名前をつけるかもね。という話題を耳にした。さもありなん。安直だが、あり得なくはないのかもしれない。

が、2013年の日本経済新聞に、こんな記事がある。小林明氏による「女性名から『子』が消えた訳」。それに依れば、こうある。

《「女性の名前から『子』という字が少なくなってきたという話をよく耳にする。人によっては「〜子という名前はやや古臭いイメージ」と感じることも少なくないようだ。》

そしてこうだ。冒頭で私は「20数年前から『子』付きの名の子は少ない」と書いた。だめ押し、とばかりに同記事はそれをグラフと時代考証で裏付けていく。以下、抜粋して要点をまとめる。

《1957年に初めて10位以内に入った「アケミ」は、1965年首位に君臨する。(驚くべきことに、「アケミ」以前のトップ10位は、つまり1957年までは、ランキングの全部を「〜子」が占めていた!)これを切欠とし「〜美」がじわじわと勢力を伸ばしていき、「〜子」を劣勢に追いやる。さらに「愛」のつく名の黄金時代がくる。花の名前が勢力を伸ばしてきても復活の兆しは一向に見えず、そしてついに、1982年(1985年、とも記述がある)「ユウコ」を最後に「〜子」は10位以内から姿を消す。》

これがだいたい昭和の終わり頃の話だ。そして現在「子のつく名前」で検索して見よう。これまた前述の通り、こうトップには出る。

《「子のつく名前145選。古風な響きが女の子を輝かせる!——キラキラネームが横行する今だからこそ、「子」のつく古風な名前が美しく響きます》


私は20数年前、「子」のつく名前が古風で逆にいいじゃん!と、正にこれを一字一句違えずなぞるかのように、「〜子」と命名された。

嗚呼。なんてこった。


流行は繰り返す。そう人々はよく口にする。実際そうなのだろう。社会学の授業で、それについて興味深い話を聴いたことがある。社会集団の在り方についての話だ。これまでの集団の在り方について、その講義の担当教授は「形を少しづつ変えた繰り返し」で、そこを踏まえた上で「これからのことは予言可能」だと言った。

まず、「複数の小集団に別れ、意見の合うもの同士集う」、よく言えば切磋琢磨、悪く言えば排他的で差別的とする動きと、「全体で統一しようとする動き」よく言えば争いの無い世界で、一致団結といえるが、悪く言えばカルト的だし個人の意見というものがどこかに行ってしまうような、強制の匂いも感ぜられる。この2つを、まあ形を変えつつ試みているのだ。

ひとりを尊重しようとしたり、ふたりでひとつになろうとする試みを、絶えず繰り返しているようなものだ。と、今私は思う。感傷的に過ぎるけれども。

随分話題が逸れてしまった。

つまりは、まあ形態こそ違えど、流行りに乗っかり(小集団、個性、個人の趣味、尖ること)、スタンダード(無難さ、象徴)に戻る。そういうことだ。まんまとそのとおりになっている。


嗚呼。

断言しよう。『古風な名前で子は喜ばない』。

2年前に「古臭い」と吐き捨てられた名で、どうして輝けようか?古風を幼少期、人格形成時、子が望むか?そんじょそこらの女児向けアニメの、無難そうな名前を参照してあげた方がまだ良心的だ。

閑話休題。


前置きが随分長くなってしまったが、

幼稚園という、社会という場に入って、きっと「キラキラネーム」も「〜子」も戸惑いを覚えるのではないだろうか。前述の、「他人から名前を呼ばれ始める」体験が開始される。

個人的な、これはキラキラネームの人の苦しみに代替して語れるものでもないし、どちらもきらきらとは程遠いであろう——先述の《「〜子」で輝く》は、全く大層な皮肉だ——話だが、他の子と「子」というしっぽを持つ名の女の子は周りにいた記憶がない。いたとしても、それはきっと少ない。カヨだとか、カオリやマユミやマミやアユミ(なんだかミで終わる名前が多かったな)それに花の名前の子。そういうような子が多数派だ。見事に日経新聞の調査に符合する。完全な余談だが、当時ポケモンのカスミとかいう名前に随分憧れた。「〜ミ」世代に向けて出していたのだろう。(当然というか、「〜コ」はおばあさんキャラとして登場した。ほら、ポケモンだって、キクコがいたでしょう)子どもの頃、当然のように憧れる変身魔法少女系にも「〜子」なんていた試しがないし…

[と、しょんぼり思っていたらば、まどかマギカで「杏子」なる子がいたことに気がついた。そして、しみじみ驚いた。正直「なんでそんな名前なんだ?」とすら思った。「名前のことで、どの登場人物に一番肩入れし、同情するか」といったら、私は「杏子」だ。俄然「ほむら」ではなく。今の子はきっと、たぶん恐らく紫の子に同情する。「ヘンな名前だし、それに、名前負けしてます」かっこよくなっちゃえ。いじめられもするだろう。が、ああ、もし綺麗だったら、それは武器になる。杏子。その立場で、そう言っていたら、そこでおしまいだ。]

そして、ぜんたい、彼女らは総じて画数が多いのだった。三文字も使うのも羨ましかったし、二文字で可愛らしい名、というのも呼びやすくって、憧れた。

名簿に並んだ私の名前は、なんだかひどくまぬけに、ばかみたいに見えた。

せめて「尚」でなく「直」ならよかったのに。赤毛のアンが「E付きのアンね」と主張するように。私は訴えたこともある。厳格でおそろしい父ではなく、いつも歌って躍っている母に。「もしその漢字を思いついてたとしても、それじゃあ直角のチョクじゃない。角張ってるイメージで、かわいくない。やだ」と一蹴されてしまったが。

それでも直子ならば。直子ならば、なんだか不一致がない気がするのだ。私は食い下がる。


或いは、奈緒子だったらば、そうしたら「三文字で画数が多くて」いいのになあ。だの、いっそ奈緒なら「二文字で可愛らしい」に該当するぞ。とも、思ったりもした。いっそ「直」か「奈緒」で、煩わしい「子」というしっぽを切り落としたい、と、真剣に考えた。それこそトカゲのしっぽを切り落とすように。

というのも「なお」という響き自体は、私はそこまで嫌いではなかったのだし、両親は「なお」の部分に意味を込めていたのだ。特に響きには拘ったらしい。「尚」という漢字にも。

響きや音は大切だ。音楽でなくとも、言葉にもそういった響きや音や、リズムがある。なんだっけ、リズム、メロディ、ハーモニー。それが私の人生の宝のうちのひとつ、合唱でも重点されることのひとつでもあるわけだから、名は体を表すわけだ。うん。

けれども「尚」は画数のすかすかぶりに反して重た過ぎて、立派すぎる。私の身には余るのだ。

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