人身事故の現場の空を舞う白鷺の話

ある駅で電車が止まった。

人身事故。

それは、僕が電車を待っているちょうど向かいのホームで起きた。約1時間電車は止まり、ホームの端から「その人」が電車の下から運び出されるまでを見た。

電車を待っていたプラットフォームの一番端で、10数人の主に男性がその作業を凝視していた。

多くの人が無言で見つめる中、携帯を取り出して写真を撮ってそれを友人に送る20代の男性。さらに、写真の送り先の友人から電話がかかってきて状況を「中継」する。他にも、現場の写真を撮ろうとする人が何人かいた。

あなたはこの行為をどう感じるだろうか。

こんなことをする人を不快に思う人もいるかもしれないが、実はこの時、僕はそれほど不快な感じがしなかった。おそらくもうあと30分もすれば電車は動き出し、何もなかったかのように駅は元の状態に戻るだろう。

ここで「その人」が人生を終えたことなど、誰にも気づかれない。あの瞬間「その人」が確かにここにいた。そのこと、その事実を少なくとも写真は記憶し、誰かの記憶の中に少しの間は残るだろう。

死ぬこと自体はタブーではなくて、ここそこにあって、人間の致死率は100%である。もちろん、面白がることでないことは言うまでもない。が、ことさらに隠し、触れないようにし、気がつかないようにするとか、神秘化するようなことでもないと思う。僕はその結果、あたかもそのこと自体がなかった、起こらなかったことかのようにされてしまうことのほうに言いようもない不気味さを感じる。

そう思うと、心底腹が立つという気持ちにはなれなかった。何もなかったことになるよりはいいだろうと思った。それに、そこを立ち去れずにその場にいた僕もそんな人とそれほど変わりはないかもしれない。

「その人」は白いシーツに包まれて列車の下から運び出され、担架に乗せられ運ばれていった。担架からは黒い革靴と黒い靴下がはみ出ていて、彼はあおむけではなく、うつぶせに寝かされているようだった。青いビニール袋を手に持った救急隊員が担架と並んで歩いていた。

彼は、昨晩の月蝕を見ただろうか。

今日の朝日をどのように眺めただろうか。

今日、一日何を考え、何を飲み、食べ、

どんな気持ちで人生最後となる夕日を眺めただろうか。

そして、あの瞬間、何かを思い出したのだろうか。

誰かのことを想ったのだろうか。

彼は、もう次の日も、その次の日の朝日を見ることはない。

ふと後ろを振り向くと、その作業を呆然と眺めているのは、全員が30代から50代の男性になっていた。担架で運び出された彼を見送る、幾人かの男性の表情、視線からは、何とも言えない、それは何だろうか、何と言ってよいだろうか、それは同情だろうか、共感だろうか、嫉妬と憤りだろうか、とにかく、そんな何とも言えない感情が読み取れたと感じたのは思い込みだったろうか。

後ろにいた誰が「あ、蝙蝠だ」と言った。

彼が運び出された場所の直上の空を眺めると、白鷺のような白い大きな鳥が、ゆっくりと羽ばたきながら、その場で旋回してどこかへ飛び去って行った。

信じられないが、本当にその白い鳥はどこからともなく現れて、消えた。

チベット仏教では、鳥が魂を運ぶというが、彼の魂もその鳥が運んでいったのだろうか。

すくなくとも、電車の下、線路のあたりを漂うよりは良いと思った。

そう思うことにした。

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