安全保障関連法案の衆院通過という事実を前に私たちの国の自由と独立について考えた話

国会前で集団的自衛権反対のデモが続いている。これまでの高い支持率に奢った結果が今日の状況を引き起こしたのではないかと思う。

さまざまな人たちが、この問題について考え、声を上げている。結局参院でも法案は通過してまうのだろうけども、多くの人が集まって声を上げていることには大きな意義があると思う。無数の人々が直接に声を上げていくことは、間接民主制である私たちの国であっても、重要な局面においては必要なことだと思う。

集団的自衛権には反対である。

ただし、集団的自衛権に反対を表明したうえで、どのように私たちの自由と独立を守っていくべきだろうか。自称右翼の僕は、戦争反対と叫ぶだけでは国家の自由と独立は保障されない、という点においては政権与党の見解に同意する。もちろん、戦争反対と叫ぶことが無意味だとは考えていない、重要なのは叫んでおいた上でのその先かと思う。

ここしばらくのフィリピン独立革命史のお勉強は、戦前、戦中を通過して、戦後の政治史に移行しつつある。かつてフィリピンにはクラークとスービックに巨大な米軍基地があった。この2つが閉鎖されたのは90年代の初めのことで、ここにおいてフィリピンにとって悲願であった外国軍隊の基地全廃が、マゼラン来航およそ500年の後に達成された。

南シナ海が今日のような「熱い海」になったのはその直後からだった。

なぜ、中国は南シナ海を欲するのか。

米中はそれぞれを仮想敵国としている。そして、この二国間の直接的な武力衝突は、核兵器による潰し合いによる共倒れの回避という「相互確証破壊」のきわどいバランスの上に抑止されている。

冷戦時代、米ソはを戦略核ミサイル原潜を世界各地の深海に埋伏させることによって「相互確証破壊」のバランスを保っていた。地上のサイロに格納された戦略核ミサイルはスパイ衛星によって容易に探知と破壊ができ、実戦力としては有効に機能しないためである。

それ以前、アメリカは核ミサイルを搭載した列車を長大な線路の上で24時間ぐるぐると運転させたり、航続距離の長いB-52爆撃機を領空奥深くで上空待機させたりして反撃能力の確保に努めていた。しかし、列車も爆撃機も膨大なコストや事故のリスクが高く(実際核兵器を搭載した爆撃機が墜落し、核爆弾が行方不明になる事故が起こっている)、結局、米ソは戦略核ミサイル原潜を世界各地の深海に埋伏させる方法に落ち着き、冷戦時代は、主に北極海の厚い氷の下を米ソだけではなく、核保有国の原潜が遊弋していた。

ちなみに中国を取り巻く海である東シナ海は深度が浅く、世界一の探知能力を持つといわれる海上自衛隊の哨戒機に容易に探知されてしまう。一方、南シナ海は原潜を埋伏させるに十分な深度がある。

中国が執拗に南シナ海を欲する理由がここにある。

陝西省や青海省にある探知可能な核ミサイルサイロは「相互確証破壊」を担保しない。今、米中が核ミサイルを互いに撃ち合う事態になれば、負けるのは中国のほうである。だから、中国は南シナ海の深海に原潜を潜ませ、その海域を海上戦力によって防護する。これが、よく言われる「第1列島線」「第2列島線」ドクトリンである。これらは米本土を直接攻撃する能力を持つ原潜を守るための戦略として策定された。

その中国とアメリカの間に位置する日本。

どうするか?

アメリカは外国基地を「第2列島線」の外側であるグアム以東の線に後退させたがっている。実は日本から出て行きたい米軍。思いやり予算を何千億円払っても、そのほうが「安上がり」なので米軍撤退は困るという日本。そこで、首相が訪米の折に米軍にいてもらうために集団的自衛権容認の約束をした。

米軍が撤退するのは良いことであろうと思う。これは日本の悲願である。

ただ、そうなればフィリピンの例でも明らかなように中国の圧力はこれまで以上に強くなるだろう。では、「第2列島線」の内側にある日本は、日米同盟を破棄して、日中同盟を締結し国内に中国軍駐留を許し、アメリカと対峙するか?

大きな意味で中華文明の一部に属する日本としてはそのほうが自然と言えるだろうか?歴史的に考えれば、中国は自分の軍門に下った国に対しては鷹揚であるように思う(清朝の領土であり、核心的利益の範疇であるチベットと新彊は別として)。

あるいは、過大なコストを承知の上で「ハリネズミ武装」を決め込んで「非同盟・武装中立」路線を選択するのか。個人的にはこれもありかと思う。このように同盟/非同盟、武装/非武装を軸に考えると以下のようにシュミレーションできる。

同盟/武装   :現在の政権与党の路線(ただ日中同盟というウラ面もある)

同盟/(非)武装:これまでの路線、しかし、世界情勢はこれを許さない

非同盟/武装  :スイス、スウェーデン式路線、武器輸出もどんどんやる

非同盟/非武装 :最も理想的な路線、しかし実践国なし

        初の実践国としての名乗りを上げるか?

なぜ日米同盟かと言われれば、かつて日本はアメリカと戦って負けたからである。そういう意味で、日本も植民地的状況の虜であるといえる。結局、一流先進国の自負を持つわが国も、植民地状況を許容せざるを得ない数多くの国一つであると言えるだろう。

その点で、フィリピンと日本は共通している。

昨今の状況に鑑み、フィリピンでもクラーク、スービックの米軍再使用の提案がフィリピン自身によって提案されているようであるが、血のにじむような独立革命史を持つこの国にとってこの提案は簡単に受け入れられるものではなく、根強い反対論があると聞く。では、どうやって自国の領海、権益を守っていくか?

同様のジレンマを抱えて、フィリピンと日本は今後どのような道を歩んでいくのだろうか?

もう一度言うが、集団的自衛権には反対だし、今回の一連のデモは大変意義深いものであると思う。ただ、同時に「では、どうするか?」という点においても、活発な議論がなされるべきだと思う。

戦争反対の声が「軍事について語る」ことをタブー視するする雰囲気を作らないことを願っている。タブーは思考停止を引き起こし、最終的には人間を破滅させる。ミリオタ歴40年の僕としては、今回のことからかように考える。

このような日本をめぐる軍事的な動きをも含めた状況についての議論を尽くした上で、それでも非同盟・非武装路線を選ぶとすれば、それはすばらしいことだと思う。

余談だが、フィリピン独立革命史のお勉強をして、なぜあの国があのような道を歩んだのかと考えれば、それはフィリピンの人たちが「自分のことば」で「自らが何者であるのかを語る」術を持たなかったからであると思う。

フィリピンにおいても力の結集はあった。ただ、それは「あと一押し」という所で同じフィリピン人の裏切りによって挫折する。それは、現在も今なお続くナショナルな「我々」意識形成の挫折の歴史であるとも考えられる(ナショナルな「我々」意識形成の是非はともかくとして)。

一方、スールー王国は自らを語る言語と象徴体系を保持し、それが今なお平定されない力の源泉となっているように思う。このように考えれば、今までの話と矛盾するが根源的に人間集団の自由と独立を保障するのは、実は力の結集ではなくて、このような術だろうかとも思う。

こう考えると、何もかもわからなくなる。

とにかく、今後10年日本はどのような道を歩んでいくのだろか?70年安保の自然成立と岸内閣の総辞職が日本発展の礎となったという言説がある(「実際」その通りなのかはわからない)が、今回の法案の衆院通過は、歴史にどのように刻まれていくのだろうか。

長いですけど、考えたことを書きました。みなさんはどう思いますか?

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