電車に轢かれて脚を丸ごと一本切断したサラリーマンが、半年後義足で職場復帰した話
脚一本程度で人生は終わらない
これが今の自分の姿。
左脚は丸ごと一本義足です。
股関節離断という症状で「股義足(こぎそく)」と言われる義足を履いています。
充実した生活を送っていた中、電車に轢かれ脚を失ったのは6年前。それから半年後、職場復帰するまでの体験を綴らせて頂きます。
生死の境目、片脚を失った人生のどん底からどうやって自分が立ち上がったのか。
その体験が読まれた方の何かのきっかけになれば幸いです。
※このストーリーは、私のブログ「それいけ股義足」に綴った内容を短くまとめたものです。
こちらから全編も読んでいただけると幸いです。
http://gohdp.net/comeback-report/
切断前、充実した生活。
海外出張の機会も多く充実した仕事。仲間と遊び回る日々。
タイやカンボジア、インドへの一人旅。
(旅先で出会った方々とガンジス川にて)
ダイビングやソフトボール、ビーチバレー、スノボなどのスポーツ。
そんな公私ともに充実した日々の中、人生を一変させる出来事が起こるなんて想像もしていなかった。
事故、そして入院。
仕事終わりに友達とご飯に行き、気が付けばもう終電の時間。
友達と別れ、一人で駅に向かったところが最後の記憶。
そこから先の記憶はない。
次の記憶は知らない天井、身体中の激痛、ベッドの周りで自分を見つめる家族。
どこにいるのか、どれだけ時間が経ったのかもわからない。家族全員に囲まれている理由がわからなかった。
まず出た言葉。
父親に事情を聞き、電車事故に遭い集中治療室にいること、身体中の痛みの理由は把握した。
身体の違和感にも気付き始めていた。
右脚はギブスをはめられ、全く動かせない状態。右脚は車輪に巻き込まれ、膝上から足首までズタズタになっていた。
頭は丸刈りにされていた。外傷性くも膜下出血で、開頭手術をされていた。
顔はパンパンに腫れあがり、ひどい見た目だったらしい。
そんな中、妹は看護師さんに言ったらしい。
いや、そんな状況じゃない。
そして左脚。
ほんの少し、付け根あたりの感覚はあるが、その先の感覚がない。
家族も医者もまだ何も言わないが、気付いていた。
左脚はないと。
あえて確認はしなかった。聞くまでもないと思っていた。
数日経って、左脚は大腿から切断したことを告げられた。
「ああ、やっぱり」というのが感想だった。
後に知ることになる運ばれた時の診断名。
・左脚大腿部開放骨折
・右脚膝上〜足首にかけてデグロービング損傷
・外傷性くも膜下出血
意識が戻っていない間、左脚切断&右脚再建、くも膜下出血と2度の手術を受けていた。
それでも、まだ事態の深刻さを理解していなかった。
「早く家に帰りたい。仕事に行きたい」と言っていた。
しかし、次第に今でも自分は生死に関わる状況で、仕事に行くどころかベッドから一歩も動けないことを理解し始めた。
その時自分は30歳。
残り50年続く人生を、この身体で生きていくしかないのだと思った。
同時に思ったのは、脚を失っても、自分には面会時間いっぱい一緒にいてくれる家族がいる。
職場の人たちもみんな来て頂いたとも聞いた。
その時家族に言った言葉。
本心だったし、今でもそう思っている。
そしてこれからの人生、どう生きていきたいか考えた。
不安がないと言えば嘘になるが、脚一本なくなったぐらいで縮こまって生きていくなんて納得できなかった。
脚一本程度で人生は終わらない。
仕事はデスクワークで這ってでも職場にいければ仕事はできる。
たくさんの友達がいる。まだ独身だし、きっとそのうち結婚もする。
絶対戻る。
職場にも、みんなのところにも。
ベッドの上から一歩も動けず、身体中の激痛、発熱も続き思考もはっきりしていなかった。
それでも、そう決めた。
集中治療室での日々
一週間ほど経った頃、初めて集中治療室から外に出た。
冬の冷たい空気が気持ちよく、懐かしく感じた。
やっと集中治療室から出て、一番にあの夜一緒にいた友達に連絡した。
父親から事故に遭ったことは伝わっていた。
きっと深く心を痛めている。自分を責めているかも知れない。
心配かけてしまったことを謝りたかった。
「ごめん!心配かけて!」と電話した。
安心してもらいたかったし、同じように心配してる友達にも伝えて欲しかった。
職場のメンバーにも連絡した。
途中になってしまった仕事のことも気がかりだった。
その頃の状態は、右脚は毎日のように感染して壊死した組織を削り取る厳しい処置。
そのたび強烈な麻酔を打たれていた。
左脚も感染が治まらず、時折激しい痙攣に襲われていた。
外傷と感染症からくる高熱、強力な麻酔で現実感がない状態が続いていた。
幻肢痛も感じ始め、正体のわからない痛みに悩まされた。
痛みと時間の感覚が狂っていたため、眠れない夜が続いた。
退院後、看護師さんに「あの頃夜泣いてたよ」と聞いた。
肉体的にも精神的にもギリギリの時期だったのだと思う。
そんな中、障害者手帳の申請について説明があった。
それまで障害者になった自覚がなく、
「障害者か。そりゃそうか。脚ないんやもん。」と思った。
障害者になったことについては、特にプラスの感情もマイナスの感情も起こらなかった。
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