引きこもりからのアルゼンチンサッカー留学記

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引きこもりに至る経緯とその日々は個人的には思い出したくもない事だった。それに人に打ち明けて笑われたり、内心で引かれたりするんじゃないかと思うと怖かった。

引きこもりを克服するためにアルゼンチンに行ったわけではない。プロサッカー選手を目指してアルゼンチンに行った。アルゼンチンで本気でプロを目指している過程で出会った人達やアルゼンチンという国が持つ大らかさ人々の温かさのおかげで自分は全ての面で変われた。それは同級生や10代の頃を知っていてアルゼンチンに行ってからの僕に会っていない人達に会うと「前と違うね」「変わったよね」と言われるようになった事から分かった。それからだ。いつの日かこのアルゼンチンでの日々を多くの人に見てもらえる場で発表しようと思うようになった。

今回書き記している事は読めば分かっていただける事とは思いますが過去にされた事の暴露やその恨み事、関わりある特定の人を晒して傷つけるために綴るのが本意ではないということは先に記しておきます。

僕が変わっていく過程を楽しんでいただけてアルゼンチンという日本から遠い国に興味を持っていただけたら幸せです。

6歳で東京から千葉県習志野市に引越し、小学5年でサッカーを始めました。理由は当時僕の通っていた小学校では5年になったらミニバスケかサッカーどちらかの部活に入らなければいけなかった。ミニバスケの方は入っている人数が多くてサッカーの方が少なかった。「試合に出れそうだ」からサッカーを選んだ。

試合に出れないのも嫌だったので少ない方に行きました。なぜ人数が少なく人気がないのか。先生が怖かったからだ。

サッカー部に入ってみてとにかく走るだけで来たボールをとにかく遠くに蹴り飛ばすだけ。ミスれば怒って思い通りいかなければ怒って。泣かされて。楽しいとは感じられなかった。中学行ったらサッカーだけはやらない!と決めていた。

僕には兄が1人いるんですけど家では殴られたり学校行けば部活で先生は怒ってばかり。そんな感じなのでとにかく目立たなくする事が自然と身についてしまっていた。目立たないように。口数は少なく明るくなかった。そんな小学生時代だった。

中学ではサッカーやらないつもりだったけど僕の中学では3つの小学校が集まる。他2つは丸ごと入ってくるのに対し僕の小学校からは3割くらい。中学のサッカー部は人気の部活。他の2つの小学校はサッカーが盛んで強かった。人数が少ないうえに部活までマイナーなのに入ってしまったら口数は少なく明るくない僕は友達が増えないんじゃないかという危機感を感じて仕方なくサッカー部に入った。

中学からはゴールキーパーを始めた。周りが上手かったのでフィールドプレーヤーで出れる気がしなかったのと小学生の時少しやった事があったからだ。フィールドと比べて動かなくていいというのもあって決めた。

キーパー自体はやってて面白かったのだけど、性格は暗くて口数が少ないので指示が出せない。サッカー部に入ったからといっておしゃべりで明るい性格には変われない。身長も大きくないしこれはキーパーとしては先々厳しいなという思いはあった。

小学校と大きく違うのは強くて勝ち続けること。殆ど負けないどころか試合をすれば大差で勝っていた。サッカー自体は楽しくなってきていた。

Jリーグ開幕

中学に上がった93年にJリーグが始まった。サッカーが楽しくなりそんな時に華々しく始まったJリーグのおかげでそれまで好きではなかったサッカーに興味を持ち出した。

この時に千葉テレビでアルゼンチンサッカーが放送されていた。これにハマった!紙吹雪が舞うスタジアム。上手くて派手なプレーに見入った。Jリーグは放送してれば見るけどそれだけ。Jリーグのおかげでその他の国のサッカーを見られるようになりアルゼンチンサッカーを好きになれた。

中学の先輩の北嶋さん(元レイソル、ロアッソ)が選手権で高校1年から大活躍。そして市立船橋は選手権優勝。中学時代も話した事はなく遠くから見ているだけだったが身近な人が全国でテレビで活躍しているのを見て凄いと思った。プロになりたいとも思った。

僕としてはアルゼンチンサッカーが好きなのとカズさんの影響で海外に興味があった。カズさんがブラジル帰りなら僕はアルゼンチンに行ってやろうとマジメに考えていた。サッカー雑誌に海外サッカー留学の広告が載っている。とても魅力的に見えた。何故なら僕がサッカー嫌いからサッカー好きになれたきっかけの1つであるアルゼンチンの留学があったからだ。アルゼンチンの○○というクラブでプレーする。そうすれば上手くなれるんじゃないかというとても発想を持っていた。そんな時当時創刊されて間もないワールドサッカーダイジェストの1つの記事が目を引いた。それは育成専門のクラブでドリブルの時の目線、姿勢などに至るまで細かく教えていた。そうやって個々のレベルを上げて認められればプロクラブの下部組織に買われていく事が出来てひいてはプロ契約に至れる。練習の時に全く意識していなかった事が実際はたくさん気を使う事があったなんて。しかもプロクラブではないアマチュアクラブが教えているなんて。そのクラブの所在地がアルゼンチンであることも惹きつけられた理由だった。ここに行きたいと思った。

親に高校に行かずにアルゼンチン行きたいと告げたら「高校くらい出てくれ」と言われた。その考えも無理もない、そういうものかなと思った僕はあっさり引いてしまった。アルゼンチンへの思いは一端置いといた。

じゃあどこに行こうか。僕は県選抜にも入ったことはないしJリーグの下部組織にセレクションで入れるほどの選手じゃない。高校で出来る限り上手くなれなければアルゼンチンで通用しない。

北嶋さんのいる市船に行けば僕でも上手くなれるんじゃないかと思った。

全国目指して才能ある奴らと切磋琢磨する。そういう経験をしてから海外に出ても遅くないんじゃないかと考えた。

というわけで市船を目指す事にして見事一般受験で合格。

市船に入学する事になる。

高校は超名門。挫折

いやーメチャクチャ嬉しかった。暗い性格の僕が舞い上がってしまうくらい。それからはサッカー雑誌を引っ張り出して雑誌に載っている練習を夜な夜なやったり。この時から憧れのアルゼンチンは頭から吹っ飛んでいた。

練習には春休みから参加できた。新1年生に慣れてもらうためでもあるし、どの程度のレベルなのか見るためだと思う。

僕はキーパーを辞めてフィールドプレーヤーでやっていく事を決めた。同じ1年生や上級生にも上手い子はいた。それでも頑張ればやれるんじゃないかと思った。何人かは気にかけて話しかけてくれる先輩もいたし厳しい上下関係があるようではなかった。挨拶をしっかりやってタメ口を聞かなければうるさい人や嫌な人はいないんだと分かった。これはやりやすそうだなと思った。

春休みも終わりごろ入学を控えた頃になると見た事もない子が増えてくる。2,3年生の先輩達は市船のジャージや練習着を着ているのに着ていない子が増えてきた。すぐに分かった。同級生の推薦入学組みだ。彼らはAチームの遠征について行っていて遠征から帰ってきたのだ。春休みの頭から僕と一緒に練習していた同級生やAチームに入れなかった上級生より上手く身体能力も高い。ここでようやく「ここは市船なんだ。僕は市船にきたんだ」と改めて理解した。

入学して学校が始まる。そしてそのまま練習も始まった。

入学から1ヶ月は走りなどきつい練習ではじまった。これは「しぼり」という毎年恒例の1年生を追い込む練習だ。しぼりは推薦組みでも1年は全員参加しないといけない。(毎年恒例と言ったが今もしぼりがあるかどうかは知らない)

リフティングを落としては走り、チーム戦で負ければ走る。とにかく走る。少しづつ脱落していく子達がいる。一般の子の中には無名でも上手い子や中にはお世辞にも上手くない子もいる。おまけに走れないで制限時間に入れない。僕は中学の時はキーパーで足元の技術なんてないんだけど元キーパーの僕より出来ないで「お前そんな程度なら市船来るなよ」と心の中で思っていた。同じ1年の推薦組は制限時間内に走れない一般の子達に厳しい言葉で責めたてていた。それは足を引っ張る奴は追い込んでどんどんふるいにかけていくためだ。上からさらには指導者からもしぼりの期間はそうやって肉体的にも精神的にも追い込むように言われていたのだ。そこまでする事ないじゃないかと思ったが人のことより自分に精一杯だ。何せ毎日足を攣りながら走っていたのだ。走っている最中に右足を攣って走りながら直す。すると今度は左足が攣る。こっちも直す。その繰り返しだった。

家に帰れば寝るだけ。というかそれ以外のことをする余裕などない。

ある日の練習でいつも通り走ってドリブル競争を複数のチームに分かれて行った。僕のチームはビリになった。そして罰ゲームはピッチ往復を34秒以内。僕だけ入れなかった。なので1人でも入れないと連帯責任チーム全員でやり直し。1本目で入るのが超重要。分かっていた。この1本で力を使い果たした。走れる子に後ろから押されながら、引っ張られながら走ったが無理だった。僕以外の皆は何回やっても全員制限時間内に入っていた。結局、僕1人で36秒にして走った。それでも何本も入れずようやく入れた。そこで練習は終わり。部室では伏目がちにして周りを見ないようにしていたが、やはり雰囲気が重い。「お前、もう来るなよ」誰かがボソッと言ったのが聞こえる。僕の事なのかな?けど気付かないフリして帰った。同じ中学の子との帰り道。大丈夫だよ、頑張ろうぜ。と声をかけてくれた。まだ4月半ば。「スタートはこの位置だけどこれから頑張っていけばいいんだ。僕だって手を抜いて入れなかったんじゃない」そう自分に言い聞かせて家に帰った。明日は月曜日。唯一のオフ。こんな終わり方をして1日間が空くのは僕にとって幸運だった。

翌日、登校すると同じクラスのサッカー部の子達は普通に接してくれていた。しかし僕のクラスを通りがかる他のクラスのサッカー部員達は僕を見つけると妙によそよそしい。昼休みに他のクラスの部員達が僕のクラスの前の廊下に集まっているのが見えた。やってきて座っている僕を取り囲んで部活を辞めるように脅された。部活を辞める気は無いと告げるとまた廊下に集まっている。少し空いていた窓の隙間から皆がなにやら話し合っている。どうやって追い込もうかと。その輪の中に同じクラスで普通に接してくれていたサッカー部の子がいたのが見えた。

そして最初に辞めるよう言ってきた子がまた来て「来てもいいけど次また時間内に入れなかったらお前やばいぞ。それでもいいんだな?」と言って僕の返事も聞かずに帰っていった。

こんな事があっていきなり明日の練習で罰走があってまた時間内に入れなかったら・・・。それが連帯責任で皆に迷惑かけたら僕はどうなってしまうんだろうか。仮に明日は大丈夫でもまだ部活は続く。考えただけで恐ろしくなった。生きてきた中で一番怖かった。どうすればいいんだろうか?一応翌日の準備はした。バッグにサッカーの準備は入れた。

翌朝家を出るとき僕は違うバッグを持って出ていた。脅された事以上に廊下で集まっていた中に同じクラスの子がいたのが一番堪えた。他の皆を止めようとしてくれていたのだろうか?それとも一緒になって辞めさせようとしていたのだろうか。分からない。もう部活には行けなかった。

入学式後に少しづつ減っていく同級生の子達に対して「お前、そんなんなら市船に来るなよ」と思ったりした。そういう目線で見ていた。まさか僕が「そっち側」の人間になるなんて。

サッカーやりたくて市船に行って足を攣りながら走ってただけでサッカーやる前にこれから一緒に戦っていく仲間と思っていた子達に否定されて終わってしまった。あの朝、いつも通りサッカーの道具を持って登校していたら。今でもこの事は想像したりする。

毎日泣いた。授業中もふいにどうしようもなく悲しくなって涙が出てきた。家に帰って夜も寝れないほどに泣いた。泣き疲れていつの間にか寝ていて気付いたら朝という日々だった。理想と現実のギャップにはついていけなかった。

僕に起こった事はどんな部活にも程度の差はあれ、ある事だとは思う。この中からプロも生まれている。昔はもっと酷かったはずだ。

なら何で誰も何も言わないのだろう?という疑問が湧いてきた。このような事は必要なのだろうか?無くてはならない事なのか。

僕はこんな事でサッカーを辞めるのか。部活を辞めると高校年代ではサッカーをする場所が無い事に気付かされる。辞めると周りに体裁がつかない。何で普通の高校生が帰宅する時間に地元の駅にいるんだろう?部活じゃないのか?なんて思われかねない。だから部員100人越えで試合に出れずにスタンドで応援するだけで3年間を過ごしてでもしがみつくんだ。この出来事で全て分かった。この悪循環このまま放っておいたらまずくないか?そう思った僕はサッカー雑誌に自分に起きた出来事を投稿した。しかし取り上げられる事はなかった。逃げた者の意見は通らないのか。ここでも否定され必要とされない孤独感を味わった。ならば意見を求められる立場になるしかないと思った。だが、どうすればいいのか。情けなくて悲しくて泣いているだけでは何も出来ない。時折校内ですれ違うサッカー部の何人かは辞めた後もあの時走れなかった事を蒸し返して馬鹿にしてくる。好きで走れなかったわけじゃない。悪いと思っているのに。何も言い返せない。学校も嫌になってきていた。

僕は部活は辞めたけどプロにはなりたかった。この気持ちだけはどんなに泣いても馬鹿にされても消えなかった。

その後、僕は小学校のグラウンドで活動していた街クラブに何とか入れた。選手権優勝校から街クラブ。僕も含めてみんな上手くない。監督、コーチが一番上手い。規模と環境。落差が激しい。

そんな時ふと思い出した。あの記事だ。アルゼンチンの選手育成クラブの事が書かれたあの記事。文の最後に「ご意見、ご感想なんでもどうぞ」と書いてあった。自分におきたこれまでの事。アルゼンチンへの思い。プロへの願望。これまで送ったサッカー雑誌への投稿と同じ事を書いた。約半年後、忘れた頃に僕宛にハガキが届いた。差出人はアルゼンチンの選手育成記事を書いたサッカージャーナリストの故冨樫洋一氏からだった。

冨樫氏からの返事が来て僕はもの凄く驚いた。テレビにも出ているような人から「まだ興味があったら連絡してください」という一文と連絡先をいただいた。今まで否定されてきて意見を出しても相手にされず。そんな状況でたった一人冨樫氏だけが僕の声に耳を傾けてくれた。

言いたい事はたくさんあったけど言えるかどうかは不安でなかなか電話は出来ずにいた。しかし連絡しない事には何も始まらない。思い切って電話をして会ってもらえる約束をした。約束の場所に行くと冨樫氏がやってきた。テレビで見た事ある人が目の前にいる。力強い握手が嬉しかった。今、向こうのクラブがどんな状況か。先に行った日本人がいてどうしているか聞いた。僕は自分の事やアルゼンチンサッカー留学への思いを伝えた。最後には「まずちゃんと親と話し合うように」と言われた。

親に話を持ちかけた。もう迷わない。両親からは経済的な不安とアルゼンチンに行っても無理だ通用しないという意見。サッカーは趣味でやればいいじゃないかという願いがあった。僕が市船に行く事にあまり良い顔をしていなかったのを思い出した。どうも上を目指してサッカーを頑張るのが好ましくなかったようだ。

望んでいる場所は今では何の興味もない場所になってしまった。相変わらず時々だがサッカー部の特定の子に馬鹿にされる。そういう事が続くとひょっとしたら同じクラスのサッカー部の子達も口には出さないけどそう思っているんじゃないかと勘繰ってしまう。小中学生の時よりさらに口数は少なくなってきた。学校選びを間違えたと思うようになってきた。受験の時に同級生が僕がどこに行くか当然知っていた。ひょっとしたら皆僕が続かない事だろうと予想していたんじゃないだろうか。この時は嫌な妄想しか出来なくなっていた。「他人に本音を言って失敗したら大変だ。もう2度とそういう事はしない」と心に決めた。僕はさらに自分の殻に閉じこもっていた。

高校2年生になる前の春休み。教科書を買いに行った。電車で教科書の売っている本屋に向かう。その車内で見知らぬ人達同士が話して笑っている。よくある光景だ。でも僕の何かがおかしいんじゃないだろうか。僕が笑われているんじゃないだろうか。そう思いだしたら春先だってのに嫌な汗が止まらない。車内の空調は快適に効いている。地元の駅から6つしか離れていない。20分もあれば着く距離だ。一駅ごとに降りて汗がおさまるのを待った。また電車に乗り込むと誰かが僕を笑っている気がして気になって仕方がない。そうなると嫌な汗が滝のように出てくる。異常な量の汗をかいている僕を見て気持ち悪がっている人がいるんじゃないだろうかと気になってくる。でも顔が上げられない。こんな感じで人のいるところに出ると僕の中で異変が起きているのを感じ出した。そのうちに人の目が見れなくなってきた。

2年生になってもう学校は休みがちになっていた。家をいつも通りに出ていって自転車でその辺をうろつき親が仕事で家から出て行った頃を見計らって僕は家に帰る。何日かすると学校から電話が来て休んでいる事が親にばれる。行く約束はするけど僕は行かなかった。怒られてたまに行って殆ど行かない。電話が来る。それでも行かないで1ヶ月以上連続で学校に行かなかった事もあった。学校に行くと「まだいたんだ」というリアクションを同じクラスの子にされる。そりゃそうだよな。学校に行かなきゃ、とは思う。けど学校に近づくと気分が悪くなって校門をくぐるなんてもう出来なかった。

修学旅行の時期になり先生は「修学旅行は記念になるから来なさい」という。まだこの時は学校にちゃんと行けば取り返せる時期だった。親も修学旅行は行ってほしそうだった。僕は「そんなの行かない」と言った。その時、母親が一瞬だけど凄い悲しそうな顔をしていた。あんな顔を今まで僕は見た事がなかった。

いよいよ出席日数が足りなくなってきた。先生に呼び出されどうするのか?と聞かれた。でも僕は本音を言わないと決めているので黙っている。「これで察してくれ」と言わんばかりに。

高2の冬。留年が決まり親も諦めたようだ。ついに僕は退学する事となった。両親には悪いとも思わなかった。むしろ嬉しかった。これで人と会わないですむ。クラブでサッカーは続けているから人と接するのは最低限でしかも自分がやりたい事だけでやっていける。それが当時の僕の本音だった。

そして僕はアルゼンチンへ行くための動きを考えた。お金が無いんではどうしようもない。かといって人と接したくない。知ってる人に会うなんて最悪だ。そういうのを考えたが何があるか分からない。しばらくして地元から離れたコンビニの深夜でバイトを始めた。

深夜12:00前までは多少レジ打ちなど接客せざるをえないが、その時間を過ぎれば殆ど接さないでいい。配送されてくるパンや弁当と向き合っていればいい。そんな事ばかり考えていた。

1年と少しアルバイトをして久々に冨樫さんに会ってアルゼンチンに行くと決めた事と高校を退学した事を伝えた。そうしたら「少し前にクラブの会長が死んで経営方針が変わった。このクラブに行くのはオススメしない」と言われ驚いた。1年弱でそんなに状況が変わってしまうのか。せっかくアルゼンチンへの道が見えてきたのに・・・。ヤバイと思った。その時冨樫さんは「私の知っている人がアルゼンチンサッカー留学をやっているから会ってみてはどうか?」と言ってくれた。即答で「会います」と答えた。

冨樫さんが紹介してくれた人はアルゼンチンでのプレー経験があり、冨樫さんの知り合いもその人の所で今留学しているとの事だった。会った時にアルゼンチンと日本のサッカーの違い、向こうでの生活習慣、心構え、現状を教えてくれた。場所は首都ブエノスアイレスではなくコルドバだった。不安などなかった。行かなきゃ始まらないんだから。この方に会ってすぐに行く事を決めた。


20歳。アルゼンチンサッカー留学をする。


2000年8月30日。出発の日。初めての外国。日本から一番遠い国の1つであるアルゼンチン。30時間以上の長旅。機内では眠れなかったけど全然苦じゃなかった。

アルゼンチン・コルドバ州の中心街にあるマンションで他の留学生と共同生活。一端荷物をマンションに置いてすぐに移動した。この日はリーグ戦の日。コルドバ州リーグタジェレス対ラシン。両チームあわせて5人の日本人が出場した。激しく力強いテレビで見たサッカーがすぐ目の前で繰り広げられていた。僕もこの舞台に早く立ちたいと思っていた。



翌日も試合観戦。プロの試合でクラシコだった。クラシコとは同じ街のライバル同士の試合。アルゼンチン1部(当時)のタジェレス対ベルグラーノ。スタジアムは満員6万人くらいいたんじゃないだろうか。そしてこの試合が僕の始めてのプロサッカー観戦の日だ。隣にいる人の声が大げさじゃなく全く聞こえない大騒ぎ。芝を多い尽くす紙吹雪。発炎筒、花火。チャンスや良いプレーには観客は立ったり座ったり。生のアルゼンチンサッカー観戦は熱すぎる。アルゼンチンの名門クラブボカ・ジュニオルスのボンボネーラスタジアムの名言で「ボンボネーラは揺れているのではない。鼓動しているのだ」というのがある。コルドバのスタジアムもまさに魂が激しく鼓動していた。その熱さに試合を見るのに集中できなかった。

初練習は日本人留学生だけで行う朝練習。アルゼンチン人指導者のもと週に3回行っていた。僕と一緒に来た留学生とすでに先に来ていた留学生全部で9人。当時大体のクラブは午後に練習があった。僕より先にアルゼンチンに来ていた留学生たちは皆、上手い。プロになる強い意志と気持ちを練習で感じ取った。今まで僕がいた環境にはいない強さを持った選手たちとの練習に良い緊張感があった。

そしてその次の日の夜、初試合。日本人留学生のための試合。この留学生の代理人である日系アルゼンチン人「ラファ」が試合経験をつける為に月に1度か2ヶ月に1度組んでくれる試合。日本人留学生は11人いないので、足りない分はアルゼンチン人助っ人を用意して補う。これに5番ボランチで出場。僕や新しく来た選手の力を見るための試合でもある。結果は・・・0-0の引き分けながら僕のプレーは初心者並みにひどかった。最初のプレーがダメでそれを引きずってしまった。良いプレーはしないけどミスはする。最悪だった。中盤のプレッシャーの速さは僕から考える時間を奪っていった。試合の終盤にセンターバックでプレーしたがそこでは良かった。相手は田舎のクラブの高校生だったかな。速いプレッシャー、前へ前へどんどん向かってくる姿勢。バスも通わない田舎のクラブにもアルゼンチン代表と何ら変わらないスタイルが根付いていた。このクラブ名前も知らないけど凄い強かったのだけは鮮明に覚えている。

翌日は午前は他の留学生はオフなので先に来ていた留学生と一緒に街を歩いて案内してもらった。コルドバの中心街に留学生の宿舎があったので街に出るには凄い便利で快適だった。街も古い建物もあるけど汚くはないし良い雰囲気だと感じた。日本とは違う様々な生活習慣などを教えてもらった。お金の使い方。どこで何を買えるか。買い方。道の歩き方。街を歩いていると知らない人が挨拶してきてくれたりとても親しみやすい人々がいるというのも分かった。

アルゼンチンはスペイン語が公用語。日本でNHKのスペイン語会話を毎週見て勉強していてスペイン語って簡単じゃないかと余裕ぶっていたが日本で学べるのはスペインのスペイン語でアルゼンチンのスペイン語とは結構違うのもアルゼンチンに来てみて分かった。早口だし何を言っているのか・・・。日本で準備していたつもりだったがサッカーもスペイン語も0からのスタートの必要性を街に出て感じた。

それから代理人のラファが住んでいるマンションに来て僕に聞いてきた。「何がしたい?」そんなのサッカーがしたいに決まってる。早く行くチームを決めたい。そうするとラファは良い練習がしたいのか、試合に出たいのか?と質問を変えて聞いてきた。理由は8月から9月とはシーズンも佳境を迎えていて新加入が簡単じゃないということと、大きいクラブは補強が終わっていて入る余地がないという事。プロクラブに入るのはラファの力なら簡単。しかし入れるだけ。それに僕の初試合のプレーを見てまずは試合に出続ける事が大事だ、という事を教えてくれた。僕も大きいクラブに入ったはいいがその他大勢の1人になるのは望んでいることではなかった。そんなわけで僕のアルゼンチンにおける初の所属クラブはコルドバ州3部リーグ(当時)のデフェンソーレス・フベニーレスに決まった。

アルゼンチンでの初練習

初練習に行く日。どんなんなんだろう?冷たくされてしまうのだろうか?差別されないだろうか?色々考えてしまう。ラファともう1人の留学生とロッカールームに向かう。すでにいた何人かの選手とコーチ達がいた。挨拶を交わす。アルゼンチンの挨拶は笑顔で握手してHOLA!(やあ!)と声をかける。選手からは奇異の目で見られている。ラファから挨拶するよう促される。着替えている選手たちも笑顔でHola!と返してくれる。挨拶も一通り終わり僕も準備する。南半球日本の裏側アルゼンチンは冬。アルゼンチンのクラブは全て自前のスタジアムを持っていると聞かされて驚いた。茶色く枯れている芝と金網とコンクリートの壁で覆われたカンチャ(グラウンド)は冷たい感じがした。

 選手皆の前で自己紹介でもするのかな、と思ったけど何もなくゲーム形式の練習をやった。左ハーフでプレーをした。特に悪くもなく。練習後、何人かが話しかけてきた。来る前にスペイン語の勉強していたつもりが全く分からない。呆れて笑っている。無力さを感じた。サッカーにおいては走れる体力を取り戻せば全然やっていけるレベルだった。コルドバ州3部リーグはのこり4試合でそれがどこまで出来るか。

僕のチームのスケジュールは月曜日がオフ。火曜日がフィジカルトレーニング。水曜日はフィジカルプラス試合形式の練習。木曜日はスタメンとサブに分かれて紅白戦。金曜日がオフで土曜日が公式戦。日曜日がオフ。週3日間の活動。

初練習から1週間後クラブとサインして選手証を作った。アルゼンチンの場合、クラブに入れるだけの力を示せたら選手証を作る。それがクラブに登録された証でこれが無いと試合に出れない。その前にメディカルチェックをする。よくプロ選手が心電図をとったり心拍数を測るため自転車こいだりしているあれである。これで書類と健康に問題が無い事が証明できれば晴れて登録完了だ。

 コルドバ州リーグはサブ組みが前座で試合をしてその後に1軍が試合をする。トップチーム以下の下部組織は日曜日開催。他の留学生達はプロクラブにいたりコルドバ州1部のクラブに所属していたりで一週間の練習スケジュールは一般的に週の初めの月、火曜日は走りや筋トレ中心のトレーニング。水曜がボールを使った練習。木、金曜日が紅白戦。チームによって若干変わるが、それでも大体こんな感じで週5日の練習プラス公式戦という感じで活動している。

 選手証を作った週にレセルバ(日本でいう2軍。以下レセルバ)でアウェー戦でデビューした。フル出場、試合は引き分け。レセルバの試合では90分間で副審がいない。これには驚いた。ローカルの試合では副審はいる。タッチライン際の際どいプレーでも誰も笛が鳴るまでプレーは止めない。公式戦でも育成を意識した試合環境だと思った。そしてちゃんとした試合環境であるローカルで1日も早くプレーしたいと思った。また警察官が暴動を防ぐためにスタジアムに派遣されてくる。クラシコなど試合によっては何十人も来るしライフルを装備していたりもする。凄い環境だ。

監督、コーチはいつも良く褒めてくれるがまだまだ溶け込めていなかったのは感じた。残り4試合全てでスタメンで出たがどんどん出場時間は減っていった。僕の出来とは裏腹にプリメーラ・ローカル(1軍。以下ローカル)は調子がよく2部昇格も射程圏内に捉えていた。 ローカルは上位集団にいて、チームの雰囲気、状態も良く、それを祝って最終節前にスタッフ、選手が集まってアサードパーティーをやる事になった。アサードとはアルゼンチン風バーベキュー。アルゼンチンで最も人気の食事。それに呼ばれたので行くことになった。ここの人達は親切に接してくれていた。いつも冗談を言ってこっちが溶け込めるように積極的に話しかけてきてくれた。アサードもおいしいし楽しい時間だった。プレーの質が上がればローカルでもやれる。そんな考えが勘違いである事にも気付かぬまま上手くいかないのを雰囲気に出していた。


昇格を阻止するのは自クラブ会長

 そんなクラブがうってかわってある日、練習に行くとどうもおかしい。紅白戦でもいつもと違うメンバーがローカル側にいる。木曜日が紅白戦で大体その時のメンバーがそのまま土曜日の試合に出る。これはよほどのことがない限り変わらない。言葉が分からない僕でさえも感じ取った雰囲気の変化はそのままその週の試合に現れた。

 ローカルの試合のメンバーはやはりレセルバやその控え挙句にはさらに年下の下部組織の高校生の選手たちで固められてた。全く意味が分からなかった。それなら僕が出るべきじゃないかという風に思ったくらいだ。

この真相は後で知ったのだがクラブの財政難が理由だった。昇格戦にはメンバーを落として戦い昇格を逃した。それら全てはクラブオーナーである会長の命令だった。2部に上がれば今まで以上にお金がかかる。スタジアムに観客席がないといけなかったり色々2部でプレーするために必要な準備にお金がかかる。サッカー協会が年の始めに各クラブにクラブの準備金を出すのだが、殆どのクラブの会長はそんな事には使わない。2部に昇格させないために行われたメンバー落としだった。結果は負けで「見事」会長の目的は達成された。あのアサードパーティーは何だったのだろうか。皆落胆していた。会長の指示に従うしかない監督や選手達のやり場の無い気持ちが滲んでいた。しかし、このクラブから地元コルドバのプロクラブであるタジェレス、ラシン、果てはりーベル、ニューウェルスといったアルゼンチンを代表する強豪クラブに選手を送り込んでいるから分からないというか面白い。決して日本では見れない部分に当事者として遭遇した。そしてリーグ戦の全日程は終了し僕のシーズンは終わった。

ここまでで約2ヶ月のアルゼンチンサッカー留学。思い通りにいかない事ばかり。出来ると思っていた事の1つも出来なかった。そんな日々に僕のサッカー留学を受け入れてくれた元選手の方がコルドバに来た。今までどおりを見せればいいと思っていたけど実力が発揮できないばかりかレベルアップしているかどうかもつかめていない状態だったので不安があった。

ここまででアルゼンチンサッカーの体験を通しての感想は

・ 激しいぶつかり合い

・ サイドチェンジをしないで同サイドから狭い局面を徹底的に攻める。

・ サイドバックがオーバーラップしない

・ ロングボールを多用する

といったところが日本と違うところだと思った。またテレビで見ていたアルゼンチンサッカーとも違っていた。この激しさの中で自分のプレーの特徴を出して結果を出す。圧倒的な結果をだ。

そして僕がアルゼンチンに行くきっかけをくれた元選手の方も交えて一緒に住んでいた留学生と話し合いになった。

自ら変わる事を決意する

留学生はぶっちゃけ暇である。練習、試合以外の時間は自由だ。その試合も呼ばれなければ、つまりベンチ外であれば試合に行く義務はない。サッカーの面で順調にいっていれば良いが、そうでなければ違う道に逸れてしまうこともある。事実そういう留学生もいた。なかなか自分の思ったことを表現できないのなんて当たり前。さらにやっとの思いで伝えても理解されない事だってある。何故ここに来たのか。その目的を果たすためにはこのままで良いのか。こういったことを1人ずつ話し出すんだけど、僕ときたら何も言えない。

これには理由があった。今ならそれが言い訳なのは分かるんだけど僕はアルゼンチンに来て何一つ良いプレーも何かを達成した感覚も持てないまま3ヶ月が経とうとしていた。そして僕のサッカー暦。ほかの留学生達ははっきり言って僕のキャリアなぞ気にしていなかったと思う。けれど「高校の部活逃げた」という事をほかのクラスにいた部員に何年になっても顔を合わせるたびに言われたりして本音は言わないと決めていた僕には自分でも気付かないうちに自分の事を語るのに抵抗があった。僕より肩書きのある奴に顔を合わせるのも嫌な苦手意識があった。そしてそこから逃げるために引きこもった。内気で人見知りで、社交性ゼロ。自分の意見が言えない。考えていないこともしばしば。一人間として問題だらけだ。事実、6,7人での集団生活が上手くいかない。それでどうやって11人でやるサッカーで良いプレーするんだ?1チーム25人いる選手達との競争に勝つんだ?僕は技術以前の問題を抱えていてそれに気づいていなかった、気づかず20年も生きていたんだ、という事に上手く自分の思いを伝えられずにいた事をきっかけに皆に指摘され気づかされた。この時間はいつの間にか僕のための話し合いの時間になっていた。色々大変でも前に向かって進む。自分の思いを伝えて周りを巻き込む。上手いか上手くないか以前にまずアルゼンチンに来て身内でも友達でもない人間との共同生活から学ぼうと、協力しようとする姿勢を見せてお互いに分かり合うところから始めないと何もならない。アルゼンチンという国が僕を変えてくれるのではなくて僕が自ら変わらなくてはいけない

 そのように皆に指摘されて変わることを決意した。このまま留学していても多少は上手くなるだろう。アルゼンチンサッカーは激しいので体も強くなる。でもそれだけだ。今のままでは何1つ得るもの無く時間だけが過ぎて留学生活が終わる。

2ヶ月以上経ってようやく僕の本当のサッカー留学はこの日から始まった。

行けば何とかなるんじゃなくて自分で何とかしなくてはならない。他の誰かは何もしてくれない。例えお金を払っても。

 シーズンは終わったがクラブではまだ練習があった。あの語り合いから一夜、クラブの練習では今までしなかったアップや着替えのときチームメイトに無理矢理話しかけた。当時の僕の語学力ではただ単語を並べただけに過ぎない。スペイン語で質問して答えは相変わらず聞き取れず分からない。だが、それだけでその日のゲームでは今までよりパスが来た。僕が上手くなったわけじゃない。相変わらず下手だ。しかしただ話すようになっただけで、である。これは勘違いではない。8月の終わりに日本の裏側に来た当初の短い冬は終わり寒空と俺の中の黒い雲が晴れるように春を超え、夏になってきた。と同時に僕の心にも雲の隙間から光が差してきたような感じだった。

話しかけるようになってスペイン語は分からないけども分かり始めた事がある。アルゼンチン人は意外に群れたがる。欧米は個人主義という風に日本では言われていたのを聞いた事もあり、そういう先入観を持っていた。が少なくともアルゼンチンに個人主義の行動は見られなかった。一人で何かしていると「何で一人なんだ?」と驚かれる。合宿は必ず相部屋でコミュニケーションを図る。そこには経済的な問題もあるだろうけどそれ以上に集団の一員として行動することに重きを置いている。日本のように1人部屋を用意しない。イヤホンをつけて音楽を一人で聞いて楽しんではいない。アルゼンチンから見ると日本のそれらは「孤独」に映る。そしてそれは協調性の無さ、集団行動を乱す行為に映る。当時の僕は練習でいいプレーをしていればいずれ1軍に呼ばれて試合に出れると思っていた。それこそが重要だと思っていた。スペイン語の難しさからスペイン語を話せるようになる事に重きを置かないでいた。しかし違った。チームメイトは待ってくれていた。僕が話しかけてくるのを。僕がここで皆と共により良くなれるように全力を尽くす姿勢を見せるのを。僕の姿勢の変化を監督、コーチ、チームメイト達は気付いてくれていた。

11月の終わり、南半球は夏。日差しの強さは日本の比ではない。その代わり湿気がないので日陰に入れば涼しく過ごしやすい。日本の夏は嫌いだったが、ここアルゼンチンの夏は好きだ。

 この時期コルドバ州リーグは全てのカテゴリーが終わっている。新たな大会に向けて動き出すクラブもあれば下位に終わり、一足早いバカンスに入っているクラブもある。シーズン終了後だが、下部組織は動いていた。ほかの日本人留学生が所属するクラブはまだ動いていたため、僕はデフェンソーレス・フベニーレス下部組織のほうで練習した。

そしてリーグやクラブの活動も終わり、各クラブでプレーしていた日本人が集まりチームを作って12月に行われる6チームくらい参加する小さな大会に参加する事になった。集めても日本人は11人はいないので足りない部分はアルゼンチン人で穴埋めした。この大会はコルドバ州のプロクラブの下部組織とコルドバ州リーグの強豪クラブが参加する大会だ。

この大会はコルドバ州1部リーグのいくつかのクラブの若手主体の構成と、いわゆる今シーズンレギュラーだった選手、プロクラブから参加する選手はプロに最も近い選手達、もしくはデビューしているものの、試合出場ができていない若手選手達がこの大会に参加してくる。

その大会に向けて、日本人留学生と助っ人選手たちで練習や試合をやる。練習は週3回やっている日本人の朝練。それと時々午後の2部練。

僕以外の日本人は皆、プロの下部組織かコルドバ州1部リーグでプレーしている練習量も試合の質もやはり上のレベルでプレーしている。この日本人練習についていくのもやはりキツイ。

それでも、諦めずに喰らいつく。フィジカルや走りでも劣る方だ。日本人留学生は11人いないが、皆、別のポジションというわけではない。当然ポジションが重なる場合もある。僕は左ハーフ。正直激戦区。

試合は色々なとこでやった。それこそ田舎も行くし。練習試合では出たり出なかったり。僕からしたら例え5分でも出れるだけですごい経験になる。味方も敵も自分より上。すごい良い環境といえた。

助っ人アルゼンチン人も練習に参加している。ちょっとでも良いプレーしなければ彼らはすぐにクビになる。

大会までの間に助っ人で来ていたアルゼンチン人が数名プロデビューをした。しかもアルゼンチン1部リーグだ。正直そんなに上手くはなかったが、1つ圧倒的に秀でる武器を持っていた。つい最近、もっと言えば昨日まで一緒に練習していた奴が今日5万人の観衆の中でプレーしている。こういう選手達と一緒にやっているんだ。彼らとポジション争いをしている自分は恵まれているし、出れない事に引け目を感じることはないんだ。

日本人留学生のため、とはいえやはり勝つことが大前提。負けてもいい育成なんて無い。日本人チームの監督にはアルゼンチン人のへススという人がきた。ヘススは何より勝負にこだわり、情なんて持ち込まない指導者だ。だからこそ彼のために勝つ。勝利に貢献すると誓った。

夜、バスに乗って田舎へ行った。この試合は日本人、アルゼンチン人全員で。カンチャは珍しく、というかアルゼンチンでは初めてに近い感じで物凄くキレイな芝だった。

この試合、スタメンではない。相手は物凄く強い。体も皆、一回り大きいしプレーが物凄く早い。このレベルはコルドバ州1部でもなかなか見れない。プロなんじゃないだろうか。街中にカンチャがあるので近隣住民が多数見に来ていた。

コルドバ州のサッカーの特徴として激しい潰しあいがある。この時の相手はその潰しあいが出来た上でしっかり繋いだりドリブルで勝負できる。コルドバ州1部より2ランクくらい上の相手だったと思う。それくらい全てが違った。

この試合は後半半ばくらいから出た。試合は2-1で勝っている状態。左MFで登場。対面の右MFについていくので精一杯。攻撃まで頭が回らない。穴である僕のサイドからどんどん攻めてくる。そのスピードは回数をこなす度上がっていく。「どこまでいくんだ」そんな弱気が頭を掠めてきたその時、左サイドが崩されてクロスを上げられた。そして僕のマーカーである相手右MFまでボールがこぼれた。僕は置いてかれている。ボールはあまり良いこぼれ方をしていないのでシュートを打つまでに時間がかかっている。それをスライディングでシュートブロック!

そしたら皆がBIEN!!(いいぞ)と僕に叫ぶ。これでコーナーキックになりこのこぼれを決められてしまった。試合は逆転され2-3で負け。しかしこの日のこのスライディングが一番良いプレーだったらしく、皆が僕を見る目が変わったと思う。あの1プレーはアルゼンチンサッカーを表現できたのではないか。まああの1プレーだけだったが(笑)。この試合の手ごたえも大事だけど今まで正直、僕は他の留学生たちより年上でしかし2,3ランク選手としてのレベルが劣る僕は見下されている部分があった。そういうのはあまり気にしなかったけどいつも信頼感ないまま探り探りのプレーが悪循環を生んでいたと思う。それがここで本当に明確に何が良くて何がダメか理屈を超えて感じることが出来た試合だった。帰ってからも興奮して眠れなかった。

いくつもの練習と練習試合を重ねていざ大会は始まる。

日本人チームは名目上、コルドバ州のアマチュアクラブ、ラス・パルマスのレセルバ(2軍)の扱いだった。ここの出場権を買い取っての出場だ。当然、ラス・パルマスの1軍はローカルで出る。

 僕のポジションは左ハーフ。足りない部分をアルゼンチン人選手を補強して戦う予定が、このポジションにも選手が補強された。この大会に日本人チームが参加する目的はまだまだ真剣勝負(クラブの1軍で負けてはいけない試合や厳しい試合)の経験が少ない日本人選手のためではなかったのか、という思いはずっとあった。だが、そんな事はいわなかった。僕に実力があれば、補強されていないわけで補強されるということは信頼が無い。信頼を取ること、スタートラインに着くための戦いを勝って来い。出れないのであれば何かに価値を見出さなきゃいけないとすぐにほかの日本人とは違う目線で見て目標を持った。これは今までの自分の否定から得た、すぐに気持ちを切り替えるということだと思う。引きこもっていた頃の僕なら腐って自分の殻に閉じこもって時間が過ぎるまでとりあえず毎日をこなして終わっていたと思う。それじゃ高校時代「逃げた」あの日から何ら成長していないということになってしまう。アルゼンチンでプロを目指しサッカーをしている僕は引きこもっていた頃の僕じゃないんだ。と自分に言い聞かせる。

 それでも多少の恐れはあった。初戦はタジェレス・コルドバ。トップチームはアルゼンチン1部リーグ所属(当時)。そこでデビューし活躍するのに最も近い本当に本当のプロ予備軍の選手達と対戦する。その時の僕はある言葉を思い出した。

 僕が所属しているコルドバ州3部リーグのデフェンソーレス・フベニーレスの監督の言葉を心の中で唱える。

「Hay que tiene paciencia.」直訳すると「我慢しなければならない」になる。

この監督は選手として17歳でプロデビューし引退まで一線で活躍した人だ。

 この言葉の主語は?ここがアルゼンチンの指導者の良いところだと思う。「何に対してだろうか?」僕はこれに疑問を持った。僕に対して言っているから僕の事なのは間違いない。僕は何に対して耐える事をしなければならないのか。実際には会話の中でここしか理解できなかったのも大きいは大きい。でも、それを聞くんじゃなくて自分で考える、もしくは経験やそれこそありとあらゆる事象からアンテナ張って自分の成長に活かせるものを感じて血や肉にする。パッと浮かんだのはこの事。当然聞かなかった(言うまでも無く聞けるほどスペイン語の語彙はありませんでしたが)。

 何でアルゼンチンに来たのか考える。その為に今、置かれた状況で何をする?何を耐える?待ち、我慢する?自分に問う。落ち着くことができた。アルゼンチンに行く動機、イチフナを選んだ理由。思い出した。それは今(20歳の時と、15歳の時です)と変わっていなかった。僕はプロサッカー選手になるんだ。

 高2の時にジェフユースと試合をした。相手には今レッズの阿部勇樹選手やサンフレの佐藤寿人選手がいる。「どうせ負けるからやりたくない」これが僕の気持ちで試合前から負けていた。実際試合は0-10の負け。今、目の前にはジェフユースより大きく強い相手がいる。これからも出てくる。試合したくてしょうがなかった。強い相手にはびびらない僕がいた。

 試合にはみんな出たい。出れないなら準備を常にして心は誰よりも強く。やりたくも無い事を無理矢理やらされて何も言わず無抵抗なのとはこの状況は違う。我慢と慣れはもっと違う。1個、誰が何と言おうと負けない物を持たなきゃ我慢なんてできないと思う。けど、僕は誰より我慢できるということで他の奴に勝つ。その我慢している状況の中から結果を出すために必要な何かを「具体的」に理解する、気付ける所にいくまで常にアンテナ張って生活する。その結果、試合に出れなくてもその生き方を身につけられれば僕のアルゼンチンサッカー留学1年目は大成功。プロ選手に辿り着くであろう道を歩ける自信になる。

タジェレスと試合。前にも書いたが、基本的にレセルバはローカルの前座なのでそこまでいい選手は出ないだろうと思っていた。しかしプロデビュー済みの選手や後にプロで活躍する選手が何人もいて相当将来を見込まれている選手が出てきていた。タジェレス所属の日本人選手が「あいつも出んのかよ」くらいの事を言っていた。

 試合はスタメンではない。予想はしていた。開始早々に先取点。当時の日本人留学生はコルドバ州1部リーグでバリバリやっていたのは2人しかいない。タジェレスはプロ予備軍。衝撃的だったんじゃないか。そのまま後半に入り、終了まで残り僅かな所で出場した。そして何もせずに終わるが本当に終了直前失点し引き分け。時間は少なくてもあの中の空気感を知れただけでも収穫だった。

 サッカー留学に来ている日本人は国際交流しにきたんだろう、くらいの見方しかしていないアルゼンチン人達には驚きを与えた。事実この試合の翌日、タジェレスの監督は怒って選手に早朝練習を課したほどだ。タジェレスと引き分けた日本人チームの僕もその一員だ。実際の試合における貢献や影響は少ない。しかしこの試合に至るまでに全てを出してきた。この日の引き分けは僕が掴んだものだ。これが経験なんだ。

大会はまだ1戦目。まだまだ続く。

2戦目はインスティトゥートというクラブ。アルディレスや最近イタリアのユベントスに移籍したディバラの出身クラブ。

この試合はスタメン。背負った番号は10番!アルゼンチンの場合、スタメンは1から11の通し番号。しかもポジションごとに番号が決まっている。左MFは大体の場合10番をつけるのである。何でスタメンかというと人がいなかったからと、タジェレス相手に引き分けた事もあり「どの程度できるのか、みてやろう」的なものだったんだと思う。

 はっきりいって対応に追われるだけで精一杯だった。何かを予測してプレーなんて出来ない出来ない。一回股抜きかましたけどそれだけ。僕が絡まない方がチームのリズムはいいし、はっきり自分のレベルが低いのを感じた試合。さぼらず守備をした。プロの下部組織相手に出せる物は全て出した。前半45分のみのプレーだったがやりきった。

次の試合はベルグラーノ・コルドバ。全然出れず、最後の最後に出場した。僕のポジションのスタメンは本来センターバックのアルゼンチン人。前の試合でスタメンで出たものの結果を出せなかった。しかし少しも腐らなかった。

とにかく何がしかを得ようと試合を集中して見ていた。自分が出たらどうするか、常に考えながら。ほかの選手のプレーを参考にしつつ。そして次は最終戦。

戦力外扱いを受ける日々だった。力がないから仕方がないとはいえ、辛い日々。ベルグラーノ戦あたりから何となく気付いてはいたが認めたくないという気持ちから避けてきた部分を考え始める。僕は所詮ここまでか・・・。しかし何とか打ち消すけど根拠はない。ただしそんな暗い気分を表に出さない事。まだまだスペイン語は話せないけど監督のへススに笑顔で挨拶と握手をする事。それだけは欠かさなかった。しかし気分は晴れぬまま最終戦を迎える。

 

Goooool!

 相手はLa Universitario。元代表FWクラウディオ・ロペスも在籍していた街のクラブ。不思議なもんで試合が近づいてくると弱気は消えていた。そしていつもどおりアップから集中する。スタメン以外はアップしないのが普通。でも関係ない。いつも試合に出ていると思っている僕は一緒にアップをしていた。試合に集中して自分が出たらどうするか、常に考えながら見ているだけでも上手くなっているような感覚を身につけようと必死だった。最終戦、毎日積み重ねたそれが見事にはまった気がした。

 後半途中からの出場。最後の試合だし、これはもう超お情けで出してもらえたと思う。

ファーストタッチが上手くやれて試合に良い形で入れた。

 後半の後半、コーナーキックを得た。それのこぼれ球が目の前に落ちた。蹴る前からどこにボールが来るか分かった。コーナー競り合うよりこっちだって匂ったんだ。もちろん味方に190近い選手がいて、僕は良いプレーしていないから皆マークはそっちにいった。どフリー。来たボールに後は飛び込むだけ。苦手の右足。利き足も怪しいもんだけどこんな時に限り逆足に来る。しかしこれまたこんな時の逆足の方が良い当たりのキックをする(笑)。ここしかないという凄いところに突き刺さった。その後一点を追加し2-0の勝利。

監督のへススもようやく声をかけてくれました。

 この日の相手は今までの相手に比べたら全然弱い。他の日本人にしたら「練習試合の中の1試合」だったろうけど、僕には全てが最高の思い出だし、ここのイメージが翌年への期待になった。あと、海外のプロ選手が点を取った後、凄い全身で喜びを表現するのが分かった。

 自分で言うのもアレだが、日々死ぬ気でやって試合に出れると信じていて出れない、常に強力なライバルがいてそれらの競争に打ち勝つ。仮にダメでも1分しか出れずとも、やる気、プライド全て打ち壊されようとも好きでやってて結果出したいときに結果が出たら叫ぶよ。叫ばないとどうにかなってしまう。そんな自分の内面から溢れ出てくるパッションの解放。それがゴールセレブレーションに繋がる。僕はこの日そんなの恥ずかしくてやらないでいたら朝まで眠れなかった。どんどん腹のそこから湧き出る解放への欲求。日本の育成年代でサッカーやってる奴らでこれを味わったことのある奴、何人いるだろうか。これを感じるだけでもアルゼンチン行く価値はある。そしてこれこそが楽しいんだということが自分の価値観になった。気の合う友達といつもほどほどでプレーして汗と心地よい疲労を感じてやった気になるのは何年も先で良い。今この時は自分の全てを勝利のために差し出してプレーする事が何より大事なんだ。この試合をもってこの日本人チームは一端解散。

帰国直前の留学生皆でアサードをしている時に代理人のラファから一番伸びたのは誰か?という話になってその時に僕が選ばれた。スタートがマイナスからだったのだからある程度予想していた。しかし褒められ慣れていないのでリアクションは上手く出来なかった(笑)。ラファからの「表彰」はアルゼンチンに来てまだ3ヶ月ほどでその間にこれをやると自分で決めて信じてやり続けた結果だと思う。


アルゼンチンサッカー留学1年目に得たもの

この年、得たものの1つとして日本で積み重ねたものは全部捨てなければやっていけないという事が分かった事だ。僕は引きこもっていたので日本で積み重ねた物なんてものはあまりない。だけど日本人として日本で生きてきた20年はベースになっている。ここアルゼンチンで日本人がプロになるにあたりアルゼンチンで評価されるために必要な物をアマチュアとして留学しているこのときに身につけなければならない。その経験を積み上げるには土台を変えなければ積み上がっていかないという事が分かった。例えるなら軽自動車にフェラーリのエンジンは積めないんだ。変えていく。


最高の仲間との別れ

この年で最年長の留学生キムさんが最後だった。僕より4つ年上の当時24歳。冨樫さん経由でアルゼンチンに渡った人だ。キムさんには色々相談にのってもらった。キムさんからも聞いてきてくれた。リーベルファンでリーベルが負ければ落ち込んでしまうような人。球際がとんでも無く強かった。何度倒されても立ち上がり最後まで体を張り続ける5番の守備的MFの選手。プロを目指してアルゼンチンに来ていたが僕に言ってくれた言葉で「今俺はコルドバ州1部でプレーしている。目指すプロはカテゴリーで言えば3つ以上上にある。今いるこのクラブはプロにたどり着くまでの腰掛クラブじゃない。俺はここの1軍でプレーできる事を誇りに思っているしこのクラブで終わっても後悔しない。ここで死んでもいいと本気で思っている。そういう覚悟で日々の練習に取り組んでいる」というのが印象に強く残っている。貧困層の地区にあるクラブ。100年近く前に創設されたクラブ。30代後半の元プロ選手もプレーしている。日本で「好きなチームはどこ?」と聞けば地元のクラブか全国区の知名度のあるクラブの名前を言うだろう。野球なら巨人や阪神。ここアルゼンチンではリーベル、ボカという世界屈指のクラブがあるのだが、コルドバの人間ははっきり地元の州リーグの名もないクラブの名前を言う。そういうクラブでスタメンを張る。監督、コーチは勝てなければクビになる。この日本人はチームの力になれるのか。伝統あるユニホームの重みを理解できているのか。

戦う事がアルゼンチンで何より大事なことをいつも伝え続けてくれた。理屈では分かっていた。でも本当にそれを理解したと言えるのはそれが出来るようになったもう少し後のことだ。キムさんは州1部でのプレーが認められアルゼンチン1部のベルグラーノから獲得オファーが届いた。メディカルチェックで引っかかってしまいプロにはなれずこの年で彼の挑戦は終わった。キムさんにアルゼンチンサッカーをプレーしているところを見せられず一緒に夢に向かって頑張る事は出来なくなってしまった。そういう事も含めて人生の積み重ねなんだ。彼と過ごした日々が来年に繋がる。そう心に刻んで帰りの飛行機に乗った。

アルゼンチンサッカー留学2年目。

2001年1月の半ば。他の留学生とともに出発する。そのおかげで約30時間の移動もそれほど苦痛ではなかった。

日本→アメリカ→ブラジル→アルゼンチン・コルドバと言う感じで当時は直でコルドバまで行けた。(今はブエノスアイレスから国内線に乗り換えなきゃいけない)

この時コルドバに着いた感想は暑い。南半球のアルゼンチンは日本と真逆で季節は夏。

メチャクチャ日差しが強くて暑い。日陰にいけば湿気がない分、過ごしやすいがとにかく日差しは痛くて暑かった。

コルドバに到着してすぐに日本人の練習が始まる。チームの練習開始は翌週に始まるが、その前に時差ぼけ解消やある程度コンディションを上げとくためだ。

2つのニュースがあった。今年から僕の所属クラブが州1部に上がったばかりのリベルタに変わること。もう1つは前年までとはこの年は違う人が日本人の朝練指導に来てくれることになった。


監督はワールドカップ優勝メンバー


78年ワールドカップ優勝メンバーのミゲル・オビエドはコルドバで生きる伝説的人物。



「そんなヤツ来るのかよ」信じられずにいて実際に来て驚いた。元プロ選手どころか世界一の代表選手。会う前から緊張した。しかしこの人の下、上手くなれるかなと期待した。

そして日本人練習の日。僕らの到着よりやや遅れてオビエドが来た。各々がバンテージ巻いたり練習の準備中に彼はやってきた。

とんでもない人をイメージしていたがその人は思ったより小柄で

見た目も老けていた。有名人としてのオーラもなく好々爺という表現が正しい。

この日は指導をせずに練習振りを見ていただけだったが、かなり気持ちが引き締まった。

皆、いつもより緊張感を持ってやっていたのは来るべきシーズンをいいものにしようという決意とすぐそこにレジェンドがいたからだったと思う。

この頃はプレテンポラーダとこの日本人練習。かなりハードなスケジュールだった。

プレテンポラーダとはシーズン開幕前の練習の事で州リーグのクラブでも強いところは合宿をしに行ったりする。

何せプレテンポラーダはメチャクチャ練習する。真夏で30度以上の猛暑の中、走って走って走りまくる。もしくは走って走って筋トレ。2部練など当たり前。このプレテンポラーダで1年間のシーズンを戦い抜く体を作る。

それは以前から聞いていたのでどこまでやれるのかこの日々で体を慣らすことに照準を置いた。

さて、オビエド監督だがまだまだスペイン語が上手くないのと緊張とで毎度顔を合わせても挨拶しか出来ない。日本では今でこそクラブチームも多いがこの当時はまだまだ部活サッカーがメイン。事実、当時の留学生約10人ほどは皆、部活上がり。指導者は先生で、選手は生徒。指導者に管理されてきた日本人は選手と指導者の関係性でそれ以上のコミュニケーションは挨拶やサッカー指導以外のものはなかなかない。しかし、ここアルゼンチンでは選手と指導者は練習前や普段会えば他愛も無い世間話や冗談を言い合ったりする。指導者や年上の知り合いが横断歩道の反対側にいる僕に気付いてわざわざ大声で呼んでくれて挨拶を向こうからしてきてくれた事が何度もある。お互いをあだ名で呼び合ったりもする。

僕は挨拶もそこそこに目を逸らし着替えたり自分の事をしだした。このように選手と指導者であってもそれ以前に人間同士のつながりを大事にするアルゼンチン流に慣れたつもりでいたのだが。目の前のレジェンドにどうしていいか分からなかった。ちなみにオビエド監督はこの年、日本人練習の指導者のみならず、僕が所属するコルドバ州1部に昇格したクラブ「リベルタ」の監督でもあった。

日本人練習の基礎練習の最中、オビエド監督の目の前でミスしてしまった。その時監督の顔つきが変わった。

個人的には週3日、午前中にやる日本人練習と所属クラブでの練習とオビエド監督にアピールしまくれるチャンスだと意気込んでいた。しかし、この日のミスから地獄のような日々が始まった。

次からの練習でオビエド監督は僕と目も合わせてくれなくなった。明らかに不機嫌。

嫌われているのが露骨に分かった。しかもその理由が僕自身も分かっているからやりきれなかった。

しかしキツイ。僕がミスれば怒鳴られる。もしくは呆れられる。僕がシュート決めても何も言わない。他の留学生がミスしてもそんなに言わない。最悪の状態だった。周りの留学生に雰囲気を察知されて面白がって冷やかされた

キツかったがこの状況を変えるチャンスはいくらでもあるもんだと思っていた。何せ所属クラブの監督でもあるんだ。クラブではアルゼンチン人含めて30人弱はいた。他の選手にはどんどん声をかける。僕は視界に入っていない・・・。

リベルタでの初の紅白戦。これは全員が出た。僕の出場時間は短い。ただピッチの上に立って終了。

その日の練習終了後、名前が呼ばれている。何の事だか分からない。

後で聞いたら紅白戦は入団テストも兼ねていたようで名前を呼ばれた選手は不合格ということだった。僕の名前は呼ばれなかった。奇跡だ、と思ったがそれは代理人のラファの力だったことを後で知った。もし、ラファがいなけりゃ終わってた。

このままいくんだろうか。急に不安になった。

その後の日本人練習でフォーメーション練習をやることになった。僕はその輪から外された。そして練習に来ていたアルゼンチン人GKの練習の為にシュートを打つように言われた。

完全に蚊帳の外。悔しさ、恥ずかしさなど全く無くこの練習に集中して打ち込んだ。全てのシュートを決めてやる。そう思って取り組んだ。こういう練習でも自分で楽しめる要素を見つけてやる。後にこのアルゼンチン人キーパーはプロになって今でもプロで活躍している。あの日のシュート練習が今日の彼を築いたはずだ・・・と思う。練習は終わり、留学生複数で住んでいたマンションへ。

夕食時、アレが話題になった。僕に対するオビエド監督の扱いだ。みんなまだまだ高校生ノリで僕のハブられ具合を面白がったり、あの扱いはない、と言ったりで盛り上がってしまった。僕は当然ノれるわけもなく。

「そんなのお前らに言われなくても分かってんだよ!!」なんて言い返したかったけどそれも出来なかった。そうするとドンドン悪乗りしたり。この流れ、市船時代を思い出す。けどあの経験があり、全部聞き流す術を覚えた。1つ違うのは一緒に住んでいたほかの留学生は本気で馬鹿にしていたわけでは無いという事だ。

続いてリベルタでの練習試合。相手は忘れたがチームは勝てない状況だった。こちらは2部上がりで選手は寄せ集め。まだまだ連携も拙く勝てない。人の入れ替わりも激しく手探り状況。僕はというと試合に呼ばれず。

そしてある日の練習試合。メンバーに呼ばれた。今までは呼ばれなくてもベンチに無理やり入り込んだり何とか監督の視野の中に入り込んでいた。ちなみにこれはキムさんが実際使っていた手だ。

そして練習試合。カテゴリーはレセルバ。ユニホームは11枚しかない。僕はベンチでベンチには16人いた。交代の際はユニホームに替えがないので出ている選手から受け取ってから出場する仕組みだ。僕は常にタッチライン際にいて出場のチャンスを窺っていた。そして全く違うポジションの選手であってもユニホームを交代のたびに毎回僕は受け取って着ようとした。その都度取り上げられる。しかし全く意に介さない。

残るベンチの選手は僕ともう1人。交代だ。しかも僕と同じポジションの左MFの選手。僕はそいつが着ていたユニホームをもらって着て出ようとしたらオビエド監督に「お前じゃない」と止められユニホームを奪われ、もう1人が試合に出た。そこで試合は終わった。

真夏の午後の雲一つない青空の下、白いタッチライン際で上半身裸で立ち尽くした。

その日の夕食どき。リベルタには一緒に生活している留学生も所属している。その為にチームの話になる。この日の試合の話題になった。「アレは酷い」「試合出れないからもう移籍しろ」だの。この時はチームを変えるのを考えた。しかし考えただけで日本人練習でもクラブでも見てもらえる環境は良かったし、リベルタの選手たちとの関係も良かった。

プレテンポラーダというとんでもなくきつい日々。それを一緒に乗り越えていっているというチーム全体の一体感それが漲っていた。はっきりいって両足攣りながら走っていた市船の時なんか目じゃないくらいきつい。あまりにキツ過ぎてご飯が食べれないほどだった。人間、自分の中のキツさの限界を超えると固形物を摂取したくなくなる。水しか飲めない。無理矢理詰め込んで毎日プロテインを飲んだがどんどん痩せて絞れていった。キレは増してきた。最後まで全力でやりきる姿勢。アルゼンチンには連帯責任での罰走などは無い。キツイからといって手を抜くことは可能だ。そういう選手は落ちていくだけだ。僕は日本の時と同じで遅くとも全てを出し切った。アルゼンチンではそれは伝わるんだなと感じた。


スラム街にあるクラブ リベルタ

リベルタというクラブのスタジアムはスラム街のど真ん中にある。車で送っていってもらえる時は古い町並みの中にあるんだな、くらいに思っていたが歩きで練習にくるチームメイトは上半身裸にボロボロの短パン、両足共に穴が開いてソールが剥がれているシューズで来ていた。そうやって「俺を襲っても何も盗めないぞ」というアピールをしておかないと確実に強盗に襲われるからだ。僕はもっとできる。そうまでしてこのチームの練習に来るチームメイトからも、このスラム街のど真ん中にあるこのクラブを取り巻く環境からも学ぶ物がたくさんあると感じていた。このチームを出るのはいらないと直接言われるその日でも遅くはないと決めた。

次の練習試合は同じ州1部しかし強豪のベジャ・ビスタ。しかもアウェー。こちらベジャ・ビスタもリベルタほどではないが中々良い感じのスラム街の中にある。試合はレセルバの後半半ばから出場。みんな必死のアピールだ。試合も同点の緊張感のある状態。空中戦の際に肘うちを喰らって倒された。ファウルはもらえたが、チームメイトの皆は僕にマジギレ。「お前そんなのもらってんじゃねえ!」「自分の身は自分で守れ!もっと腕を使え」心配してもらえるかと思ったけど逆だった。しかしこれは事実だ。しなくてもいい怪我をしてしまいかねない。腕の使い方は課題だ。そして終了間際に大乱闘が始まった。理由は分からないが入り乱れての殴り合い。僕から一番遠い場所で始まったとはいえ、気付いたら終わってた。そしてローカルの試合をせずに練習試合は終わった。こうなってしまっては継続は困難だという判断。スラム街の中にあり悪そうな人が騒ぎを聞きつけて近所からスタジアムに集まってきていたしベストな判断だと思う。

州リーグ開幕まで1ヶ月を切った。少し練習量は落ちてきたけどまだまだ走りまくる。練習場所がサルミエント公園通称「パルケ」だと真夏で気温40度近いにも関わらず寒気がする。この日は12分間走を行った。400メートルトラックをひたすら12分間走るのだ。12分間でプロサッカー選手はポジション問わず3000メートル走れるかどうかが持久力の目安だ。リベルタの選手たちも殆どが3000は走れる。僕と同じグループで走っていたチームメイトのアルゼンチン人が1500くらい走ったところで倒れた。そのまま彼は練習を抜けた。どうしたんだろうか。いずれにせよ彼は終わったな、と思った。

その週末の試合では走れずぶっ倒れた選手がスタメンで出た。

そしてフル出場をしてゴールを決めて彼のゴールで勝った。僕はまたしても出れなかった。

何故彼を使うのか。使われた彼はどうして結果を出せるのか。最後まで走りきれるのか。両方とも本当の彼だ。僕は彼に対して感動してしまった。練習より試合の方が上手いし強い。アルゼンチンの人たちは練習で出来ない事は試合で出来ないという日本の常識が通用しない。使ってくれないオビエド監督への恨みよりこの目の前で起きている現実に僕は思いを巡らせていた。

きついプレテンポラーダだがその中でミニゲームのみの日があった。アルゼンチン人はこの時ばかりは皆マラドーナになる。ボールを持ったらドリブルで全員抜きにいく。そうでなければボールをもらって2タッチ目にはバティストゥータかのような強烈なシュート。中盤なんて存在しない。僕はここでボールを捌くようなプレーをした。1つもミスはしなかった。しかしそれはもっと自分の存在をアピールしなければいけないのに裏目に出てしまうことになる。

ゴールを奪う事もドリブルでガンガン抜きにいく事も実際の僕の得意なプレーじゃない。それをやってなんのアピールになるんだと思っていた。しかし実際そう言われて代理人のラファにもそれを指摘されて僕は次はそれをやろうと決めた。何せオビエド監督の僕を見る目は変わらないのだから。

週末、サルミエント公園通称「パルケ」に行った。土日は試合かオフ。しかし僕は試合に呼ばれない。ならば出来る事は「試合」に出る事だ。パルケにはストリートサッカーがあった。ここでは腹の出たおっさんや中学生くらいの子でも上手い人がゴロゴロいる。ボールを持っていってリフティングでもしていれば3分経たずに「サッカーしようよ」と声をかけられる。しかしそれではその人が上手いかどうかは分からない。僕はもうすでに始まっている草サッカーに飛び込む事にした。ここで前回の練習で気付けた課題に取り組んでみた。ボールを持ったらどんどん仕掛ける。スピードに乗れば抜ける。抜けばボールも回ってくる。連続で止められたりしたらゴール前に張り付いた。ゴールは落ちている大き目の石を2つ並べた物や近くの工事現場から勝手に借りた三角コーンを並べたりして使っていた。シュートを撃ったら相手DFより先に大声で「ゴール!」とか「ゴラッソ!!」と叫んだモノ勝ちだ。やってていつの間にか日が暮れて誰からともなくゲームを抜けていき終わりになった。「ここにいるからまたやろう」と約束を交わし帰路につく。これってチームと同じシチュエーションじゃないかと気付いた。ストリートがそのままチームの練習にもある。練習にあるだけではなく評価の対象になっている。レクレーションやリカバリーではない。絶対にチームでも今日のストリートでの経験を活かそうと思った。そして日本の価値観を捨てると決めたがまだまだ残っているなというのを感じた。もっともっとアルゼンチンに染まらないといけない。100%アルゼンチン人になるつもりでやらないといけないと感じた。その為には未だにまだ染まりきれていない自分の考えと逆の事をやっていこうと考えた。

ミニゲームは無いが日々の紅白戦で少しづつ出場時間が以前より増えてきた。怪我人やら1軍に昇格していった選手がいるやらで僕が出ざるをえないからだったと思う。その紅白戦の中できつい言い合いが繰り広げられている。文句と言うか罵詈雑言。ありとあらゆる悪態をつきあっている。「おい。お前は何も出来ないんだからとっととボールをよこせ」「お前のふくらはぎには辞書でも入ってるのか?」なんて時にはジョークを交えて言ったりもする。どの辺が面白いのかはさておいてこの中で僕も言うようになっていた。時には「目が細くて見えないんだろ」なんて差別的な事も言われたりもした。その時ばかりはキレてその後、落ち込んだ。練習が終われば言ってきた奴が馴れ馴れしく接してくる。あまりにも続くので言われた事に一々反応しないで自分の主張をする。ボールが欲しいタイミングがあれば呼ぶ。その時来なければそいつの名前を呼んでこっちを見ろと言う。その内時々回ってくるようになった。ここで感じたのが彼らアルゼンチン人は言っている内容なんて気にしていないんじゃないかという事だ。こちらの要求を聞いてないようで聞いている。文句に対して言い返して「いいから出せよ。このへたくそ」だの言う。次のプレーではパスが出てくる。その時々で表現した自己主張が少しづつ浸透していく。そしてその瞬間を感じ取ってプレーしていく。連携していく。そして練習中彼らは本気なんだ。普段は優しいアルゼンチン人が一度サッカーになると人間が変わる。優しい一面と全てを否定するかのような罵声を浴びせてくる一面。一体どちらが本当の彼らなんだろう?悩んだ事もあるが優しく冗談好きな一面とサッカーしていて熱くなるところ。どちらも本当の彼らなんだ。そんな風に思えるようになってきた。そうなってくるといちいち言われた事に対して本気で落ち込んだりしなくなった。それすらも受け入れる。その時の状況やプレーに対してのみ本気で反応しているだけなのだ。

こういう経験を積み重ねていくうちにサッカーに関わる事であればスペイン語が分かる場面が大分増えてきた。分かるようになって感じたのは練習中、試合中はそんなに難しい言葉はアルゼンチン人同士といえど話していないという事だ。ボールが欲しければ名前を呼んで。シュートを撃つ場面ではそれを叫んで。守備でも身振り手振りを交えて指示を出すので分からない事は無くなってきていた。

そのような気付きと自分の変化を感じた頃に紅白戦でローカルと対戦して試合終了間際に出てゴールを決めた。次の日も紅白戦で昨日より少し長く出てローカル相手に点を取った。そしたらフォワードで使われだしてまた紅白戦で点を取れた。ミニゲームでは僕にボールが集まってきて何回も面白いように抜いて点を取れた。そうするとローカルのディフェンス達がガンガン僕を潰しにきた。両足を思いっきり踏まれて痛くて感覚がなくなったがこのゲームが面白すぎてまたボールをもらいにいった。そうこうする内に凄い出来事がやってきた。

言葉を超えたコミュニケーション

全てが分かるようになったと言えばいいのだろうか。皆と会話を交わしているのだ。ボールで。目線で。体の向きで。僕が動きすぎれば「そうじゃない。まだ待て」「スピードを上げすぎるな」「前を向けるぞ」「勝負しろ」「決めて来い」野球漫画でピッチャーとキャッチャーがテレパシーでやり取りしているのを見た事がある人は多いのではないだろうか。まさにあれだ。これをパスの出し手とだけではなくこのミニゲームに参加していた全員と交わしていた。

僕は確かに皆と言葉じゃないコミュニケーションを取っていた。それは日本でサッカーしていた時より明らかに多くの言葉を交わしたといえる。僕も言われっぱなしじゃない。目線で体で自分の意思を示していた。僕は皆と確かに同じ意思の元、分かり合っていた。するとオビエド監督は「お前は上手くないけど、点を取るんだな」なんて声をかけてくれたみたいだ。みたいだというのは同じチームの留学生が教えてくれた。僕は何を言っているのか分からなかった。スペイン語力はまだまだだ。しかしそんなのは気にならなかった。大きな手応えを感じていた。日本にいた時はチームメイトと同じ日本語を操っていたが、このようなやり取りは無かったし、ここまで分かり合ってプレーした事はなかった。

いよいよ開幕が近づいてきた。試合も後半から出れるようになっていたし、日本人練習でもオビエド監督とは話すようになってきた。というか彼の方から一言、二言話しかけてくれるようになってきた。

これが点を取る、結果を出すという事か。

オビエド監督との出会いはマイナスからのスタートだった。しかし今、僕は自分の出した結果でワールドカップで優勝した人を認めさせたんだ。明らかに世界が変わってきた。そうなるとスペイン語の勉強にも熱が上がってくる。この頃からスペイン語力は上がっていった。今までは勉強してもどうしても分からなくなると頭が止まってしまう。この経験からそういう事が無くなり、自分でも驚くほどに覚えていって使えるようになっていった。というか話したくて仕方がなかった。引きこもって人に会わないことに喜びを感じ人に本音を出さない僕が1年も経たずに、である。そんな充実した時だ。僕や同じチームの留学生全員とオビエド監督はリベルタを離れる事になった。

もう開幕まで1週間というところで。リベルタの会長と代理人のラファとの関係が悪化したのが原因だ。僕は残りたかった。いい一体感を感じていたし、自分の成長を実感していた。最高のプレテンポラーダを過ごして自信を持って開幕できると思っていた。

決まった以上僕はどうなるのか。肝心の移籍先は以前に乱闘騒ぎを起こしたベジャ・ビスタだ。

大丈夫かな?さすがに覚えられてたりして。なんて不安だったが杞憂に終わった。皆いい奴だった。

今週土曜に開幕で僕は試合に呼ばれない組での調整となった。1軍と2軍が紅白戦をしている中、あまった僕らはピッチの外を延々走り。交代の度に1人減り、2人減り。僕は最後までハブ組だった。またここからか。という思いでいっぱいだった。しかしベジャ・ビスタの選手たちは上手い。リベルタの1軍の選手も上手かったけどそれより全員が上手くて強くて速い。何人かはそのままもっと上でやれるだろうし、Jでもやれるんじゃないかと思うほどだ。次のステップとなったここベジャ・ビスタでこのレベルの選手達のプレーをどんどん吸収していこうと思った。

初戦の相手はラシン・デ・コルドバ。1軍はプロの2部(当時)なので州リーグのローカルというカテゴリーはプロクラブにおいては3軍カテゴリーが出てくる。試合は良い所無く負けてしまった。負けた事よりラシンに昨年所属していたデフェンソーレス・フベニーレスの選手達が数名いた。ラシンで試合には出ていなかったが、彼らもステップアップしているのだと思った。僕だって上がっている。彼らとの対戦が楽しみだ。対戦を約束して僕たちは別れた。こういう出会いもあるんだな。ますますやる気が出てきた。

しかし現実はレベルの違いを嫌でも感じる。リベルタでは何が足りないか分かるような差だったが、ここベジャ・ビスタでは全てのレベルが違っていた。試合に出れない選手たちでさえも上手かった。そういうレベルの違いを感じている頃、ラファからデフェンソーレス・フベニーレスに戻らないか、と持ちかけられた。僕を思っての事であり、デフェンソーレスの監督やディレクターから「日本人は戻ってこないのか」としょっちゅう連絡がきていたからだ。僕の現状と照らし合わせれば戻るという選択はベストだった。州1部から州3部。州1部でさえプロへの距離で考えれば3つのカテゴリーを上がらないといけない。アルゼンチンにおいては州1部の上に地方4部アルヘンティーノB(現フェデラルB)とブエノスアイレス4部ともいえるプリメーラCというカテゴリーからプロといえる。ここでも十分にレベルが高い。だが僕が目指すプロは2部以上をイメージしていた。州1部であれば下部組織とはいえコルドバのプロクラブと対戦する事が出来る。そういう試合もまたアピールの場だった。そこから去るというのは、アルゼンチン2部にいくということは5つのカテゴリーを飛び越えないといけない。このステップアップは自分ではイメージしきれていなかったのでここからイメージを作り直す作業をしなければいけないな、と思った。

州3部リーグは州1部より開幕が遅い。またもやプレテンポラーダだ。州1部で鍛えたフィジカルは州3部ではかなり上のほうになれた。走りでは今まで以上に速いグループに入れた。

ある日、ラシンに行っていた選手達が全員戻ってきていた。

何故戻ってきたのだろうか?プロの下部組織に呼ばれるなんて凄いチャンスにも拘らず。この頃には言いたい事はスペイン語で言えるようになっていた。聞けば「俺は選手だ。ベンチにはいたくない。試合に出れなければそれはステップアップじゃない」プレーぶりは認められラシンに移籍する事は出来た。しかしそこではスタメンではなく控えからのスタートである事を告げられた。その上で彼らが自分で出した決断だった。僕はプロを目指すとはいってもサッカー留学という形でアルゼンチンに来ていて留学費用としてお金を払っている。プロクラブにいるだけでも頼めば出来る。事実、今回のデフェンソーレスに戻るにあたり出れなくても良いからベジャ・ビスタに残るかプロクラブでやるという事も出来なくはなかったし、そうしようかと思った事もある。彼らの決断で気付かされた。今、試合に出ること。ここデフェンソーレスでも競争はある。競争を避けるのではなく試合に出ることを掴み取れる状況に身を置く。それがここアルゼンチンでは一番大事なんだ。彼らと僕ではアルゼンチンでサッカーしている理由は違う。僕ならラシンに残ったかもしれない。けれどラシンに呼ばれなかった僕はここでラシンに呼ばれるほどの選手達と競争し一緒に試合に出て勝つ経験を積む。それが必ず自分のレベルアップに繋がるはずだ。高校で100人以上の部員がいてスタンドで応援するためにい続けるわけじゃない。そんな事を甘んじて受け入れない。ここアルゼンチンまで来てプロクラブに留学していたって事だけを抱えて帰るのを目的に来たんじゃないんだ。公式戦に出るということの意味。価値。それだけがここアルゼンチンで重要なんだ。そういう事をデフェンソーレスのチームメイトから学んだ。全てを出し切る今を積み重ねる。その結果、試合に出れる、出れないがある。それは監督が決める事だ。僕がコントロールできる事ではない。そのような事に一喜一憂せず全てを受け入れ日々を全力で取り組む。

僕は語学学校には行っていない。アルゼンチンでは本当にありとあらゆる瞬間が学びの場だ。先生は師はアルゼンチンにある全てだ。教室で教科書を読んで問題を解く事よりも気付ける、学べる事はそこら中にあった。

アルゼンチンサッカー留学に来ていてサッカーがメインの生活だ。でも練習場と家の往復で他は何もしなかったり一緒にいる日本人留学生と群れているだけではアルゼンチン行く前の引きこもりとそれほど変わらない。州3部が開幕まで時間があるので週末はベジャ・ビスタの試合を見に行った。残った日本人留学生がローカルで出ていることもあるし自分が体験した中で最もレベルの高いチームの試合を見ることで刺激といつでも州1部のレベルを感じていたかったからだ。ベジャ・ビスタは中々勝てないでいた。それも大量失点での負けが続いていた。


スラム街の屋根の無い家

そのような日々の中でベジャ・ビスタの選手クキから賭けサッカーに誘われ日本人留学生数名で行く事になった。場所はクキの家の近くなので彼の家に行く。彼の家で皆で昼食を食べようとなった。クキの家はスラム街の中にあった。「俺から離れるなよ」初めてのスラム街。アルゼンチンでは「ビジャ」と呼ぶ。直訳すると村なのだけどここアルゼンチンではビジャと言えばスラム街。クキはビジャの有名人。ひょっとしたらこのビジャからプロになれるかもしれない選手。ビジャの人たちは遠巻きに僕らを見つめる。クキが「彼らは日本人でチームメイトなんだ」と言ってくれると笑みがこぼれ挨拶に近寄ってきてくれる。そうこうしている内に人だかりが出来て交流が始まった。離れるなよと言う理由が分かった。クキから離れたらビジャに勝手に入って来たよそ者になってしまうんだ。そうなったら身に危険が及んだだろう。ビジャの人達はよそ者を嫌うそうだ。それにしても良い人達ばかりだ。百聞は一見にしかずという諺は本当だ。クキの家の料理もおいしかった。食後に「歯磨くか?」と僕達は聞かれて差し出されたのは今まさにクキが使っていた歯ブラシだった。歯ブラシのシェア・・・。想像もしていなかった。断ったけど気持ち悪いというよりは「ここではこれが日常なんだ」と知る事が出来たのが印象的で衝撃を受けたからだ。そしてもう1つクキの家には屋根がなかった。屋根だ。貧困のスラム街でテレビが無いとかじゃない。もう1度言う。屋根だ。彼はそれを恥じる様子も無く、家を案内し家族を紹介してくれた。僕だったらもし屋根のない家に住んでいたら友達や知り合いを呼びたいだろうか?貧しいだの可哀想だの感じる前に何とも言えない気持ちになった。それは呼んでくれた嬉しさや有難さだったりこれが普通なんだという事への複雑な感情だった。

賭けサッカーは何とか勝利。ビジャの人達はサッカーが上手かった。賭けサッカーはプロサッカー選手が来たりする事もある。プロはクラブの活動以外でサッカーしてはいけないのだが、賭けサッカーで稼いでいる選手は多くいる。今回の相手にはプロはいなかったが皆上手くて最後まで体を張ってプレーする。手の使い方が上手く、利き足にボールが来れば全て完璧にコントロールする。賭けサッカーから学ぶ事は戦う姿勢。普段トレーニングしていないとかそういう問題ではなく彼らは体が動く。練習より試合の方が上手い。試合にお金や誇りがかかっていれば尚更力を発揮する。パルケでもそうだがクラブに所属して本格的にサッカーなんてやったこと無い人たちからこの試合を通してビジャに足を踏み入れて人々に接してみてたくさんの事を感じて考えさせられた。


Pecho Frio(ぺチョ フリオ)

直訳すると「冷たい胸」。どういう意味かというと胸には心臓があり赤く熱い血を全身に巡らせている。心臓とは魂。アルゼンチンでは気持ちを込めて強いプレー、最後まで戦う姿勢を貫く事が求められる。それが出来ない選手は胸に血の通っていない冷めた選手という事になる。アルゼンチンにおいてPecho Frioとは何も期待しないし興味がない最低の評価である。アルゼンチン1部(当時)のあるFWはPecho Frioであるが故にボールを持てばブーイング。点を取ってもブーイング。チーム得点王になり、クラブ史上初のコパ・リベルタドーレス(南米のチャンピオンズリーグ)に導いた中心選手になったにも関わらず追い出されるようにクラブを去った。

僕はビジャでこの日の賭けサッカーでPecho Frioと言われた。そんな事を言われるとは思わなかった。審判はいたが時間の管理くらいしかしていない。上手いか上手くないかは関係ない。最後まで体を投げ出し力の限り走りぬく事が求められた。一人退場者がこちらに出た。決定機の阻止に反則を使いさすがに笛が鳴り退場。その後ケンカが始まる。試合に負けるくらいなら男として戦いピッチから去る事も評価される。戦う、この点においてビジャの賭けサッカーは州リーグよりプロよりも上だった。そしてそれはどんなに下手でも出来る事だ。

僕は引きこもっていた頃より明るくなっていたがどうやらまだまだピッチの中でも外と同じだったみたいだ。このオンとオフの切り替えをモノにする事はまた1つレベルを上げるにはとても大事な事だと分かった。

ここアルゼンチンでは信号待ちの車のガラスを拭く幼稚園や小学校低学年くらいの子達が多くいる。ガラスを拭けても1台25センターボ(当時は1ドル1ペソ。センターボとはペソより小さい通貨。25センターボとは約25円)。良くて50センターボしか稼げない。学校に行く暇もなく大きくなったらサッカー選手になりたいだの宇宙飛行士になりたいだのケーキ屋さんになりたいだのといった夢を見る暇もなく今日食べるために働く子達がいる。日本でも大人のホームレスは繁華街に行けばいるがアルゼンチンでは子供のホームレスを見かける。彼らは笑顔を絶やさない。ここのビジャの人達もそうだ。そんな彼らも時折一般的なビジャの人らしさといえばいいのだろうか、そういう部分を見せることがある。思い切って聞いてみた。盗みやケンカはするのか。「裕福そうな人や普通の人達を見ると時々どうしようもなく心が飢えていく時がある。きっと彼らは良い人達なんだろう。それは分かる。でもある時、突然中から悪い感情が湧きあがってきてしまうとどうしても抑えられなくなる」そういう話をしてくれた。「お前達はもう友達だから心配するなよ」とも言ってくれたが複雑だった。ビジャの人には短期的に楽してお金を手に入れようとする者がいる。計画的に悪事を重ねる人もいる。だけどビジャには素直でマジメに家族や地域で手に手を取り合って慎ましい生活をしているこういう人達の方が圧倒的に多い。クキ、ありがとう。ビジャは危ないから近寄るななんて周りが言う事を信じていたらこんな素晴らしい経験と温かい人々には知り合えなかった。何でも一歩踏み出す事は重要であるという事をビジャの人達が教えてくれた。

ベジャ・ビスタはコルドバ州リーグの中で待遇の良いクラブ。ローカルの試合に出て勝てば50ペソ(当時約5000円)。引き分ければ20ペソ。負ければ0。クキには試合に出なければいけない理由と負けられない理由があった。僕にだって負けられない理由がある。彼らに競争で勝ち、多くの人を認めさせなければいけないんだ。

いよいよコルドバ州3部リーグ開幕だ。僕はと言うと開幕戦レセルバで控えだった。意味が分からなかった。今日に至るまで州1部やってきてこの扱いには驚いた。そしてメンタルを乱してしまい、後半途中から出たが良いプレーは出来ず。ローカルも勝てなかった。このような扱いで僕は自分の何を壊せばいいのだろうか?

その後の試合も控えだった。4試合目でスタメンで出て点を取ってからはレセルバスタメン定着したがローカルはまだまだだった。ローカルはというと毎試合大差で負けていた。ラシンから戻ってきた数名を除いては昨シーズン所属していた選手、特にローカルの主力は大分いなくなっていた。代わりのローカルの選手たちは昨年4軍日本で言うユースの高校生達だった。やはり経験値と体格差があり勝てなかった。


給料未払い 監督、コーチがいなくなる。

ある日、監督とフィジカルコーチが今日で最後だとの事を言ってきた。給料未払いが数ヶ月続いていた事が原因だ。監督は「君達にも何が起こるか分からないから気をつけなさい」と言ってくれた。アルゼンチンにおいてはこの手の給料未払いはよくある。クラブの規模が小さくなればなるほど特に。給料といっても州3部の監督で生活できるほどではない。監督コーチも他に仕事を持っている。わずかな給料も払わないのだ。

この監督は色々教えてくれた。シーズンオフはしっかり休んでサッカーのことは忘れなさい。そしてプレーする事、その為に必要なたくさんの犠牲と献身と努力に飢えて戻ってきなさいと教えてくれた。休み無く練習して心身共に疲弊していた高校のサッカー部とは間逆の考え方だったので新鮮だった。事実、バカンス明けに戻ってきた高校生が体が大きくなってプレーもダイナミックになりローカルでレギュラーを獲得していた。

受け入れて適応する

サッカーにおいても私生活においても日本の常識はアルゼンチンの非常識だし、逆もまた然りだなと思った。例えばアルゼンチンでは練習のスケジュールを1ヶ月単位で出さない。全て翌日の練習時間と場所を口頭で伝えるだけだ。バスなど公共の乗り物がよくストライキを起こす。乗車拒否をしてくる。何か不具合、不都合を客が被ってもまず謝らない。日本だったら少し時間が遅れたら謝る。アルゼンチンではテレビの放送が押してしまえば次の番組の始まりが遅れる。それについても謝らないで何事も無かったかのように始まる。移民局でビザ更新に行ったときも何らか不備があったみたいで更新してもらえなかったが担当を替えたらすぐ更新できた。後で電話する、と言われて電話が2日後にきて文句を言ったら驚かれた。担当者単位で話が食い違ったり引き継がれていない事でやきもきする事も経験した。でもこういうのって謝られる事が無ければ無いで全く気にならない。事実アルゼンチン人はこんな事で怒らない。時間の流れが日本と違うんだ。日本だったらチームの練習なんて仕事が終わった夜8時、9時にスタートする。アルゼンチンでは昼2時、3時に良い大人が週5,6日集まって本気でサッカーする。シエスタといって昼寝もする。土日は宗教的理由で殆どのお店が閉まって街全体がお休みモードになる。チームの練習でも当時は1つのカテゴリーにボールが2,3個しかない事が多かった。これはタジェレスやベルグラーノといったアルゼンチン1部のクラブでもそうだった。だから全体練習が主体だ。2人組、3人組の練習は必然できない。ゲーム形式の練習で来るパス1つ1つが基礎練習でありシュート練習だという思い込みとイメージが重要だ。用具もコーンなどが無いからそこらに転がっている大きい石や選手の荷物の入ったバッグを利用したりする。無きゃないでどうにかする工夫をしているからそれらが自然と身についてきた。

おもてなしが日本の良さで日本を離れて日本の素晴らしさが分かる部分はあるけど、何でもあって色んな事が出来るからこそ考えないでやっていけてしまうんじゃないかというような部分を僕は強く感じた。そしてこれらは僕にとっては小さい事でストレスは全く感じなかった。僕の土台はアルゼンチンのそれに変わってきたようだ。それもこれも僕がアルゼンチンサッカーや私生活の全てに没頭してハマッていたからだと思う。色々な不都合を感じて不満を言うのは簡単。被害者ぶるのも簡単。でもその先には何も無い。余計な事は考えずに集中する。そうすると何でも面白くなる。親切そうな人を感じ取ったり、取っ付きにくそうな人とは本題から入らず世間話から入ってみてある程度打ち解けてからお願いをするようにしたり。監督が想定外にいなくなった不安はあるが人生は続く。日本で引きこもっていたら出来ない経験をさせてもらっているんだ、と思えばマイナスは見当たらなかった。もしそれでもどうしても嫌だったり馴染めないのであれば日本に帰ればいい。来てくれなんて頼まれたわけじゃない。日本人1人の為にアルゼンチンという国は都合のいいように変わってくれない。逆もまた当然だ。

給料未払いもあり後任の監督はチームメイトの父親が就いた。監督を雇う金がないのだから来てくれる指導者などいないのだが無償で引き受けてくれた。試合は勝てないのが続く。それもそのはずで全然選手が揃わない。監督のいないクラブに来る理由がないのだろう。そして今後について選手、スタッフ皆で話し合うことになった。そこでは「俺達はプロじゃない。試合に行きたくても行けない事もある。この状況は変えられない。このままやるしかない」という主張をする者ばかりだった。話し合いは平行線を辿った。練習や紅白戦もいる者はしっかりやっているが、どこか自分達を信じきれなくなっていた。そして敗戦を重ね監督は辞めて監督の息子の選手も来なくなっていた。次の監督も選手の身内が就いた。

Conoces Takayama?(君はタカヤマを知っているか?)


奇妙な事が起きた。

街を歩いていると人々に声をかけられる。


アルゼンチン人
「君は日本人か?」



「そうだよ」



アルゼンチン人
「タカヤマを知っているか?」



「?知らない」


お店で店員に


アルゼンチン人
「タカヤマについてどう思う?」


バスに乗れば


アルゼンチン人
「タカヤマは有名か?」


練習に行けばチームメイトにも


アルゼンチン人
「タカヤマってどんな奴だ?」


僕にはタカヤマなんて知り合いはいない。そもそもなぜ見知らぬアルゼンチン人がそんな事をそれも次から次へと尋ねてくるんだろうか?一緒に生活している留学生達も聞かれていた。過去の偉人なのか?分からない。

「タカヤマは良い選手なのか?」

ん?どういう事だ。

何かの選手か。どうもサッカーっぽいけど分からない。

数日後、テレビにアルゼンチンの空港に到着した高原選手が映し出されていた。シドニー五輪後にジュビロ磐田からボカに移籍してきたのだ。

タカヤマじゃなくて高原だろ!あの日アルゼンチンにいた日本人は皆叫んだのではないだろうか(笑)。

僕はあるチームメイトにヒロフミじゃなくてヒロスミとずっと呼ばれていた。このあと、2005年にはコーチとして留学するのだが、その時あった時もヒロスミだった(笑)。日本人の名前はアルゼンチン人には発音しにくいみたいだ。

日本ではどうだったか知らないがアルゼンチンではそこまで熱心に報道されていなかったように思う。日本最高の若手ストライカーがここアルゼンチンのビッグクラブで通用するのかどうか。来てくれた嬉しさと同じくらい興味があった。そして高原選手のおかげで会話の話題に事欠かなかった。朝も夜も関係なく街を歩いているとどこからともなく「タカ!!」なんて大声で声をかけてくれる人達がいっぱいいた。親日国家アルゼンチンから遠い日本は高原選手をきっかけにさらに注目してもらえるようになってそれはとても嬉しかった。次第に僕はこの人達になら心を開いていいんじゃないかと思うようになっていた。せっかく声をかけてもらっているのに。もっともっとアルゼンチン人と関わりたい、分かりあいたいと思うようになっていった。

最下位から抜け出せない状況と選手がいないローカルとレセルバ。最悪の状況の中で選手が2人戻ってきた。17歳のユースの選手達だ。彼らは2人ともブエノスアイレスの名門リーベルの入団テストを受けに行っていた。トップチームが最悪の状況の中、デフェンソーレスは育成面で素晴らしい結果を出していた。2人は結局リーベルには入れなかったものの彼ら以外でもメッシの出身クラブであるロサリオのニューエルスやベレス、タジェレス等に選手を送り込んでいる。いつも思うがトップチームと下部組織のギャップが激しい。

このように選手が減っていく状況になり、僕はローカルで出場できるようになった。残り3試合。レセルバで出てそのままローカルのベンチに座る。そして出番が来た。体力的にきついかと思ったがそうでもなかった。出たいカテゴリーで出る事が出来てアドレナリンが出ていたからだろう。相手は以前に大差で負けたクラブだが、どうしてこのクラブに負けるんだろうと感じるくらい歯応えがなかった。いつも通りやれば負ける相手じゃない。しかし最近のいつも通りはこれまでにないくらいのカオスだったわけだが。試合は0-1の負け。

2001シーズンは終わった。やれる事はやった。こうすれば良かった。あの時、言っておけば良かったと思う事はいくつかある。チームは最下位で終わったけど全力は尽くした。悔しさや悲しさはあるかと思ったが不思議と全く無かった。やり切った充実感の方が上回っていた。

残るは日本人練習くらいのものだ。あとはアルゼンチン生活を満喫する事に注力する。なるべく練習場と住んでいるマンションの往復にならないように気を使っていたが、まだまだコルドバの街について知らない事もある。

そして年末恒例の日本人チームの試合。

僕はセンターバックでプレーした。本当は左MFなのだが他の留学生がファーストチョイスなので控えでいるくらいだったらやろうか、くらいの気持ちでやった。

相手は全国4部リーグにも出場するサン・ビセンテというクラブ。

僕は相手FWを止めまくった。一緒にセンターバックをやったのが後にパナマやJリーグでもプレーした選手なのだが彼のおかげで凄いやりやすかった。正直ヘディングも好きじゃないのだが、いざやってみると相手FWを止められるのでとても楽しかった。彼とも言葉ではないサッカーのコミュニケーションが出来た。彼がやり易いように僕を使っていただけかもしれないが、本当にDFは楽しかった。だって抜かれないし崩されないんだから。しかもプロになってやってやる。俺なら出来る。と思っていたが現実の僕は州3部の選手。州1部より上のクラブの選手のレベルは分かっているし自分自身がそのレベルじゃないのは心の奥底では分かっていた。そんな「こいつら凄いな」と思っていた相手を全部止めてしまったのだから面白くないはずがない。


ワールドカップ優勝メンバーとコンビを組む

年末で留学生はそれぞれの好きなタイミングで帰国する。留学生はかなり減ってきていた。そんな日にも試合の日はある。相手はオビエド監督の友達達チーム。しかしオビエドの友達だけに殆どがプロだった。サン・ビセンテ戦に出ていた選手もいる。そして選手が足りない。どうしよう

「俺が出る」

オビエドだ。

いやいやおっさん、あんたが凄かったのは20年以上前だろ?向こうから借りようぜってな雰囲気になった。しかし彼は出る気満々で有無を言わせない雰囲気だ。というわけでアップが始まる。

オビエドはバスケットシューズ、バッシュを履いている、サッカースパイクではない。履きかえる気は無い。

対面でパス交換する。上手い。

デコボコなグラウンドだがパスとコントロールが全部正確だ。僕が受けやすい質のボールを蹴ってくる。僕より圧倒的に上手い。いや、周りを見渡せば彼が一番上手い。これだけの格の違いを見せ付けられるとひょっとしたらと思う。ポジションはセンターバック。僕とコンビだ。アップでは確かに上手い。しかしいくらなんでも動けないんじゃないかと思った。

試合が始まった。押し込まれる展開となったが最後は完璧に閉める。オビエドは空中戦や球際で完璧に奪い取る。バッシュで。それどころか決定的なパスを通したりゲームを切るようなプレーを一切しない。バッシュで。オビエドの読みが凄すぎてまるで相手攻撃陣をオビエドが操っているかのようにボールの転がる先を読みきっている。キックも正確。バッシュで。スピードで来る相手の動きすら遅れずに読みきっている。バッシュで。

コンビを組む僕も今までサッカーしてきた中で一番やりやすかった。というか今まで僕はサッカーをしていたつもりでいたがしてなかったと感じるほどだ。僕もまたオビエドの手の平の上で転がされていたという方が正しいか。通常、ディフェンスは相手FWと自陣ゴールの間にポジションを取りFWとボールを視野に入れる。この日はオビエドとの距離感を保つ事に集中した。相手FWがどこにいようと関係ない。オビエドと離れすぎず、近すぎず。この距離感さえ保てれば相手に何もさせない事が出来た。試合中はボールより相手FWよりもオビエドだけを見ていた。それだけで全てを完璧に防げたし僕でさえも次の展開が必ずこうなるという確信のもと動けた。ここまで安心感を与えてくれて自分のベストを出させてくれるチームメイトはいなかった。流石にカウンターを喰らってしまった時は振り切られてしまったがそれくらいなものでミスはゼロ。50歳ちかくでバッシュで現役プロを完璧に抑える。現役時代は、全盛期はワールドカップ優勝したときは一体どれほどのものなんだ。底知れぬ世界を制した超一流の凄さを体験した。残念ながら名選手は必ずしも名監督ではない。という格言そのままの人でベジャ・ビスタをクビになりその後は監督としては無所属だった。一緒にプレーしてくれればそれだけでどんな指導者よりも雄弁に語れるほどだった。

僕は来年はセンターバックで挑戦しようと思った。オビエドがその佇まいで教えてくれたディフェンスの妙を出してみせる。小学生以来となるセンターバック。ヘディングが苦手で嫌いだったがアルゼンチンでセンターバックでプレーしてみて殆ど競り合いには負けなかった。自分の好きなプレーと特徴が違っていたのに気付いた。この日のプレーが出せれば最低限プロは間違いないと思えた。オビエドのおかげとはいえ僕もプロを抑えたのだから自信になった。


留学の終わりに

来年への展望を持ち代理人のラファにも伝えたがそのすぐ後に家庭の事情でアルゼンチンサッカー留学はこの年限りとなった。

もっと早くセンターバックをやっていれば良かったとか過去への後悔ではなく本当に良くやったなという満足感と充足感でいっぱいだった。なので日本ではJリーグクラブのセレクションを受けたり、社会人でサッカーをする気は全く起きなかった。シーズンが終わった時点で僕がプロになる事は無くなったわけだが帰国するその日まで自分のためになる日々を過ごす事を考えた。

思えば出来ない事だらけだった。自ら何もやらないと決めて自分の殻に引きこもったあの日々から1年6ヶ月ほどしか経っていないのに我ながら驚いた。

その間に

・ アルゼンチンに実際に行った。

・ 自分の言いたい事が言えた。

・ アルゼンチンで公式戦に出た。

・ スペイン語を覚えた。

・ 地球の裏側に友達が出来た。

・ スラム街に住む人達と交流をした。

・ ワールドカップ優勝した選手と一緒にサッカーをした。

挙げていったら100個じゃ足りないくらい出来た事がある。挙げていったら100個じゃ足りないくらい出来なかった事もある。それでもやり続ける事が出来た。やりたいと思った事をやらなかった事はなかった。諦めるという事はしなかった。

アルゼンチンに行かなければ引きこもったままだっただろうと思う。イジメられ、人に本音は言わず、人の目を見れず、引きこもる。それが僕だった。

引きこもりから抜け出した僕の心境の変化

高校を辞めているので18歳の時。同級生皆は高3だ。市船は後にワールドカップに出場する玉田選手率いる習志野高校に選手権千葉県予選決勝で負けて選手権出場を逃している。泣いている市船の選手達を見て僕は「ざまあみろ」と思った。彼らの努力が報われなかった時は心から嬉しかった。僕をイジメたり馬鹿にした同級生の子達の何人かは僕が部活を辞めたあとの夏休み明け、つまり1年生の2学期には部活を辞めていた。その中には世代別代表に入るような子もいた。その時は「俺にあれだけ言っといてお前らもその程度か」なんて思った。その子等の市船サッカー部を辞める経緯は置いといて僕はそんなこんなも含めてプロになって彼らに文句を言って見返そうと思っていた。しかし帰国前のある日、色々振り返っていたら彼らへの恨みや憎しみは消えていた事に気付いた。アルゼンチンという国がサッカーが日本であった嫌な事を忘れてしまうくらい楽しかったからだ。楽しさが増していくほどに自分が順応してサッカーもスペイン語も上達していく事が分かった。過去の恨みや憎しみは僕の力にはならない事に気付いた。

僕はこの時、彼らを許した。

許したといっても謝られたわけでもないし、同級生には今日に至るまで会ってはいない。引きこもっていた頃と比べると僕は明るくなったし、人見知りでもなくなった。ふと思った。もしあの頃の口数が少なく何考えてるか分からない僕と会った時、果たして友達になりたいだろうか?一生懸命戦ってその結果負けて泣いている選手達を称えないで蔑むような人間と関わりたいだろうか?アルゼンチンサッカー留学を経て21歳になっていた僕には高校生の頃の僕はとてつもなく嫌な奴に見えた。もちろんそれだからといってイジメを肯定する気はない。

あの頃の僕に自分から自分をさらけ出し一緒になって頑張る姿勢があればまた違ったんじゃないだろうか。僕をイジメて僕が部活を辞めた後、夏休みを過ぎて部活を辞めていった子達も何かほんの少しの上手くやれない事があったんじゃないだろうか。それがたまたま重なっていった。そう思うようになっていた。僕と同じような目に遭っても3年間部活を続けた子がいるのは知っている。イジメなんてのは気の持ちようの部分もある。それは分かるが現実は当時の僕には限界だったから引きこもった。このままじゃ良くないのは分かっていた。だからどうしても行きたいからアルゼンチンに行った。よく、引きこもりから抜け出すにはまずは外に出ること、なんていわれるけど、外に出て知っている人に出会ったらどうすりゃいいんだ。だったら誰もいない世界に行けばいいんだ。僕にとってはむしろ近所の散歩より地球の裏側のアルゼンチンに行く事の方が圧倒的にハードルが低かった。

アルゼンチンがサッカーが強い理由はいくつもあるが貧しさから抜け出すモチベーション、ハングリー精神とかよく言うけど違うと思う。彼らはサッカーが好きなだけだ。好きな事に全力。全てを差し出しているだけだ。試合にレギュラーで出れないなら自らカテゴリーを下げる。クビになったって堂々として次の場所を探す。その次の場所が遠くて車やバスで通わなくてはならない。けど交通費が捻出できない。なら自転車で片道2時間かかっても行く。歩いて3時間かかっても行く。プロになれない、なる気が無い選手がここまでする。それはサッカーが好きだから出来るんだと思う。好きな事に夢中になる。僕は夢中になれた。好きな事で成功したければ口数が少なく暗くて何考えているか分からない僕のままではいけないのだ。100個以上ある出来た事は全て暗かった頃の僕では出来なかった事だ。好きな事に夢中になっていれば他人の欠点なんて気にならなくなる。回りに何を言われても構わないしそれすら笑い飛ばせる。

イジメられている人は「自分が何をしたんだろう?何が悪いんだろう?言ってくれれば直すのに」と思った事があるんではないだろうか?「もしかしたら明日になればイジメられる前みたいに普通に接してくれるんじゃないだろうか。イジメは終わってるんじゃないだろうか」なんて期待をして学校や職場に行った事がある人は多いんじゃないだろうか。そんな事はないんだ。

僕が高校を辞めた時、僕の事を心配した同級生はおそらくいないと思う。むしろ「そんな人いたっけ?」くらいなもんだと思う。僕がいなくても誰も気にしないんだ。そう思えば今いる場所で上手く出来なかったり良い評価をもらえなかったとしても変に落ち込む必要は無いと思う。絶望感、閉塞感を感じて自殺なんてする必要が無い。

イジメられたり、引きこもっている人達は遠くに行ってしまったらどうだろうか。知っている人なんて誰もいない世界。もしかしたらそこにあなたが夢中になれる何かがあるかもしれない。もしくは今なんとなく興味がある事を知っている人の居ない場所でやってしまえば良いと思う。海外に出ることなんて全然凄い事ではない。パスポートと航空券があれば行けるんだ。だから嫌だったら、このままだったらヤバイと感じたら逃げてしまって良いと思う。「逃げるなんて無責任だ。最後までやり通せ」と言われるだろう。僕は親に言われた。けどそれはあなたにとってはそうかもしれないけど、僕にとっては違うんだ。逃げる事が最善だったのだ。僕は自分にとって一番良い事をやったと思う。世界は広い。引きこもっていた人が誰も知っている人のいないところに行ったならそれだけで成功だ。生きていればきっとあなたは夢中になれる場所にたどり着けると思う。僕がたどり着いたように。


僕の今

今、僕はアルゼンチンサッカー留学支援の仕事をしている。簡単に言うと僕が留学生を受け入れる側になりました。

日本で認められている選手にも来て欲しいし、かつての僕のような境遇の選手に今の感情のままサッカーを辞めてしまうのではなく一度でいいから外に出てもらって必ずアルゼンチンのサッカーに触れてもらいたいと思います。サッカーを辞めるのはその後でも全く遅くはないです。アルゼンチンに行ってまで試合に出れなかったりプロになれなかったらカッコ悪い?大丈夫。そんな事誰も気にしない。質問をくれたり相談なりメッセージ大歓迎です。

このストーリーでは僕のひきこもりから変わっていく過程を書くにあたりアルゼンチンサッカー留学を経験して分かった、感じた日本サッカーとの違いや良さは少なめにしました。別の機会に書ければと思います。


最後にアルゼンチンという国に、アルゼンチンで出会った全ての人々に、驚くほど美味い牛肉に(アルゼンチンの牛肉消費量は日本の約10倍)、僕の身に起きた良いことも悪い事も含めたすべての出来事に、一緒に過ごした当時の留学生達に感謝します。


長い文章を最後までお読みいただきありがとうございました。このストーリーに1つでも面白いなと思う部分があれば「読んでよかった」を押していただけると嬉しいです。


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チキンの丸焼きと、アルファベットのBと、白い幽霊が大好きなサッカーファンです!感動して催涙弾喰らったみたいに涙が出ました!
書籍化されれば、又吉の火花ばりに売れるはずなので、期待してま巣!

サッカー留学ではないですが、僕もアルゼンチンに住んでました。懐かしくて胸熱でした。

あなたの生き方に感動しました。自分もプロを目指しているゆえ大切なことを教えていただいたように感じます。

四方 浩文

はじめまして。自分自身もアルゼンチン・コルドバ州にサッカー留学していました。その経験を活かして今はアルゼンチンサッカー留学支援の仕事をしています。 http://www.soccer-and-society.com/ ブログはこちらです。 http://ameblo.jp/soccer-soc

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四方 浩文

はじめまして。自分自身もアルゼンチン・コルドバ州にサッカー留学していました。その経験を活かして今はアルゼンチンサッカー留学支援の仕事をしています。 http://www.soccer-and-society.com/ ブログはこちらです。 http://ameblo.jp/soccer-soc

四方 浩文

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