引きこもりからのアルゼンチンサッカー留学記

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引きこもりに至る経緯とその日々は個人的には思い出したくもない事だった。それに人に打ち明けて笑われたり、内心で引かれたりするんじゃないかと思うと怖かった。

引きこもりを克服するためにアルゼンチンに行ったわけではない。プロサッカー選手を目指してアルゼンチンに行った。アルゼンチンで本気でプロを目指している過程で出会った人達やアルゼンチンという国が持つ大らかさ人々の温かさのおかげで自分は全ての面で変われた。それは同級生や10代の頃を知っていてアルゼンチンに行ってからの僕に会っていない人達に会うと「前と違うね」「変わったよね」と言われるようになった事から分かった。それからだ。いつの日かこのアルゼンチンでの日々を多くの人に見てもらえる場で発表しようと思うようになった。

今回書き記している事は読めば分かっていただける事とは思いますが過去にされた事の暴露やその恨み事、関わりある特定の人を晒して傷つけるために綴るのが本意ではないということは先に記しておきます。

僕が変わっていく過程を楽しんでいただけてアルゼンチンという日本から遠い国に興味を持っていただけたら幸せです。

6歳で東京から千葉県習志野市に引越し、小学5年でサッカーを始めました。理由は当時僕の通っていた小学校では5年になったらミニバスケかサッカーどちらかの部活に入らなければいけなかった。ミニバスケの方は入っている人数が多くてサッカーの方が少なかった。「試合に出れそうだ」からサッカーを選んだ。

試合に出れないのも嫌だったので少ない方に行きました。なぜ人数が少なく人気がないのか。先生が怖かったからだ。

サッカー部に入ってみてとにかく走るだけで来たボールをとにかく遠くに蹴り飛ばすだけ。ミスれば怒って思い通りいかなければ怒って。泣かされて。楽しいとは感じられなかった。中学行ったらサッカーだけはやらない!と決めていた。

僕には兄が1人いるんですけど家では殴られたり学校行けば部活で先生は怒ってばかり。そんな感じなのでとにかく目立たなくする事が自然と身についてしまっていた。目立たないように。口数は少なく明るくなかった。そんな小学生時代だった。

中学ではサッカーやらないつもりだったけど僕の中学では3つの小学校が集まる。他2つは丸ごと入ってくるのに対し僕の小学校からは3割くらい。中学のサッカー部は人気の部活。他の2つの小学校はサッカーが盛んで強かった。人数が少ないうえに部活までマイナーなのに入ってしまったら口数は少なく明るくない僕は友達が増えないんじゃないかという危機感を感じて仕方なくサッカー部に入った。

中学からはゴールキーパーを始めた。周りが上手かったのでフィールドプレーヤーで出れる気がしなかったのと小学生の時少しやった事があったからだ。フィールドと比べて動かなくていいというのもあって決めた。

キーパー自体はやってて面白かったのだけど、性格は暗くて口数が少ないので指示が出せない。サッカー部に入ったからといっておしゃべりで明るい性格には変われない。身長も大きくないしこれはキーパーとしては先々厳しいなという思いはあった。

小学校と大きく違うのは強くて勝ち続けること。殆ど負けないどころか試合をすれば大差で勝っていた。サッカー自体は楽しくなってきていた。

Jリーグ開幕

中学に上がった93年にJリーグが始まった。サッカーが楽しくなりそんな時に華々しく始まったJリーグのおかげでそれまで好きではなかったサッカーに興味を持ち出した。

この時に千葉テレビでアルゼンチンサッカーが放送されていた。これにハマった!紙吹雪が舞うスタジアム。上手くて派手なプレーに見入った。Jリーグは放送してれば見るけどそれだけ。Jリーグのおかげでその他の国のサッカーを見られるようになりアルゼンチンサッカーを好きになれた。

中学の先輩の北嶋さん(元レイソル、ロアッソ)が選手権で高校1年から大活躍。そして市立船橋は選手権優勝。中学時代も話した事はなく遠くから見ているだけだったが身近な人が全国でテレビで活躍しているのを見て凄いと思った。プロになりたいとも思った。

僕としてはアルゼンチンサッカーが好きなのとカズさんの影響で海外に興味があった。カズさんがブラジル帰りなら僕はアルゼンチンに行ってやろうとマジメに考えていた。サッカー雑誌に海外サッカー留学の広告が載っている。とても魅力的に見えた。何故なら僕がサッカー嫌いからサッカー好きになれたきっかけの1つであるアルゼンチンの留学があったからだ。アルゼンチンの○○というクラブでプレーする。そうすれば上手くなれるんじゃないかというとても発想を持っていた。そんな時当時創刊されて間もないワールドサッカーダイジェストの1つの記事が目を引いた。それは育成専門のクラブでドリブルの時の目線、姿勢などに至るまで細かく教えていた。そうやって個々のレベルを上げて認められればプロクラブの下部組織に買われていく事が出来てひいてはプロ契約に至れる。練習の時に全く意識していなかった事が実際はたくさん気を使う事があったなんて。しかもプロクラブではないアマチュアクラブが教えているなんて。そのクラブの所在地がアルゼンチンであることも惹きつけられた理由だった。ここに行きたいと思った。

親に高校に行かずにアルゼンチン行きたいと告げたら「高校くらい出てくれ」と言われた。その考えも無理もない、そういうものかなと思った僕はあっさり引いてしまった。アルゼンチンへの思いは一端置いといた。

じゃあどこに行こうか。僕は県選抜にも入ったことはないしJリーグの下部組織にセレクションで入れるほどの選手じゃない。高校で出来る限り上手くなれなければアルゼンチンで通用しない。

北嶋さんのいる市船に行けば僕でも上手くなれるんじゃないかと思った。

全国目指して才能ある奴らと切磋琢磨する。そういう経験をしてから海外に出ても遅くないんじゃないかと考えた。

というわけで市船を目指す事にして見事一般受験で合格。

市船に入学する事になる。

高校は超名門。挫折

いやーメチャクチャ嬉しかった。暗い性格の僕が舞い上がってしまうくらい。それからはサッカー雑誌を引っ張り出して雑誌に載っている練習を夜な夜なやったり。この時から憧れのアルゼンチンは頭から吹っ飛んでいた。

練習には春休みから参加できた。新1年生に慣れてもらうためでもあるし、どの程度のレベルなのか見るためだと思う。

僕はキーパーを辞めてフィールドプレーヤーでやっていく事を決めた。同じ1年生や上級生にも上手い子はいた。それでも頑張ればやれるんじゃないかと思った。何人かは気にかけて話しかけてくれる先輩もいたし厳しい上下関係があるようではなかった。挨拶をしっかりやってタメ口を聞かなければうるさい人や嫌な人はいないんだと分かった。これはやりやすそうだなと思った。

春休みも終わりごろ入学を控えた頃になると見た事もない子が増えてくる。2,3年生の先輩達は市船のジャージや練習着を着ているのに着ていない子が増えてきた。すぐに分かった。同級生の推薦入学組みだ。彼らはAチームの遠征について行っていて遠征から帰ってきたのだ。春休みの頭から僕と一緒に練習していた同級生やAチームに入れなかった上級生より上手く身体能力も高い。ここでようやく「ここは市船なんだ。僕は市船にきたんだ」と改めて理解した。

入学して学校が始まる。そしてそのまま練習も始まった。

入学から1ヶ月は走りなどきつい練習ではじまった。これは「しぼり」という毎年恒例の1年生を追い込む練習だ。しぼりは推薦組みでも1年は全員参加しないといけない。(毎年恒例と言ったが今もしぼりがあるかどうかは知らない)

リフティングを落としては走り、チーム戦で負ければ走る。とにかく走る。少しづつ脱落していく子達がいる。一般の子の中には無名でも上手い子や中にはお世辞にも上手くない子もいる。おまけに走れないで制限時間に入れない。僕は中学の時はキーパーで足元の技術なんてないんだけど元キーパーの僕より出来ないで「お前そんな程度なら市船来るなよ」と心の中で思っていた。同じ1年の推薦組は制限時間内に走れない一般の子達に厳しい言葉で責めたてていた。それは足を引っ張る奴は追い込んでどんどんふるいにかけていくためだ。上からさらには指導者からもしぼりの期間はそうやって肉体的にも精神的にも追い込むように言われていたのだ。そこまでする事ないじゃないかと思ったが人のことより自分に精一杯だ。何せ毎日足を攣りながら走っていたのだ。走っている最中に右足を攣って走りながら直す。すると今度は左足が攣る。こっちも直す。その繰り返しだった。

家に帰れば寝るだけ。というかそれ以外のことをする余裕などない。

ある日の練習でいつも通り走ってドリブル競争を複数のチームに分かれて行った。僕のチームはビリになった。そして罰ゲームはピッチ往復を34秒以内。僕だけ入れなかった。なので1人でも入れないと連帯責任チーム全員でやり直し。1本目で入るのが超重要。分かっていた。この1本で力を使い果たした。走れる子に後ろから押されながら、引っ張られながら走ったが無理だった。僕以外の皆は何回やっても全員制限時間内に入っていた。結局、僕1人で36秒にして走った。それでも何本も入れずようやく入れた。そこで練習は終わり。部室では伏目がちにして周りを見ないようにしていたが、やはり雰囲気が重い。「お前、もう来るなよ」誰かがボソッと言ったのが聞こえる。僕の事なのかな?けど気付かないフリして帰った。同じ中学の子との帰り道。大丈夫だよ、頑張ろうぜ。と声をかけてくれた。まだ4月半ば。「スタートはこの位置だけどこれから頑張っていけばいいんだ。僕だって手を抜いて入れなかったんじゃない」そう自分に言い聞かせて家に帰った。明日は月曜日。唯一のオフ。こんな終わり方をして1日間が空くのは僕にとって幸運だった。

翌日、登校すると同じクラスのサッカー部の子達は普通に接してくれていた。しかし僕のクラスを通りがかる他のクラスのサッカー部員達は僕を見つけると妙によそよそしい。昼休みに他のクラスの部員達が僕のクラスの前の廊下に集まっているのが見えた。やってきて座っている僕を取り囲んで部活を辞めるように脅された。部活を辞める気は無いと告げるとまた廊下に集まっている。少し空いていた窓の隙間から皆がなにやら話し合っている。どうやって追い込もうかと。その輪の中に同じクラスで普通に接してくれていたサッカー部の子がいたのが見えた。

そして最初に辞めるよう言ってきた子がまた来て「来てもいいけど次また時間内に入れなかったらお前やばいぞ。それでもいいんだな?」と言って僕の返事も聞かずに帰っていった。

こんな事があっていきなり明日の練習で罰走があってまた時間内に入れなかったら・・・。それが連帯責任で皆に迷惑かけたら僕はどうなってしまうんだろうか。仮に明日は大丈夫でもまだ部活は続く。考えただけで恐ろしくなった。生きてきた中で一番怖かった。どうすればいいんだろうか?一応翌日の準備はした。バッグにサッカーの準備は入れた。

翌朝家を出るとき僕は違うバッグを持って出ていた。脅された事以上に廊下で集まっていた中に同じクラスの子がいたのが一番堪えた。他の皆を止めようとしてくれていたのだろうか?それとも一緒になって辞めさせようとしていたのだろうか。分からない。もう部活には行けなかった。

入学式後に少しづつ減っていく同級生の子達に対して「お前、そんなんなら市船に来るなよ」と思ったりした。そういう目線で見ていた。まさか僕が「そっち側」の人間になるなんて。

サッカーやりたくて市船に行って足を攣りながら走ってただけでサッカーやる前にこれから一緒に戦っていく仲間と思っていた子達に否定されて終わってしまった。あの朝、いつも通りサッカーの道具を持って登校していたら。今でもこの事は想像したりする。

毎日泣いた。授業中もふいにどうしようもなく悲しくなって涙が出てきた。家に帰って夜も寝れないほどに泣いた。泣き疲れていつの間にか寝ていて気付いたら朝という日々だった。理想と現実のギャップにはついていけなかった。

僕に起こった事はどんな部活にも程度の差はあれ、ある事だとは思う。この中からプロも生まれている。昔はもっと酷かったはずだ。

なら何で誰も何も言わないのだろう?という疑問が湧いてきた。このような事は必要なのだろうか?無くてはならない事なのか。

僕はこんな事でサッカーを辞めるのか。部活を辞めると高校年代ではサッカーをする場所が無い事に気付かされる。辞めると周りに体裁がつかない。何で普通の高校生が帰宅する時間に地元の駅にいるんだろう?部活じゃないのか?なんて思われかねない。だから部員100人越えで試合に出れずにスタンドで応援するだけで3年間を過ごしてでもしがみつくんだ。この出来事で全て分かった。この悪循環このまま放っておいたらまずくないか?そう思った僕はサッカー雑誌に自分に起きた出来事を投稿した。しかし取り上げられる事はなかった。逃げた者の意見は通らないのか。ここでも否定され必要とされない孤独感を味わった。ならば意見を求められる立場になるしかないと思った。だが、どうすればいいのか。情けなくて悲しくて泣いているだけでは何も出来ない。時折校内ですれ違うサッカー部の何人かは辞めた後もあの時走れなかった事を蒸し返して馬鹿にしてくる。好きで走れなかったわけじゃない。悪いと思っているのに。何も言い返せない。学校も嫌になってきていた。

僕は部活は辞めたけどプロにはなりたかった。この気持ちだけはどんなに泣いても馬鹿にされても消えなかった。

その後、僕は小学校のグラウンドで活動していた街クラブに何とか入れた。選手権優勝校から街クラブ。僕も含めてみんな上手くない。監督、コーチが一番上手い。規模と環境。落差が激しい。

そんな時ふと思い出した。あの記事だ。アルゼンチンの選手育成クラブの事が書かれたあの記事。文の最後に「ご意見、ご感想なんでもどうぞ」と書いてあった。自分におきたこれまでの事。アルゼンチンへの思い。プロへの願望。これまで送ったサッカー雑誌への投稿と同じ事を書いた。約半年後、忘れた頃に僕宛にハガキが届いた。差出人はアルゼンチンの選手育成記事を書いたサッカージャーナリストの故冨樫洋一氏からだった。

冨樫氏からの返事が来て僕はもの凄く驚いた。テレビにも出ているような人から「まだ興味があったら連絡してください」という一文と連絡先をいただいた。今まで否定されてきて意見を出しても相手にされず。そんな状況でたった一人冨樫氏だけが僕の声に耳を傾けてくれた。

言いたい事はたくさんあったけど言えるかどうかは不安でなかなか電話は出来ずにいた。しかし連絡しない事には何も始まらない。思い切って電話をして会ってもらえる約束をした。約束の場所に行くと冨樫氏がやってきた。テレビで見た事ある人が目の前にいる。力強い握手が嬉しかった。今、向こうのクラブがどんな状況か。先に行った日本人がいてどうしているか聞いた。僕は自分の事やアルゼンチンサッカー留学への思いを伝えた。最後には「まずちゃんと親と話し合うように」と言われた。

親に話を持ちかけた。もう迷わない。両親からは経済的な不安とアルゼンチンに行っても無理だ通用しないという意見。サッカーは趣味でやればいいじゃないかという願いがあった。僕が市船に行く事にあまり良い顔をしていなかったのを思い出した。どうも上を目指してサッカーを頑張るのが好ましくなかったようだ。

望んでいる場所は今では何の興味もない場所になってしまった。相変わらず時々だがサッカー部の特定の子に馬鹿にされる。そういう事が続くとひょっとしたら同じクラスのサッカー部の子達も口には出さないけどそう思っているんじゃないかと勘繰ってしまう。小中学生の時よりさらに口数は少なくなってきた。学校選びを間違えたと思うようになってきた。受験の時に同級生が僕がどこに行くか当然知っていた。ひょっとしたら皆僕が続かない事だろうと予想していたんじゃないだろうか。この時は嫌な妄想しか出来なくなっていた。「他人に本音を言って失敗したら大変だ。もう2度とそういう事はしない」と心に決めた。僕はさらに自分の殻に閉じこもっていた。

高校2年生になる前の春休み。教科書を買いに行った。電車で教科書の売っている本屋に向かう。その車内で見知らぬ人達同士が話して笑っている。よくある光景だ。でも僕の何かがおかしいんじゃないだろうか。僕が笑われているんじゃないだろうか。そう思いだしたら春先だってのに嫌な汗が止まらない。車内の空調は快適に効いている。地元の駅から6つしか離れていない。20分もあれば着く距離だ。一駅ごとに降りて汗がおさまるのを待った。また電車に乗り込むと誰かが僕を笑っている気がして気になって仕方がない。そうなると嫌な汗が滝のように出てくる。異常な量の汗をかいている僕を見て気持ち悪がっている人がいるんじゃないだろうかと気になってくる。でも顔が上げられない。こんな感じで人のいるところに出ると僕の中で異変が起きているのを感じ出した。そのうちに人の目が見れなくなってきた。

2年生になってもう学校は休みがちになっていた。家をいつも通りに出ていって自転車でその辺をうろつき親が仕事で家から出て行った頃を見計らって僕は家に帰る。何日かすると学校から電話が来て休んでいる事が親にばれる。行く約束はするけど僕は行かなかった。怒られてたまに行って殆ど行かない。電話が来る。それでも行かないで1ヶ月以上連続で学校に行かなかった事もあった。学校に行くと「まだいたんだ」というリアクションを同じクラスの子にされる。そりゃそうだよな。学校に行かなきゃ、とは思う。けど学校に近づくと気分が悪くなって校門をくぐるなんてもう出来なかった。

修学旅行の時期になり先生は「修学旅行は記念になるから来なさい」という。まだこの時は学校にちゃんと行けば取り返せる時期だった。親も修学旅行は行ってほしそうだった。僕は「そんなの行かない」と言った。その時、母親が一瞬だけど凄い悲しそうな顔をしていた。あんな顔を今まで僕は見た事がなかった。

いよいよ出席日数が足りなくなってきた。先生に呼び出されどうするのか?と聞かれた。でも僕は本音を言わないと決めているので黙っている。「これで察してくれ」と言わんばかりに。

高2の冬。留年が決まり親も諦めたようだ。ついに僕は退学する事となった。両親には悪いとも思わなかった。むしろ嬉しかった。これで人と会わないですむ。クラブでサッカーは続けているから人と接するのは最低限でしかも自分がやりたい事だけでやっていける。それが当時の僕の本音だった。

そして僕はアルゼンチンへ行くための動きを考えた。お金が無いんではどうしようもない。かといって人と接したくない。知ってる人に会うなんて最悪だ。そういうのを考えたが何があるか分からない。しばらくして地元から離れたコンビニの深夜でバイトを始めた。

深夜12:00前までは多少レジ打ちなど接客せざるをえないが、その時間を過ぎれば殆ど接さないでいい。配送されてくるパンや弁当と向き合っていればいい。そんな事ばかり考えていた。

1年と少しアルバイトをして久々に冨樫さんに会ってアルゼンチンに行くと決めた事と高校を退学した事を伝えた。そうしたら「少し前にクラブの会長が死んで経営方針が変わった。このクラブに行くのはオススメしない」と言われ驚いた。1年弱でそんなに状況が変わってしまうのか。せっかくアルゼンチンへの道が見えてきたのに・・・。ヤバイと思った。その時冨樫さんは「私の知っている人がアルゼンチンサッカー留学をやっているから会ってみてはどうか?」と言ってくれた。即答で「会います」と答えた。

冨樫さんが紹介してくれた人はアルゼンチンでのプレー経験があり、冨樫さんの知り合いもその人の所で今留学しているとの事だった。会った時にアルゼンチンと日本のサッカーの違い、向こうでの生活習慣、心構え、現状を教えてくれた。場所は首都ブエノスアイレスではなくコルドバだった。不安などなかった。行かなきゃ始まらないんだから。この方に会ってすぐに行く事を決めた。


20歳。アルゼンチンサッカー留学をする。


2000年8月30日。出発の日。初めての外国。日本から一番遠い国の1つであるアルゼンチン。30時間以上の長旅。機内では眠れなかったけど全然苦じゃなかった。

アルゼンチン・コルドバ州の中心街にあるマンションで他の留学生と共同生活。一端荷物をマンションに置いてすぐに移動した。この日はリーグ戦の日。コルドバ州リーグタジェレス対ラシン。両チームあわせて5人の日本人が出場した。激しく力強いテレビで見たサッカーがすぐ目の前で繰り広げられていた。僕もこの舞台に早く立ちたいと思っていた。



翌日も試合観戦。プロの試合でクラシコだった。クラシコとは同じ街のライバル同士の試合。アルゼンチン1部(当時)のタジェレス対ベルグラーノ。スタジアムは満員6万人くらいいたんじゃないだろうか。そしてこの試合が僕の始めてのプロサッカー観戦の日だ。隣にいる人の声が大げさじゃなく全く聞こえない大騒ぎ。芝を多い尽くす紙吹雪。発炎筒、花火。チャンスや良いプレーには観客は立ったり座ったり。生のアルゼンチンサッカー観戦は熱すぎる。アルゼンチンの名門クラブボカ・ジュニオルスのボンボネーラスタジアムの名言で「ボンボネーラは揺れているのではない。鼓動しているのだ」というのがある。コルドバのスタジアムもまさに魂が激しく鼓動していた。その熱さに試合を見るのに集中できなかった。

初練習は日本人留学生だけで行う朝練習。アルゼンチン人指導者のもと週に3回行っていた。僕と一緒に来た留学生とすでに先に来ていた留学生全部で9人。当時大体のクラブは午後に練習があった。僕より先にアルゼンチンに来ていた留学生たちは皆、上手い。プロになる強い意志と気持ちを練習で感じ取った。今まで僕がいた環境にはいない強さを持った選手たちとの練習に良い緊張感があった。

そしてその次の日の夜、初試合。日本人留学生のための試合。この留学生の代理人である日系アルゼンチン人「ラファ」が試合経験をつける為に月に1度か2ヶ月に1度組んでくれる試合。日本人留学生は11人いないので、足りない分はアルゼンチン人助っ人を用意して補う。これに5番ボランチで出場。僕や新しく来た選手の力を見るための試合でもある。結果は・・・0-0の引き分けながら僕のプレーは初心者並みにひどかった。最初のプレーがダメでそれを引きずってしまった。良いプレーはしないけどミスはする。最悪だった。中盤のプレッシャーの速さは僕から考える時間を奪っていった。試合の終盤にセンターバックでプレーしたがそこでは良かった。相手は田舎のクラブの高校生だったかな。速いプレッシャー、前へ前へどんどん向かってくる姿勢。バスも通わない田舎のクラブにもアルゼンチン代表と何ら変わらないスタイルが根付いていた。このクラブ名前も知らないけど凄い強かったのだけは鮮明に覚えている。

翌日は午前は他の留学生はオフなので先に来ていた留学生と一緒に街を歩いて案内してもらった。コルドバの中心街に留学生の宿舎があったので街に出るには凄い便利で快適だった。街も古い建物もあるけど汚くはないし良い雰囲気だと感じた。日本とは違う様々な生活習慣などを教えてもらった。お金の使い方。どこで何を買えるか。買い方。道の歩き方。街を歩いていると知らない人が挨拶してきてくれたりとても親しみやすい人々がいるというのも分かった。

アルゼンチンはスペイン語が公用語。日本でNHKのスペイン語会話を毎週見て勉強していてスペイン語って簡単じゃないかと余裕ぶっていたが日本で学べるのはスペインのスペイン語でアルゼンチンのスペイン語とは結構違うのもアルゼンチンに来てみて分かった。早口だし何を言っているのか・・・。日本で準備していたつもりだったがサッカーもスペイン語も0からのスタートの必要性を街に出て感じた。

それから代理人のラファが住んでいるマンションに来て僕に聞いてきた。「何がしたい?」そんなのサッカーがしたいに決まってる。早く行くチームを決めたい。そうするとラファは良い練習がしたいのか、試合に出たいのか?と質問を変えて聞いてきた。理由は8月から9月とはシーズンも佳境を迎えていて新加入が簡単じゃないということと、大きいクラブは補強が終わっていて入る余地がないという事。プロクラブに入るのはラファの力なら簡単。しかし入れるだけ。それに僕の初試合のプレーを見てまずは試合に出続ける事が大事だ、という事を教えてくれた。僕も大きいクラブに入ったはいいがその他大勢の1人になるのは望んでいることではなかった。そんなわけで僕のアルゼンチンにおける初の所属クラブはコルドバ州3部リーグ(当時)のデフェンソーレス・フベニーレスに決まった。

アルゼンチンでの初練習

初練習に行く日。どんなんなんだろう?冷たくされてしまうのだろうか?差別されないだろうか?色々考えてしまう。ラファともう1人の留学生とロッカールームに向かう。すでにいた何人かの選手とコーチ達がいた。挨拶を交わす。アルゼンチンの挨拶は笑顔で握手してHOLA!(やあ!)と声をかける。選手からは奇異の目で見られている。ラファから挨拶するよう促される。着替えている選手たちも笑顔でHola!と返してくれる。挨拶も一通り終わり僕も準備する。南半球日本の裏側アルゼンチンは冬。アルゼンチンのクラブは全て自前のスタジアムを持っていると聞かされて驚いた。茶色く枯れている芝と金網とコンクリートの壁で覆われたカンチャ(グラウンド)は冷たい感じがした。

 選手皆の前で自己紹介でもするのかな、と思ったけど何もなくゲーム形式の練習をやった。左ハーフでプレーをした。特に悪くもなく。練習後、何人かが話しかけてきた。来る前にスペイン語の勉強していたつもりが全く分からない。呆れて笑っている。無力さを感じた。サッカーにおいては走れる体力を取り戻せば全然やっていけるレベルだった。コルドバ州3部リーグはのこり4試合でそれがどこまで出来るか。

僕のチームのスケジュールは月曜日がオフ。火曜日がフィジカルトレーニング。水曜日はフィジカルプラス試合形式の練習。木曜日はスタメンとサブに分かれて紅白戦。金曜日がオフで土曜日が公式戦。日曜日がオフ。週3日間の活動。

初練習から1週間後クラブとサインして選手証を作った。アルゼンチンの場合、クラブに入れるだけの力を示せたら選手証を作る。それがクラブに登録された証でこれが無いと試合に出れない。その前にメディカルチェックをする。よくプロ選手が心電図をとったり心拍数を測るため自転車こいだりしているあれである。これで書類と健康に問題が無い事が証明できれば晴れて登録完了だ。

 コルドバ州リーグはサブ組みが前座で試合をしてその後に1軍が試合をする。トップチーム以下の下部組織は日曜日開催。他の留学生達はプロクラブにいたりコルドバ州1部のクラブに所属していたりで一週間の練習スケジュールは一般的に週の初めの月、火曜日は走りや筋トレ中心のトレーニング。水曜がボールを使った練習。木、金曜日が紅白戦。チームによって若干変わるが、それでも大体こんな感じで週5日の練習プラス公式戦という感じで活動している。

 選手証を作った週にレセルバ(日本でいう2軍。以下レセルバ)でアウェー戦でデビューした。フル出場、試合は引き分け。レセルバの試合では90分間で副審がいない。これには驚いた。ローカルの試合では副審はいる。タッチライン際の際どいプレーでも誰も笛が鳴るまでプレーは止めない。公式戦でも育成を意識した試合環境だと思った。そしてちゃんとした試合環境であるローカルで1日も早くプレーしたいと思った。また警察官が暴動を防ぐためにスタジアムに派遣されてくる。クラシコなど試合によっては何十人も来るしライフルを装備していたりもする。凄い環境だ。

監督、コーチはいつも良く褒めてくれるがまだまだ溶け込めていなかったのは感じた。残り4試合全てでスタメンで出たがどんどん出場時間は減っていった。僕の出来とは裏腹にプリメーラ・ローカル(1軍。以下ローカル)は調子がよく2部昇格も射程圏内に捉えていた。 ローカルは上位集団にいて、チームの雰囲気、状態も良く、それを祝って最終節前にスタッフ、選手が集まってアサードパーティーをやる事になった。アサードとはアルゼンチン風バーベキュー。アルゼンチンで最も人気の食事。それに呼ばれたので行くことになった。ここの人達は親切に接してくれていた。いつも冗談を言ってこっちが溶け込めるように積極的に話しかけてきてくれた。アサードもおいしいし楽しい時間だった。プレーの質が上がればローカルでもやれる。そんな考えが勘違いである事にも気付かぬまま上手くいかないのを雰囲気に出していた。


昇格を阻止するのは自クラブ会長

 そんなクラブがうってかわってある日、練習に行くとどうもおかしい。紅白戦でもいつもと違うメンバーがローカル側にいる。木曜日が紅白戦で大体その時のメンバーがそのまま土曜日の試合に出る。これはよほどのことがない限り変わらない。言葉が分からない僕でさえも感じ取った雰囲気の変化はそのままその週の試合に現れた。

 ローカルの試合のメンバーはやはりレセルバやその控え挙句にはさらに年下の下部組織の高校生の選手たちで固められてた。全く意味が分からなかった。それなら僕が出るべきじゃないかという風に思ったくらいだ。

この真相は後で知ったのだがクラブの財政難が理由だった。昇格戦にはメンバーを落として戦い昇格を逃した。それら全てはクラブオーナーである会長の命令だった。2部に上がれば今まで以上にお金がかかる。スタジアムに観客席がないといけなかったり色々2部でプレーするために必要な準備にお金がかかる。サッカー協会が年の始めに各クラブにクラブの準備金を出すのだが、殆どのクラブの会長はそんな事には使わない。2部に昇格させないために行われたメンバー落としだった。結果は負けで「見事」会長の目的は達成された。あのアサードパーティーは何だったのだろうか。皆落胆していた。会長の指示に従うしかない監督や選手達のやり場の無い気持ちが滲んでいた。しかし、このクラブから地元コルドバのプロクラブであるタジェレス、ラシン、果てはりーベル、ニューウェルスといったアルゼンチンを代表する強豪クラブに選手を送り込んでいるから分からないというか面白い。決して日本では見れない部分に当事者として遭遇した。そしてリーグ戦の全日程は終了し僕のシーズンは終わった。

ここまでで約2ヶ月のアルゼンチンサッカー留学。思い通りにいかない事ばかり。出来ると思っていた事の1つも出来なかった。そんな日々に僕のサッカー留学を受け入れてくれた元選手の方がコルドバに来た。今までどおりを見せればいいと思っていたけど実力が発揮できないばかりかレベルアップしているかどうかもつかめていない状態だったので不安があった。

ここまででアルゼンチンサッカーの体験を通しての感想は

・ 激しいぶつかり合い

・ サイドチェンジをしないで同サイドから狭い局面を徹底的に攻める。

・ サイドバックがオーバーラップしない

・ ロングボールを多用する

といったところが日本と違うところだと思った。またテレビで見ていたアルゼンチンサッカーとも違っていた。この激しさの中で自分のプレーの特徴を出して結果を出す。圧倒的な結果をだ。

そして僕がアルゼンチンに行くきっかけをくれた元選手の方も交えて一緒に住んでいた留学生と話し合いになった。

自ら変わる事を決意する

留学生はぶっちゃけ暇である。練習、試合以外の時間は自由だ。その試合も呼ばれなければ、つまりベンチ外であれば試合に行く義務はない。サッカーの面で順調にいっていれば良いが、そうでなければ違う道に逸れてしまうこともある。事実そういう留学生もいた。なかなか自分の思ったことを表現できないのなんて当たり前。さらにやっとの思いで伝えても理解されない事だってある。何故ここに来たのか。その目的を果たすためにはこのままで良いのか。こういったことを1人ずつ話し出すんだけど、僕ときたら何も言えない。

これには理由があった。今ならそれが言い訳なのは分かるんだけど僕はアルゼンチンに来て何一つ良いプレーも何かを達成した感覚も持てないまま3ヶ月が経とうとしていた。そして僕のサッカー暦。ほかの留学生達ははっきり言って僕のキャリアなぞ気にしていなかったと思う。けれど「高校の部活逃げた」という事をほかのクラスにいた部員に何年になっても顔を合わせるたびに言われたりして本音は言わないと決めていた僕には自分でも気付かないうちに自分の事を語るのに抵抗があった。僕より肩書きのある奴に顔を合わせるのも嫌な苦手意識があった。そしてそこから逃げるために引きこもった。内気で人見知りで、社交性ゼロ。自分の意見が言えない。考えていないこともしばしば。一人間として問題だらけだ。事実、6,7人での集団生活が上手くいかない。それでどうやって11人でやるサッカーで良いプレーするんだ?1チーム25人いる選手達との競争に勝つんだ?僕は技術以前の問題を抱えていてそれに気づいていなかった、気づかず20年も生きていたんだ、という事に上手く自分の思いを伝えられずにいた事をきっかけに皆に指摘され気づかされた。この時間はいつの間にか僕のための話し合いの時間になっていた。色々大変でも前に向かって進む。自分の思いを伝えて周りを巻き込む。上手いか上手くないか以前にまずアルゼンチンに来て身内でも友達でもない人間との共同生活から学ぼうと、協力しようとする姿勢を見せてお互いに分かり合うところから始めないと何もならない。アルゼンチンという国が僕を変えてくれるのではなくて僕が自ら変わらなくてはいけない

 そのように皆に指摘されて変わることを決意した。このまま留学していても多少は上手くなるだろう。アルゼンチンサッカーは激しいので体も強くなる。でもそれだけだ。今のままでは何1つ得るもの無く時間だけが過ぎて留学生活が終わる。

2ヶ月以上経ってようやく僕の本当のサッカー留学はこの日から始まった。

行けば何とかなるんじゃなくて自分で何とかしなくてはならない。他の誰かは何もしてくれない。例えお金を払っても。

 シーズンは終わったがクラブではまだ練習があった。あの語り合いから一夜、クラブの練習では今までしなかったアップや着替えのときチームメイトに無理矢理話しかけた。当時の僕の語学力ではただ単語を並べただけに過ぎない。スペイン語で質問して答えは相変わらず聞き取れず分からない。だが、それだけでその日のゲームでは今までよりパスが来た。僕が上手くなったわけじゃない。相変わらず下手だ。しかしただ話すようになっただけで、である。これは勘違いではない。8月の終わりに日本の裏側に来た当初の短い冬は終わり寒空と俺の中の黒い雲が晴れるように春を超え、夏になってきた。と同時に僕の心にも雲の隙間から光が差してきたような感じだった。

話しかけるようになってスペイン語は分からないけども分かり始めた事がある。アルゼンチン人は意外に群れたがる。欧米は個人主義という風に日本では言われていたのを聞いた事もあり、そういう先入観を持っていた。が少なくともアルゼンチンに個人主義の行動は見られなかった。一人で何かしていると「何で一人なんだ?」と驚かれる。合宿は必ず相部屋でコミュニケーションを図る。そこには経済的な問題もあるだろうけどそれ以上に集団の一員として行動することに重きを置いている。日本のように1人部屋を用意しない。イヤホンをつけて音楽を一人で聞いて楽しんではいない。アルゼンチンから見ると日本のそれらは「孤独」に映る。そしてそれは協調性の無さ、集団行動を乱す行為に映る。当時の僕は練習でいいプレーをしていればいずれ1軍に呼ばれて試合に出れると思っていた。それこそが重要だと思っていた。スペイン語の難しさからスペイン語を話せるようになる事に重きを置かないでいた。しかし違った。チームメイトは待ってくれていた。僕が話しかけてくるのを。僕がここで皆と共により良くなれるように全力を尽くす姿勢を見せるのを。僕の姿勢の変化を監督、コーチ、チームメイト達は気付いてくれていた。

11月の終わり、南半球は夏。日差しの強さは日本の比ではない。その代わり湿気がないので日陰に入れば涼しく過ごしやすい。日本の夏は嫌いだったが、ここアルゼンチンの夏は好きだ。

 この時期コルドバ州リーグは全てのカテゴリーが終わっている。新たな大会に向けて動き出すクラブもあれば下位に終わり、一足早いバカンスに入っているクラブもある。シーズン終了後だが、下部組織は動いていた。ほかの日本人留学生が所属するクラブはまだ動いていたため、僕はデフェンソーレス・フベニーレス下部組織のほうで練習した。

そしてリーグやクラブの活動も終わり、各クラブでプレーしていた日本人が集まりチームを作って12月に行われる6チームくらい参加する小さな大会に参加する事になった。集めても日本人は11人はいないので足りない部分はアルゼンチン人で穴埋めした。この大会はコルドバ州のプロクラブの下部組織とコルドバ州リーグの強豪クラブが参加する大会だ。

この大会はコルドバ州1部リーグのいくつかのクラブの若手主体の構成と、いわゆる今シーズンレギュラーだった選手、プロクラブから参加する選手はプロに最も近い選手達、もしくはデビューしているものの、試合出場ができていない若手選手達がこの大会に参加してくる。

その大会に向けて、日本人留学生と助っ人選手たちで練習や試合をやる。練習は週3回やっている日本人の朝練。それと時々午後の2部練。

僕以外の日本人は皆、プロの下部組織かコルドバ州1部リーグでプレーしている練習量も試合の質もやはり上のレベルでプレーしている。この日本人練習についていくのもやはりキツイ。

それでも、諦めずに喰らいつく。フィジカルや走りでも劣る方だ。日本人留学生は11人いないが、皆、別のポジションというわけではない。当然ポジションが重なる場合もある。僕は左ハーフ。正直激戦区。

試合は色々なとこでやった。それこそ田舎も行くし。練習試合では出たり出なかったり。僕からしたら例え5分でも出れるだけですごい経験になる。味方も敵も自分より上。すごい良い環境といえた。

助っ人アルゼンチン人も練習に参加している。ちょっとでも良いプレーしなければ彼らはすぐにクビになる。

大会までの間に助っ人で来ていたアルゼンチン人が数名プロデビューをした。しかもアルゼンチン1部リーグだ。正直そんなに上手くはなかったが、1つ圧倒的に秀でる武器を持っていた。つい最近、もっと言えば昨日まで一緒に練習していた奴が今日5万人の観衆の中でプレーしている。こういう選手達と一緒にやっているんだ。彼らとポジション争いをしている自分は恵まれているし、出れない事に引け目を感じることはないんだ。

日本人留学生のため、とはいえやはり勝つことが大前提。負けてもいい育成なんて無い。日本人チームの監督にはアルゼンチン人のへススという人がきた。ヘススは何より勝負にこだわり、情なんて持ち込まない指導者だ。だからこそ彼のために勝つ。勝利に貢献すると誓った。

夜、バスに乗って田舎へ行った。この試合は日本人、アルゼンチン人全員で。カンチャは珍しく、というかアルゼンチンでは初めてに近い感じで物凄くキレイな芝だった。

この試合、スタメンではない。相手は物凄く強い。体も皆、一回り大きいしプレーが物凄く早い。このレベルはコルドバ州1部でもなかなか見れない。プロなんじゃないだろうか。街中にカンチャがあるので近隣住民が多数見に来ていた。

コルドバ州のサッカーの特徴として激しい潰しあいがある。この時の相手はその潰しあいが出来た上でしっかり繋いだりドリブルで勝負できる。コルドバ州1部より2ランクくらい上の相手だったと思う。それくらい全てが違った。

この試合は後半半ばくらいから出た。試合は2-1で勝っている状態。左MFで登場。対面の右MFについていくので精一杯。攻撃まで頭が回らない。穴である僕のサイドからどんどん攻めてくる。そのスピードは回数をこなす度上がっていく。「どこまでいくんだ」そんな弱気が頭を掠めてきたその時、左サイドが崩されてクロスを上げられた。そして僕のマーカーである相手右MFまでボールがこぼれた。僕は置いてかれている。ボールはあまり良いこぼれ方をしていないのでシュートを打つまでに時間がかかっている。それをスライディングでシュートブロック!

そしたら皆がBIEN!!(いいぞ)と僕に叫ぶ。これでコーナーキックになりこのこぼれを決められてしまった。試合は逆転され2-3で負け。しかしこの日のこのスライディングが一番良いプレーだったらしく、皆が僕を見る目が変わったと思う。あの1プレーはアルゼンチンサッカーを表現できたのではないか。まああの1プレーだけだったが(笑)。この試合の手ごたえも大事だけど今まで正直、僕は他の留学生たちより年上でしかし2,3ランク選手としてのレベルが劣る僕は見下されている部分があった。そういうのはあまり気にしなかったけどいつも信頼感ないまま探り探りのプレーが悪循環を生んでいたと思う。それがここで本当に明確に何が良くて何がダメか理屈を超えて感じることが出来た試合だった。帰ってからも興奮して眠れなかった。

いくつもの練習と練習試合を重ねていざ大会は始まる。

日本人チームは名目上、コルドバ州のアマチュアクラブ、ラス・パルマスのレセルバ(2軍)の扱いだった。ここの出場権を買い取っての出場だ。当然、ラス・パルマスの1軍はローカルで出る。

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